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後ろにいる影

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後ろにいる影

                 後ろにいる影
 その日僕は学校からの帰り道の駅の前にあるバーで飲んでいた。金もあったし気が向いたので立ち寄ったのだ。
 この店には前にも何回か来たことがある。カクテルが上手い。洒落た内装も好きだった。何処か禁酒時代のアメリカを思わせる内装だった。
 僕はそこでスクリュードライバーを飲んでいた。ウォッカはストレートではとても飲めないがこれなら飲めた。飲みながら何を考えていたわけではない。ただ飲んでいただけであった。
「お客さん」
 ここでマスターが声をかけてきた。お洒落な口髭を生やし髪をオールバックにしている。蝶ネクタイがよく似合う小粋でダンディなマスターだった。バーテンも兼ねている。
「何ですか」
 僕はマスターの声に顔をあげた。
「降るみたいですよ」
「雨がですか」
「ええ」
 すると暫くして雨が降る音がしてきた。あまり強くはないらしくしとしととしたものであった。
「ここへ来るまでは晴れていたのに」
 いきなり降りだした。よくあることとはいえあまりいい気はしなかった。
「降ると思っていましたよ」
 だがマスターはこう言った。
「どうしてわかったんですか」
「いやね」
 彼は笑いながら答えた。
「ここが疼きまして」
 そしてそう言いながら自分の右の手首を指差した。
「若い時バイクでやっちゃったんですよ」
「それは」
「それから雨が降るようになると疼くようになったんです。嫌なものですよ」
「でしょうね」
 骨折した経験はないがそうした話は聞く。これが古傷というものか。
「それでおわかりになられたのですか」
「はい」
 彼は答えた。
「おかげでお客さんの入りもわかるようになりました。雨の日はね」
「どうしても少なくなる」
「ええ」
 頷いた。
「まあ今日は貴方がいるからいいですよ。来てくれたらとことんまで飲んでくれますし」
「嬉しいですか?」
「商売としては。ただお酒の味をわかってくれてるのかなあ、と思います」
「それは」
 何故か聞きたくなった。そして問うた。
「どういうことですか」
「いつもとことんまで飲まれますよね」
「ええ」
 酒は好きだ。特にワインは好きだ。飲むとなればもう酩酊するまで飲む主義だ。明日のことは知ったことではないという程に。それも飲み方の一つだと思っている。
「それがねえ。私はどうも」
「駄目でしょうか」
「商売としてはどうぞなのです」
「はあ」
「ですがお酒を楽しむとなると。あくまでこれは私の考えですけれどね」
「はい」
「お酒はじっくりと楽しんでもよいのですよ。まあ人それぞれなんですけれど」
「僕はとにかく飲みたいですからね」
 僕はそう答えた。
「どうも飲むのと酔うのが好きで」
「気持ちが楽しくなるのは事実ですね」
「はい」
「それはそれでいいですよ。ただ大人の飲み方も知ってくれたらなあ、と。どうでしょうか」
「今はちょっと」
 もしかするとこうした店には本質的に向かないのではないかとふと思った。
「やっぱり飲みたいです」
「お若いですからね」
「甘えさせてもらうとそうなります。けれどお酒の味はわかっているつもりですよ」
「そうでしょうか」
「それじゃあ」
 ここでスクリュードライバーをあけた。それから注文した。
「ジントニックを」
「わかりました」
 マスターはそれを受けてカクテルを作りはじめた。見事な手つきでそれを作っていく。すぐに僕の前にカクテルが一つ出された。
「どうぞ」
「はい」
 無色で透明の透き通った感じのカクテルが目の前に出て来た。僕はそれをゆっくりと手にとった。
 そして口につける。口の中に炭酸の刺激とライムの酸味が漂う。それがたまらなかった。
「どうですか」
「いやあ」
 僕はカクテルから口を離してそれに答えた。
「いいですね。何か口の中がすっきりします」
「それはよかった」
