| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

乱世の確率事象改変

しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
 

道化師は桃の香に誘われず

 
前書き
二日連続投稿 

 

 あの時と、劉備軍が追い詰められた交渉時と同じく、彼の何処か場違いな敬語が耳に響く。
 わざわざ行われた自己紹介、知らぬモノ達の中でも、彼の名に気付かなかったモノは一人。屋敷の入り口で突っかかっていた女……焔耶だけ。

「お前が……黒麒麟、だったのか」

 ついつい零れてしまった言の葉。ほとんど無意識と言っていい。桃香達、そして噂話で聞いていた、軍神や燕人、昇龍に並ぶ化け物が彼であったことに、焔耶は昨日の出来事を思い出しながらも驚愕に目を見開いた。
 流してもいい反応ではある。理解出来たならわざわざ答えてやらずともいい。
 だが、その隙を利用しない彼では無く……意趣返しと交渉対価を考えない彼では無い。

「そうだよ。俺が徐公明だ……が、挨拶の途中で割り込むのは頂けないなぁ?」

 目を細め、口を引き裂く。猪々子と戦ったあの時のように、兵士全てを黙らせたあの終端の時のように。
 黒の放つ威圧が焔耶に突き刺さった。有無を言わさぬ気当ては愛紗が昨日放ったモノに勝るとも劣らない。焔耶がまだ越えていない壁を乗り越えた者達が放つ重苦しい圧力は焔耶の言葉を詰まらせる。

――こんな上モノを一目で判別出来んとは……まだまだ未熟よの、焔耶。

 対して、彼女の師にあたる厳顔は彼の気当てを心地よく受けていた。
 ゾクゾクと駆け抜ける背筋への快感。此処が戦場であればと願ってやまない。命と命をぶつけ合い、輝かせあって戦えたなら、どんな美酒にも勝る充足感が得られるだろうに、と。

 また悪いクセを……紫苑が視線だけで咎めようとも収まらず、笑みが深くなっていく。より獰猛に。
 ふいと、厳顔と彼の視線が絡んだ。幾瞬だけ絡んだ黒の瞳は、戦人のような歓喜は無く、獰猛さの欠片も無い。戦狂いの己とは別種だと厳顔が瞬時に理解しても、実力があるのなら喰らいたいと思うのも彼女の性。

 戦いたくて仕方ないという厳顔の瞳を覗き込んでから、彼はふっと小さく吐息を漏らして受け流した。

「まあ、私も突然の訪問に加え、座ったままでご挨拶さえ行わなかった非礼がございます。玄関でのいざこざとで水に流して頂けると幸いかと。如何か、劉備殿?」
「う、うん。大丈夫。ありがとう」
「いえいえ、美味しいお茶を出して頂き、こちらこそ感謝を」

 やんわりと等価交換を為し得た。焔耶にわざわざ絡んでやったのは、彼女達に気兼ねなく話させる為。座ったままだった事もそのためであったが、焔耶個人に対しての貸しを全て桃香に清算させられたので万事問題なく。
 落としどころの不足分を補えたことで、桃香もほっと安堵を零す。

「そうだ、知らない人が居るよね」
「……自己紹介は要りません。紫の髪の方が黄忠殿、銀髪の方が厳顔殿、水鏡塾の制服を着ている方が徐庶殿、黒髪と淡い髪の混ざった方が魏延殿、ですね。街を見学させて頂き耳に挟んでおります。
 お初に、皆さま方。以後お見知りおきを」

 お辞儀を一つ。後にぐるりと見渡す。目に宿る不敵さを隠そうともせずに。
 特筆して語るべくモノは無いかと思っていたが、冷たい双眸が彼を掴んでいた。
 知性の宿る冷たさは何を思うか……徐庶――藍々の油断無さに、秋斗は警戒を一つ高める。

「そちらの方は? ウチの張飛と面識があるみたいッスけど」

 自己紹介をしているくらいなのだからと、藍々は切り込んだ。一歩答えを間違えればどうなるか、というような疑問。

――えーりんとゆえゆえの真実を知ってるかどうかが問題。さて、どうするかね……。

 彼女が詠の過去を知ってか知らずか……秋斗には判断し兼ねる。秋斗自らが説明してもいいが、悩んでいる間に脇から声が上がる。

「……最近、曹操軍の末席に加わりました荀攸、荀公達と申します。面識については劉備殿にお尋ねください。自らの首を絞める覚悟がおありならお好きなように、とも言っておきましょう」

 答えを聞いて眉根を寄せた藍々を見れば、詠の過去を知らないことが分かった。
 秋斗は詠の切り替えしに思わず舌を巻く。

――名前を変えたことを昔の知り合いに伝え、董卓と自分が生きている事をばらしたければばらせという脅しを掛けたのか……さすがはえーりん。

 官渡の時分にばらされることは問題であったが、帝の信と大陸一の勢力を手に入れた今となっては懸念事項は何も無い。
 逆に声を大にしてそんなことを桃香達が言った場合、戯言をと笑い飛ばされるのは間違いなく言った側。
 大勢力に対する嫉妬か、はたまた情報操作か……なんにせよ、事実確認を行うことも許されず、発言の影響力も低すぎて華琳の勢力圏内をかき乱す事は望めない。
 華琳が帝を抑えている以上、桃香達が大義名分を得ることも無く、むしろ言いがかりをつけたとして戦争の引き金にせなり兼ねないのだ。悪逆の董卓を匿ったのは劉備軍だと言い返される可能性さえある。
 詰められれば詰められる程、桃香達に逃げ場は無くなるのだ。桃香が“黒麒麟が勝手に助け、自分達は知らなかった”と白を切れるほど非情になれない限りは。

「あ、後で教えるよ藍々ちゃん」

 案の条、桃香の頬がひくつく。詠にとっては予測の内。むしろその程度をぼかせなければ落第の判を押す所であった。
 桃香はもうずいぶん長い間書類仕事を行い、人間の黒い部分も見てきた。だからだろう。詠の仕掛けた脅しの意味を理解し、彼女はその危うさを悟ったのだ。

 しばし沈黙。聞きたいことは他にあるかと、無言で問いを投げてみる。反応が無いのなら、彼としてはもう外面を気にする必要もない。

「……さてと、非公式の会合でもございますし、今更気を遣い合う仲でもございますまい……そろそろこの堅苦しい言葉遣い止めさせて貰うぞ」

 傲岸不遜に切り替わった彼の空気は、先程焔耶に向けたモノと違うモノ。飄々としつつも不敵に溢れ、誰であろうと下に見ないが誰であろうと上にも見ない。
 威圧では無いのだ。自分という確たる芯を持った人間が其処に居るだけ。お綺麗に纏めようとする上っ面を投げ捨てれば……“黒麒麟”が現れるだけである。

 急な切り替わりに新参の四人は着いて行けず。反して桃香と愛紗は表情を引き締め、鈴々は何を話すのかと不思議そうに首を捻り、星は相変わらずと苦笑して目を細める。
 コキコキと首を左右に動かし、秋斗は目を瞑って口を開いた。

