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乱世の確率事象改変

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狂い咲く黒の華

「で? なんであいつを止めなかったわけ?」

 怒気轟々。怒髪天を衝くとはいかないまでも、後ろに地獄の業火を幻視してしまいそうな少女の仁王立ちの威圧が、大地に慎ましく正座している猪々子の肩をしゅんと下げた。
 吊り上った眉はこれでもかと怒りを表し、近づく兵士が居れば一睨みで追い払ってしまう。
 おずおずと下から見上げた猪々子は、震える声を紡いだ。

「だって……アニキが内緒にしとけって……」
「あいつが! 内緒にしろって! 言ったから! ボクに黙って! 一人で行かせたって!?」
「ひぅっ!」

 区切られた怒声に身が竦む。
 少し遠く、鳳統隊の面々はその二人を見てこそこそと語る。

(子供を叱る母親みたいだな、なんて徐公明なら言うんじゃねぇ?)
(っ! や、やめろよ、えーりんに聴こえたらどうすんだ!)
(お前がうるせぇ。でもあれだろ? それなら一緒に正座させられて叱られるんだ。バカだからな)
(俺にはご褒美なんだが?)
(ばっかお前っ……そりゃ普通だったら、だよ。あのキレかたは半端じゃねえぞ?)

 ぶるり……震える身体は抑えられない。いつもより三倍増しで怒る詠の姿に、自分達では前に立つことすら出来そうにない、彼らの内の一人はそう思う。

「で、でもアニキが――」
「“でもでもだって”はもういい! ボクはね! あんたが! “九番隊隊長”を名乗ってるから! あいつがするバカなことを止めなかったことを怒ってるの! 分かる!?」

 首を捻る猪々子の元部下達に対して、あちゃー……と呆れた声を漏らすのは鳳統隊の者達。
 自分達なら止めていた。当たり前だ。無茶無謀自分勝手は徐公明の代名詞だ。思いつきで動くのだから性質が悪い。
 最重要人物が動く場合、せめて誰かを付けて行動させるのが筋である。鳳統隊の男達はそれくらいの知恵は回るし、いつでも彼のオブサーバーの役目を果たしていた。
 さすがに猪々子含め新参の部下達に同等の立ち位置を求めるのは荷が重かったらしい。


 益州への使者として来た彼女達は、成都が見えてから野営の準備を行っていた最中である。
 さすがに兵士達をそのまま城に入れるわけにはいかない。戦をしに来たわけでは無いのだから兵士達は外で待たせるのが礼儀である。
 五千もの人間を街に入れても宿は取れない、寝る場所も無い。それに、何か事を起こすやも……と勘ぐられるのも拙い。兵力を街に入れるというのは戦の引き金にもなりかねないのだから。

 そうして野営の準備をしつつ、成都内部での行動を打ち合わせておこうと思った詠が猪々子に声を掛けたのが今の現状。
 そそくさと逃げようとした猪々子を正座させて二刻ほど、メシ抜きと言えばすぐに猪々子は洗いざらい喋った。

 曰く、使者として赴いたら見えない景色があるから、らしい。

 敵情視察を自身で行おうとする当たりが彼らしいが、詠にとっては堪ったモノではなかった。

「ごめん……でもっ」
「なによ!?」
「アニキなら! 一人でも大丈夫だ……って……思う、じゃん……」

 次第に消えそうになっていく声は、詠の表情を見てしまったから。瞳の奥を覗き込んでしまったから。
 今にも泣きそうで、今にも駆け出してしまいそうで、それでも我慢している詠を見ると、言葉は意味を失くした。

「あいつがバカしたっていつもなら信じるわよ! 情報収集の大切さを知ってるから生の情報を得ることだってしたいことの一つでしょうね! でも此処でだけはっ……益州でだけは一人にしちゃダメなの! 劉備軍の居る益州でだけはっ!」

 必死な叫びは思い遣りと……恐怖。
 彼女の内心を知るモノは多く居た。いや、彼女の発言で気付いた、と言おうか。
 おちゃらけた空気を霧散させ、真剣な表情になったのはやはり……彼らだった。

