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乱世の確率事象改変

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彼の齎す不可逆


 旧きも新しきも、思惑も野心も、仕える臣下達がどう思っていようと劉璋という男にとっては気にならない。
 親の代に仕えていたモノも、劉備が連れてきたモノも、ただ国の益となるのなら良しとしていた。
 自惚れはない。反逆が起こればきっと自分は歴史の小さな片隅に埋もれてしまうのではないかとさえ考えている程に、彼は自己評価が高くない。

 彼にとって不幸な事は、自身の才を早々に理解してしまったことだった。
 運が良かった。親族での後継者争いに勝てたのも、厳顔や黄忠、地方にて交流のあった忠臣達の声と力あってこそのモノ。
 無駄に争いをしたくない、それが彼の心。ただし、劉備のように平和を望んでのことではなく、自身に掛かる火の粉や失われる利を考えて……つまるところ、めんどくさかったのだ。

 浅くみることなかれ、王の利の損失とはつまるところ国の損害にも繋がり得る。
 そういっためんどくさいという心は、ある意味で発展や進歩を生む餌にもなる。
 劉備とは真逆の龍と自己を判断する劉璋は頭もそれほど悪くない。王の、国の利を理解し、その上で自分の存在を受け入れ、それでいいと望んだ。
 だからこそ、そのものぐさな思考が王として確立されていた。

 簡単に言えばこうだ。

『戦争が起きず、国が平和ならばそれでいいだろう』

 桃香とは似て非なる。精々面倒事を起こしてくれるな、という考え方は、ある意味で民の意識を顕現していると言ってもいい。
 器が広いのか狭いのかは分からないが、彼は確かに、桃香とは真逆でありながら民の側に立つ王であった。

 そんな彼は、玉座の間にて人を待っていた。
 謁見の日時指定の紙を持ってきた彼女――桃香を見つめながら、うんざりしたようにため息を吐き出す。

――俺の欲しいもんをこんなにしてくれやがって……どうしてくれようか。

 輝きに溢れていた瞳も、弾けるような笑顔も、感情豊かな表情も、その全てが桃香には無い。
 玉座の間で他の臣下と同じように立ち並ぶ彼女は、遠くで見つめる紫苑に心配そうな目を向けられながら、虚ろな瞳で何も見ていなかった。
 彼女を支えるモノは今、誰も居ない。劉璋の元に私兵は連れて入れないが故。
 さすがに桃香のこのような変化は許容できるわけがない。だから彼は、同席していたと聞く厳顔に報告を聞いた。

 詳細を聞く内に見えてくる黒麒麟の全貌と思惑。
 敵の思考や本質、その時の狙いが何であったのか、決して頭の悪くない彼としてはある程度読み取れる。

 桃香の心を突き崩すことによる劉備軍の弱体化。加えて、益州を動乱の舞台として掻き乱すこと。

 自分と同じく、劉備軍の弱点を見極めていたことにまず舌を巻いた。
 劉璋には出来ないことだ。桃香の心を折ることは、どうしても劉璋には出来なかった。どれだけ考えても民に希望を与える日輪のような少女を折ることは出来なかった。
 それさえ出来れば劉備軍の弱体は目に見えていたこと。自分はそうして彼女達を従えたいと考えていたのだから。

 劉備軍は、劉玄徳の存在に依存し過ぎている。
 頭が判断せずとも部下で勝手に動くことはするが、劉備が表に出なければ末端までは力が際立たない。
 臣下達にしてもそうだ。特に関羽と張飛の二人、飛び抜けた武将である彼女達は、桃香の意思を剣に乗せてこそ力を発揮する。

 戦場には必要ない非力な王とはいえ、深すぎる絆があるから何処にいようと、主が折れれば不安と迷いに支配され、本来の力を発揮できない。
 頭がブレるというのは、戦場で戦うモノ達にとってそれほどまでに大きなこと。桃園の誓いと噂される強い絆を結んだ義姉妹であるならば、想像できないほどに大きいであろう。
 本人次第とは言わない方がいい。そんなモノは甘えだというのも違う。
 自分達が正しいと胸を張って言えるのは支柱の存在あってこそ。
 何せ、彼女達がこれから敵対するモノは全て、自分達の信じる平和を持っている者達なのだから。戦そのものを否定している彼女達は、武力を振りかざすことこそが矛盾として弾劾されるのだから。