「この街を見てきた。いい街だな」

 許可を得るわけでもなく勝手に、目前の相手が一軍の主だからと気負うこともなく、ただただ普段通りの声音で語る。
 普段から華琳の前で政策や軍事、そして乱世のことを話している彼にとって、桃香と面を合わせても焦燥や怯えに駆られることなど有り得ない。
 己が望む結果を掴む為に、気兼ねなく語ればいい。

「人が助け合って生きてるってよく分かるよ。
 治めるモノへの感謝も、尋ねてみれば良き方だと称賛ばかりが出てくる。街の治安なんかは警備隊政策で安定を保ち、哀しい出来事が起こるのも極僅か。改革の途中なのは一目瞭然だったが、時機に浸透していくだろう。
 何より……笑顔がある。子供も老人も、女も男も誰も彼も……道行く人が生を謳歌してるんだろうな」

 楽しげに、穏やかに、自分が見てきたことを話していた。空気はひり付いている中での穏やかさ。彼の話す様子が異質に際立つ。
 旧知の四人にとっては当たり前、新参の四人にとっては……不気味に思える。
 ただ八人全員、何の意味があるのかと深読みしても、彼が何を言いたいかなど読めるはずも無い。
 彼女達は続きに耳を傾けるしかなかった。

「俺は人が平穏を享受している街が好きだ。
 子供達が治安の良し悪しに怯えることなく遊びまわる街が好きだ。
 商人が気軽に商売話を掛ける街が好きだ。
 恋仲の男女が仲睦まじく歩ける街が好きだ。
 老夫婦が茶屋で団子を頬張りお茶を啜れる街が好きだ。
 そんな普通で、有り触れていて、何処にでも作れそうな街が好きなんだ。きっと……この街は俺の好きな街に違いない」

 不意と浮かべた笑顔は真っ直ぐの感情を表す。
 彼が心の底から本心を話しているだけだと分かったモノは少ない。
 詠と、星と、鈴々くらいだった。
 華琳の領内で忙しなくしつつも笑顔で駆け回っていたのは彼であり、白蓮の街でいつでも笑って平穏に尽力していたのは彼であり、平原と徐州で仕事仕事と忙しくしながらも民に向ける笑顔が変わらなかったのも彼だから。
 三人は別々の土地で、同じ笑顔を浮かべる彼を見てきたのだ。その言葉にウソなど一つも混ざっていないと知っている。

 ただ、それを知ったとて彼の続ける語りの先は読めるはずが無く、

「まあ、うん……でもやっぱり、この街に住もうとは思えない」

 少しの間を以って部屋の空気が変わった。
 先ほどまでと変わらない声音。当然の如く漏れた個人意見。
 好きだといいながら住みたくないという訳のわからない解答には、誰であろうと疑問を浮かべ、

「ど、どうして――――」

 桃香が尋ねようとした瞬間、片方の瞼を開けた彼の目から、片側だけ吊り上った口から、悪感情が流れ出した。
 本題は、やはり此処から、と。

「……民の口から出る名が一人の名ばっかりだったからさ」

 ぽつりと零した。穏やかに話ながらも先程までの感情は何処にも見当たらず。
 彼女達の積み上げてきたモノを第三者視点で穿って視察し、個人色に染めた事実を報告する……城に住まい、富を貪る汚れた文官ならそんなことを言いそうだと、藍々は思った。
 ただし、そのモノ達が宿す感情は嫉妬と欲望に塗れているが……目の前の男の場合、悪感情の種類が全くの別。

 一番良く知るモノに被って見えた。徐庶という水鏡塾の才女でさえ、そのモノには勝てなかったのに……目の前の黒が悪龍と同じに見えてしまう。
 ゾクリと寒気が伝う。藍々は、その悪辣な笑みから必死で何かを読み取ろうと警戒をさらに一段階高めた。

 そんな軍師を気にも留めず、秋斗は芝居掛かった言葉を綴って行く。

「“劉備様は素晴らしい。劉備様のおかげで。劉備様が来て下さったから。劉備様には感謝してもしきれない。”
 劉備様、劉備様、劉備様、劉備様、劉備様、劉備様、劉備様、劉備様、劉備様……呆れるくらい耳にしたぞ。
 クク、怖くないか? いくら尋ねても肯定しか出てこないんだ。嫌いだっていう人間が全然いないんだ。
 肯定しかないってのは間違っても正せないのと同義だろう? 違う意見を誰も口に出来ないってこったろう? そんな怖い集合体の中になんざ、俺は入ろうとは思えないね。
 だから街の感じは好きなのに、俺はこの国の民を心底怖いって思っちまう」

 彼はたった一日二日の実地調査で、数え切れない程の声を耳にした。
 旅人と嘯いて劉備の評価を尋ねれば、返ってくるのはいつでも称賛の声。
 弱り切っていた益州を統一したのは劉璋のはずなのに、もうその事実が上書きされている。しかも、州の主要地の成都が、である。

 詠は秋斗の話を耳に入れながら震え始める。
 事前に打ち合わせたわけでは無いこの語りは、明晰な頭脳を持つ彼女だからこそ恐れを抱かせる。
 誰に、ではない。彼が怖いと言ったその事柄が真に持つ恐ろしさを、誰よりも見抜いてしまったのだ。
 なんとはなしに彼がいつでも行ってきた二つの……“命令には絶対遵守”“間違っていると思ったなら殴ってでも止めろ”……有り得ない矛盾が持つ本当の意味を、この場では彼女だけが理解した。

 徐晃隊全体に敷く絶対遵守の命は、群体を身体に確立させる起爆剤、身体を動かす動力源、人を狂気に堕とす為の暗示である。
 対して、副長以下部隊長――最終的には徐晃隊上位の隊員全て――に対して敷いた反抗優先命令は……自己崩壊を止めるオブサーバー、人の集合群体を繋ぎ止める緩衝材、人を妄信に堕とさぬ為の自浄作用。

――民衆の意思は多数の集合体によって成っている。故に……多数に取り込まれて否定の意見は黙殺される。例え正しいことを言っていようと、多数が異端と批判すればそれは異端として排除される。

 嘗て、黒麒麟は桃香のことを、古き時代で民主主義を説く異端だと認識していた。民主主義の根幹にある者は多数決で、弱者を統べる桃香の力は民という圧倒的多数の声。
 物量で圧殺すると表現すれば戦の常道に思えるが、内部を染め上げると言い換えれば途端に腐敗を招いたモノ達と同類に見えてしまう。

――絶対遵守の命令に等しい桃香への妄信で染まり切った環境は、秋斗がいつでも懸念していた自浄作用の不在によって暴走すると止まらない。
 結果、民が国を滅ぼす。黄巾の乱がまた、この大陸に起きてしまう。

 誰も逆らえない状況は独裁と同じだ。民意に支配されているように見えても、たった一人の主の意向が全てを決定するのだから。
 大徳という力の、桃香の真の恐ろしさは、誰もが軽んじるからこそ気付かれない。
 彼女の力は信じてついて来る人間の多さだ。彼女の恐ろしさは、非力でありながら人を一色に染め上げる思想にして、それを悪だと誰にも断じさせない在り方にこそある。

