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藤崎京之介怪異譚

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外伝「鈍色のキャンパス」
  0.prologue

 
前書き


 演奏の始まりまで、あと少し時間がある。

 だが、観客と演奏者は同一なのだ。ただ…それに気付かないだけなのだ…。


 

 

「京、お前どうする?俺はこれからサークルに顔出すけど。」
 そう声を掛けて来たのは、親友である河内だった。
「そうだなぁ…。レポートも上がるし、俺も久しぶりに顔出すかな。」
 俺は藤崎京之介。この音大で古楽を学んでいる。
 古楽…とは、読んで字の如し。古い音楽だ。
 現代の音楽は、a=440Hzで楽器が統一されているが、昔は結構バラバラだ。バロック時代の鍵盤一つ取っても、国や町が違うと大違いだ。a=380~465Hzと調律にバラつきがあり、大きさもまちまちだったのだ。
 ま、そこら辺も含め、古楽ってやつは面白いんだが…説明は長くなるから止めておこう。
 因みに、俺はオルガン、チェンバロ、そしてリュートを学んでいる。ヴァイオリンなどの弦楽器も小さい頃に学んでいたが、今は専ら鍵盤とリュートが中心。
 今俺の隣を歩いている河内 慎の専攻は、バロック・チェロとヴィオラ・ダ・ガンバ、そしてコントラバス。全て低音楽器で、バロック時代では、鍵盤やリュートと共に通奏低音群として演奏することが主な楽器だ。その為か、俺と河内は出会って直ぐに意気投合し、今のサークルを作ることになったのだ。この大学では、バロックを主軸にしているサークルはなかったためだ。
「さて、三階まで登りますか。」
「慎。お前、今日はガンバか?」
「そうだ。京が来るって分かってたから、ガンバ・ソナタをやりたくてな。」
「この間も演奏したじゃないか…。」
 河内は、そんな俺の言葉に「良いじゃんか。」と笑いながら答え、そのまま階段を上がって行ったのだった。
 この音大は全三棟で、それぞれ四階建てになっている。中央棟にはオルガンを備えた大ホールがあり、西と東の棟には小ホールがある。基本的に、東棟は古楽、その他は現代楽になっている。無論、それぞれに講堂も練習室もあるため、古楽と現代楽の学生が顔を合わせてレッスン…ということはない。
 これだけ言えば、この音大がどれだけ大きいか理解してもらえるだろう。
 だが…難点が一つ。東西の棟にはエレベーターが無いのだ…。音楽も体力勝負と言うわけだ。
「あ…宮下教授。今日はいらしてたんですね。午前の講義は休講だったので、今日はいらっしゃられないかと…。」
「藤崎君か。すまんな、オルガンの試演を頼まれて行っとったんだ。君はこれからサークルかね?」
「はい。河内も行きましたし、レポートも上がりましたから。」
 今話しているのは、俺がオルガンとチェンバロを師事している宮下善正教授だ。そろそろ引退といる歳ではあるが、大学側に引き留められて八十歳までの契約をしているとかいないとか…。
 世界的にも著名な方で、特にオルガンではブクステフーデとパッヘルベルなどのオルガン全集を録音していて、バッハのオルガン全集は二回も録音を行っている。無論、チェンバロ演奏も第一人者で、多くの論文も発表している。
「藤崎君。良ければ、六時位に大ホールへ来るといい。今日はオルガンの点検をするから。」
「見学させて頂けるんですか!?」
 俺はあまりのことに驚いた。普通、学生でもそうそうオルガン検査は見学出来ない。精密さが要求され、よほどの知識がなくば立ち会えないのだ。
「君はもうプロのレベルだ。何の問題もない。いずれオルガニストになるのだから、君も遣ることになるしの。」
「お願いします!」
 俺がそう返答すると、宮下教授は笑いながら「それじゃ、待っとるぞ。」と言って立ち去って行ったのだった。
 教授が立ち去った直後、それを見計らっていたかのように二人の人物が俺の前に姿を見せた。
「京…お前、宮下教授にあんなに気に入られてるなんて…。」
「そうだぞ。あの教授がオルガン検査を学生に見学させるなんて…前代未聞だからな…。」
 俺の前に現れたのは、トラヴェルソとブロックフレーテを専攻している小林和巳と、ヴァイオリンとヴィオラ・ダ・ガンバを専攻している鈴木雄一郎だ。二人ともサークル仲間で、大学の外でも演奏している。無論、河内も一緒だが。