(……やべぇな)
(ああ、やべぇよ)
(劉備軍にはあの人が居る)
(一対一で出会っちまったら……そんでもし……戻っちまったら……)

 皆の表情に絶望の色が浮かんだ。
 最悪の事態を想定しろ、と言いつけられてきた徐晃隊が思い描いたのは、“秋斗が黒麒麟に戻ること”。

 願ってやまなかったはずの事柄も、状況が整わなければ絶望にしかならない。
 本当に長い時間を彼と過ごしてきた彼らには、自分達が立てた予想の状況で戻ることだけはしてほしくない。彼を良く知るからこそ。

「な、なんで……?」

 猪々子には分からず聞き返した。詠は歯を噛みしめて視線を逸らす。

「……一人で会わせたらダメな人間がいる。名前は趙雲、趙子龍。知ってるでしょう?」
「……黒麒麟の……友達」
「そう。乱世を優先して切り捨てた幽州の将。夜天の願いを交し合った絶対の友。黒麒麟が一番助けたかった人の一人よ」
「……」

 自分達が壊した、という言葉を猪々子は呑み込んだ。
 後悔しても遅い。もう既に終わったことだ。たらればの話をしても意味が無い。事実は常に目の前にある一つだけ。

「自分達のせいで、とか言ったら張り倒すわよ」
「言わねぇし! あたい達はあたい達の為に戦った! あたいのとこのバカ共だって死んでんだからな!」

 弾けるように言い返した猪々子に詠はジト目を向ける。

――それを分かってるならその先くらい読み取りなさいよ。

 内心で愚痴る。
 “もしも”という兵士の想いへの侮辱をしない猪々子は正しい。彼らが必死に戦った想いを、“自分達が戦わなかったなら”という言い訳で塗りつぶすことだけはしてはならない。

 自分が命令してコロシアイに向かわせた兵士を蔑ろにする行いなのだ。将として落第点であり、後悔するくらいなら初めから戦うなと弾劾される薄汚い偽善の心。
 死した部下を誇らない将に兵は付いて来ない。猪々子が良く知る紅揚羽でさえ、使い捨ての駒だと吐き捨てる兵士達を侮辱も卑下もしないのだ。

「ならいい。だったら分かるでしょ? 趙雲と会うってことは危ういの。救いたくて救いたくて仕方なかった人と出会ったらそれが記憶を戻す鍵になるかもしれない」
「でも詠はアニキが戻るのを望んでるんじゃないのか?」

 やはり猪々子では読めないか、と詠はため息を一つ。仕方ない、こればかりは自分の口で説明するしかないのだ。
 遠くで見つめる鳳統隊の真剣な眼差しを見つける。彼らも理解している。ずっと彼を見てきたモノ同士だ。出る答えなど分かり切っていた。
 説明している間に準備しろ、と一つ頷き無言で伝えた。

「望んでるに決まってるじゃない。でも状況が悪い。あいつが戻る時は……劉備軍の前じゃ絶対にダメなの」

 ずっと願ってきた。だからこそ、詠はどんな状況をも予想してきた。
 彼の記憶が戻る事を願えば願うほど、彼の記憶が戻って……どんな行動に出るかを考えないわけが無い。
 だから恐怖した。だから不安だった。だから……秋斗を一人で行かせるわけにはいかなかった。

 大きく深呼吸。心を落ち着けなければ震えが見えてしまいそうで。
 眼鏡をクイと持ち上げて、悲哀が深く刻まれた瞳で猪々子の翡翠を覗き込んだ。

「“黒麒麟”は劉備の為の将。自分の気が狂ってでも黒麒麟は劉備と作る世界を望んでた。それが一つ」

 自分でさえ解き明かせなかったから哀しくて、詠の声は震えていた。
 そして次の言の葉には、寂寥と悲哀がより深く刻み込まれていた。

「でも一番大切なことは……たった一つ。
 大事な友達を切り捨ててでも欲しい世界ってどんなだと思う? 一緒に笑い合ってたバカ達の血と肉で作り上げてでも欲しかった平穏ってどんなだと思う?
 身が凍るような痛みの中で、一つ消えては約束して、一つ消えては誓いを立てて、そうして進んで来たから逃げられない。
 いくら絶望に堕ちたとはいえ、ううん、絶望に堕ちたからこそ、自責の鎖に縛られ過ぎて……狂い死んじゃう可能性と、裏切る可能性があるのよ」

