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SNOW ROSE

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騎士の章
  I


 その男は、遠い異国の地から渡って来たのだと言う。
 以前は傭兵などをしていたが、雇い主であった国王が暗殺されたため職を失い、各地を転々と職を変えながら旅をして海を渡ったのだと。
 背はかなりの長身で、髪は赤茶けた色をして長く、後ろで一括りにしている。瞳は澄んだエメラルドのようで、この大陸には珍しかった。
 男の名はマルス。今はプレトリス王国南端にある海辺の街リリーで、用心棒として宿屋“ゴールトベルク”に雇われていた。
 彼は南の日当たりの良い部屋をあてがわれ、かれこれ半年近くもそこに滞在していたのであった。
 用心棒とは言うが、ここは戦が数十年も起こらぬ閑かな土地であり、これと言って用心棒など必要とはしていなかった。
 しかし、流れ者には少しばかり冷ややかな土地柄であったため、宿の主人が名ばかりの用心棒として雇ったのであった。
 この主人であるベルクは以前、東の大国モルヴェリで金山の坑夫として働いていた。それ故、彼のことを放ってはおけなかったようである。
 そんなベルクの宿故に“ゴールトベルク”…即ち<金の丘>と言う名が付けられたのだった。

 さて、マルスの仕事はと言うと、それは雑事全般に及んでいた。
 そもそも肩書きが“用心棒"なだけで飯が食べられる程、そんな甘い世の中ではないのだ。だからと言って強制されるようなことはなかったのであるが、マルスは率先して多くの仕事をこなした。
 彼は長い間一人で旅を続けていたため、その料理の腕はプロ顔負けになっていた。それに掃除はマメな方であり、宿の食堂から客室の整理までやっていたのだった。
 自然に身に付いた力には申し訳ないが、それはそれで淋しいものがある…。

 もう一人紹介せねばなるまい。
 この宿の娘、アンナである。
 このアンナも料理は得意であったが、それ以上に自身も好きな菓子を得意とし、この宿の名物にもなっていたのであった。
「はい、ガレット三袋ね。いつもありがとう。」
 そう言って微笑み、アンナは常連の老婆に手渡した。
「孫が好きでのぅ。ここのじゃないとダメだってさ。私も好きだから余計に買っちゃうんだけどねぇ。それじゃ、また来るね。」
 菓子の包みを大事そうに抱えながら、老婆は笑って店を出て行った。
 ここは食堂の一角を菓子売り用に作り直した場所である。そこから中を見ると、客が十五、六人テーブルに着いているのが見える。
 昼食時なのだ。
これからまだ客が増えてゆくのである。
「マルス、野菜が足んねぇから、ちょっとヨッシュのとこ行って買ってきてくれ!」
 厨房からベルクの声が聞こえてくる。どうやら食材が足りなくなったようだ。
「分かった。青物とトマト、ポテト、コーン…そんなとこか?」
「ああ、そんなもんでいい。あと、何か良さそうなもんがあったら一緒に持ってきてくれ。金はいつもんとこあるからな!」
 二つのフライパンを器用に動かしながらベルクが告げると、マルスは「はいよっ!」と言って厨房を離れ、アンナと入れ替わるや裏戸から出て行った。
 店の中はそろそろ満席に近く、交替で入ったアンナは頬を叩いて気合いを入れていた。