 聡くその事柄を見切っていた劉璋は、黒麒麟の本質を垣間見た気がした。
 しかしながら、手に入れたい眩しい存在をこれだけズタボロにした男に対して嫉妬もしている。
 自分に出来ないことをしてのけたその男に苛立ちを感じるのも、桃香に惚れてしまったが故に詮無きこと。

 幾分、やっと足音が聴こえた。
 次第に扉に近付いてくる硬質な靴音は軍靴の音色と、小さな少女の如き音色。
 敵は二人、と心を高めて身を引き締める。

 さて、どうしてくれよう。部下だけでは心元無いが、明晰な頭脳を持つ徐庶も此処には居ない。自分達だけで対処しきれるかと考えても分が悪いと既に答えは弾きだしている。
 部下達は警戒しているが、コトを大きくは見ていない。
 単純に言えば危機感が足りないのだ。ぐるりと見回しても、緊張はしていても、何処か余裕があるように見えるのはきっとそのため。
 呆れたように、彼はため息を吐く。

――分かってないなこいつら。此処に来たのは覇王に盟友とまで言わしめる黒麒麟なんだぞ。頑として何も受け付けないくらいの心持ちじゃなきゃ呑まれるっての。

 自分だけだろう。そう思う。まだ劉備軍の下に走らない桔梗くらいはと思ったが、どうにも表情からは心情が読み取れず。

――信じられるのは自分だけ、か。

 孤独だな、と自嘲の笑みを浮かべて、劉璋はゆっくりゆっくりと開かれる扉を見つめた。

――さあさ、始めようじゃないか。俺の国を喰らいに来たバケモンよぉ。龍の国が思い通りに行くと思ったら大間違いだぜ。

 目に飛び込んできた黒と、イヌミミフードの少女の二人を厳しく見下して、龍の後継はめんどくさいというようなため息を吐き出し……不敵に笑う男の黒瞳を楽しげに嘲笑った。






 †






「お初にお目に掛かる、劉璋殿。我が名は徐晃、徐公明。盟友たる曹孟徳の使いとして参った次第に」
「同じくお初に、劉璋殿。我が名は荀攸、荀公達。我が主、曹孟徳の使いとして参上致しました」

 両の手を包んで礼を一つ。
 膝を付くことなどせずに二人はゆるりと自己紹介を行った。
 劉璋は肩肘を玉座に於いて尊大に見下ろしたまま、格下を扱う時と同じように言葉を流した。

「先の手紙で聞いている。要件すら伝えぬ無礼に目を瞑り謁見を許してやった。つまらん話をするのなら即座に帰って貰うぞ」

 交易の類や戦争についてのあれこれではなく、傍若無人に使者を送るとしか書かれていない手紙を渡されれば、当然のこと当主としては怒らなければならない。
 対面的な怒りを見せた劉璋ではあったが、纏う気はまさしく王のモノに相応しく、放たれる威圧に詠は僅かに肩を竦める。

――片田舎の弱小太守かと思ったら、存外……しっかりとした王なのね。

 警戒を一段階引き上げる。舐めてかかるのは此処までだ、と。あくまで様子見、相手の力量を図ることは何より大事だ。こうして言葉を交わす以上、詠こそが目の前の王と相対せねばならないのだから。
 包んでいた掌をそっと外し、詠は懐から一つの書簡を取り出す。
 くるくると器用に解けば、ずらりと並んだ文字の列を読み上げて行った。
 ただしその内容は、明らかに人を逆なでするモノばかりであった。