 次に放たれた言葉によって、初めて、詠は桃香本人に恐怖を抱いた。

「そ、そんなことないよ。だって私は何にもしてない。皆が頑張ってくれたから街が良くなったんだよ? 劉璋さんが協力してくれたから此処まで上手く行ってるんだよ?
 それに街に行ってもよくドジして笑われるし、仕方ない人だなぁっていっつも言われるもん」

 わたわたと手を振って否定を並べる桃香。身振り手振りが伝える必死さは、自身が称賛を受けている事実を本気で知らないと伝えていた。
 現に桃香は知らない。民が直接もろ手を上げた称賛を彼女に伝えるはずが無い。親しみやすいが故に対等のように過ごすことを好む彼女の前で、うやうやしくなど出来ようはずがない。
 彼女が居ない時にせめて、と口ぐちに褒め称えるのだ。第三者からの話は現実味を与え、現場を見ればまた噂が広がり、街一つくらいは容易く包む。昔から、劉備軍が通ってきた街は今の成都ほどでは無いが似た傾向を辿ってきた。

――そう……そうなの……劉備を大陸の王にしようと壊れて行った秋斗は、この無自覚で無意識……完全な善意で行われる思想侵食の恐ろしさと有用性を知っていた。だからこそ、秋斗は劉備軍でも一番の歯止め役を担いつつ、劉玄徳という大徳が覇王曹孟徳の唯一の敵になれるって、歪んだ信頼を向けられたんだ。

 理解出来ないと思考放棄していた。温い軍だと下に見ていた。何処にでもいる普通の女が、子供のような夢を語っているだけだと勘違いしていた。
 桃香の力を正しく測れたのは華琳と秋斗だけ。誰もその恐ろしさには気付けない。恐ろしいと他者に思わせないモノだからこそ、気付いたモノが恐怖するに足る。
 もう間違わない。桃香への評価を、段違いに引き上げた。頭の良し悪しでは測れない敵であり、不可測の塊として。

 詠は思考に深く潜りこむ。
 彼は一つの狙いだけでは動かない。
 詠に敵の“恐ろしさ”を教える為が一つで、他にも狙いがあるのだ。
 それを読み取る為に、此処から先は一寸の違和感も見逃すまいと神経を極限まで尖らせた。

 そんな詠に対して。
 桃香の様子を見やり、謙虚さでは無い、と秋斗は判断を下し……見立てが間違っていなかった恐怖で震えそうになるのを抑えて、言葉を続けて行く。

「クク……俺は聞いたことをそのまんま言っただけだ。称賛の声は溢れかえってた。街を改革したのは間違いなく劉備軍で、劉備軍の働きは全てお前の評価に繋がる。それが社会ってもんなんだが……劇的な革新を行ったとしてもたかだか半年やそこいらでこの評価はありえない。政治事や経済に関して結果が明確化し目に見えるようになるのは半年じゃ足りないんだからな。
 んで、民はお前さんに感謝してる。お前さんだけに。
 益州の内部分裂を勝ち切った太守である劉璋を差し置いて、実質劉備軍の雇い主であるこの州の太守を差し置いてそんな評価を受けるってのは……通常の社会じゃあ異常事態なんだよ」

――革命が起こる時ってのは、決まって新しい風が入り込んだ時。お前にその気がなくとも、周りの声ってのは相手を追い込んで行くもんなんだ。民意の反逆に危機感を覚えない政治屋なんざいないから、そいつらに残された選択肢は、諦めるか、裏で何かを進めるかの二択だけ。

 口では伝えず。わざわざ現状の説明などこれ以上することは無い。それよりも、彼には確かめたいことがあるのだから。
 呆れたようにため息を吐けば、桃香が眉根を寄せた。
 不意に彼は、じっと己を見つめる藍々に向け、方頬を上げて嘲笑を送る。

――こいつ……朱里と自分の策を桃香様に知らせてるかどうか確かめやがったッスね。

 そういうことかと気付いてももう遅い。桃香自身が否定したということは、彼女達の策は桃香が決定を下したのではないと教えているようなモノだ。
 僅かに変わった瞳の色に、警戒と焦りを読み取った詠の目が鋭く光る。浮き上がってきた情報を繋げれば、劉備軍の頭脳達が何を狙っているのか看破するのは容易い。

――自らの王が反対するって分かってるから教えない。劉備が反対することといえば……

 回る思考は幾多の結果を読み取って。彼女達が何を目指しているか、何を求めているか、逆算すれば自ずと答えは出てくる。

――民の意識操作と思想の浸透。民意の変動が見えない所で侵食し、気付いた時には人民が全て劉璋の敵になる。忠心も忠義も……変化の可能性さえも否定して。益州に劉璋の居場所は、“劉備の庇護という不自由な檻の中”にしか残されない。

 朱里と藍々が取った策はたかがそれだけだ。民という弱者を味方に付けたというだけ。
 ただし、税を支払うのも、食糧を生産するのも、兵士として徴兵されるのも……全てが民から。
 五年、十年と掛ければ間違いなく国を乗っ取れる。広がる称賛はいつしか信仰となり、そして妄信や狂信に変化していくのだから。
 劉璋よりも優れた主だと表だって話に上がれば終わり。いくら国の主だと喚こうと、国を形作る民に認められないモノを主と呼べようか。

――南蛮との戦いは火付けの役割。長年益州の悩みの種って噂の南蛮を無力化したとなれば、劉備軍への信頼は爆発的に大きくなる。孫呉のこともそう。劉備軍は他の救援に迎えるほど力を持っていると知れ渡れば、民達は“自分達を守ってくれる明確な力”に期待する。

 つまり、通常であれば民の懐柔に必要な長い時を短縮する為に、外部への遠征と南蛮の平定を同時進行で行っていたということ。
 軍師達はきっかけが欲しいだけ。民に対して、劉璋よりも相応しい主が居ると明確に示す為のきっかけが。朱に交われば赤くなる……群集心理は、誰かがそっと扇動するだけで何れかの方向を向くのだから。
 彼女達の策の根幹は全て民にある。変幻自在とも言えるその力は、桃香という人間を頭に置けば最大限に機能する矛であり盾。朱里と藍々は、桃香本来の力に恐怖を覚えずとも、その力の大きさを読み違えはしなかったのだ。

――確かに劉玄徳という王に一番合ってる策。話さないでいるからこそ、ソレは大きく機能する。なんて平和的で……

 細めた目、吐息を吐き出す動作がイヌミミフードを小さく揺らした。
 詠が見つめるのは藍々だけ。秋斗を信頼しているから、彼の負担を一番に減らす為に軍師を相手取ることを決めた。