 マスターはそれを聞いて顔を綻ばせた。
「このカクテルはちょっといつもとは作り方を変えたのですよ」
「といいますと」
「レモンを多くしました。普段より酸味が強いでしょう?」
「ううん」
 残念だがそこまではわからなかった。そもそもそうそうジントニックばかり飲んでいるわけではない。言われてみればそうかな、という程度の実感しかわかなかった。
「そうですかね」
「おやおや」
 マスターはそれを聞いて少し呆れた声を漏らした。
「おわかりになりませんか。この繊細な工夫が」
「すいません」
「まあいいですよ。おわかりになられる日が来ます」
「はあ」
「まあ飲んで下さい。どうせ今日は貴方の他は来られないでしょうし」
 だがそれは外れた。マスターもお酒のこと以外は案外読みを外すものらしい。
「どうも」
 扉が開いた。そしてそこから一人の男が入って来た。
「いらっしゃい」
 マスターはその男に声をかけた。男はボルサリーノにトレンチコートを着ていた。何かこの店にやけに合った服装の男だと思った。それ以上に妙な事に気付いた。
「傘でも差していたようには見えないが」
 どうやら傘もレインコートもないようだ。この店の傘置きは入ったところのすぐ横にある。だが彼はそこには目もくれなかったからである。
 だが彼は全く濡れてはいなかった。それが不思議で仕方なかった。どういうことかと思った。
「あの」
 考えていると彼は僕に声をかけてきた。
「何でしょうか」
「隣、あいていますか」
 そんなことか、と思った。とりあえず彼には素直に答えることにした。
「ええ」
「それじゃあ」
 彼はそれを受けて横に座ってきた。僕達はカウンターで三人になった。彼は席に着くと後ろをチラリ、と見た。
「まだ来ていないな」
 彼は後ろに何もいないのを見ると安心したように言った。それが僕にはまたえらく不思議だった。
「あの」
 あまりにも気になったので声をかけた。
「何かあるのですか?」
「といいますと」
 彼はそれを受けて僕に声をかけてきた。みればわりかし端整な顔立ちの壮年の男性であった。しかし皺が異様に多かった。髪も白いものが混じり硬い質のその髪に霜の様にあった。そしてその髪も何処か精彩がなかった。彼は黒い目を僕に向けてきた。
「いえ、後ろを気にかけておられるので」
「何かあるんですか」
 マスターも尋ねてきた。それだけこの人の様子は何処か妙に思わざるを得なかったのだ。
「ええ、ちょっとね」
 彼は暗い顔をして僕達に応えた。
「事情がありまして」
「事情が」
「はい」
 彼は答えた。
「私はちょっと追われる身でして」
「追われているのですか」
「ええ。それも厄介なのに」
「厄介なの、ですか」
 マスターはそれを聞いて少し気付いたようであった。
「警察とかそういったものではないようですね」
「はい。警察ならどれだけよかったことか」
 彼はそう言った。僕はそれを聞いてやはり妙に感じた。警察ですらそう言えるとは一体何か。
 どうやら罪を犯したわけでもないようだ。少なくとも警察に追われていないということはそうなのだろう。僕はそれを聞いて興味を抱かずにはいられなかった。
「もし」
 僕はあらためて尋ねた。
「一体誰に追われているのですか」
「それは」
 彼はそれを離そうとしなかった。顔をややそむけて答えるのを拒否してきた。
「ちょっと言えないです。貴方達に迷惑がかかりますから」
「迷惑ですか」
 マスターはそれを聞いて困った顔をした。
「御客様、この店は来る者は拒まず、です」
 それがこの店の流儀であった。このマスターは酒が好きな者なら誰でも喜んで迎え入れる人なのである。
「そして私はこの店に入って来られた方なら誰でも御守りします。それが私の流儀です」
「貴方の流儀、ですか」
「はい」
 マスターは答えた。
「ですから御安心下さい。何かあれば安全な場所まで案内致しますので」
「そう言って頂けると有り難いですけれどね」
 それでも何か不安なようであった。
「相手が相手ですから」
「本当に誰なんですか?」
 ここまでくると本当に聞きたくて仕方がなくなった。僕はまた問うた。