「拝啓、漢王朝の正統なる血を引く若き龍へ。
 秋の近付きたる今日この頃、如何お過ごしか。南の大地にて作られた作物をそろそろ食べてみたいと思う。
 冗談はさておき、本題を語るとしよう。
 賢き龍の忠義は皇帝陛下の御前で示されたが、汝が忠は何処にあらんや。
 彼の佞臣董卓の反乱は記憶に新しかろう、袁家による大陸支配の目論見はさらに覚えが良いであろう。
 益州の内部事情は聞き及んでいる。しかして未だに顔の一つも見せに来ない其方に陛下の御心は憂うばかり。疑うことは恥だとご理解していても、臣下の裏切りに合い続けた陛下の心を慮れば、せめて健勝な姿を一目見せに来ることも筋であろう。
 群雄割拠となりしこの大陸で、真に漢の忠臣たるを示しているモノは数少ない。
 使者に問わせるは其方の忠の置き所なり。手ぶらで都に来るのも座りが悪かろうと思う故に提案する。
 其方が漢の忠臣であると明言するのならば、賢き龍に牙を剥きし虎を従えよ。
 彼の者らは皇室の存命よりも“家の安寧”を選択せし逆臣である。命は奪わずともよい。龍に頭を垂れるように、陛下の御前に連行せよ。
 ただし、孫呉の次女である孫権だけは忠義を示している……が、やはり血族である為に完全な信用は出来ぬ。彼の者を荊州牧に命じる故、協力して孫策と周瑜の二人を失墜させ、揚州の大地を漢の下に奪還すべし」

 すらすらと語られる。詠は劉璋を見ることなく、読み終えた後で静かに書簡を丸め閉じた。
 ついと歩み出る文官の一人にソレを渡し、嘘偽りの無い内容であると証明を一つ。

 読み行く内に震える文官の顔が良く見えた。
 この書を出したのは曹孟徳であるのは明らか。押印された曹の判を苛立たしげに睨みつけ、文官の一人は他の文官に回した。

「……俺達に虎退治をしろと?」
「最悪の場合は」
「袁家の圧政から揚州を解放した英雄とも取れるが?」
「賢き龍は暗殺によりて殺されました。謁見の日、孫呉のモノは彼の者に反発を示しております。さらに遣われた刃は揚州の刀鍛冶が打った一振りであり、都で出回っておらぬモノでした。動機は劉璋殿も良く知っているかと思われます。
 何よりも、袁家に従い龍の住みたる大地を脅かし、妹を人質に取られているからと皇室よりも自らの家の安寧を優先したモノに、如何様な信を持てましょうや」

 崩す論は持ち合わせていないな、と劉璋は思った。
 そも、一族の内戦を勝ち取った劉璋にとって、孫呉の在り方は受け入れられないモノだ。

――家族の絆なんてもんを優先しやがる孫呉じゃあ、責められて当然だわな。

 近しいモノによる血生臭い関係性は皇室である限り常に付きまとう。当人にその気がなかろうと、権力の恩恵を欲する臣下達は上に立つ者を掲げ上げようとしてきた。
 派閥が出来上がり、誰かを蹴落とす為の策を巡らせ、昨日敵だったモノが今日は仲間になっていたり……誰を信ずることも出来ない泥沼。
 其処に権力がある限り、人の欲望は止まらない。律することを望んでも、人間というモノは抜け穴を探し続けてしまうモノだ。

 孫呉の在り方は皇室としては許していいモノではない。
 誰の派閥に付くでなく、自分だけで成り立つ為に生きていると宣言しているに等しいのだから。
 そのうち絆にも綻びが出るだろう、劉璋はそう思う。如何に家族の絆が強固とはいっても、何がしかの切片さえあればそんなモノは容易く崩れると彼はよく知っている。今はよくても未来では、と。

 詠は劉協の側で月に仕えていた時期もあった為、誰よりも皇室の権力争いに精通している。故に劉璋の心の内を判断する事も出来た。
 下から覗き込んだ劉璋の瞳にあるのは、心底めんどくさい、関わりたくないという無関心の色。
 権力者達が行き着く一つの最果て。面倒事を嫌うその性質は、苦労を乗り越えて来たからこそ持ってしまうモノなのだ。

 漢の臣として声を大にしている以上、劉璋には詠の論は崩せない。華琳の命令には抗えない。
 孫呉を従えるのは皇室の威厳を保つ為には必要なことで、繋がりがあった賢き龍に借りを返すことも出来る誘いであった。

