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外伝 銀河英雄伝説~新たなる潮流(エーリッヒ・ヴァレンシュタイン伝)

作者:azuraiiru
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ささやかな願い ~ ユスティーナ ~

帝国暦 489年 3月 17日  オーディン    ユスティーナ・ヴァレンシュタイン



夫が窓を開け外を見ている。三月とはいえフロイデンは未だ寒い。オーディンに比べれば二カ月は前に戻ったような気候だ。外からは早朝の冷たい空気が山荘に入って来た。夫も私もセーターを着ている、とはいえ外気は思ったよりも冷たかった。夫は決して頑健ではない、風邪を引いてはいけない。

「寒くありませんの?」
「うん、少し寒いかな」
夫の吐く息が白く凍った。でも夫は窓を閉めなかった。開け放った窓から外を見続けている。
「風邪をひきますわ」
「そうだね」
夫は窓を閉めようとしない。傍によって私が窓を閉めた。しかし夫は外を見るのを止めようとしなかった。

心ここに在らず、そんな表情で外を見ている。何を考えているのだろう? 仕事の事だろうか? 新婚旅行の二日目、残してきた仕事の事が気になるのかもしれない。やはりオーディンに戻った方が良いのだろうか? でもそれを言えば夫はそんな必要は無いと言うだろう。どうすればいいのか……。

「お仕事が気になりますの?」
思い切って問い掛けると夫はちょっと驚いたような表情を浮かべた。
「何故そんな事を?」
「先程から外を見ていますから……、オーディンの事が気になるのかと思って……」

夫が首を横に振って
「気にならないと言えば嘘になるだろうね、でも私が居なくてもオーディンは大丈夫だよ」
と言った。本当だろうか。私が信じていないと思ったのだろう。夫が柔らかい笑みを浮かべた。穏やかな夫に良く似合う笑み、いつもは好きだけど今は不安になる。

「雪を見ていた」
「……雪を?」
夫が頷いた。また外を、多分雪を見ている。雪が朝日を受けて白銀に輝いていた。眩い程の美しさだ。
「ここの雪は綺麗だ、純白で穢れが無い。清冽で汚れる事を拒んでいるようにも見える。……そう思っていたらローエングラム伯を思い出した。彼に良く似ている」

ローエングラム伯……。思いがけない言葉だった。
「忙しさにかまけて忘れていたが三月十五日はローエングラム伯の誕生日だった。生きていれば二十二歳か……」
「……」
三月十五日はローエングラム伯の誕生日だった。その日は私達の結婚記念日でもある……。

「因縁だな。私と彼は何処までも繋がっているらしい」
自嘲では無かった、嫌悪でもない、面白がってもいなかった。ただ淡々としていた。そして雪を見ている。雪を見ながら夫はローエングラム伯の事を考えているようだ。もしかすると偲んでいるのだろうか。

ローエングラム伯ラインハルト。美しい容姿をした男性だった。遠目になら女性にも見えただろう。しかし彼の持つ硬質な雰囲気と鋭い眼は紛れも無く男性の物だった。初めて彼を見た時は彼の持つ覇気に圧倒される様な想いを抱いた事を覚えている。穏やかな雰囲気を身に纏っていた夫とはまるで違っていた。夫が鞘に収まった短剣なら彼は抜身の短剣のように見えた。

一度は養父が後継者に選んだ人物だったが敗戦により宇宙艦隊副司令長官に降格した。そして昨年の内乱で反逆罪に問われ死んだ。ローエングラム伯自身は反逆には直接は関わっていなかったらしい。彼の周囲が彼を皇帝にしようと企てたのだという。彼の姉、グリューネワルト伯爵夫人もその陰謀に加担していた。皇帝を暗殺するために毒薬を所持していた……。

その陰謀の所為で夫はもう少しで命を落とすところだった。ローエングラム伯を皇帝にするには夫の存在が邪魔だとローエングラム伯の周囲は判断したようだ。実際陰謀を暴いたのは夫とリヒテンラーデ侯だった。彼らの判断は正しかったのだろう。

「伺っても宜しいですか?」
「何かな」
「以前から気になっていたのです。貴方はローエングラム伯を憎んではいませんの? 恨んではいませんの?」
夫が私を見た。困惑をしている。やはり夫にとっては予想外の質問だったらしい。

二人の関係が微妙だった事は私も聞いている。ローエングラム伯の所為で夫は殺されかかったが最終的には夫がローエングラム伯を死に追いやった。巷で言われる様な権力闘争というよりも生死を賭けた戦いをしていたのだと思う。でもローエングラム伯が死んだ時、夫は酷く落ち込んでいた。養父が慰めていたのを覚えている。