――妄信的な策なんだろう。

 は……と僅かなため息を吐き出した。
 その策の弱点を詠は知っている。誰有ろう黒き大徳には似たようなことが出来るが故に。

 彼は兵士を狂わせる。味方であれば理を説き憧憬と想いを煽って、敵であれば非情残虐の手段を以って従わせ渇望と同調を持たせて狂わせる。

 桃香は民を盲目に染める。人々に徳を説き、夢を語って共感を持たせ、彼女の理想に溺れさせる。其処に敵味方の別はなく、一度染まれば抜け出すことが難しい。

 どちらも同じ弱点を持ち、崩壊に辿り着く道筋も全く同じ。

 否、崩壊させないように彼がいつでも手を打っていたから……

――秋斗が黒麒麟の身体に望んでいたモノを逆算すれば、この策をボク達の為に利用し尽せる。

 自分達が望む利を得る為の方法を得た。
 彼女達の策を知った今ではもう、詠の頭の中で彼と行う益州崩壊への策が一つ二つと積み上げられていた。

 そんな軍師の思考を知らず、詠の視線に気付いた桃香は、ビクリと身体を震わせる。秋斗から視線を逸らすことは、今してはならないというのに。
 心理把握や情報判断に於いて、この世界で得られない経験を持っている彼から目を逸らすことは、情報を与えるに等しい。
 目を逸らさずに居れば、彼は桃香からしか情報を抜き取ろうとは思わなかっただろう。視線が逸れれば興味を広げるのが秋斗という人間で、思考が広がるのは言うまでも無く。

 一寸の間。桃香の視線が離れたその一寸に、彼は他のモノを見極め始めた。
 自分の話が誰にどんな感情を持たせているのか、それを調べる時間に相成った。
 愛紗と鈴々は読み取る必要が無いと既に理解を置いている。性格の把握も、思想の把握も、雛里と詠と月から話を聞いて腐る程に積み上げてきた。
 藍々は軍師なので詠に任せておけばいい。
 ただ、旧知の友と目を合わせることを意図して避けた。昨日のこともある上に聡い女だと聞いているから最後にしよう、と。

 残るのは三人。
 まず焔耶に目を向ける。桃香の為の猪という己が付けた評価を確かめる為に。
 秋斗に向ける感情は……侮蔑。
 それの何処が異常事態だ、と吐き捨てんばかりの苛立った表情。たった数瞬見ただけで彼は視線を切った。
 なんのことやあらん、読み通りだ、と。

 次に紫苑を眺めた。
 警戒したままの読み取りにくい表情の奥には、敵対心が僅かにあった。寄った眉からは心が痛んだことも読み取れる。

――自分達がしている事の意味を知ってるって顔だな。自責と罪悪感。そうかい……黄忠はやはりそっち側か。

 聞いた情報では劉備軍と懇意だという。なら籠絡は時間の問題、もしくはほぼ劉備陣営の一員ということ。
 それが分かればもう十分、と彼は横に視線を逸らす。

 後に厳顔を見た。
 そこで彼は、片目だけ細めて驚きを隠す。
 見つめる黄金の瞳が楽しげに揺れていた。次は何を言う? と問いかけるような挑戦的な目。秋斗の話と今の状況を楽しんでいるのは間違いないらしい。

――クク、お前さんは理解してるってわけだ。そんでもって黄忠と違いどっちつかず。流れに身を任せつつも自分のしたいことをしてやろう……そんな顔してやがるな。

 口元が緩みそうになるのを必死で抑えた。絡む視線、出来るだけ悪辣に見えるように口の端を持ち上げる。
 いいな、と小さく呟いた。

――お前みたいな人間がちゃんと居てくれて本当に助かるよ。俺が探していた否定意見は、確かにあるってこったなぁ。

 ふっと一息。反して自身の目的を胸の内に仕舞い込んだ。
 劉備軍の影響下であっても彼女のような人間が居る、その事実が欲しかった。目的の一つが達成されたから満足したように目を瞑り、一度だけ首を振って思考を切り替える。

 一応、と彼は星にも黒瞳を向かわせる。
 彼女はずっと彼を見ていたようで不思議そうに眉を寄せていた。
 じっと見つめてくる視線がむず痒い。彼女が黒麒麟の友だからだろうか、それとも記憶が無いことを看破されているのを恐れているのか。
 いや、と内心だけで否定する。
 きっと彼女の弾けるような笑顔を見てしまったから抑えが働いているのだ。負い目、といっていい。

 彼が想うただ一人の少女も、そんな笑顔を見せていたから。
 彼が想うただ一人の少女は、すぐ後に自分の発言によって絶望に堕ちたから。

 だからだろう。秋斗は彼女の瞳を見据えながら、“今の彼が持つ感情”を必死に隠した。淡い想いを覗いてしまっては、もう引き返せなくなる、と。
 目の前の女が見ているのは黒麒麟。“あの時”と同じ、自分では無い自分に向ける絶対の信頼と想念。

 彼が向けそうになった感情は、“孤独による寂寥”と“決意による思遣”


 相手は此処に自分という存在を必要としていない。
 相手は此処に自分という異物を認めていない。
 この世界に、黒麒麟以外の秋斗は必要ない……昔の秋斗を知るモノに会うたび、そう思う。

――それでいい。知らないままでいればいい。気遣いも、同情も、同調も、俺になんざ向けるべきじゃあ無い。

 だから不敵に、ただ意地を張って、苦笑と共に内側だけで言の葉を流した。

――まだ待ってろ、趙雲。お前の友を戦友にはしてやれねぇが、必ず返してやるからよ。

 ほんの一瞬。瞬きと共に消える一端。

―例え自分が泡沫の夢のように消えてしまおうと―

 思うことなく自己確認さえしない最後の一節は、口に出すことも、誰かに悟らせることも無い本心の一滴。

 今の彼にとって自身の存在など、これっぽっちも感心が無く。
 誰それと幸せになりたいだの、生きて幸福を掴みたいだの……そういったモノは他者に渇望として与えるだけで、自身の心にそんな想いは皆無であった。
 自分が消えるやも、と詠に言われても……胸に浮かぶのは納得の一言。消えるという確率に恐怖など感じない。予測していたことが現実に迫ったというだけなのだから。
 ただで消えてやるつもりは無く、可能性があるのなら抗い続けるのは当然のことだが……消失した場合の事象など、とっくに享受しているのだから。

 今の彼と似たようなモノがいる……否、“全く同じモノ”が居る。今の彼は、喪失の事実を知ったからこそ、やっとソレらと同じになれたのだ。

 信を置く主から“死に華を咲かせ”と命じられれば死地に飛び込んで散り行く……だからソレらは常に喪失を予測していた。
 愛しい家族から引き止められようと、そのモノ達の幸福を手に入れる為に死地を物ともせず戦場に突撃する……だからソレらは死という事実に恐怖など感じない。
 生きて幸福になれる可能性があるのなら抗い戦い続ける……だからそれらは決して諦めを持たず、同時に己の死が成った事象すら享受している。

 この時、黒の道化師は“黒麒麟”にはなれずとも、“黒麒麟の身体”とほぼ完全な同質になっていた。

 自身の変化には全く気付かず、秋斗は星から視線を切った。
 最後に見た表情は驚き。彼のそんな表情は初めて見たと言わんばかりの。深い思考の錯誤を与えられれば御の字で、思考の束縛という実利を得ただけで十分。