「よかったら教えて下さい、本当に」
「いいのですね?」
 彼は僕に目を向けて問うてきた。とてつもなく暗い目であった。
「うっ」
 僕はその目を見て一瞬怯んだ。だがそれでも答えた。
「お願いします」
「わかりました。それでは貴方は」
 今度はマスターに尋ねてきた。マスターにもおそらくその暗い目を向けているのだろう。いつもは落ち着いたマスターも戸惑っていた。だがマスターも答えた。
「わかりました。お願いします」
「それでは」
 彼はそれを受けて話をはいzめることにしたゆっくりと口を開いた。
「私は以前考古学者をしていました」
「考古学者ですか」
「はい」
 僕の言葉に対して頷いた。
「専門は日本の。まあ古代の土器なんかを発掘しておりました」
「あれは中々面白いそうですね」
「ええ」
 彼は僕の言葉を聞いていささか機嫌をよくしてそれに応えてくれた。
「楽しい仕事でしたよ。色々なものも見つかりますし」
「そうですか」
 見ればその目が僅かだが輝いていた。その仕事が本当に好きだったらしい。
「それが楽しくてね。やっていたのですよ」
「ふむ」
 マスターはそれを聞きながら彼の前にカクテルを一つ差し出した。青いカクテルであった。
「これは私のおごりです」
「どうも」
「マスター、僕には?」
「貴方はいつも通りです」
「ちぇっ」
 そう言いながらも僕は彼のものと同じ青いカクテルを注文した。そしてそれを手にして口に入れた。彼もそれを手にしていた。
「それでですね」
「はい」
 僕達は彼の話に戻った。
「文献を調べているうちに面白い遺跡を見つけたのです」
「遺跡ですか」
「ええ。それは古墳でした。その地方の高貴な血筋の者の古墳だったようです」
「豪族とかそういったものですね」
「それはどうでしょうか」
 だが彼は僕のその言葉に否定的な素振りを見せた。
「違うのですか?普通古墳といえば」
「普通はそうですね」
 彼は暗い声でそう答えた。
「私も最初はそう思っていました。また豪族か誰かの古墳なのだろうと」
「違ったのですか」
「そうであったらどれだけよかったか」
 その声が暗さを増した。
「本当に今でもそう思います」
「それでどうしたのですか?」
「古墳のことでしょうか」
「ええ」 
 他に何があるのだろうと思った。どうもこの人の素振りはおかしい。何かあるとしか思えない。
「よかったらそれをお話して欲しいのですが」
「わかりました」
 さっきと同じやりとりである。だが何か僕は開いてはいけない門をまた一つ開けたような気になった。この時カクテルの中の氷が割れる音がした。その音が店の中に響く。
「古墳はね、ある村の外れになりました。本当に誰からも忘れられるような場所に」
「離れた場所に、ですか」
「ええ。民家から離れて。まるで意図的に離れているかのようでした」
 無気味さを感じずにはいられなかった。それはどういうことであろうか。
 古墳は場所を選ばないというか何処にあるのかわからないものだ。気付かないうちにその上に家を建ててしまうことすらある。家を建てようとしたらそこに古墳が出て来て建てられなくなってしまったという話もある。
「それでも私は掘りました。助手達を連れて」
「はい」
「文献を見ながら何日かかけて。そして遂にその陵墓を見つけたのです」
 その中にこそ遺跡が多量にあるのである。副葬品は重要な遺跡であった。
「私はそれを見てやった、と思いました。そのすぐ後までは」
「何かあったのですか?」
 僕もマスターもそれに問うた。
「ええ。陵墓の前に文字があったのです」
「あの」
 僕はそれを聞いて妙なことに気付いた。
「古墳に文字、ですか」
「はい」
 彼は答えた。
「あの時代に文字はなかった筈ですが。ましてや古墳に使われているなんて」
「それは中国の文字でした」
「中国の」
「ええ。当時の漢字を使って。それなら納得して頂けるでしょうか」
「ううむ」
 それでも妙に感じずにはいられなかった。何故古墳に文字があったのだろう。
「それは封魔の文字でした」
「封魔の」
「はい。ここに魔物を封じてある、と。そう書かれていました」