「憎んではいなかったと思う。恨んではいたけれどね」
「……」
「どうして自分に協力してくれないのか、どうして自分の配下で満足してくれないのかと恨んだよ。そして何時か伯を排除しなければならない日が来ると恐れた。そんな日が来ない事を願っていた……」
夫はまた外を見た。

「馬鹿げているな、伯が私の配下で満足するなどそんな事は有り得ないのに」
「……」
首を横に振っている。口調には自嘲するかのような響きが有った。
「彼は覇者なんだ。覇者は一人、そして並び立つ者を許さない。だからこそ覇者なのに……。協力などするわけがないのに……」
覇者、確かにそうだった。そう思わせる覇気が有った。
「……伯を好きでしたの?」
夫が私を見た。哀しそうな目だった。

「そうかもしれない。いやそうだったのだと思う。彼の持つ傲慢さや稚気、純粋さや不器用な優しさ、そして溢れんばかりの覇気、子供っぽさ……、そのどれもが好きだったのだと思う」
「……」
「憧れていたのかもしれない、私には無いものだからね」
また外を見た。

「いや、それだけじゃないな」
夫が私を見た。昏い笑みが有った。初めて夫が見せる笑み……。
「憎んでいたのかもしれない。彼の無神経さ、鈍感さ、一人よがりなところを。……君の言う通りだ、私は何処かで彼を憎んでいた。あの雪を穢したいと思っていたんだと思う」
夫がまた首を横に振った。目を逸らし続けてきた事をついに見てしまった、そう思ったのかもしれない。夫の口調には力が無かった、自分を責めている。夫はローエングラム伯への罪の意識に囚われている、そう思った。

「一度は彼と共に帝国を変えたいと思ったのにね。場合によっては共に反逆者になることも覚悟していたのに」
「貴方……」
夫は哀しそうな表情で笑みを浮かべていた。本当にそんな事を? そう思わせる笑みだ。でも夫は“本当だよ、私はローエングラム伯同様危険な考えを持っていたんだ”と言った。

「だが或る時から私達の間に亀裂が入った。それは修復不可能なまでに広がり私達は別々の道を歩むことになった」
「……」
「まだ中将の頃だったが彼を排除しようと考えた事も有る」
「……でもそうなりませんでしたわ、本当ですの?」
夫が軽く苦笑を漏らした。

「義父上の病気を知ってしまった。そして義父上にローエングラム伯を援けてくれと言われたからね。私にはそれを断る事は出来なかった」
「貴方……」
養父の病気を夫に知らせたのは私だった。夫以外に頼れる人が居なかった。でも夫にとっては不本意な事態をもたらした事だったのかもしれない。私を恨めしく思った事も有ったのではないだろうか。

「あの頃が一番辛かった。自分の進む道が全く見えなかった。だからかな、あんな事をしたのは。あれは一種の逃避だったのだと思う」
何の事だろう、もしかすると指揮権強奪の一件だろうか。聞きたかったが聞けなかった。それが事実なら私が引き起こした事だ、訪ねるのは無神経に過ぎると思った。

「あのイゼルローン要塞陥落で全てが変わった。私とローエングラム伯の立場は逆転し伯は宇宙艦隊副司令長官として私の部下になった。自由惑星同盟軍に勝つために私がそれを望んだ。そうでなければ伯は軍を追放されるか閑職に回されていただろう。……だが後の事を考えればその方が良かったかもしれない」
最後は哀しそうな、消えそうな口調だった。慙愧、悔恨……、伯を殺さずに済んだ、夫はそう思っている。

「私が彼を追い詰めた。気付かないうちに追い詰めていた。副司令長官として遇しつつもそれ以上は許さなかった。そして私は内政改革を始め新たな帝国を創り始めた。自らが銀河帝国皇帝になる事を望んだ伯にとっては拷問の様な扱いだったのかもしれない」
「……」

「ジークフリード・キルヒアイスは私を憎んでいた。彼が私にブラスターを向けるとは思わなかった。それだけ私はローエングラム伯を弄っていたのだろう。そんなつもりは無かったけど……」
ジークフリード・キルヒアイス? 私の疑問を感じ取ったのだろう、ローエングラム伯の副官で幼馴染だと夫が教えてくれた。

「覇者ラインハルト・フォン・ローエングラム。人類史上最大の征服者、神聖不可侵なる銀河帝国皇帝、獅子帝ラインハルト。……見たかったな、覇者となった彼を見たかった……。そして共に歩みたかった」
詠嘆するような口調だった。切なさが私にも伝わってくる。
「……もう一度人生をやり直せたら、そう思っていらっしゃいますの?」

夫がほんの少し私を見つめ首を横に振った。
「そんな事は思っていないよ。もしやり直しても私は何処かでローエングラム伯に付いていけなくなったと思う。彼の流す血の量に耐えられなくなった筈だ。私には彼のように戦いを楽しむ事は出来ない。流れる血の量に無関心ではいられない」
「……」

