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執務室の新人提督

作者:RTT
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66

 常の執務室で、常の通りに書類に目を通して提督はペンを走らせていた。いや、サインでは通らない、大淀のチェックの後大本営に送られるような書類もあるにはあるので、判子も使っての書類仕事だ。
 最近袖を通した第1種軍装――冬用の黒い海軍士官服の似合わぬ提督でも、書類に目を通す姿だけはそれなりの物だ。社会人時代にも経験した書類仕事であるから、提督も特に気負わぬ姿だ。
 それでも、やはり鎮守府とは軍属だ。書類の内容は兵装、兵站、軍事情報などが絡んでくる為、提督にとってはやはり異質な世界だ。それを数字や文章で見ても、彼にはあやふやな物に見えてしまう事すらある。
 なれぬ数字に惑わされ、脳に要らぬ負担が掛かる事もしばしばで、当然それはミスに繋がる事も在るのだが、その為に提督には秘書艦がつく。
 
「司令官……これ、本当に通してしまっても……?」

 この日も、そうであった。
 白魚の如き指が差し出す書類を受けとり、さっと目を通す。内容は、球磨の長期休暇の申請だ。球磨直筆で書かれた書類――というより手紙は、姉妹の面倒を見ることに疲れたから、暫く執務室で息抜きがしたいという類の嘆願が丁寧に、かつ達筆に記された物であった。
 提督は暫しそれに見入ってから、そっと目を離して困惑顔で頭をかいた。
 彼の記憶ではこの書類に目を通した記憶が無い。何か別の事と混同したのか、サインこそまず間違いなく提督のそれであるのだが、まったく覚えがないのだ。
 
「駄目、っていうか球磨さんはあれだ、長期休暇を執務室でって、どうやって過ごすつもりなのだろうね?」
「それは……司令官の傍にあって、同じ時間を過ごしたいという事では……?」
「いやあ……僕の息が詰まるなあ……」

 秘書艦の返しに、提督は肩をすくめた。
 彼自身若い男であるから、見目麗しい女性が傍にいるのは一種の潤いとも言えるだろうが、長きを一緒となるとそれは流石に考えなければならない事だ。
 将来を約束した女性であれば、それもまた一つの練習期間と考えて頷く事も出来ただろうが、そうではないのだから提督としても許可できない事である。
 
「それに、クマーが長期休暇入ったら、大変な事になるしねぇ……」

 この提督の言葉に、秘書艦は同意と頷いた。
 球磨という艦娘は軽巡四天王と呼ばれる五人の一人であり、その親しみやすい個性や、長くこの鎮守府にいる艦娘達の面倒を見てきた事もあって皆から愛される艦娘だ。
 であるから、そういった艦娘が抜けた穴と言うのは中々に埋められない物である。更に言うなら、球磨はあの個性的な球磨型姉妹の長女だ。
 重石が外された場合、どうなるか提督には予想もつかないのであるから、到底認める事など出来ないのである。
 
 提督としては、妙高、川内、球磨、陽炎の長期休暇だけは、この鎮守府と自身達の胃の為にも、絶対に許可しないと断固たる決意で望んでいた。
 
 筈なのだが、結果は今提督の手に在る書類が物語っている。
 一応、来客用として置かれているソファーに腰を下ろし、テーブルに書類を広げて今も目を通している秘書艦が居なければ、提督はクマークマー鳴く全自動世話焼き機の手によって駄目にされていた事だろう。そして鎮守府も、球磨が抜けた事によって徐々に歯車が狂って行き、緩やかな崩壊にむかっていた筈だ。
 自身と鎮守府の無残な未来が見えたのか、提督は小さく身震いしてから掌で額を軽く叩いた。それから顔を上げて、書類に目を落としている秘書艦に感謝の言葉をかけた。
 