 有無を言わさぬ圧力は猪々子の反論を封じる。信じてやれよ、とは彼女も言わない。雛里や月、そして詠並に秋斗のことを理解しているモノなど、徐晃隊くらいしか居ないのだから。
 きゅ、と握られた拳。不安を握りつぶすように詠は拳を固めた。

「猪々子は此処で兵士と一緒に居なさい。あのバカを連れ戻して、それから正式に使者の仕事を始める。成都の警備兵には“荀攸”と徐晃が慣れない食物でお腹を壊したので幾日の休息をとってから入るとでも言っといて。鳳統隊の第四部隊長と連隊長の二人以外残してくから」
「……ん、分かった」
「じゃあ行って来るわ」
「ごめん、詠」
「もういいわよ、徐晃隊を名乗るんなら次からはちゃんと止めなさい」
「うん」

 もはや口を挟まず。背を向けて歩き出す詠を見つめるだけ。
 猪々子はことの重大さを理解した。
 例え、万に一つの可能性であれど、絶対にあってはならない結末がある。

――アニキが敵になるなんて……絶対やだし。

 せっかく仲良くなったのにもう終わり、そんなのは彼女とて願い下げ。何より、もう絶対に戦いたくない相手の一人であった。
 黒麒麟の身体が居なくともその男一人が居るだけで兵士達は狂う。猪々子は袁家ゆえに知っている。河北の結末でイカレたのは彼女の部隊とて同じで、幽州の白馬義従は憎しみを狂信に変えて今尚遠き大地で戦っているのだから。

 ぶるりと身体を震わせた猪々子とは別に、詠は切り替えた頭で冷たい思考を積み上げる。

――自殺も裏切りも怖いけどね……一番怖いのは“記憶が戻ったのを悟らせない程にイカレてた時”なのよ、猪々子。

 そんなことは無理だ……と否定しながらも考えてしまった。
 雛里のことを思えば記憶が戻った時点で彼女に嘘は付けないはず。詠はそう思う。
 だがもし……雛里さえ利用して思惑を成就させようと願いはじめたら……。

――“秋斗の知識と思考”は……正しく使われないと国を一つ滅ぼす。内側から壊すほうが容易いって、あいつは誰よりもよく知ってた。だから……ボクが見極めないと。

 信じるな、と言ったのは彼。止めてくれ、と教えていたのも彼。
 徐晃隊と同じく、彼が狂った時に止めるのは彼女達三人の役目。
 いつも通りだ、と彼のように呟いてみる。少しだけ心が落ち着いた。

 どうしようもないバカはいつも自分勝手で、いつもいつも誰かを置き去りにしていく。
 ただ……彼女はそんな彼のことを間違わない。

――分かってるわよ。あんたは、ボクが居ない状況で趙雲達に会いたかった。少しでも過去に近付けて記憶を戻したかった……そうでしょ、秋斗。

 確信を以ってそう言えた。彼が自分勝手に行動する時はいつだって誰かの為でしかないのだから。

――いつだって雛里の為だもんね。バレバレなのよあんたの考えくらい。でも……ちょっとだけ自惚れていいなら……

 ジワリと湧いた胸の暖かさは、優しい彼が誰かを信じることしかしない男であるが故に。
 僅かに頬を淡く染めて、詠はぽつりと呟いた。

「ボクが居たら狂わないって信じてくれた、ボクなら“狂った黒麒麟を見抜いて止められる”って信じてくれた。そう思っても……いい?」







 †






――愚策だった。劉備軍の有名な三将が南蛮遠征に出ていると聞いたからって目立つんじゃなかった。

 一人で街を見る、というのは益州に向かう時点で決めていたことだ。
 えーりんという精神的な支えを側に置かないことで昔に近しい状況を作り、その時に劉備と関われば記憶が戻るやもしれない、と考えていたのが一番だった。