 だが……彼は小さく鼻で笑った。威圧を含んだ目線は、詠の身を僅かに引き締めさせる。

「生憎、無駄な争いは好まないんだ。最近客将として迎えた劉備に諭されてね。
 皇室を蔑ろにしたことは確かに許せることじゃあないが、大陸に住まう以上は孫呉のバカ者共も等しく我ら龍が保護すべき弱き民だ。
 牙を剥くなら従えて誰が主人か分からせてやろう。でも、あいつらは俺には牙を剥いていない。あのおっそろしい龍の敵討ちしても笑われる気がするし。高祖、劉邦の血を引く俺達は、お前らみたいな薄汚い覇を掲げるモノとは違って寛容ってこった。陛下だって戦は好まないはずだ。
 戦で全てを解決しようとする野蛮人共め、誇り高き漢の血はお前達に穢されている。皇帝陛下を引き込み、好き放題に乱世を広げようとしてるお前らこそが悪だと気付け、曹操の使者」

 一つは責任転嫁。もう一つは好まれる英雄の名を出しての論舌のずらし。
 滑らかに回る舌はまだ止まらない。

「漢の臣であることを示すには、お前らみたいな奴等をこそ許してはならんだろう。
 人々は生きている。命を奪うことはそれだけで罪。戦をしろというお前らには、民の声が聴こえないんだろう?
 俺達が動けば愛しい民の命は儚く消える。言の葉で決着を付けること叶うならばその方がいいに決まっている。
 言い聞かすことが出来ないから力に頼るってのじゃあ、ガキと変わらねぇ。そんなガキに世界を渡すわけにはいかねぇな」

 従うことは無いと、劉璋は言い切る。漢の忠臣だからこそ、覇王の乱世を許さないと。
 龍の地を引くモノだからこそ口に出していいその言葉は、臣下達の心に染み込んだ。
 桃香は茫然と彼の言葉を耳に入れ、繋がれた視線の先で薄く笑う劉璋から目を逸らした。

――私がどれだけ言っても聞かなかったのに、こんな時だけそんなことを言うんだ。

 心の底から思っていることでは無いと知っている。
 真逆の龍はどちらかと言えば悪を信仰するモノだから。
 桃香に諭された、と彼は言った。つまるところ、自分一人の責任とせず、無理やりに桃香を華琳との敵対に巻き込んだということ。

――さぁて、俺と一緒に地獄の果てまで来てもらおうか。

 部下達の不和を知る劉璋は、この時をもって部下達に桃香を認めさせるつもりなのだ。
 苦い顔をする文官達は、正論を紡がれて反発出来ない。

 桃香は……華琳を倒すよりも共に生きたい。覇王とさえ手を繋ぎたい。
 劉璋はその理想を突き崩す。だが、それならば劉璋の臣下達も受け入れられるのだ。妄言に等しい覇王との協力を謳わせるよりも、覇王を打倒すると言わせた方が臣下達も納得できる。
 不信感を持っていた彼らを纏め上げる為の論舌に、詠は少しばかり感嘆の念を感じた。

――状況を上手く利用したわね。中々、やる。

 このままでは自分が益州安定の手助けをしたようなモノだ。
 彼女達の思惑を為す為には拙い。劉備と劉璋の不仲を際立たせたい詠と秋斗にとっては。

 ただし、この程度で終わるほど詠も甘くはない。
 敵対を示されておめおめと帰るほど簡単な任務ではないのだ、この益州に使者として赴くという事柄は。
 従わないのなら従わないでいい。
 押し黙っている秋斗に意識を向けず、彼女は彼女の仕事を遣り切る為に口を開いた……悪辣に見える笑みを浮かべて。

「つまり、劉璋と劉備は皇帝陛下に弓引く大罪人で構わない、そういうことね?」

 天たる帝の話に、臣下達が苦く眉を寄せた。
 不本意だが、覇王が膝元に帝を於いている以上、敵対を示すとはそういうこと。

「お前らが陛下を傀儡にしてないってんなら、そうなるな」

 表情を消した劉璋の瞳は冷たい。
 しかしながらその言い方は拙い。掛かった、と詠は頬を吊り上げた。

「異なことを。傀儡になど出来ようはずがない。真名を捧げさせるという類を見ない厳罰は、陛下の尊厳を案じ人の身を外れてこそ命じることが叶う。
 天よりの断罪無きことが何よりの証拠。黒麒麟と曹孟徳の二人は今も生きている。ご法度である真名の扱いに触れた二人は、天に認められたる陛下の忠臣に相違ない」