「あぁ……本当に助かったよ、ありがとう、早霜さん」
「……ふふふ。こんな私でもお役に立てたのね……嬉しいわ、司令官」

 書類から目を上げ、提督の言葉に無垢な笑みを浮かべるのは、独特な制服を着込んだ艦娘、早霜であった。常の秘書艦初霜、または代理をよく頼まれる加賀や大淀ではない。
 今日は、早霜が提督の秘書艦なのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 そんな事もある物なのだろう。
 初霜、大淀、加賀、という提督の補佐役を長く勤めた事務仕事に馴れた艦娘達は、現在年末の倉庫群の在庫調査中だ。
 小分けにして調べても居たのだが、やはりこの時期になるとどうしても大掛かりな仕事が転がってくるようで、それはこの鎮守府も逃れられない物であったらしい。
 その為、比較的事務仕事に馴れて、しかも提督好みに静かな早霜が代理として秘書艦を担うことになったのだ。もっとも、その仕事も昼までだ。
 現場で指揮を執る大淀は倉庫から動けないが、初霜と加賀は昼で一旦引く予定である。
 早霜はその間の繋ぎだ。最終的には初霜もまた早霜の仕事をチェックするのだから、代役程度と考えて気軽に構えてもまったく問題ない仕事であったのだが、
 
「司令官……お茶を、どうぞ」
「あぁ、ありがとう」

 早霜は確りと勤め上げていた。
 書類仕事も確りとこなし、提督が疲れたと見たら一礼してお茶を汲み、場が静かに過ぎて二人の間が乾燥した時等は、邪魔にならない程度の世間話や噂話で執務室の乾いた空気を潤した。
 それは長く提督の秘書艦を勤める初霜や、事務方になれた大淀、提督のお気に入りである加賀に比べれば少々力及ばぬ所作ではあったが、誰の目から見ても秘書艦に相応しい仕事振りであった。勿論、提督に異などない。在ろう筈もない。
 提督の手に在って、軽く嚥下された茶などは提督好みの風味と熱さであるのだから、異など欠片もない。
 
「あぁー……美味しいなぁ……」

 ほっと息を吐きながら心底と声を零す提督に、早霜はゆったりとした仕草で口元を掌で隠して小さく笑った。その笑みにどこか母性の様な物を感じて、提督は早霜を見下ろした。

 そう、見下ろした、である。

 個性的な艦娘、というのはこの鎮守府にあっては歩けばぶつかる、と言うほどに多いが、この早霜という艦娘もまた実に個性的な存在だ。
 言葉や仕草一つにしてもどこか幽かな香りがある癖に、一度言葉を交わせば忘れられない所がある。口数は少なく、特に前へと出たがるような艦娘でもないのに、だ。
 その個性の一つが、今提督の前で為されている早霜の行為だ。それをじっと提督が見つめるからだろう。
 早霜は小さく首をかしげて淡い唇を動かした。
 
「司令官……どうかしましたか?」

 執務机の前で、ちょこなんと正座を崩した――いわゆる女の子座りなるもので座したままだ。
 
「……いやあ、立ってもいいんだよ?」
「いいえ、いいえ。司令官……それでは司令官を見下ろしてしまうわ……」

 提督の言にも、早霜はそう返して首を横に振るだけだ。この少女の線引きの一つであるのか、それとも何かもっと他に理由でもあるのか、兎に角早霜という艦娘は提督を見下ろす事を良しと出来ないらしく、見下ろす様な事態に陥った場合はこうして自身が座ってしまうのである。
 提督にお茶を渡した後、ソファーにも戻らず、態々一礼して、だ。
 奇異な行動である。まず一般的な社会にあって誰しもが頷けるといった類の物ではないだろう。
 だが……ここは一般的な社会ではない。
 
 艦娘達の本分は戦闘だ。守る為の戦闘であり、攻める為の戦闘だ。遠征は戦う為の物資を集める任務であり、演習も牙を研ぐ為の模擬戦闘で、最終的にはどうあっても戦闘に帰結する。
 ねじが一本足りない、歯車が一つかみ合っていない。その程度は、だからどうした、と鼻で笑ってしまえるのが鎮守府と言う小さな世界だ。
 