 何も初めからひなりんに頼っていたわけではあるまいし、劉備に着いて行くことを決めたのは他ならぬ黒麒麟の意思だ。
 だからこそ、民の振りをして近付いてでも劉備と言葉を交わして、記憶が戻るか確かめたかった。
 他にも一つ。
 この世界の劉備については周りから聞いているが、実際に感じることこそが最大要因。黒麒麟という名の無い状態の自分で見極めたかったというのも大きい。

 戻らない場合のことも考えて、敵の情報や心理の動き、思考能力を知っておいた方がいい。特に敵方の王の機微を知れば自分の中でも選択肢が取り易くなる。
 えーりんの心配を無視すれば、であるが。

 他にも多種多様な狙いがある。
 俺が一つの目的の為に動くことなど無い。利を計算した場合、こっちの方が有益になりそうだったのだ。

 劉備と曹操の施政による影響の違いを見ること。
 劉備と曹操に対する民の評価を知ること。
 辺境地ではどれだけ河北の大乱が知れ渡っているのか確かめること。
 そして、黒麒麟に対する民の考えを聞くこと。

 生の情報は宝だ。民が語る表情や仕草、声の抑揚を聞くことにすら意味がある。

 生きていた時にしていた仕事、営業という職業柄、普通よりも人の機微を読みやすいと思う。
 言葉だけが情報ではなく、敵対国の民心を細部まで把握したかった、と言いかえよう。

 それらの目的は十分に果たした。
 というよりも……成都の今の状態や劉備軍の情報を集めれば集める程に、より有益な策を思いつけた。
 後でえーりんに話そうと考えながら、劉備を探している内に喧騒を見つけてしまった結果がこの状況。

 目に涙を溜めた綺麗な女に押し倒されて、あげくの果てに幸せを一杯に映し出した表情で、

「……おかえり……“秋斗殿”」

 そう、告げられた。


 気付かぬはずはない。劉備軍の内の誰かだ。俺の真名を知っている時点で親しい間柄。
 関羽や劉備は交渉の席に居たと聞いたのでこの歓びようからは有り得ない。
 なら……必然的に張飛か趙雲。

 公孫賛は真っ先に除外した。揚州に行ったと聞いていたから……否。
 自らに溶け込んでいる一人の少女――関靖の記憶の断片を見せられた事がある。赤い髪をしている白馬の王を忘れようとしても忘れられない。
 彼女が愛した王を見間違うはずがない。

 困惑のまま思考を回す。

――どっちだ……そういえば張飛は季衣がちびっこって呼んで……――――

 不機嫌そうに語っていた自陣営の幼い将を思い出し……その途中、彼女の瞳の奥を覗いてしまった。

 信頼の濃さが深すぎる色。思いやりが溢れて止まらない、止められるはずもない。
 そんな目で自分を見るのは誰だ? 情報を統合すれば……一人しか居ない。
 それは切り捨てた友達で……

――俺が救いたくて仕方なかった、大切な人の一人。


 ズキリ……と頭が痛んだ。
 ジクリ……と胸が疼いた。


 随分と都合のいい時機に、ここ最近収まっていたはずの痛みが襲った。

「……秋斗殿?」

 聞き返す声を耳に入れて涙が零れそうになる。吐き出しそうになった嘆息を噛み殺した。

――知ってる。あの時、官渡の終端で聞いた声だ。

 同じく、また聴こえた。優しくて甘い声と、まくしたてる天邪鬼な声と、飄々と悪戯好きな声。
 ずっと聞きたかった言葉と、言いたかった言葉。

――ぬかった……そうだ、趙雲は……関靖との深い関わりが……

 ぐるぐると頭の中が掻き回される。久方ぶりに来た自己乖離は“生きている人物”を前にすればより大きく。
 関靖の記憶が僅かに頭を掠ったからか、大好きだった四人での時間を思い出せなくとも、心の奥に閉じこもった“黒麒麟”からの想いが溢れ始める。