 真名の信仰はこの世界で最も重き共通認識。其処に触れた二人の異才は人々の恐怖を齎した。天罰が下るだろうと思っていた者は決して少なくない。
 モノは言いようである。
 真名を穢したのなら罰がある。そう信じてやまない大陸の人々は、有り得ない厳罰を与えた二人が未だ無事に生きていることが信じられない。
 だから、彼らは天の忠臣と言われてもいい。天がそれを許容したということは天の為であるということ。詠は事実無根の概念という武器を使って持論の強化を図った。
 帝とは天、そうして積み上げられてきた価値観が、劉璋の逃げを封殺する。
 どちらが大罪人であるのかと、人々の心に迷いが生まれる。そも、覇王はまだ侵略を開始していない。降りかかる火の粉を払い、悪を討ってきただけである。
 孫呉を従えよという命令にしてもそう。大陸の平穏を違えるからと出た命令とも取れる。

 覇王はまだ、覇王に非ず。覇王と呼ばれていようとも覇王では無く、人々の求める徳の王とも言えるのだ。

 ち……と舌打ちをした劉璋の表情が歪んだ。
 何をバカなことを、と言うことは出来るが、僅かばかりの部下は詠の言葉を信じてしまっている。ここで彼女の言葉を否定してしまえば、自分が真名を軽く見ていると取られて部下からの信が下がるのは目に見えていた。
 真名のあれこれはそれほど、重い。

「大罪人……大罪人か。平和を説く俺達が大罪人なら、乱世を広げようとしてるお前らはなんだ?」
「分かってない。ボク達が何かなんてどうでもいいこと。我らに従わぬのなら踏み潰すのみ、そして理解出来るまで殴りましょう。二度と反旗を翻せぬように、争いの芽が芽吹く前に」
「やっぱりガキだな。てめぇらの論舌は俺らのことを信じてないから無理矢理に言うことを聞かすってこったぞ?」
「あんた達の論舌はボク達のことを信じられないから抗うって言ってるようなモノでしょう?」

 互いに引かない。平行線の水掛け論には答えなどでない。
 言葉遣いも投げ捨てた。使者として許されないことであるが、臣下達が口を挟めるような空気ではなかった。
 華琳と桃香の衝突にも似た詠と劉璋の“話し合い”では、分かり合うことなど出来るはずがない。
 その様子を眺めている桃香は、黒の男がじっとこちらを見ていることに気付いてしまった。

 ぶるりと震える。
 なんら興味を示していない、道端のゴミでも見るような目が怖ろしかった。
 ほら、お前の理想はこんなモノだと、言い聞かされているようで。

 幾分、彼が小さく苦笑した。
 桃香から目を切り、終わりの無い言論の場を終わらせる為に。

 それを合図に詠は押し黙る。第一段階として、劉璋との敵対が明確に出来た。
 詠の使者としての仕事は終わった。劉璋の答えは従わない、だ。許昌に戻って報告をすれば終わる他愛ない仕事。しかし……覇王が命じた仕事を熟しただけで満足するかと言われれば、否。
 此処からは使者の領分を越える。いつも通りに、黒が世界をかき乱す。

「クク……御労しい」

 さも悲しげに、さも寂しげに言の葉を並べる。流し目を向けられる劉璋は背筋に寒気が起こった。堪らず問いかける。

「何がだ?」
「龍の血申し分なく濃いお方が、何処の馬の骨とも思えぬ龍の血の極々薄いモノに縋らずに居られぬとは……御労しい、と言っているのです」

 ゆるりと、彼は手を巻く。纏う空気とは合わない敬語を並べ立て、劉璋に下から不敵を向ける。
 後に詠の頭をポンポンと叩いて、彼は優しく微笑んだ。

「些かこの子も熱が籠り過ぎた様子。争いを好まぬのは我らもあなた方も同じでしょう、いがみ合うこともありますまい」

 ジトリと詠が睨むも彼はどこ吹く風。渦巻く黒瞳に僅かな恐怖を覚えて、詠は小さく舌打ちを一つ。

「……だが、曹操の文の内容はあまりに横暴だ。自らの手を汚さずに他の地域を滅ぼそうとしてるんだからよ」
「はは、あなたは思い違いをしてらっしゃる」

 乾いた笑いと見下すような視線に、劉璋は苛立ちを覚えた。何かを見落としている。文の内容を反芻してもその見落としが何かは分からない。
 だから、黒から続けられる言葉、突如豹変した態度に、劉璋の表情が歪む。