 見下ろすのが不敬だと早霜は座すが、彼女が現在行っている行為もまた不敬だと見る者は見るだろう。例えそれを指摘しても、早霜はただただ座るであろうから、これはまことに立派な個性である。奇矯と言った方が、恐らくは正しいのだろうが。
 
 立派な、とは言ったが誉めるようなものでもない。故に提督は早霜の、きょとんとした様子に肩をすくめて頭をかくだけだ。少なくとも、提督にとって今日の早霜は許容できる存在であるから尚更だ。
 随分前の様に、誰かが開けた扉の隙間を潜って、誰にも知られず入り込んできた時に比べれば、今日などはドアをノックして普通に入ってきたのだから、提督としてはその程度流してしまった方が心の均衡を保てるという物である。
 
「ところで、司令官……?」

 沈黙を嫌ったのか、それともただの問いかけであるのか。
 早霜が提督を見上げて小さく口を動かした。淡い唇はその作りに相応しく僅かにしか動かない。その癖、不思議と声が提督の耳に確り届く物だから、提督はそれが声ではなくなにか別の物ではないかと信じた。
 
「早霜のお茶……どうですか?」
「うん……? んん……」

 美味しい、と先に提督は伝えたにも関わらず、早霜は問うて来た。となれば、それはもっと別の答えを待っているという事だ。少なくとも提督はそう受け取った。だから提督は、目を瞑ってもう一度早霜が淹れたお茶を口に含み、ゆっくりと飲み込んだ。少しばかり冷めていたが、まだそれは提督の好みの範疇だ。お茶で潤った舌先で下唇を軽く湿らせてから、提督はまた早霜を見下ろした。

「早霜さんのお茶は、美味しいね」

 本心だ。前と差して変わらない言葉であるが、これが早霜の淹れた物で、それが美味であると提督は言っただけだ。本当に先ほどの言葉と差して変更点が無い。
 が、提督の言葉を聴いた早霜は満足げだ。
 首の下――自身の鎖骨辺りを軽く弄りながら、早霜は幸せそうな笑みで頷くだけだ。
 眼前に居る提督にも読み取れない、静かな、ただ静かな歓喜である。早霜の指先の熱さを知るのは、服の下で掴まれたペンダントとなって吊るされた誰かの第二ボタンだけである。
 
「カレーもそうですけれど……艦娘の数だけ、それぞれの味わいがありますからね……ふふふ」
「うん、お茶、な。お茶だから」

 早霜に他意はないだろうが、聞いている提督の方が思わず訂正したくなる様な言葉だ。せめてもの救いは、ここに早霜と提督以外が居ない事と、呟いた早霜の相が楚々とした、他意を感じさせない物であった事だろう。
 
「そういえば……この前、夜道で神通さんに会って、私達の部屋でお茶でもどうですかと誘ったのですが……」
「ですが?」

 お茶繋がり、という事だろう。
 早霜の世間話に提督は長くなった場合も考え、冷める前に飲み干そうと湯飲みを傾けながら目で先を促した。早霜はそんな提督の視線に目をあわせて頷き、また口を動かす。
 
「何か……用事があったようで、すぐ立ち去られてしまいって……肩を震わせながら、目尻に涙まで溜まっていたのですけれど……私、神通さんに何かしてしまったのかしら……と」
「……」

 提督は無言である。
 まさか言える訳も無い。夜道で会った部下に、上司が涙が出るほど驚いた等と、早霜の為にも神通の為にも言える筈が無かった。
 早霜という艦娘は美しい少女であるが、その美しさにはどこか浮世離れした透明さがある。それが夜空の月や、頼りない街灯に照らされると、この世の物とは思えない影を落して早霜を覆ってしまうのだ。これは提督の第一旗艦である山城も同じだ。
 勿論それらは、早霜や山城が悪い訳ではない。もって生まれた、どこで使えば良いのかイマイチ分からない特徴だ。ただ、神通としては二水戦の旗艦として、同じ二水戦の早霜にそれ以上醜態を見せられなかっただけで、早霜からのお茶会や誘いに何か思って断った訳ではないのだ。
 