 懺悔と後悔と悔恨と親愛と信頼と寂寥と悲哀と喪失と……狂的なまでの自責の想いが渦を巻く。

 暴走した感情から泣きそうになりながらも、その少女から視線を外して空を仰いだ。
 透き通るような青空に、ナニカが解け出してしまいそう。

 腕を瞼に当てる。無理矢理にでも視線を合わせないようにするので精一杯だった。
 気を抜けば勝手に零れようとする涙を抑え付けて、掠れた声を紡ぐ。

「クク……敵に掛ける言葉じゃあないな」

 どろり、と溢れそうになる想いは救済欲求ばかり。
 自分のではない感情の渦に呑まれないようひた隠す。どうにか紡いだのに自分の声とは思えない。渇きと、知っているモノにしか向けない信頼の乗った声。
 芯からズレるような感覚が気持ち悪い。ぐらりと世界が揺れ動く。白、白、白が染め上げる。脳髄の片隅に至るまで、白が侵食を開始した。
 ああ、ダメだと思う前に……勝手に腕が動いた。






 細めた瞳で、不敵に笑って、彼女の頬に手を当てる。
 頭の中が晴れていた。心地いいくらいに透き通っていた。
 少し照れた仕草が愛らしい。いつもの彼女ならしないはずなのに。

 どうしたよ、お前らしくないじゃないか。悪態一つつけばいい。そうすりゃいつもみたいに貶し合いをしよう。

 視線が絡まれば奥に見える淡い色が読み取れて、遥か遠い記憶が思い出されて漸く気付く。

 そういえばあの時も、こいつはこんな目で俺を見て来たっけ。
 そうかい。俺はずっと、お前のことも傷つけてたんだな。

 言葉を発さない彼女を見つめてふと気づく。
 誰かと同じだ。誰と同じだ?

 嗚呼、そうだ、あいつとも同じだ。

 やかましい早口で捲し立てていたあいつも、洛陽の夜に酔った時、こんな色の瞳をしてたっけ。

 バカだなぁ。俺にそんな感情を持つんじゃねぇよ。

 だって俺はお前らの想いに応えられない。

 ああ、なんでだ?

 こいつはこんな嬉しそうにはにかんでるのに、なんで応えてやれないんだ?
 一緒に居て楽しくて、ずっと笑い合って過ごせるはずだろ?
 嫌いじゃない。ずっと一緒に暮らしたい。大好きなあの街で……俺達の大切な友達が作り上げた優しくて甘いあの街で。

 お前達と一緒におかえりっていいたいんだ。
 お前達と一緒にただいまっていいたいんだ。

 なのになんで、俺はお前達の所に帰らないんだ?



 そんなの決まってる。

 誰かが泣くから

 誰かが悲しむから

 誰かが苦しむから


 誰かの涙を止めたいから

 誰かに歓びを与えたいから

 誰かを笑顔にしたいから


 だから俺は帰れない

 そして……


 あの子が泣くから。

 あの子が悲しむから。

 あの子が苦しむから。


 あの子を泣かせたから。

 あの子を悲しませたから。

 あの子を苦しませたから。


 俺はいつでもあの子を哀しませることしか出来やしないから。

 せめてこのちっぽけな想いくらい、ずっと支えてくれたあの子の為だけに使いたいんだ。


 あの子ってだれだ?