「多分彼の元を離れたか、或いは耐え切れずに反逆を起こしたか。一番可能性が高いのは彼の側近によって反逆者に仕立て上げられ殺される事だろう」
不思議だった。夫はまるで実際にそれが起きた事であるかのように話をしていた。そういう夢でも見たのだろうか。

「何故分かりますの?」
私が問い掛けると夫は私を見て“分かるよ”と言った。笑みを浮かべている、悲しそうな笑み……。
「彼は英雄で私は凡人だから」
凡人? 夫が? 夫が私を見ておかしそうに笑い声を上げた。多分私は間抜けな顔をしていたのだろう。

「酷いですわ、私をからかったの?」
夫は猶も笑いながら“違うよ”と言った。
「本当の事だ。彼は英雄で大勢の人間が死ぬ事、苦しむ事を平然と受け入れる事が出来た。私には無理だ、そんな事は出来ない」
夫はもう笑っていない。

「非難しているんじゃない。そういう種類の人間が必要とされる時も有る。世の中が混乱し不満が満ち溢れている時、そういう人間が現れ多くの犠牲を払って世の中を変える。普通の人間なら何処かで怯み挫折してしまうだろう。それを躊躇う事無く出来る、英雄と言われるわけだ」
皮肉かと思ったが違った。夫はまた雪を見ている。確かに夫は英雄ではないのかもしれない。夫には人の死を平然とは受け入れられない。例えそれが反乱軍の兵士の死だとしても。シャンタウ星域の会戦の後、夫は苦しみながらも前に進むと言っていた。

「孤独だったと思う」
「ローエングラム伯ですか?」
“うん”と夫が頷いた。
「誰も彼を理解する事が出来なかったと思う。いや、理解は出来ても共感は出来なかった。それが出来た唯一の存在がジークフリード・キルヒアイスだった」
「……」
私に話していると認識しているだろうか? 何処か一人語りをしているように感じた。

「皆遠くから見ているだけだ、まるで峻厳で人が立ち入る事を拒む山を仰ぎ見るようにね。もっとも伯は自分が孤独だという事を分からなかったかもしれない。多くの人間が平凡である事を理解する事も受け入れる事も出来ない人だった。彼が好み受け入れたのは非凡な人間だ」
また夫とは違うと思った。聞けば聞くほど違いを感じる。陛下が夫の事を非凡だが平凡でありたいと願っていると言っていた。夫が自らを凡人というのはその所為だろうか? 孤独になるのを恐れているのだろうか?

「貴方は孤独では有りませんの?」
夫が驚いたように私を見た。そんなに思いがけない質問だったのだろうか。重圧に苦しんでいるのではないのだろうか。
「……孤独ではないと思う」
ゆっくりとした、しっかりとした口調だった。嘘は吐いていない。

「仕事を重い、苦しいと思う時が無いとは言わない。だが私は一人じゃない。相談出来る人もいれば協力してくれる人もいる」
夫が不意にクスクスと笑い出した。
「食えない人もいるけどね」
「食えない人? どなたですの?」
夫が悪戯っぽい笑みを浮かべている。少しは気分が上向いたのだろうか。

「陛下とリヒテンラーデ侯かな、他にも居るけどあの御二人は酷い」
「まあ」
私が驚くと夫は声を上げて笑った。
「特に陛下は酷い、三十年以上凡庸な振りをしていたのだからね。皆を騙してきた」
「そんな事を仰って、不敬罪になりますわ」
夫は私を抱き寄せると“君が言わなければ大丈夫だ”と耳元で囁いた。頬が熱い、夫だって相当に人が悪いと思った。陛下やリヒテンラーデ侯の事を言えないだろう。

“非凡だが平凡でありたいと願っている”。……夫にはずっとそのままでいて欲しいと思う。夫が平凡でありたいと願っている限り、私は夫の傍に居る事が出来ると思う。夫が自ら非凡である事を、英雄である事を望めばそれはもう私の知っている夫ではない。そうなった時夫の傍に私の居場所は無い。いつか夫は英雄である事を望むのだろうか? そんな日が来るのだろうか? 夫の傍に居たいと思うのは大それた望みなのだろうか?

「大丈夫だよ、ユスティーナ。私は孤独じゃない」
夫が気遣うように話しかけてきた。私が夫の事を心配していると誤解したようだ。夫が私を見て頷いた。
「本当だよ。私生活でも君や義父上がいる。私は孤独じゃない。その事に感謝している」
そう言うとまた夫は窓の外を見た。先程までの外を見ていた表情とは違う、穏やかな表情をしている。大丈夫、夫は変わらない。何故かそう思えた。


 
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