 どこか縋るように見上げる早霜の双眸に、提督は空になった湯飲みを机に戻して笑いかけた。
 
「神通さんはそんな人じゃないだろう? 今度はお昼にでも誘って見たらどうだい?」
「……えぇ、そうですね」

 気休めだ。提督の言葉は気休めだ。だというのに、聞いた早霜は笑顔だ。少々淡い笑顔であるが、それは愛想笑い等ではない。むしろ安心した様な、胸を撫で下ろす様な笑みだ。
 提督はその相に、何か引っかかりを覚えた。何か胸に刺さっていた物が取れたように見えたからだ。
 提督の相に浮かぶ疑問を見て取ったのか、早霜は小さく頷いた。
 
「少し前のことですが……訓練中に、少しありまして……」
「少し?」
「はい……」

 当時の事を思い出しているのか。早霜は目を閉じて天井を仰いだ。仰げども彼女の瞳は閉ざされているのだから、そこには何も映らない。もし映るものがあったとするなら、その時の情景だけだ。
 
「二水戦の訓練中に、神通さんが心構えを口にして……」
「心構え?」
「……はい」

 そこで、早霜は目を開けて提督を見た。その双眸は幽かな常の早霜ではなく、まるで訓練中の神通が乗り移ったかの如く鋭い物であった。変化に驚き、僅かに目を見開いた提督に構わず、早霜は神通の瞳のまま、神通の言葉を紡いだ。
 
「仏と会えば仏を斬り」
「あぁ、神通さんそっち系も読むんだ……」
「鬼に会っても仏を斬る」
「……」

 提督は突っ込まなかった。いや、突っ込むべきなのだろうが、神通の瞳を宿した早霜の相と言葉に、果たして突っ込んでよい物かどうか迷ったのである。
 
「……私達も、今の提督と同じで……その、どう返せばいいのかと迷ってしまい……」

 そしてそれは、当時の早霜のまた同じであった。もう常の早霜の相に戻って口元を掌で隠す早霜である。
 提督としても、なんとも言えない物である。間違いは誰にでもある。これもまた、先ほどの夜道で会った云々と同じで、流すべきだと提督は考えて突っ込まないことにしておいた。
 
「まあなんだ……そういう事もあるという事で……」
「……そう、ですね」

 二人は同時に頷いてこの話題を終わらせた。
 早霜はそっと一礼してから正座に戻り、そのまま器用に下がってソファーへと近づき、そこに腰を下ろして再び書類に目を通し始めた。実に奇矯な行動である。それが楚々と行われるから、尚更奇妙である。が、反面それでこそ早霜とも思えるのだ、提督には。
 見ていて飽きない艦娘が多いこの鎮守府であるが、早霜などはそのうちの五本の指に入るのではないだろうか、と提督は妙な感心をしつつ数度頷いた。
 
 それでも、提督の視界の隅に映る備え付けの時計は、昼時を告げている。早霜の仕事は昼までの代理だ。どこか彼の妻――という事になっている、だが――山城に近い少女との時間が終わる事に、提督は何故か寂しさを覚えた。
 だからだろうか、提督は机の上にあるそれを手に取り、早霜に声をかけた。
 
「……早霜さん、お代わりを貰えるかな?」

 湯飲みを手にする提督は、喉などもう渇いていない。熱いお茶が恋しいほど寒いという事も無い。ただのわがままだ。
 だというのに、早霜は提督の言葉にゆっくりと書類から目を離して振り返り、そっと微笑んだ。

「えぇ……私で良ければ……味わってください、司令官」

 誰かが聞けばまず疑いの目を向けるような言葉だ。
 しかしそれは、誰か居ればだ。
 ここには提督と早霜しか居ない。二人だけの小さな世界だ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ちなみに、神通の言葉は言い間違いでもなんでもない。
 一度敵と決めたら何があっても、どうあっても斬れという神通からの暖かいメッセージで、早霜達がそれを知るのはもう少し先の事である。恐らく知りたくはなかっただろうが。 
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