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SNOW ROSE

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兄弟の章
  Ⅶ


「今…何と申した…?」
 フォールホルスト男爵は、信じられぬといった顔をして聞き返した。
「はい。ジョージ・レヴィン様がお亡くなりになりになられました。」
 男爵に問われ、執事は再度淡々と答えた。
 答えを聞いた男爵は、軽く頭を横に振って顔に手を当てた。
「ドナ周辺の山道にて、馬車が谷底へ落下したものとの報告を受けております。その地の医師からの報告では、ほぼ即死だったとのことにございます。」
 やはり淡々と答える執事に、男爵は苛立ちを覚えた。
「何故だ!ジョージが何故に死なねばならんのだ!彼は稀に見る天才であったのだ。そして何より、弟のために苦労を惜しまぬ心優しき者であったのだ。なのに…!」
 男爵も分かってはいる。執事は如何なる時であろうと平静であらねばならない。
 この執事とて、ジョージがどういう人物か知っているのだ。男爵の弟の葬儀の際の、あの晩餐にも同行していたのだから。
 そして、あの演奏に涙した者の一人でもあるのだ。
「葬儀は…済んでおるのか?」
「はい。ドナの街にて五月十九日に、彼の祖父母及びメルテ村民の手により執り行われたそうであります。その後、遺体をメルテの村へ移すために翌日に出立したとのことでございます。」
「分かった。」
 そう言うや、男爵は椅子から立ち上がり、執事に向かってこう告げた。
「楽団員全員を召集し、それぞれに旅支度を整えさせよ。私はサンドランドの店に行く。帰りしだい出発するゆえ、馬車を用意して急がせろ。」
 そう告げ終えると、男爵は部屋を出ていった。

 その頃、サンドランドの店では騒ぎになっていた。
「何で彼のような人が死ななくちゃならないんですか…!?」
 涙を流しながらサンドランドの前で怒鳴っているのは、後輩のメルデンだった。
 彼にとって、ジョージは尊敬できる先輩であり、目指すべきべき目標であり、そして頼れる兄のような存在でもあった。
「メルデン…君の心は痛いほど分かる。皆だってそうだし、私だってそうなんだからね…。彼ほど真直ぐに生き、心優しき人間はそうは居ないだろう。彼は真剣だった。それは自らのためでなく、病気がちな弟のためだった。その弟が亡くなってしまい、今度は…。」
 その場にいた誰もが思っていたことであった。
 コック長のアッカルドなどは、ジョージの死を伝えられてからと言うもの、気力を無くして椅子に座ったまま動かないでいた。
 いや、他の従業員達も皆そうであった。口々にジョージの思い出を回想しあっている有様で、とても営業どころではなくなっていたのである。
 たった十数か月働いただけの人物。しかし、ジョージはこの者達に愛されていたのだ。
 店の中だけではなく、この店を訪れた客や仕入れにくる商売人、買い物に行った店の人達にすら好かれていた。
 それは正しく、天成の性格だったと言っても差し支えないだろう。
 ジョージが楽師に任命された時、たった数日ではあったが聴きにきた客は、この二ヵ月の間にも何回も彼を訪ねてきた程である。
「どう客に説明するんだ。オーナーよぅ…。」
 アッカルドが顔を上げて、サンドランドを見た。その顔には悲痛な感情がありありと表れていた。
「黙っておくわけにもゆくまい…。」
 サンドランドは深い溜め息を洩らした。
 そんな時、いきなり裏戸が開き、そこからフォールホルスト男爵が入ってきた。
「サンドランド、訃報は知っているようだな。話が早い、私と共にレヴィン兄弟の墓所へ行こう。我が楽師であるジョージのため、私は彼らを弔いに行く。」
 入って来るや突然の物言いに、皆呆気にとられた。
 その中にあって、サンドランドは淋しげな笑みを見せて答えたのであった。
「勿論だ。ジョージは私の店の家族でもあったのだ。行かぬ訳にはゆくまい。お前の事だ、もう準備は進めてあるのだろ?」
「ああ、夜にでも出発出来る。お前はどうだ?」
「大丈夫だ。店は暫らくアッカルドに任せることにしよう。帰ってきたら、お前の楽団を借りるかも知れんがな。」
「そんなことであれば容易い用と言うものだ。」
 そう言って二人とも淋しげに微笑んだ。
 暫らくして、サンドランドは何かを思い出して言った。
「リチャード、渡さねばならんものがあるのだ。」
「お前がファーストネームで呼ぶのは久しいな。して、何なのだ?」
 そう男爵に問われたサンドランドは、二階にあるジョージの部屋へ男爵を連れてきた。
 その部屋は、ジョージがここを立ってからそのままになっていた。
 その一角に机があり、サンドランドはその机に置いてあった一冊の本を取って男爵に渡した。
「これだ。今日仕上がってきたのだ…。」
 それは美しく装丁の施された、一冊の楽譜帳であった。
 男爵は、表紙に書いてある文句を読んで驚いた。
 そこにはこう書かれていたのである。