 さて、マルスはと言うと、数十件先のヨッシュの店へ走っていた。
 空は初夏の心地よい快晴で、海から吹き付ける風が気持ちの良い日和りである。
「空が近いなぁ…。」
 マルスは少しだけ足を休め、真っ青な空を仰ぎ見た。
「時代は遠き昔か…。」
 そう一人呟くと、また目的地へと走り始めた。
 暫らくすると、野菜や果物の並ぶ店が姿を現わす。 マルスは店へ入ると、奥へいた人物に言った。
「ヨッシュ、またいつもの同じように頼むよ!あとはトマト十、ポテト三十、コーン十五も。それと、何か良さそうなものがあったら一緒に欲しいんだけど。」
 マルスが大声でそう言うと、ヨッシュと呼ばれた男は「はいよっ!」と威勢の良い返事をした。
「いつもありがとよ。えぇと、青物だったな。今日は良いヤツが入ってたからな。あと空豆なんかどうだ?つまみにゃ丁度いいんじゃねぇか?それからオレンジも質の良いヤツが入ってる。珍しいとこだとリチェッリからのダークチェリーだな。」
 この店の店主であるヨッシュは、もう馴染みになったマルスにあれこれと説明する。
 結局マルスは他に、空豆二十把に香草一束、オレンジとグレープフルーツ各十、それにダークチェリーを五十グルを追加した。
 いつもこのような感じである。
「台車貸すから、また夜にでも裏へ返しといてくれ。」
 ヨッシュはそう言うと、中にいた者に声を掛けて台車を用意するようにと告げた。それから木箱に品物を詰め始め、終わる頃には台車が用意されていたのであった。
「代価は銀貨一の銅貨十ってとこだな。」
 ヨッシュは素早く計算し、金額を弾き出した。しかし、それを聞いたマルスは目を点にした。
「おいおい、ちょっとばかり安くないか?少なくとも銀貨二枚はいくと思うが?」
「何言ってんだよ。ベルクの旦那にゃいつも世話んなってる。こんくらい勉強しねぇとな。」
 ヨッシュはそう言ってニッと笑った。
「ほれ、早く行きな。こんなとこで油売ってっとどやされっぞ。」
「それじゃまた。ありがとな!」
 ヨッシュに急かされたマルスはそう言うと、台車を引いて宿に戻って行ったのであった。

「ただ今戻り…」
 裏戸をを開けて言うや、言い切る前にベルクが怒鳴った。
「早くアンナと代わってくれ!これじゃ間に合わん!」
 驚いて店内を見ると、客が溢れていた。座れるところは全て塞がり、オーダー自体が間に合っていない様子であった。
「アンナ、オーダーに回ってくれ。今はどれくらい入ってるんだ?」
 前掛けを着けて腕まくりをしながら、マルスは現在の状況を聞いた。
「オーダーが入ってるのは5~19迄で、チキンが三のビーフが七、マトンが一のフィッシュ四よ。多分、倍になるわ。」
 そう言って溜め息を吐き、アンナは客席に向かった。
 客席に出たアンナは手慣れたもので、次々にオーダーを取って行き、その合間を縫って飲み物を運んでいる。
「マルス、チキンはどうだ?付け合わせは出来てる。出せそうか?」
「充分焼けてる。」
 ベルクの声に返答すると、マルスは皿を用意してチキンを焼窯から出した。それを盛り付けてソースをかける。
「アンナ、チキンが出来たから持ってってくれ!」
 完成を知ったベルクがアンナを呼び、アンナはそれを取りに戻って来た。
「あとどれくらいだ?」
 ベルクはアンナに確認すると、アンナはケロッと言ってきた。
「チキン五、ビーフ八、フィッシュ十のサラダ七よ。」
 メニューが絞ってあるから良いものの、これを聞いた二人は顔を引き攣らせてしまった。
「もう飲み物は出したから、サラダと付け合わせ作ったら洗い場に入るわね。マルス、チキンとフィッシュを急いでね。出来た端から持ってくから。」
 隣を見れば洗い物の山。目の前にはオーダーの山…。

 マルスはいつも考えているのだが、ここはもう一人働き手が欲しいところである。
 味は評判が高いし、それくらいの余裕はあるだろう。
 それだけではない。ここは<宿屋>なのだ。そちらの支度も整えておかねばらならいのだから、万年人不足と言えよう。
 マルスがここに来る以前に二人ほど雇っていたのだが、訳あって南にあるルカ島へ旅に出たのだと言う。
 要は、この二人も旅人だったのである。
 ここの主人であるベルクが、以前は金山の坑夫だったことは既に語ったが、そのためか、こういう短期で働く旅人や渡来者を多く雇ってきていた。そのため、ベルクとアンナしかいないということもしばしばあったのである。
 それではこの街の者ではどうかと言うことなのだが、ベルクがそれを由としないのである。
 決してこの街の者が嫌いだ…と言うわけではない。ただ、自分を受け入れてくれた街の人々を“雇う”ということに抵抗があるのだ。
 それがベルクという人物の人柄であった。それ故、この街の者は彼のことを親しみをこめて「ベルク」と呼んでいるのである。
 正式には「ベルケッツェ」と言う名だが、誰も彼のフルネームを知らない。この名さえ本当かどうか疑わしいとさえ言われている。
 しかしながら、彼がこの土地に来てからこれまでの間、この街に与えた恩恵は計り知れない。