「戦をしろなんざぁ誰も言っていないし命じていない。先の話を聞く限りだと人を傷つけずに従えることが出来る自信があるときた。それなら、お得意の話し合いでもなんでもすりゃあいい。
 適任が一人いるだろ? なぁ……劉備?」

 冷たい目。期待の一欠けらも持たない視線。桃香に向けられる黒は、彼女の心を締め付ける。

「ぶ、無礼ではないかっ!」
「徐公明っ! 一介の将如きがその口の利き方っ! 身の程を弁えよ!」

 そんな桃香、劉璋すらおかまいなしに、ここぞとばかりに文官達が声を荒げた。
 曲がりなりにも敬語を使っていた時ならいざ知らず、態度が崩れてしまえば使者として相応しくないと責めてもいい。詠の時は劉璋と言い合っていたから止めるに止められなかったが、今は別。
 文官達はそれほど、今の謁見を終わらせたかった。

 ただし、相対しているのは黒き大徳。責めても憤っても、なんら感情を動かさずにただ不敵に笑うだけ。

「ああ、こりゃ失礼。そろそろ飽きて来たんだ。元々堅苦しいのは苦手でね。
 まあ……お前さんらがいくら喚こうと嫌がろうと、その戦乱の元が此処に居る限り曹孟徳は益州を虎視眈々と狙い続けるんだが……分かってないのかね?」

 は……と呆れたように息を付いて語る。
 すっと指を差した先に居るのは一人の女。彼ら文官が疎ましく思っていた大徳との呼び声高き少女……桃香であった。

「な……わ、私が……戦乱の、元?」

 何を言っているか分からない。彼が自分のことを戦乱の元と言った意味が理解出来ない。
 人々を救おうと動いている彼女には、彼の真意は分かり得ず、ただ首を振るだけ。ズキリ、と彼女の胸がまた痛んだ。
 文官達は押し黙る。興味が湧いたのだ。話の矛先が自分達が不振に思っている桃香に向いたことで、聞いてみようという気になってしまった。

「だってそうだろ? お前が敵対を示さなければこの益州は戦乱に沈まない。俺達だって別に無抵抗の土地を攻めようってわけじゃあないんだ。
 こちとら“諸葛亮や公孫賛を使って孫呉と密命を結ぼうとしてる事なんざお見通しなんだよ”。さすがに孫呉に肩入れするなら俺達は落とし前をつけて貰わなきゃならん。
 曹孟徳は孫呉だけは絶対に従えると決めている。そんでもって……俺も徐州も、孫呉を許しちゃいないんだから」

 ぎらりと黒瞳が輝いた。
 記憶の喪失を知らない桃香にとって、彼の最後の言葉は弾劾として響く。
 更には、此処で手を緩めるような彼でも、無い。引き裂かれた口から流れるのは、彼女の心を切り裂く最悪の刃。

「なぁ、劉備。
 徐州を捨てて喰らうメシは美味いか? 信じてた民を見捨てて作り上げた平和は楽しいか? 俺達が作り上げたかった平穏を壊した孫呉と手を繋いで、何が欲しいんだ?」

 重く、彼の声は身の芯まで響く。
 捨てた大地、捨てた平穏、約束していたはずの未来。彼女が大徳として尽力した過去があるから、孫呉と手を繋ごうとしている今は許されるモノでは無い。

 守ったのは誰か。四倍の軍をたかだか一部隊で跳ね除けたのも、虎の先遣部隊を絶望に落として蹴散らしたのも、十倍の袁家軍に大打撃を与えたのも、全ての名は黒き麒麟に収束されている。

 乱世で民に信じられるのは、守った事実を残したモノだ。
 故に彼の後ろには、桃香が捨てた徐州の人民全てが乗っている。例え記憶が無かろうと、過去も事実も変わらない。
 桃香は力無くへたり込む。客分ゆえに、彼女を支える者は誰も居ない。普段なら居てくれる仲間も、劉璋の元では誰も居なかった。
 心配げに目を向けるのは紫苑だけ。しかして場所が遠すぎて、桃香を支えるには視線だけでは足りなかった。