 劉備軍の様相は手に入っていた情報と統合すれば読み切れた。だから、と彼は思考を紡ぐ。

――此れなら、諸葛孔明と白馬の王が不在の劉備軍の今なら、掻き乱せるだろ。

 雛里と同程度の思考レベルを持つ相手が居らず、彼の中に眠る黒麒麟を呼び戻す可能性のあるもう一人の友が居ないのなら、描いた道筋を現実に敷くことを決める。

――もう此処にいる必要はない。此れから暫らく、お前さんには俺が準備する舞台で踊って貰おうか、劉玄徳。

 必要な手札は揃った。もう長居する意味も無し。
 詠から秋斗に視線を戻し、緊張した面持ちで瞳を合わせてくる桃香に向けて、秋斗は口を引き裂いた。

「この街が……お前の目指す理想の土台か?」

 投げたのは短い質問。拍子抜けするほどの短さではあるが、桃香にとっては大きすぎる意味を持つ問いかけであった。
 空気が変わる。桃香の纏う覇気が柔らかながらも重苦しく。瞳の奥に見つけた輝きは、彼女の意思の強さを表していた。

「ううん、まだ途中だよ。まだ、まだまだ……たっくさんの時間が必要なの。此処は平和に見えるけど平和じゃない。ちょっと突いたら壊れちゃうくらい、この街は私の目指す理想とは程遠いって分かってる」

 此処で首を縦に振るほど桃香はバカでは無い。
 足りない、と感じていた。平和に見えようと、この街はまだ改善点が多すぎた。秋斗に指摘されたことも含めて、また課題が増えてしまった。
 それでも良かった。一歩一歩進んでいると実感しているから。このまま変えていくと、決めていたから。

「劉璋の説得と懐柔に同調、部下及び関わる全ての人々との意思疎通や意思確認に政治機構の偏差調整、民心の安定に益州太守の明確化。他にも……いや、いいや違う。そんな小難しい言葉並べなくていいってこったな、お前さんにとっては」

 彼女の返答を意外とは思わない。そのままつらつらと自分が思いつく限りの懸念事項を上げて見るも、彼は途中で首を横に振る。

「一つ一つ笑顔を増やせばいい、きっとみんな分かってくれるから。だから皆の力を貸りて、こっちの方がきっといいよって話し合って変えていく……それが答えか」

 分かり易く、単純な解答が場に落ちた。
 まるで桃香の科白をそっくりそのまま複写したような答え。曖昧で、不明瞭で、されども目指すモノが見えている解答。

 ピタリと当てられたことに一寸驚き、桃香は何処か難しい顔をして悩みはじめる。

 彼が何を言いたいのか、いつでも分からないのに今回は余計に謎過ぎる。
 “倒さなくてはならない”と考えていた彼が、不敵ながらも自分の答えを分かった上で話している。
 なら……一歩だけ踏み込んで話してみることも必要なのではないか、しかしそれをしてもいいものかどうか。
 狙いは何かと疑ってもいながら、ほんの少しだけ希望的観測もしている。
 味方に戻ってくれるのなら、これほど嬉しいことは無いのだから。

 そういえばと思い返すのは、彼とは真剣な問答を大きな分岐点でいつでもしてきたこと。
 幽州の出会いで、虎牢関で、洛陽で、徐州で……彼はいつでも理想についてや目指すモノが何かを問いかけてきた。
 問いかけられ、答えを返し……そういう時の解答は決まってぼかされている。確たる彼の思考などほとんど言わず、桃香の答えに同意か否かを示し……

 “迷うなよ”、と。
 最後に付け足す言葉はいつでもソレだった。

 去り際に雛里は言っていた。
 覇王との敵対を選んでまで桃香と作る世界を信じていた、と。
 信じなかった事で彼を追い詰めたから、今度こそ彼を信じなければならないのではないか……そう考えてしまうのも詮無きかな。
 もしかしたら、彼は本当にまだ桃香のことを信じているのかもしれない、そんな淡い希望が胸に湧く。
 罪悪感は消えることは無い……が、迷いの迷路に嵌ることなく、信じなくてどうする、と自身を叱咤した。
 迷うことこそ、愚問だと。

 彼女に出来る事は、いつだって同じ。
 オーバーヒートギリギリまで思考を回し、彼女は下唇を噛みしめる。

「……うん、そうして私は街を、益州を変えていく。ううん……益州だけじゃない。出来ることならこの大陸の全部をこうやって変えて行きたい。戦いなんて、誰かに血を流させるのなんて、嫌だもん」
「へぇ……そうかい」

 ふっと漏らした吐息が突き放すように思えて、桃香は泣きそうに眉を顰めた。

「“秋斗さん”も……そうだよね?」

 見つめる視線の強さに気圧される。圧力は弱々しいながらも奥に輝く光の強さがあった。
 言葉に詰まったかのような静寂の中、彼から漂うのは困惑の気。

――そんな問いかけをこの時機でするなんて、しかも天然……やっぱりあんた達二人って相性悪過ぎるわよ。

 その問いかけは彼の心を抉り抜くモノだと、詠は誰よりも知っている。
 人を救いたいと願いながら剣を振る黒き大徳にとって、“戦いたくないのに戦っているのか”という問いかけは弾劾の刃に等しい。
 矛盾に突き刺さる正論からは逃げられない。矛盾している時点で、彼の理論は破綻しているのだから。
 思わず彼に心配を向けそうになった。しかし詠は、瞼を瞑ってただ耐える。

 黒麒麟を演じるのなら、この程度は切り返してみせろ、と。

 幾分、緩く彼が失笑を零す。自分に向けてか、相手に向けてか……どちらもだろうと詠は思った。

「……勘違いしてるな、お前さんは」

 心を内側に隠しながら、何を、と桃香が聴く前に、彼は楽しげに語り始める。まるで、黒麒麟のように。
 異質に変わった彼の纏う気が、嘗て洛陽の陣内で董卓の真実を明らかにされた時と同質に変わった。

「良く聞け。
 俺はな……描く平穏を手に入れるために必要ならば、敵がどんなモノであろうと……戦を起こし、血を流し、人を殺すぞ。
 どれだけの人間が平和を享受していようと、お前達が作り上げた和を掻き乱すことに躊躇いは持たない。
 俺がすることはいつだって変わらねぇ。血の華を、紅い華を、想いの華を……この乱世に咲かせるだけだ」

 流し目に息を呑んだのは誰か。桃香も愛紗も、理不尽に民が殺される世を憂いていた彼を見てきたから、その発言に思考が止まる。鈴々に至っては、敵対心を向けられて酷く傷ついた表情を浮かべた。
 やはり、と目を伏せたのは星。戦わずに済むなどと甘い認識は捨てている。

「お、お兄ちゃん……? り、鈴々達が暮らしてる街には、争いなんてないのに……鈴々達は、お兄ちゃんと一緒に、皆が暮らす街を平和にしてきたのに……一緒に作って来たのは、お兄ちゃんが作りたかった街のはずなのに……なんでっ、なんで戦う必要があるのだっ」