 彼がこのリリーの街に来る前は、ここはひどい状態に置かれていた。
 当時この街を治めていた男爵が、取税人に管理を任せていたためである。
 この取税人、こともあろうに税を釣り上げ、かなりの上前を着服していたのであった。そのため、街に暮らす者の生活は厳しくなり、犯罪も横行していたのであった。
 民は男爵に嘆願したのであるが、証拠が無いと言われて退けられ続けていた。
 そんなときに現れたのがベルクであった。彼は取税人の館に忍び込み、表と裏の帳簿を証拠として持ち出したのである。
 この取税人の不正を許せなかったのだという。
 その帳簿は男爵にではなく、王家に縁のあるヴァン・ケルテス公爵の元に届けられた。隠滅されないためであるが、ベルクにも少なからず縁のある人物だったからに他ならない。
 この件は直ぐに王家に伝わり、男爵は領地と爵位を、取税人は土地と財産を没収されたのであった。
 一歩間違えれば命を落としかねない状況ではあったベルクだが、公爵の懸命な弁明によりお咎めなしとなった。
 ベルクとヴァン・ケルテス公爵の間柄については、いずれ語ることにしよう。

 さて、街を救ったのはなにも正義感だけではなく、自らの居場所を作りたかったベルクの一世一代の勝負でもあった。
 この事件以降、街の者はベルクを信頼し、彼を民長に推薦したが彼は受け付けず、それならばと土地と家屋を提供するに留まった。
 それが宿屋“ゴールトベルク”の原型である。

 少しばかり話が逸れたが、昼の喧騒が収まり夕刻も押し迫る頃のこと。一人の旅人がこの宿を訪れた。
「今晩から一月ほど滞在したいのだが、部屋はあるか?」
 薄汚れた旅衣装に身を包んではいたが、腰に吊った長剣がただの旅人ではないことを物語っていた。
 その剣には薔薇の意匠が施され、衣服とは違い磨き上げられていたのである。
 その旅人に対応したのはアンナであった。
「いらっしゃい。部屋は空いてるけど、一ヵ月ですか…。食事はどうしますか?」
 記入帳を差出しながらアンナが聞くと、彼は指で頬を掻きながら恥ずかしそうに返答してきた。
「お願いしたいのは山々なんだが…生憎持ち合わせが少なくて。今は宿代で手一杯なんだ。明日にでも仕事が見つかれば頼みたいんだがな。」
 何とも言い難い顔である。厨房の掃除をしながら聞いたマルスは、今洗い場で皿を拭いているベルクにそれとなく聞いてみた。
「なぁ、あいつ雇ってみること出来ないか?一月分前払いして職探しなんてよぅ…ここら辺のこと知らねぇみたいだしさぁ…。」
 そんなマルスの問いにベルクは手を休め、少しばかり上を見上げて考えていた。
 暫らくすると二、三度頷き、マルスに返答してきた。
「いいんじゃねぇか?人手なんていくらあっても足んねぇしな。まぁ、あいつに何が出来るか知らんが、薪割りや水汲み位は出来るだろうよ。一月くれぇだったら、それで飯ぐらい出してやれる。マルス、ちょっと行って話してこいや。」
 自分は皿を拭かねばならないからと、洗い終わった皿を指差した。そして、マルスに早く行ってこいと促したので、マルスは溜め息を零して出て行ったのであった。
「話し中悪いんだけどさ、ちょっといいか?」
 その場に行くと、マルスはそっと話し掛けた。二人は食事のことを、かなり深刻に悩んでいる様子である。
「マルス、立て込み中だから後にして。」
 顰めっ面のアンナに一瞬たじろいだマルスであったが、顔を引き攣らせつつも何とか話しを始めた。
「あのさ、さっきのこと中にまで聞こえてたんだよなぁ。そんでさ、親父さんと相談したんだけが…旅の方さへ良けりゃ、ここで一月働けないかなぁ…とね…。」
「父さん良いって言ったの!?」
 話しを聞くや、アンナは驚きの声をあげた。マルスはその声に驚いて、再びたじろいでしまった。
「いきなりデカい声出すな。どうしたってんだよ。」
 アンナは憤怒の形相でマルスを見つめ、そして爆発したのであった。
「どうしたもこうしたもないわよ!この前私が頼んだ時はダメだって言ったのに!なんでマルスなんかの頼みをすんなり聞くのよっ!お陰で考え込んじゃったじゃないの!」
 怒濤の如く言い放ったアンナは目の前の客を思い出し、「ホホホ…失礼致しました。」と言って、横にいたマルスの足を踏み付けた。
「イテッ!何すんだよっ!?それに“マルスなんか”ってどうよ?俺は親切にも…」
 皆まで言わせる前に、アンナはマルスの脛を蹴ったのであった。
「イッテェ~!いい加減にしろっての!!」
 今までのやり取りを見ていた旅人は、我慢できずに吹き出してしまった。二人はバツが悪そうにし、取り敢えず持ってきた案を聞いてみたのであった。
「宿代は半分に食事付きか…。願ってもない。ここで働かさせてもらうよ。」
 旅人はそう返事をし、マルスに手を差し出した。対するマルスも「宜しくな。」と言って、その手を握り返したのであった。
 この旅人の名はエルンスト・ヴィルヘルムと言う。
 元は王国騎士団に配属されていたが訳あって職辞し、各地を回る旅をしているのだと言う。何やら曰くありげな人物ではあるが、それは後に解ってくるだろう。