― 些末な私に、大いなる恩恵と機会を与えて下さった主人、リチャード・ラルゲ・ライヒェルト・フォン・フォールホルスト男爵に謝意と畏敬の念を込めてこの曲集を捧げます。

王暦三百四年五月九日
ジョージ・レヴィン ―

 九日は、この曲集が完成した日を示している。
「何と…。協奏曲が十二、ソナタ六曲、カンタータが一部…。この我に献呈してくれたと言うのか…。」
 分厚い楽譜帳を捲りながら、男爵は目頭を押さえた。
「これを彼の手による演奏で、聴きたかったものだな…。」
「実はな、もう一つ別のものも届いていたのだ。」
 浸っていた男爵に、サンドランドはもう一冊、編んだだけの帳面を差し出した。こちらもかなり厚い。
「これは…?」
 男爵はその表紙を見て、またもや驚かされた。
 そこにはジョージの字でこう書かれていたのである。

― 今は亡き我が弟、ケイン・レヴィンの手による様々な楽曲集 ―

 それは、ケインが兄ジョージのために書き続けた、あの楽譜帳であった。
「弟も音楽を…。血は争えぬとはよく言う…。あいつもそうであったな…。」
「そうだな。取り付かれたように音楽を続けていたな。しかし、彼も天才だった…。」
「あの事故さえ無ければ…。」
「言うな。分かってる…。」
 二人は過去を見つめていた。遠い日々に友であった、一人の男のことを思い出していたのだ。
「幾夜も語り明かした。その度に、あいつはリュートを弾き続け…」
「眠る頃には、もう夜が明けていたな…。」
「ああ…。マルクスのヤツは、何一つ悪怯れもせなんだったな…。」
 兄弟の残した二つの楽譜を見つめながら、二人は彼、マルクス・レヴィンをを思い出していた。
 懐かしき青春の日々は、マルクスの奏でた音楽によって彩られていた。
 二人とも爵位なぞに興味は無く、サンドランドは料理や経営に、フォールホルストは詩や絵に熱中していた時代があったのだ。
 マルクスと三人で何か出来ないかと、本気で考えていた若き日々。
 マルクスの影響で、サンドランドはリュートを、フォールホルストは歌唱を学んでもいた在りし日の残像。
 二人の記憶は、遠いセピア色の彼方へと繋がっていた。
「リチャード。マルクスの楽譜が手元にあるだろ?」
「勿論だ。資料室に保管してある。引っ張りだしてこいと言うのであろう?もう用意させてある。」
 男爵は当然と言った風に微笑した。
「さすがだな。では彼らのために、全曲を演奏しようじゃないか。」
 サンドランドは二つの楽譜に手を置き、宣誓するかの如く言い放ったのであった。
「リュートの腕は鈍ってなかろうな?」
 不適な顔をして男爵が聞いた。
「お前こそ声質が落ちてしまったんじゃないだろうな?」
 サンドランドもそう言って二人して微笑んだ。
 再び音楽をやる日がこようとは夢にも思っていなかった二人。運命の悪戯か神の思し召しか…。
 マルクスの名が世間に広まり二人が爵位を継いでから、早十七年の歳月が過ぎていた。だが今の二人は、マルクスと共に音楽を奏でた友であり、その心はあの頃のそれに戻っていた。
「さぁ、行くか。」
 サンドランドの声を合図に、二人は楽譜を手に部屋を出て行った。
 部屋の中には春の紅くなりつつある陽射しが差し込み、ただ静けさだけが取り残されたのであった。
 それから数時間の後、旅支度の整った男爵らが出発したのは、夜八時を回ってからのことであった。



 
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