「お前が誰かと手を繋ごうとするからこの益州は狙われる事になった。争いを引き込んだのはお前なんだよ、劉備。厄介事を持ち込んでるって思ってる人もいるんじゃないか?
 文官の方々も知ってるだろうに。お前が勝手に動いて、孫呉への救援を行ったんじゃぁないのかね? 街の噂でも聞いてるぞ?
 劉備殿は大徳なり、弱りし隣人、果ては州一つにまで手を差し伸べるその在り方は、真に仁君として相応しい、とな」

 大々的な宣伝を行っていた朱里と藍々の策を逆手に取った言い分は、文官達が抑え込んでいた不満を煽る起爆剤となり得る。
 民心の操作は確かに有益だろう。不可測でもたらされる悪意の横やりがなければ。そして噂を信じる民だけが、彼女の国民だというのなら。

 思考誘導は彼の十八番だ。一つだけではなく、幾重にも波紋を広げる論舌は、悪意を知りたるからこそ語るに落ちた。

――ちっ……黒麒麟の狙いは、俺の部下かっ

 拙い、と思った時にはもう遅い。劉璋には彼の口から放たれた言葉を鎮める材料を持っていない。
 火が灯る。不信の火が。主はこの女に騙されているのだと、昏い炎が燃え上がる。
 其処に彼は……そっと最悪の感情に火を付けてやるだけでいい。

「俺達はやっと袁家を滅ぼした。明日死ぬ老人から、昨日生まれた赤子まで、袁家に長く仕えていた者も、浅く仕えていた者も……袁家の悉くを滅ぼした。
 孫呉が先の謁見に矛盾して歯向かうってんなら、俺達は容赦しない。また一つ、大地が焦土になっちまう。
 だから頼むよ……益州を守る龍を、誇り高き龍を守りし忠臣達……お前さん達だって、主の誇り高き血を後世に残したいだろう?」

 震えあがったのは文官のほとんど。彼が与えた感情は……恐怖だった。
 曹操軍が行った袁家虐殺は耳に新しい。当然、自分達が歯向かってそのような事態にならないなどという保証は無い。
 死ぬ可能性はあるのだ。生き残るには、覇王に逆らわないことが一番いい。
 つまりは、主と共に心中するか、主を説き伏せて益州の存続を狙うか、その二択。

「漢の忠臣である益州の龍、それとも虎を守護する反逆者……お前さん達は、どっちだ?」

 優しく甘く、彼は逃げ道を与える。恐怖が染み込んだ時期を見計らって、文官達の心に言い訳を与えた。

 皆はこう思う。
 服従を示すは漢に対して。覇王に対してではない。
 そも、我らが従っているのは漢王朝の血であるのだ。それならば、抵抗せずとも帝と主が居る限り、自分達の立ち位置は其処にある。
 目を覚まさせなければ。アレは詐欺師だ。劉備は、自らの理想の為に我らを戦乱に巻き込む詐欺師なのだ……と。

 黒の隣、詠が震える。
 眺める文官達の瞳に宿る昏い感情を覗いて、彼女は秋斗の本質に恐怖した。

――人心掌握が……段違い過ぎる。

 敵国の真っただ中で尚、衰えることの無い理の力。
 劉璋の論を否定するでなく、自分達が正義だと肯定するでなく……彼はいつも通りに現状を述べて判断を他者に委ねるだけ。
 選択肢を与えた上で、どちらが得かを選ばせる。主観の意見をそっと乗せることによって、聞いた人々の心に己の望む方向を付けて。
 亀裂か、不和の芽か、ナニカ一つでも切片があるだけで彼は自らの望んだ方向へと捻じ曲げる。それが詠には、恐ろしい。

 冷たくなれるモノでなければ王にはなれない。
 非情になれるモノでなければ上には立てない。
 それでも彼が行う人心操作は、人として恐ろしいと感じて当然のモノ。
 詠は彼のことを、王とは違うナニカだと思った。

 不信の種は撒かれた。芽吹かせる事が出来るかはこれからの仕事。
 彼女達の交渉は此処で終わっていい。まだ何度も機会があるのだから。

「……大層な言いようだな、黒麒麟」
「これは失礼。如何せん、私情を挟み礼を失してしまいました。前の主が捨てた大地のことを思うとどうしても、ね」

 息を吐くように嘘をつく。真実を知らないモノが信じ込むようにと。
 劉備軍に居た徐公明の名はそれほど大きく広がっている。辺境の大地、益州であっても。

「……礼を失した無礼な発言、相応の罰が必要だな?」
「それでは私からも……使者に対し礼を失した無礼な部下は罰さなくてもよいので?」
「なに……?」
「証人に聞けばよろしいかと。なんのことかは、分かってるはずだよな?」