「それではその古墳は魔物を封じていたとでもいうのでしょうか」
「その通りです」
 答える彼の声がさらに暗くなった。
「あの時それを真面目に受け取るべきでした」
 声に後悔が滲んできた。
「本当にそう思います」
 そう言いながら彼はここで後ろをまた見た。
「もう少し時間がありますね」
 そしてこう述べた。やはり何かあるようだ。何故後ろをそこまで気にするのかはわからなかったが。
「私はその時それを見ても何も思いませんでした」
「そうなのですか」
「いえ、それを一笑に伏しました。ほら、ツタンカーメンのお話がありますね」
「ええ」
 僕もマスターもその話は知っていた。
「ファラオの呪いでしたよね。けれどあれは」
「ええ。実際は単なる偶然でしょう。そんなことを言っていたら考古学はできませんから」
「でしょうね」
 古墳にしろピラミッドにしろ墓である。墓を暴くのが駄目ならばそんなことは一切できはしないだろう。
「それはわかります」
「はい」
 彼はそれを受けてまた話を続けた。
「それでですね」
「ええ」
「私はそれを馬鹿にしまして。中に入りました」
「お一人でですか?」
「助手達と一緒にです」
 彼は答えた。
「その中は陵墓でした。副葬品がすぐに目に入ってきました」
「どんなものがありました?」
「鏡やそういったものです。どれも中国からのものでした。そして棺の前にはまたあの文がありました」
「漢文で」
「そうです。やはり警告でした。何かを封じているような。けれど私はそれをまた笑いました」
「あの」
 そこで僕は気になっていたことを問うた。
「こうしたことは考古学においてはよくあることですか?」
「そうですね」
 彼は考えながら答えた。
「あまりないかも知れません。少なくとも私ははじめてでした」
「そうですか」
「はい。それでですね」
「はい」
 また話が戻った。
「私は棺を開けました。そしてその中を覗きました」
「誰が葬られていましたか?」
「鬼でした」
 彼はそこで沈んだ声でそう答えた。
「鬼?」
「はい」
 彼は頷いた。
「鬼がそこにいたのです」
「鬼といいますと」
 マスターがそれを聞いて彼に問うた。
「あれですよね。角が生えて金棒を持っている」
「あの鬼ではありません」
 彼は首を横に振った。
「あれ、鬼はあれだけじゃないんですか?」
「点鬼簿というものを御存知ですか」
「ええと」
 僕はそれを聞いてとあるものを思い出した。
「確か芥川龍之介の小説にあったような」
 末期の作品だっただろうか。当時の芥川の異常な精神状況の中で書かれた作品でありかなり暗鬱な作品だったと記憶している。彼の自殺する前の作品は暗鬱なものか狂気を感じさせるものかの二種類しかないように思える。
「そうです。あれは一言で言うと閻魔帳という意味です」
「そうだったのですか」
 忘れてしまっていた。僕はそれを聞いて思い出した。
「それで死んだ人のことを鬼籍に入ったといいますね」
「ええ」
「これは元々中国の言葉なのです」
「中国の」
「中国では霊のことを鬼というのですよ」
「ああ、確かそうでしたね」
 僕はそれを聞いてようやく思い出した。
「あちらではそれで色々と話がありますね」
「御存知でしたか」
「というか思い出しました」
「ならこれでお話がし易くなりましたね」
 彼はそれを受けてこう述べた。
「それでその鬼ですが」
「はい」
「そこには鬼がいたのです」
「死人という意味ではなく」
「はい」
 彼は答えた。
「そこには鬼がいたのです。そしてそれが」
 彼の声が震えてきた。
「私達に襲い掛かってきたのです。姿を見た者を生かしておくわけにはいかない、と」
「あの」
 ここで僕はまた尋ねたくなった。
「今貴方はここにおられますよね」
「はい」
「その場は助かったのですよね」
「ええ。その場は何とか逃げました。私も助手達も」
「よかったじゃないですか」
「その時はね」
 マスターの言葉に力なくそう答えた。
「本当に。その時だけでした」
 声がさらに暗いものとなった。
「私達はその場から逃げ去りました。それで難を逃れたと思ったのですが」
 カクテルを握る手が震えていた。恐怖からくるものであることは明らかであった。