 苦しげな声、目の前で言われた言葉が嘘にしたいと滲み出ている潤んだ瞳。先ほどまで甘えて、幸せだと感じていたのに……今はその距離が遠すぎる。
 鈴々は信じていた。曹操軍に行ったとしても、行く先々で平和な街を作り上げてきたからこそ、共に在れるのだと。
 争いを望むようなモノではないから、ずっと同じように街を作ってきているから、彼と争う必要など無く……面と向かって話し合えば、“必ず目を覚ましてくれる”、と。

 無垢な彼女には難しいことは分からない。一緒に作り上げてきた事実こそが全て。
 ある意味で、子供特有の善性を持つが故に、妄信に染まらないまま桃香の理想を体現していたのは、彼女なのかもしれない。それならばやはり……彼とは相容れない。

「ま、前のことを怒ってるのか? お姉ちゃん達のこと、やっぱり許せないのか? なぁ、お兄ちゃんっ」

 教えてっ……叫び出しそうな小さな少女の懇願にも、彼は笑みを崩さずに目を細めただけ。

――ゆえゆえの平穏を崩したお前らが、えーりんの前でそれを言いやがるのか。
 俺はお前らに黒麒麟が言い聞かせたはずの……黒麒麟が貫き、劉備軍にそうあれかしと願った道を口に出してるだけだってのに。

 激情などない。矛盾をわざわざ突いてやることもしない。彼はただ、矛盾に理解を置きながら自分を貫き通すだけ……黒麒麟と同じように。

 愛紗と桃香の瞳に後悔が浮かぶ。あの時のことが理由の一つなのだろうと思うが故に。
 しかし……秋斗の次の言葉で……絶句した。

「怒る? 許さない? 俺が? “黒麒麟が”? “たかだか主に信を向けられなかった程度”でか? あははっ、ふざけろ……あははははっ」

 渇いた声、渦巻く黒瞳が真っ直ぐに桃香を捉えて離さない。心底可笑しいと笑い声を上げる彼は、見下しも侮蔑も浮かべない。心の渇きをそのまま出したような笑いだった。
 鈴々のことを見もせずに、彼は黒麒麟を絶望に堕とした王に笑い掛ける。

「クク……怒ることなんざしないね。許すも許さないも無いさ。んなことには全く興味が無い。これっぽっちも気にしてないんだよ。
 只々“俺”は、思い描く平穏の為に必要だと思うから、“今の劉備軍”が作り上げる平和を壊したいって言ってんだ」
「う、嘘なのだ……」
「俺がすることは終わりを迎えるまで変わらない。善人だろうが悪人だろうが踏み潰す。その対象がお前らじゃないなんて……随分とお花畑な頭してやがるなぁ、おい」
「嘘っ! 嘘なのだ! だって、だってお兄ちゃんは――」
「ほんとだよ。なぁ……」

 えーりん、と小さく唇が動く。
 詠本人は彼の言動に驚き見つめてしまっていた為に、その動きを捉えられた。つ、と頬に流れる一筋の汗さえ気にせず、彼が自分に何を言わんとしているのか意識を尖らせる。

「俺が……“黒麒麟が”この軍に戻っていないのがその証明だ。最初の最初から劉玄徳の思い描く未来を共に作ろうと決めていたなら、とっくの昔にお前さん達の所に戻ってる。
 いや……始めっから曹操軍所属なんて事態には発展しなくて、“あの時”、劉備軍を離れるわけが無い。
 怪我して離れてたってのもあるが、治れば戻る機会なんざいくらでもあったし、あの官渡の戦いで曹操軍を壊すことだって出来たんだが? 曹操、袁紹両勢力に大打撃を与える準備だって、“俺の同類”の紅揚羽と田豊のおかげで整ってたんだからよ」

 真に迫るモノ言いは、彼女達を悲哀に染め上げる。彼が言うからこそ真実として受け取られ、彼が言うからこそ事実として刻まれていく。

――うん……そうよ。黒麒麟が劉玄徳と共に生きれるような甘い人間だったなら、壊れることなんて絶対に無かった。
 バカ共の想いを引き連れてなんか居なかったら、あんたはきっと、劉備軍で普通の武将として生き抜けた。
 “劉玄徳と共に戦う黒麒麟”なら、官渡で曹操軍と袁紹軍を追い詰められた。

 有り得るはずの無い“もしも”のカタチ。
 桃香と同じ夢を見れる男であったなら、兵士と同じような戦いをしない只の将であったなら……桃香の一番の理解者になれたはず。
 不和を恐れず口を出し、彼女に妄信せず人を狂気に落とさず、ただ目の前の民を救いたいと願うような……そんな男で居られたのだろう。

 詠に伝えたかったのは事実と主観。
 彼が判断した黒麒麟の行く末と嘗ての心。

 劉玄徳と黒麒麟は決して道を交えることは無く、始まりの出会いからずっと相容れない関係であったのだ、と。
 雛里が、詠が、月が感じていた事を“同じ思考を積み上げられる存在”の口から聞けば、彼女達にとってこれほど大きな判断材料は無い。

 そして桃香達にそれを伝えたということは、秋斗が黒麒麟の歪んだ信頼の理由を看破していると、詠にだけ分かるよう教え……ソレを看破しているからこそ、この場では“曹孟徳と共に戦う黒麒麟”を演じ切れると宣言しているのだ。

「まあ……いいか。今更こんな話をしても意味は無い。
 とにかく、だ。俺はあっちで平穏を作るって決めてんだ。俺と同じ世界を目指してる“華琳”とな」

 ジクリ、と心が痛んだのは誰か。
 彼が親しげに真名を呼んでいる。誰の名を? 彼女達が聞いたことのある者の名を。
 桃香と愛紗と鈴々が歯を噛みしめた。黄巾の時、曹操軍の重鎮達が呼ぶ声を聞いていたから真名は知っている。

 仲間だったモノが別の王の真名を呼び、共に平穏を作りたいと口にする。
 それは嘗てあった自分達への信頼も、昔感じた自分達への共感も、何もかもを無価値だったと断じられるに似た衝撃的な言の葉だった。

 雛里のように憎しみに染まっていたならまだ理解出来た。憎悪や怨嗟を向けるということは、拒絶という行動で彼女達を見ているから。

「……あなたは、曹操さんと一緒に戦うことを決めた。だから私達と戦う。そういうこと、なんだね」

 どうにか立ち直った桃香が確認として口に出す。
 悲哀と覚悟を浮かべた彼女は、心の芯をぶれさせることは無かった。
 黒麒麟が敵になったという事実を、確かに取り込んだのだ。

――クク、何を終わった気になってやがる。黒麒麟はな……お前と逆接な、黒き大徳なんだぞ。

 話し合いは哀しい結果で終わったと、桃香は感じていただろう。やはり戦うしかないのだと、覚悟を高めているのだろう。
 そんな桃香とは違い、彼にとってはまだやることが残っている。

 人の心を読み取り、人の心の弱点を看破し、人の心を捻じ曲げ続けてきた黒麒麟が、“この程度”で終わるはずがあろうか。
 相手が仁徳の君であろうと、黒麒麟が行うことは変わらない。