 さて、それからこの宿に新しく入ったエルンストは、三人が驚くほどの働きを見せていた。
 早朝四時には起きて水汲みをし、それから一日分の薪を割ってから食事を摂る。その後に宿部屋の掃除をして布団を整え、昼には食堂で全ての洗い物を請け負った。
「参ったな。こりゃ、飯出す程度じゃ済まんなぁ…。」
 雇い主のベルクに溜め息を吐かせる程、エルンストの働きぶりは凄まじかったのであった。
 夕刻の涼風がそよぐ頃、昼の仕事が片付いて、やっと彼らの食事の時間である。
 エルンストが店の掃除をしている間、三人は食事の支度をしていた。
「やっぱ楽だな。エルが入ってから客の回転も良くなったし。前は注文取るのも一苦労だったってのになぁ。」
 賄いの肉料理を作りながら、マルスはしみじみと言った。それを聞いたベルクは、笑ってマルスに答えたのであった。
「まったくだ。下手すると店ん外まで客が並んでたからな。エルのやつ、もう一月経っちまったってのに、立つのを先延ばしにしてくれるなんてなぁ…。ま、こっちは有り難いがな。」
 ベルクは皿に付け合わせを盛り付けながら言っていたが、そこにアンナが言い返した。
「でも父さん、いつまでも引き留めておくのはどうかと思うわ。エルンストさんだって、何か目的があって旅をしてるようだし。ここで足止めっていうのはねぇ…。」
 三人は傾きかけた太陽の陽射しを見つめた。
 そんなところへ、掃除を終えたエルンストが入ってきた。
「やっと終わりました。って、何ですか?静まり返って…。」
 いつもと違い静かな厨房に、エルンストは首を傾げたのであった。
 ベルクはそっと笑って、そんなエルンストに声を掛けた。
「いや、何でもない。お疲れさん、それじゃ飯にしよう!」
 ベルクの声を合図に、またいつもの賑やかな風景に戻った。
「俺もう腹減ってフラフラっすよ…。」
 マルスが無気力な声で言ったので、三人は思わず笑ってしまった。
「だらしないわね!父さん、ドナが五本入ってたでしょ?あれ開けていい?」
「ま、いいかな。疲れてる時、あの木苺の酒は良い。」
 ベルクの許可が出たので、マルスはグラスを、アンナはワインを取り出した。
 ベルクは食事を運び終えると席に着き、マルスもアンナも続いて席に着いた。
 しかし、エルンストだけが目を丸くしたまま立ち尽くしていたのである。
「どうしたんだ、エル?腹でも痛いのか?」
 エルンストを見て、マルスが心配そうに言った。
「いや、そうじゃない。ただ…ドナと言いましたか?」
「ああ、ドナだけど?それがどうかしたか?」
 マルスは訳が分からず首を傾げた。
「マルス…ドナが一本いくらするのか知ってるか?」
 顔を引き攣らせながらエルンストがマルスを見ると、マルスは真顔で「知らん。」と答えたのであった。そんなマルスに、エルンストは溜め息混じりに言った。
「金貨二枚だ…。」
「ハァ!?」
 値を聞いたマルスは、驚きのあまり立ち上がったのであった。
 この時代、銅貨三枚で一食分である。銅貨五十枚で銀貨一枚、銀貨五十枚で金貨一枚…。
 マルスは青くなってしまった。今の彼の賃金は、月銀貨十二枚。諸経費を引いて残るのは、月に銀貨四枚弱だ。一年貯めても金貨一枚にすらならない…。
「ベ、ベルクの親父よぅ…そんな高いもん…。」
 止めるつもりで振り向いたマルスであったが、その瞬間に“ポンッ”とコルクの抜けた音が響いた。
「ん?二人とも何固まってんだ?さ、飲んでくれ!」
 ベルクは何とも思ってないのか、四つのグラスに並々と注いで各席に置いた。
 アンナはさも可笑しそうに笑い、未だ呆然としている二人に言った。
「別にそこまで高くないって。うちはツテがあるから、安く買えるのよ?」
「い、いくらだ…?」
 恐る恐るマルスが聞いてみる。
「えっとねぇ、金貨一枚の銀貨十五枚。」
「安かねぇよ!!」
 マルスとエルンストが同時に叫んだので、アンナとベルクは喫驚した。が、それから後は大爆笑であった。
「そんな…そんなに驚かんでも良かろうに…!そこまで儲けが無いわけじゃないぞ?そう心配すんな。」
「父さんの言うとおり!さ、早くしないと料理が冷めちゃうじゃない!エルンストさんも席に着いて。」
 マルスは今頃になって、この親子の恐ろしさを知った気がしたのであったという。