 あの子って、ほら……

 あぁ……

 ああ……ああぁ……

 ぁあ……




 ドロドロと溢れ出す泥が身体に纏わりついて離れない。

 髑髏の群れが瞳に炎を入れて囃し立てる

 逃げても逃げても追いかけてくるその群れは、よく見れば大切な大切なバカ共と、踏み台にしてきた矛盾の犠牲者達

 弾劾の声を上げながら追い立てる

 飲まれたら終わりだからと逃げるしかなく

 逃げた先にあの子が立っていて

 俺を見上げてぽつりとつぶやいた





――オレガカエルセカイナンテダレモノゾンジャイナイ


 おおうそつきがダレかヲあいするシカクなんざない

 なかせたヒトのタメにタタカわないと

 コロシタひとのタメにタタかワないと

 コロサレタひとのタメにたたカワナいと


――ツナイダオモイガムクワレナイ


 せめてニセモノのいのちをセカイにさサげなイと

 そうしてセカイをかエないと

 おれがせかいをかえないと

 だレもノぞんじゃいないのに

 おおうそつきがツクッタせかいにかエないト

 ダレもノゾんじゃイないノニ

 アイツラをダマシテコロシタのはオレデ

 アイツラをダマシテミゴロシタのはオレで

 あのコをヒキズリコンダのはオレで


――ダレノオモイモツナゲナイ


 デモうそつきがツクルセカイにかえナいとダメだって

 このセカイがコワレルってあいつがイウんダ




 死んだぞ

 あいつらは死んだ

 大嘘つきの為に戦って、大嘘つきの為に笑顔を見せた

 俺が作る世界を信じてるって、いつでも笑顔で死にやがった


――ヤクソクシタンダ


――チカッタンダ


――オマエラノノゾンダセカイヲツクルッテ


 オレがこのセカイを変えるんだ

 タイセツなヒナリがワラッテくらせるセカイにシタイから

 あのコとイッショにツナイダオモイのために、オレが世界をカエナイト


 ダレモノゾンジャイナイセカイニカエテ

 コロシタヤツラノオモイヲツナグンダ

 ソウシナイト

 アイツラノオモイガムクワレナイ



「“乱世に華を……世に――”」

 近すぎる距離でも聴こえないようにつぶやいた。
 大切な大切な約束を。

――ああ、だから……頼む。

 髪を撫でて、掌を後ろに回して、甘い色を浮かべた彼女の瞳を覗き込んで。
 ゆっくりと彼女を引き寄せる。期待から目を閉じた彼女に見えないからと、俺は口を引き裂いた。

――また俺は嘘を吐く。こいつにまで嘘を吐く。あの子にしてたみたいに、嘘を吐く。

 抱き寄せた少女の耳元に唇を近づけて、甘い甘い声で囁いた。


「なぁ、“星”……俺と一緒に、“赤壁”で――――」






 †





 探し回った。走り回った。人目も気にせず駆け回った。
 見つからない、見つからない。
 人に聞いても、注意深く全てを観察しても、その時にはもう遅いことばかり。
 言いようのない不安が胸を締め付ける。
 詠の心に言いようのない恐怖が湧きあがる。

 きっと何処かで笑っているはずだ。
 きっと何処かで下らない事で人々と笑い合っているはずだ。
 そう思って一日半。どれだけ探しても見つからなかった。

 広い街であれど三人で手分けして探せばきっと見つかる、そう思っていたのに……
 如何に変装していようと見分けなど直ぐにつく。目立つ身長と醸し出す空気は独特で、徐晃隊と自分達三人だけには分かるはずだった。

 なのに見つからなくて、彼女は泣きそうになりながら今日も走り回っていた。

 もしかしたら記憶が戻ったのかもしれない……なんて最悪の事態を頭から追い出しながら。

 しかし……漸く切片を見つけた。

 聞いた話はいつも通り。
 彼にありがちで、彼しかしないこと。
 ただの通りすがりで行ったおせっかい。
 他者に任せておけばいいのに首を突っ込む悪いクセ。

 自分が救えるのなら、救わずにいられない。

 周辺を捜して幾分。彼女は細い路地に入り込み……異様なモノを目にいれた。

 知っている。アレは知っている。あの女を……詠は知っている。

 白を基調とした蝶のような衣服。艶やかな蒼髪は憧憬の対象だった。
 自分が作り上げられない彼との関係を持つ、僅かな期間だけ仲間だったモノ。
 交わした言葉は少なく、性格は人づてでしか知らない。

 だが、彼の大切な、本当に大切な友達。
 自分も仲良くしていこうと思っていた、劉備軍の中でも憎むことの無い人物。
 そして……雛里と詠と月の恋敵。


 その女に押し倒されているのは間違いなく、自身が恋心を持ってしまった大バカ者。

 重なる身体、近づく顔と顔。
 湧き上がる激情から、詠は眉を吊り上げて大きな声を上げた。

「……っ……なにやってんのよこのクソバカぁ――――――――――――――っ!」

 
 

 
後書き
読んで頂きありがとうございます。

波紋を一つ。
変えられたくない世界側にとって都合のいいこととは何か
なんて

ではまた 
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