 穏やかな表情の彼が口を開くと同時に桃香は……思考も感情も、全てが凍結した。

「それだけ分かってくれたら結構。
 だからまぁ、お前さんの理想にはもう……興味が無いんだ」

 静寂。
 口に出されたのはなんでもない言い分。
 侮辱でも、怨嗟でも、同調でも、肯定でも、否定でも無い……ただの“思っていること”。

 向けられたのが愛紗であっても、鈴々であっても、星であっても、他の誰であっても何も感じない。怒りか、当然と感じることはあろうと、心には何も痛みを伴わない。

「……っ」

 しかし普通の口調で、なんでもない事のように言われるからこそ、桃香の心を深く抉り取る。
 目を見開き、絶句し、彼女は息をすることも出来なくなった。

 昔語った理想。共に目指した理想。見つめ直す機会を貰った理想。友を切り捨てる選択をしてまで優先した理想。
 それに対して……興味が無い、と彼は言った。

 彼が向けるのは感情的なモノでは無い。無感情で無機質な事実確認であった。
 お前の理想には興味が無い……とは、初めから存在しなかったと同義であり、どうでもいい出来事に成り下がったということ
 思い出も、其処にあったはずの想いも、全てが無駄だったと断じる……想いを繋ぐ続ける黒麒麟にあるまじき行い。

 手を繋ぐ……よく桃香が口にする言葉だが、それは相手を認識して初めて行われる行動。
 どうでもいいということは、桃香の理想を見てすらいない。認識してすらいない。桃香の理想に期待も持たず、失敗しようが成功しようが認識しない。

 彼の記憶喪失を知らない桃香にとって、それは雛里が向けた全否定よりも鋭い刃となった。
 自分の理想を知った上で、目指した上で興味を失った……それは失望よりももっと残酷な、無関心という現実。徐公明という嘗ての劉備軍の支柱的存在に直接伝えられたからこそ、想いを繋げと兵士を引っ張ってきた黒麒麟に言われるからこそ、彼女に与える感情の振れ幅は大きい。

 知らぬ内にそっと背中を推してくれていたと知った時、桃香はどれほどの安心感に包まれたことだろう。
 気付かぬ自身の代わりに怨嗟を受けていたと知った時、桃香はどれほど不甲斐無さに懺悔を零したことだろう。
 大切な友を切り捨ててまで自分が説いた理想を彼が選んだ時、桃香はどれほど感謝し、謝罪したことだろう。

――嗚呼……

 近くに感じていたモノが、するりと掌から抜けて行く。
 直接叩きつけられる明確な拒絶であれば、まだ呑み込み、抗おうと出来ただろう。雛里の時のように、自らの意思を伝えることが叶っただろう。

 だがしかし、正しく彼女は、どうしていいか分からなくなった。
 焦点を必死で彼の瞳に合わせて、桃香はどうにか掠れた声を振り絞る。

「……あ、あの時あなたは、私が描く未来は、必ず作れるって……言った」

 やっと絞り出したのは、過去に肯定された事実だった。
 それを認められれば、まだ自分を失わずに済むから、と。

 彼には記憶が無い。どの時、どんな話の中で言ったかなど分からない。
 故に、彼は只々……呆れたようなため息と共に、己の感情を表すだけ。子供を諭すような視線を向けて、秋斗は穏やかに微笑んだ。

「クク、作れるだろうよ。いつかはお前の望む未来になるだろう。
 これで満足か?」

 肯定はされた。随分と、おざなりに。ナニカ言葉が続くと思っていた桃香は、たったそれだけの返答にまた息が詰まった。

 弾劾を口にしてくれたら良かった。
 怨嗟を向けてくれたら良かった。
 憤慨を突き刺してくれたら良かった。

 その方がまだ救いがある。過去の自分の失態を再確認し、前に進めるのだから。
 無関心で無機質、どうでもいいモノへの扱いは、彼女の理想を根幹から揺るがし、歩む道を暗闇に閉ざす最悪の切り替えし。
 共に戦ったという事実があるからこそ、彼の放った冷たい刃は桃香の心を切り刻んだ。

 桃香の瞳は、もう彼に焦点を合わせられない。

――やめて……

 じわじわと滲む感情は恐怖というより空白で、

――あなたが、私とは違う世界を目指すと言ったあなたが、そんな簡単に、肯定しないで……

 心に飛来したモノは無く、ぽっかりと胸に穴を開けるだけの、

――どうでもいいって、言わないで……

 僅かなナニカすら得られない、反抗さえ無駄だと分かるほどに虚しい、虚無。

 彼が取ったのは悪感情のどれとも違う。
 否定の感情であったならある意味で道しるべ。
 “其処が許せない”、ということは何処かは許せて、どうにかすれば許せるということだ。

 しかし彼の向けた無関心という現実は、成長を促すことも、歩み寄りを許すことも無い冷たい冷たい関係性。

 伸ばした手が届かない。
 誰かと共に手を繋ごうとしても、別の誰かが間に入ることで繋がったとしても……繋がったと思っているのは自分だけで、彼だけは別の世界に居るかのように繋がることは無い。

 一方通行では桃香の描く未来は成り立たない。
 相互関係が無いのなら、いくら自身が繋がれたと喚こうと、彼女の手は届いていない。
 伸ばしても伸ばしても繋がらない手。
 目を向けることも無く、存在すら認識せず、たった一人だけ……桃香からは見えているはずなのに、彼女の作る世界の外に居て、彼の側からは見て貰えない。

 否定でも肯定でもない、どうすることも出来ない無関心の隔絶こそ、桃香の理想を追い詰める。
 話を聞かれることがなければ、桃香の理想など初めから無いに等しいのだから。

 桃香の望みを叶える為の答えは簡単だ。軍師でなくとも理解出来る。
 興味を惹けばいい。ただそれだけだ。それなのに、たったそれだけが……桃香には出来ない。言葉も、武力も、魅力も、想いも……何も意味を為さず。
 心に踏み入っても、踏み入った気になっているだけで、結果の認識は全て彼の心持ち一つでしかない。

 口で興味を持ったと言われても、桃香が毛先ほどの疑いを持つだけで繋がったことにはならず、
 変わってくれたと桃香が信じるだけでは自己満足に過ぎず、心という不明瞭なモノを確かめる術は、この世に一つもない。
 矛盾の事柄を解き明かすことは誰にも出来ないのだから。

 “他者を信じる”という桃香が持つ力は……黒き大徳の前でだけは全くの無意味となった。

「ぁ……ぁぅ……」

 座したままで胸を押さえた桃香は、声にならない声を紡いだ。
 吐く息は短い。瞳の中に入れていた輝きが翳りを見せた。いつでも、どんな時でも失われなかった光が弱くなる。

「と、桃香様っ」

 茫然自失に陥り、ずるりと力無く倒れそうになった彼女を支えられるモノは、彼のことを知らないモノばかり。
 愛紗も鈴々も桃香を支えることなど出来ず、悲痛に身を震わせるしか無かった。彼が敵となった事実は、彼女達にも痛いを与えているのだから。

 近しかったモノが敵になるでなく、近しかったモノが他人になる。
 悪でも善でも無いその出来事は、手を繋ごうと願う彼女を空虚に染める逆接事項。
 もう一度と願うことも封殺する程の、虚しく寂しく冷たい現実。