「数日後助手が一人死にました。自分のアパートで」
「急に、ですか」
「はい。友人が訪ねたら死んでいたそうです。恐怖で顔を凍りつかせて」
「何かあったのですね」
「おそらくは。そして次の日には助手がもう一人。今度は夜の公園のベンチで。やはり恐怖で凍りついた顔でした」
「二人も、ですか。僅かの間に」
「ええ」
 彼の声まで震えてきた。
「そして次の日にはまた一人。今度は私の研究室ででした」
「研究室で、ですか」
「はい。私が部屋に入った時彼はまだ何とか生きていました」
「それでどうなりました?」
 僕もマスターももう耳を離すことはできなくなっていた。そして彼に問うた。身を乗り出していた。
「彼は私に話してくれました。鬼にやられた、と」
「あの鬼に」
「ええ。そして私も狙われている、と。逃げて欲しいと。その時でした」
「その時・・・・・・何が」
「鬼がいたのです。部屋に」
「部屋に」
「はい」
 彼の顔は完全に白くなっていた。それでも言葉を続けた。
「部屋に立っていました。そして私を見据えていたのです。そして」
「そして」
 僕達はまた問うた。問わずにはいられなかった。
「私に対して言いました。最後は御前だ、と」
「最後は」
「そして私に襲い掛かって来ました。私はその場を走り去りました。そしてその場は運良く逃げることができました。ですが」
「それで終わりではありませんでしたね」
「ええ」
 彼は答えた。
「鬼は私を追ってきました。何処に行っても鬼は私を追ってきました。私を殺す為に」
「それは今もですか」
「はい」
 彼は答えた。
「私は今も逃げていますから。あれから何年も経っているというのに鬼はまだ私を追っているのです」
「何年もですか」
「一つの街に三日といたことはありません。鬼は私を何処までも追ってきますので」
「この街にも、でしょうか」
「当然です」
 それを聞いた時僕の背筋に寒気が走った。そして何かが来ようとしているのを察した。
「もうそこにまで来ていますよ」
「・・・・・・・・・」
 僕達はそれを聞いて沈黙してしまった。確かに背筋に寒いものを感じていたからだ。
「それでは私はこれで」
 彼はそう言うと懐から金を取り出してマスターに手渡した。
「これで丁度ですね」
「ええ」
 マスターは金を受け取りながらそれに応えた。そして彼は立ち上がった。
「裏手は何処ですか」
「あちらです」
 マスターは手で右手を指し示してそう答えた。
「御気をつけて」
「有り難うございます」
 彼はそのまま店を去ろうとする。だが扉の前に足を止めて僕達に顔を向けてきた。
「一つ言っておくことがあります」
「何でしょうか」
「この後客が来ますが決して後ろを振り向いてはいけませんよ」
「わかりました」
 その言葉が異様に重たく感じられた。そして彼はそう言い残すと店を後にした。
 残された僕達はそのまま飲んでいた。マスターはカウンターに背を向けて立っていた。
 そこで扉が開いた。凍てつくような冷気が僕達を襲った。
 僕達は振り向かなかった。そこに何がいるのかを知っていたからだ。ただ冷気とドス黒く邪悪な気が後ろから感じられただけであった。そこにいる者からのものであることは言うまでもない。僕もマスターも決して後ろを振り返らず沈黙を守った。
 暫くして扉は閉まった。冷気も邪悪な気も何処かへ消えてしまっていた。
「あれがですか」
「そうみたいですね」
 マスターはゆっくりと顔を僕に向けてそう答えた。その顔はやはり蒼白であった。
「見たら今頃は」
「でしょうね」
 最後まで言わずともわかっていた。あの冷気が何よりも雄弁に物語っていた。
 それから僕達は彼に会うことはなかった。今何処でどうしているのかもわからない。だが一つだけ言える。
 見てはいけないものがこの世にはあるということを。この時にそれを知った。


後ろにいる影    完



                        2005・5・2 
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