「お前ら…レポートは済んでるんだろうな…?」
 俺は嫌な予感がしたため、半眼で二人へと問い掛けた。この二人…レポート提出の期限破り常習者なのだ…。
「勿論!終るわけないって!」
「右に同じ!」
「帰れ!」
「怒っちゃ嫌ん。」
「気色悪いから…。とっとと帰ってレポート済ませろよ…。」
 全く…この二人には困ったもんだ。
 この二人、こんなではあるが、かなりの才能がある。ただ…どうも課題として出されるものは、一気に遣る気を減退させるタイプの人種のようで、いつも教授達に目を付けられているのだ…。
「あ、いたいた。小林!ブロックフレーテとトラヴェルソの歴史的関連性についてのレポート、明日の夕方までだからな!次遅れたら…フフ…。」
「……。」
 小林を呼んで言ったのは、庄司春華教授だ。女性であるが、話し方は聞いての通り…まるで男性だ。それを言えば男尊女卑になるため、面と向かって言いはしないが…顔立ちはかなりの美人だ。言葉遣いさえどうにかなれば引く手数多だろうに…。と思っていると、次は相方を呼ぶ声が…。
「鈴木!レポートを明日迄に仕上げろ!遅れたら単位やらんからな!」
 こちらはかなり怖いお方…。ヴァイオリンと指揮を教えている椎名一教授だ。宮下教授が若い頃、高校の臨時教員で音楽を教えていた時の教え子で、齢五十を越えている。
「椎名教授…正直、ヴィオールの歴史全般ってのはキツイんですけど…。」
 冷や汗を流しながら鈴木がそう言うと、椎名教授は眉間に皺を寄せて返した。
「今更何を言っとる。お前はな、もう少し弦楽の歴史を見つめるべきだ。なぜ現在の形になったのか、なぜヴィオールは廃れたか。大体、お前だけだぞ?バロック・ヴァイオリンとガンバの組み合わせなんてのは。ガンバをやるには、やはりヴィオールの知識も重要だ。眠らんでもいい。明日迄にやってこい!」
「そ、そんなぁ!」
 鈴木の叫びも虚しく、椎名教授はそのまま立ち去ってしまったのだった。
 尤も、あの教授も見込みのない人間は切り捨てるタイプの方だから、何だかんだ言っても鈴木に期待してるんだろう。
「と、言うわけで小林君。君も眠らずにやっといで。ホント、遅れたら…フフ…。」
 椎名教授と鈴木のやり取りを見て、庄司教授はニヤリと笑みを溢して小林に言った。
「教授…一体何を…。」
 小林は本気でおののいているご様子。庄司教授はそんな小林の表情を見て、再び笑みを溢して立ち去ったのだった。ま、いつも遅れる二人が悪いんだがな。
「お二方?特大の不幸が到来する前に、その不幸が来ないように努力しないとな。」
 俺は溜め息を吐きながら二人の肩に手を置いてそう言った。
 すると二人は顔を引き攣らせ、脱兎の如く走り出したのだった。
「あの二人の教授、本当に何やるか分からないしなぁ。ま、幸運を!」
 俺はそう呟くように呆れ顔で言うと、そのままサークルへと急いだのだった。
 俺が着いた時、そこでは既に演奏が始まっていた。演奏の邪魔にならないように入ってみると、通奏低音でチェンバロを演奏していたのが…ピアノ科の有川恵教授だった。
「あ、やっと来たわ!藤崎君…早く代わってもらえるかしら…。」
「はい…。まさか…有川教授が入ってるとは…。」
 一旦演奏を中断して俺が有川教授と代わると、有川教授は溜め息混じりにこう言った。
「そこで理賀ちゃんに会ってね…ここへ連れて来られたのよ…。」
「そういうことでしたか…。」
 理賀ちゃんとは、ブロックフレーテとバロック・オーボエを専攻している松本理賀のことだ。有川教授とは親戚で、そのせいで俺のいない時によく連れて来られるのだ…。
「お疲れ様でした…。後は俺が入りますんで、教授は仕事に戻って下さい…。」
 俺がそう言うと、有川教授は「それじゃ!」と言って、逃げるように部屋を出ていったのだった。

 講義に出てレポート書いて、こうしてサークルなんかで演奏して…これが大学での日常だ。
 だが…そんな普通に、ある日を境に異質なものが混ざり始めた。それが大学全体を巻き込む惨事へと発展するなんて、この時は誰一人として考えもしなかった。
 それが…俺達の青春の一頁に、重く暗い影を落とすことになるのだ…。



 
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