 その日の夜のこと。
 少し欠けた月が、海辺の街を照らしだしている。昼の熱さは残るものの、心地よい海からの風がエルンストを包んでいた。
 そんな風を楽しむ彼の背後から、不意に声を掛ける者がいた。
「なぁ、エル。今まで聞かなかったけどよ、エルは何で旅なんかしてるんだ?」
 その声に驚いたエルンストは、直ぐ様後ろを振り返った。
 そこには、二つのカップを持ったマルスが立っていた。
 それを見たエルンストは、なんだという風にため息を吐いて言った。
「びっくりするじゃないか…。」
 マルスは「悪い。」と言って片方のカップを苦笑いしながらエルンストに手渡した。その中には、どうやらドナが入っているようである。
「お前がなんかボケッとしてるから。何考えてたんだ?」
 マルスはそう問うと、エルンストの横に並んだ。
 そこは小さな庭ながらも美しく整えられており、紫や黄色などの花々が彩りを添えている。
 そんな庭を眺めながら、エルンストは受け取ったカップに口をつけて話し始めた。
「気付いているとは思うが、私は今も騎士として旅をしている。国の命ではないのだが、さる御方から重要な任を仰せ遣っているのだ。」
 エルンストはそう言うと、高き月を仰ぎ見た。まるでその人物を思い出すかのように。
「ローゼン・ナイツ。王子付きの騎士団だったな。」
 マルスが、月を見上げているエルンストにそう言うと、エルンストは目を見開いてマルスへと視線を移した。
「なぜその名を知っている!?それは王家と入団を許された者だけが知っているだけ。表向きは存在せぬことになっていると言うのに…。マルス、お前は一体…。」
 エルンストは目を細め、眉間に皺を寄せた。身を強ばらせ、マルスを警戒している様子である。
 だが一方のマルスはと言えば、何ともなげに酒を呑みながら話してきた。
「どっかの国の王子だかに偶然会って聞いたんだ。薔薇の意匠が入った剣を持つ、勇敢な騎士達の話しをな。そいつらは、王子を護る為なら命を張れるやつらだと。まぁ、噂話程度にしか聞かなかったがな。エルの剣を見たとき、そんな話しを思い出したってわけだ。」
「お前だったのか!」
 マルスがのほほんと話しをしたかと思えば、それを聞いたエルンストが声を上げてマルスを驚かせた。
「何なんだ!?」
 訳が分からないマルスは、首を傾げてエルンストに問い掛けた。
 エルンストは興奮気味に「そうだったのか…!」と呟いていたが、やがてマルスの方へ向き直って言ったのであった。
「マルス、君のことを探していたんだ!この半年間、ずっと君のことを探していたんだっ!」
「俺のことを…?」
 興奮気味に話すエルンストとは対照的に、マルスは今一つ分からず困惑していた。この話しをしたからと言って、何で自分が探し人になるのか。
 そんなマルスを見たエルンストは、彼が理解出来るように説明したのであった。
「すまない、マルス。早く言えば、君が会った若き王子こそ、この国の第二王位継承者であらせられるアルフレート様だったのだ。私はアルフレート様の命により、君を探し続けていたんだ。」
 意気揚揚と語るエルンストだったが、マルスは未だ理解しかねていた。
「まぁ、探してるってのは分かったが、見つけてどうするんだ?」
「王都プレトリスにあるアルフレート様の館へお連れするようにとのご命令なのだ。」
 エルンストはマルスの問いに答え、満足気に微笑んでいた。だが、マルスは再び困惑の表情を浮かべて言った。
「そう言われてもなぁ…。俺は別に何もしてないんだが…。」
 マルスはそう言うと、どうしたものかという風に頭を掻いた。そして手にしたカップに口をつけ、甘いワインで渇きを癒したのであった。
「マルス、君がモルヴェリへいた頃、かの国の治安は酷いものだったと思う。そんな中、王の名代として帝都を訪問したのがアルフレート様であった。言ってみれば、体の良い身代わりだったのだがな…。」
 エルンストはそこで話しを区切り、ワインを一口飲んだ。そして、何かを思い出すかのように、夜空を統べる蒼き月を見つめた。
「行きは良かった。何事もなく帝都に辿り着き、宮殿に入ることが出来たからな。だが、帰りは違った…。失態と言われても反論は出来ないな。時の砂漠で盗賊団の襲撃に遇い、アルフレート様が攫われてしまったのだから…。」