 其処で視線を送るのは二人。
 桃香と桔梗。昼のことにしても、夜のことにしても、彼女達二人は止められなかったという負い目がある。
 終わっていることだが、今蒸し返すことで一つの手札となる。
 狡い遣り方に桔梗は歯を噛みしめ、桃香は苦く眉を寄せた。

「この俺に無断で勝手なことを……。
 仕方ねぇ……手打ちとしてやる」
「ありがたく。ではこれにて……確かに文は渡し、我らの想いは伝えました。
 お答えを頂くにはお時間が必要でしょう。ご愛顧を賜り陣を敷かせて頂いている場所にて一か月待たせて頂きます。心配なさらずとも問題は起こしません。覇王や帝の顔を汚すわけには行きませんし。
 何時でも門は開けておりますので、返答はご随意に。ただ……」

 拳を包んで頭を下げた秋斗は、にやりと笑う。
 あふれ出るのは戦場での空気。文官たちの腰が引け、膝を折る者も出た。

「俺達を殺しに来るその時は二十倍の兵数を持って来い。たかだか五千と侮るな、我ら黒麒麟……首一つになるまで命を切り裂き、想いの華を捧げよう」

 底冷えするような冷たい声は、その場にいる全員の胸に響き渡った。
 戦場を経験しているモノだけが理解出来る声。
 黒麒麟は今この時に命を賭けているのだと、桔梗と紫苑の二人にだけは伝わった。

「それでは……失礼いたします、劉璋殿。そして龍の忠臣の方々。
 よりよいお返事を期待しております」

 うやうやしくも拳をまた包み、彼と詠はペコリと頭を下げた。
 背を向け、謁見の間を後にする。軍靴の音がやけに耳に残るように。

「あ……そうだった」

 扉の手前、ピタリと立ち止まった彼は振り向き……悲哀溢れる目で背を見つめていた桃香を見据えた。

「俺が此処にいる間にもう一つ戦が起こる。遠く、西涼の大地にて馬の一族が断罪されるだろう。闇夜を照らす銀月の光を拒み、身の保身を願った誇り無き一族など滅びて当然。
 龍に仕える方々も良く知っておくとよいかと。漢の忠臣と偽りし偽臣の末路を。
 しかし……そんなやつらであっても救いたいんだろう? 救わないでいいのかね……仁君、劉玄徳?」

 孫呉には手を差し伸べたのに、他の場所には手を差し伸べないのかと、彼はそう問うていた。
 桃香に打ち込む楔を緩めることなく、何度も何度も、幾多も打ち込んで行く。

 その程度だと、まるで興味なさげに目を切って。
 その姿に、彼女の心はやはり虚無に堕ちて行く。

 扉が閉まる音が静かに響いた。
 心地悪い空気が場を支配していた。次第にざわめき出す室内。劉璋も止めようとしなかった。
 彼の齎した不可逆は、劉璋の心にではなく臣下達の心に。一度根付いたモノはもう取り除けない。

 まるで悪龍が去った後のようだと劉璋は思った。彼の者は人の心を操り掻き乱す今は亡き彼女と同じモノだと、この甘い世界の異端だと、そう思えた。

「……やっぱり……仲良く、出来ないの……秋斗さん……?」

 小さく、小さく零された言葉を聞いたモノは、これからのことを話し合おうと彼女の近くに寄った劉璋だけだった。
 虚しさに染まった彼女の声が、劉璋の胸に一筋の痛みを齎した。



 
 

 
後書き
読んで頂きありがとうございます。

新年、明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い致します。

新年最初の話は謁見。彼の狙いはやはり人の心でした。王の理解を得るでなく臣下達を煽るのが彼の狙い。
まだ一手目です。此処からですね。

劉璋くんと郭図くん、キャラ被りしてないかが不安です。
悪役好きなので劉璋くんがちゃんと描けているか不安でして。


そろそろ他の場所も動かしたいですね。
ではまた。
 
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