――否定してもいいから……私を、ちゃんと見て……秋斗さん……

 言葉に浮かぶことさえ無かったか細い願いは、虚無に取り込まれた桃香の心の中にふっと消える。

 黒の道化師は……雛里達三人と徐晃隊が心に受けた傷を、言の葉の刃を以って大徳に刻み込んだ。





 †





「聴こえてることを願うよ、劉玄徳。
 俺はお前の理想を否定しない、肯定もしない。興味がないからどうでもいい。
 ただ……俺が此れから見せるのは泡沫の夢では無く、お前の理想の行く末で、いつか起こり得る未来の姿。お前が武力を翳さずに平和を作ろうとしてるから、俺は武力を用いずにその平和を壊してみせよう。
 抗いたいなら抗え、全てが台無しにされる前に俺を止めてみせるがいい」

 謎かけのような言葉の意味を正しく知るモノは詠ただ一人。
 ソレを宣戦布告と呼ぶには、余りに不明瞭に過ぎた。

 彼は、もう用は無い、と、秋斗が行う心理掌握の恐ろしさに怯えを浮かべた詠の手を取って立ち上がらせ、理解の及んでいないモノ達を見回して瞼を降ろす。
 片方の手で懐を探り、机の上に一通の書簡を優しく留めた。

 拳を包んだ一礼をする彼は、既に黒麒麟を演じておらず。公式の場での徐公明が、其処に居るだけ。

「劉益州の元に使者としての謁見を望む嘆願書にございます。私の旧知であり、劉益州と親交の深い劉備殿に仲介して頂くことが正式な手続きと思い、此度は此処に参った次第です」

 彼が顔を上げる前、咄嗟に動いたのは誰か。
 紫苑と厳顔が同時に、焔耶が遅れて声を上げようとした。
 大方、数々の非礼な言動と、侵略示唆に対する言及と言った所であろう。しかし彼女達が声を発するより速く、彼が方頬を吊り上げていた。

「お、お兄ちゃん待つのだっ」
「待ってくれ、秋斗殿」

 同時に声を上げたのは二人。きっと、此処で引き止めると思っていた。彼の笑みはそういう笑み。
 顔を上げた先で目に入ったのは、泣きそうになりながら唇を噛みしめる鈴々と、悲哀と疑念を向ける星。
 交互に瞳を覗いた後で、彼はくるりと背を向けて手を振った。

「俺はもうお前らの知ってる黒麒麟じゃないんだ。力付くで引き止めるなら、曹操軍の使者として相応の対処をさせて貰う。質問に答えてやる理由もない」

 殺すことは出来るだろう。縛り付けることも武器を持っていない彼相手なら容易い。しかし、使者として、と言われた以上は彼女達に為す術はない。
 あくまで先程までの『話し合い』は旧交を深めていただけで、嘆願書を届けた今となっては正式な使者としての体を為している。

 食客が使者を拘束したとなれば、曹操軍が益州を攻める理由が出来上がってしまう。
 尚も引き止めようとした鈴々を、彼が付きつけた政治的理由を理解した星が止める。もはや食客の部下如きである自分達に出来ることは、何も無いのだ、と。

 昨日のあの時間は幻想か夢か。確かにあった瞬刻の暖かい時間が甦る。昔のように、あの時だけは昔のままだったのに……と。

 それでも、彼女は覚悟を決めていたから迷わず不敵に笑う……もの悲しさと寂しさをひた隠して。

「なんともつれない……まあ、それもまた、あなたらしいかもしれませんな」
「……そうかい。
 ならそうさな、“俺らしい”って言ってくれるお前さんの為に、お茶とお菓子の礼を残しておこう」

 ピタリ、と脚を止めた彼は、振り返ることなく言の葉を綴る。
 黒い外套がはらりと揺れた。その背中の小ささに、星は思わず駆けてしまいそうになるも踏みとどまった。

「……白馬の王と伏したる竜を呼び戻せ。俺をお前達の知ってる黒麒麟に戻したいのなら」

 聞く者によって意味の変わる言の葉は、星と詠、それぞれに送られる。

 詠には……黒麒麟に戻るか否か、今度は詠の助力前提でもう一度確かめる為にと正解を与える。
 星には……自分達の仲間に戻したいのなら、劉備軍の全力で諦めさせてみせろと、正しい誤解を与えた。

「その忠告、受け取っておく。終わった後の酒は勿論……あなたのおごりでしょう?」
「……ああ、“店長の店で”」
「なら休暇の申請をしておこう。我らが家は此処から遠いですし」

 それだけ聞ければ彼女としてもこれ以上引き止める理由は無い。
 後はもう、知恵であろうと武力であろうと、彼を敗北させた上で白蓮の元に引っ張って来るだけなのだから。
 最後に、彼の背に向けて彼女は微笑む。歩き出す前に、と。

「ああ、そうだ……。
 いってらっしゃい、秋斗殿」

 答える事は無いだろう。分かっていても、その言葉を贈りたかった。家だけはいつでも変わらないと伝えたくて。
 劉備軍ではなく、彼の帰る家は……たった一つ。
 白馬の王の居る場所だけに。

 一歩踏み出す秋斗はやはり振り返らずに……寂しそうな声を宙に溶かした。

「はは……敵わねぇなぁ」

 “二人の身体”を両脇に侍らせた折、パタリ、と扉が閉まる。静寂がその場に絶対者の如く居座った。
 黒の消えた空間は一色に染まらず、それぞれが感じるモノしか残されていない。
 数多の色を混ぜ合わせれば黒になることは、誰も知らない方がいい。

 空虚に溺れた桃香。
 寂寥に支配された愛紗。
 否定に意思を固める鈴々。
 疑惑に潜り込む藍々。
 困惑に苦しむ紫苑。
 享楽に期待を向ける厳顔。
 憤慨に憑りつかれた焔耶。

 そして……懐古に留まった星。

 答えを見つけられるモノなど誰も居ない。
 誰も彼もが騙された。黒麒麟のマガイモノの演目を見抜けるモノなど居なかった。

 形作られ始めていた“彼女達の平和”は、黒き大徳によって一日の内に壊され……黒の道化師が踊る乱世の舞台上へと引き摺り込まれることとなった。
 
 

 
後書き
読んで頂きありがとうございます。
後書きにて補足を。

桃香さんを追い詰める方法を考えた結果、こんな事に。
否定されても抗う彼女を追い詰めるには「失望を伴わない無関心」ほど傷つくことは無いかと。

愛し合っていた恋人から突然「興味がなくなった」と一方的な別れを突き付けられる感覚が一番近いでしょうか。

自身ではどうしようもない人物に直面し、周りのモノの助力でさえそのモノ興味を引けない現実を突き付けられれば、彼女の根幹は揺らがせる……と解釈してみました。

本当に桃香さんって難しいですね。
話し合いについては「まだだ、まだ終わらんよ……」って感じが出せていましたら幸いです。



益州が大変なことになるようです。


次はお留守番してた子のお話。

ではまた 
ページ上へ戻る
ツイートする
 

感想を書く

この話の感想を書きましょう!




 
 
全て感想を見る:感想一覧