 王暦五百三年六月のこと。
 初夏の風に連れられたかのように、若干十六歳の王子アルフレートは異国の大地を踏んだ。モルヴェリ帝国の帝王モルヴェリウス二世の即位二十周年式典への出席のためだった。
 元来、王が出席するのが習わしであったが、情勢が悪化していたため、第二王子を使者として立てたのである。
 しかし、気さくな帝王はアルフレートの来訪を喜んで手厚く持て成し、この機に友好的な条約締結を約束したのであった。
 逆に言えば、王である父や第一王位継承者の兄よりも優位に立たせことになるのだが、それだけの技量を見込んでのことだったのかは定かではない。
 しかし、将来性を感じさせなければ成し得ないことだったであろう。
 それから数日、帰国の途についた彼らを不運が待ち構えていた。
 時の砂漠で盗賊に奇襲されたのである。
 モルヴェリから出た直後、王子を囲みながら護衛に当たっていた騎士の前に、突然もうもうたる煙があがった。
 騎士達は王子を護るべく剣を抜き放ったが、煙が収まる頃には、既に王子の姿はなかったのであった。
 最初から王子だけが目当てだったのである。
 近くの岩影から、数十騎の馬の足跡が帝都の方角へ向かっていたため、騎士達は即座に後を追ったが、帝都に着いた時には、王子は既に保護されていた後だった。
 王子の言葉によれば、助け人の特徴は紅く長い髪、長身で体格は良く、大剣を使いこなすと言うことだけで、名を聞くことは出来なかったと言う。
 この話しはいずれ語ることとなるので、話しを戻そう。

「アルフレート様は自ら名乗ることを許されなかったため、君の名を問うことも出来なかったと、大いに後悔しておられた。館に迎えたいとは、その時の礼も兼ねてのことなのだ。是非ともお越し願いたい。」
 エルンストはマルスに詰め寄り懇願してきた。半年も探し続けていたのだから、致し方ないだろう。尤も…半年で見つかったのだから、これは幸運とも言えようが。
 当のマルスは他に何かあるのだと察してはいたが、それを問い質そうとは思わなかった。
「まぁ、訪問するくらいならな。一緒に行こう。」
 気軽に答えたマルスだったが、その時ふと…後ろから声を掛けられた。
「行っちゃうの?」
 声の主はアンナであった。
 月影に照らし出されたアンナはどこか淋しげで、いつもの気丈さが感じられない。
 マルスは気まずそうにアンナに言った。
「すまない。俺は…。」
「いいの。いつかこうなるって、分かってはいたんだもの…。」
 弁解を口にしようとしたマルスであったが、アンナはそれを制したのであった。
「マルスだって元は旅人だもの。ずっと一緒に居られるなんて、思ってなんかなかったわ。」
 周囲には夏花の香りが舞っている。アンナは月明かりの中の二人のもとへ歩み寄り、一呼吸してから聞いた。
「いつ立つの?」
 一瞬、マルスは返答に詰まったが、エルンストを見て頷き、向き直って静かな口調で答えた。
「明日にでも出発しようと思ってる。」
 答えを聞いたアンナは俯いて、「そう…。」と呟いた。
 それを見たエルンストは、二人の傍をそっと離れたのであった。彼なりの気配りである。
 マルスは、そんなエルンストに心の中で礼を言った。アンナと二人きりで話したかったのだ。
 だが、マルスが口を開きかけた時、突如アンナが抱きついてきたのである。
「ア、アンナ!?」
 あまりに唐突なことだったので、マルスは慌ててしまった。アンナがこんな行動をとるなんて考えてもいなかったのだ。
 マルスは自分にしがみつくアンナを見つめ、軽く溜め息を吐いて抱き締めた。
「ほんとに…すまない。」
「まったくよ!私がどう思ってるかなんて全然気付かないんだもの!それなのに…。」
 アンナは泣いているようであった。
 いつも気丈に振る舞っていたアンナであるが、こうしてみると案外小柄なんだなと、マルスは今更のように感じていた。
 そしてマルスは、そんなアンナに静かに告げたのである。
「ほんとは…気付いてたんだ。俺だって、いつ告げようかって考えてたんだけどさ…。」
 そう告げられたアンナは、マルスの胸に伏せていた顔を上げ、マルスの顔を見上げた。
 大きな瞳は涙で濡れていたが、マルスがその涙をそっと拭った。
「アンナ、俺はお前のことが好きだ…。」
 そう告白するや、何か言おうとしていたアンナの唇に、マルスはそっと自らの唇を重ね合わせたのであった。
「こんな身勝手な男だが…待っていてくれるか?」
 今までにない程の真剣な顔付で、マルスはアンナを見つめていた。
 天高く輝く月が、そんなマルスの精悍な顔をより一層際立たせ、アンナは彼の顔から目が離せずにいた。
 ここで瞳を閉じてしまったら、すぐにでも消えてしまいそうであったからだ。
 マルスは待った。
 どんな返事だって構わない。良かれ悪しかれ、それがアンナの意志であるならば…。
 暫らくの後、アンナは意を決したように口を開いた。
「待ってる…。いつまでだって、待ち続けるわ。だから…帰ってきて…。」
 それがアンナの返事だった。
「ああ、必ず帰ってくる。アンナがここにいる限り、俺は必ず戻ってくる。」
 そう言うと、マルスは再びアンナの紅い唇に、自らの唇を重ね合わせたのであった。

 翌日の早朝。
 まだ夜も明け切らぬ時刻に、マルスとエルンストは旅支度を整えて食堂へと降りた。
「立つんだな。」
 突然声を掛けられ、二人は驚いてしまった。
 見ると、厨房にベルクとアンナが立っていたのである。
「ねぇ、マルス?昨日の晩には夜が明けてからって、言ってなかったかしら?」
 そう、昨日はあの後、旅に出ることをベルクに告げに行ったのだ。エルンストが先に行っていたので、話しはすぐにまとまった。
 その時は確かに、陽が昇ってから立つと伝えていた。
 しかし、お見通しだったようである。
「爺のカンを甘くみるなよ?小僧共にはまだまだ負けんは。」
 マルスとエルンストの二人は苦笑いし、背負っていた荷物一先ず床に置いた。
 それを見たベルクは、二人に食堂の席へ座るよう促した。
 二人はおとなしく席に着くと、暫らくしてアンナが飲み物を運んできた。
「これは一体どういう…?」
 小言でも言われるかと覚悟していた二人であったが、そんな彼らにアンナはこう言ったのであった。
「ご注文はお決まりですか?」
 そう言われた二人は目を丸くし、それから目を合わせて笑ったのであった。

 時は王暦五百九年八月の半ば。
 こうして二人の旅は幕を開けたのである。



 
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