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機動戦士ガンダムMSV-エクリチュールの囁き-

作者:桃豚(21)
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エピ-ミュトス

お前の両目の草、苦い草。
風が そのうえに吹き渡る、蝋の瞼に。


お前の両目の水、赦された水。                      





 












 モニカ・アノーは静かに外を見ていた。
 窓辺から見える新緑の木々。一杯に広がる青々とした湖。
汚染から地球を救うことをイデオロギーに掲げたテロ組織、マフティー・ナビーユ・エリンが武装蜂起した一連の紛争―――マフティー動乱も、もう、数年前の過去のことにされつつある。
 湖に隣接するようにして建設されたやや古めかしい木製のコテージ風のレストランは、老境に入りかけといった風采の夫婦が経営している。15人ほどの客が入るであろう。テーブル席からでも窺い知れる厨房では、最近調理師免許を取ったばかりだという髭面のシェフが腕を振るっていた。常連客によれば、時折調理をミスってとんでもない料理が出てくるのだという。少しだけハラハラしながら、ぼんやりと外を眺める。
 もう、10年も前になる―――モニカは、薄く目を閉じた。
 手が震える。咽喉が引き攣る。
 すぐ耳元で呻く、かつての記憶。
 互いに愛し合う者同士が互いの名を叫びながら殺し合うという惨劇。
 叫ぶ彼の声が鼓膜の内側から膨れ上がる。
 叫ぶ彼女の声が鼓膜の内側から膨れ上がる。
 無線通信越しにただ、聞いていることしかできなかった、私―――。
 忘れていない。忘れられるわけがない。己の手で下したあの悲哀を、どうして忘れることができようか?
 後悔ばかりが積み重なっていく。たとえそれが正義に適う行為と信じて行ったことだとしても、だからといってそれが正しいわけじゃない。何をしようとも人は悔いを残し、そうしてそれを背中に負いながら生きていくほかないのだ。
 モニカ・アノーという人間が背負う業であり、責め。一人で背負うにはあまりの巨重で、いつ潰れてしまうかもわからない。それでも誰かと共に背負うことはこの疼きが拒否する。
 現に存在している私、否、何の理由も無くただ偶然的に必然的に存在しているこの私以外の、誰が存在し得ないものの沈黙の呻きを聞き届けられようか――――?
 母親の苦悩を悟ったのだろう、子供用の椅子に座っていたモニカの子どもがぐずり始めた。
 想起から意識を取り戻して、慌てて赤ん坊を抱きかかえ、揺すってみてもダメだった。
 母親とは己であり己とは母親であり―――モニカが押しつぶされそうになったのなら、彼女の子どももまた同じ感情を抱くものだ。幼子はまだ、場としてしかしか生きていないのである。
 夕方からの時間が始まったばかりでちらほらとしか客が居なかったし、この静かなレストランに訪れる紳士淑女は若い母親と赤ん坊に微笑を浮かべる品位を持ち合わせている人々だった。だが、そんな周りの空気に甘えようという気もモニカはなく、必死に泣き止ませようと頑張っていた。
「ほらダメよ、シーブック……」
 店の外に出たほうがいいだろうか―――必死の形相で大声を上げる我が子と、店の中を見回した時、レストランの奥からぱたぱたと女性が駆けてきた。
「よろしくて?」
 黒い髪に、自分よりずっと年上なのに、童顔のせいでなんだか年齢がよくわからない女性が小首を傾げた。
 シェフの奥さんだ。すみません、と頭を下げながら自分の子どもを彼女に渡すと、慣れた手つきで子どもを抱きかかえた。
「貴女、一人目?」
 わんわん泣きわめく子どもを愛子ながら、女性が一瞥だけした。
「はい、最初の子どもで」
「大変よね、一人目だと」
 感慨深そうに子どもを眺め、ぽつりと口にする言葉はどこか哀しい。それが何なのか、モニカには知る由も無かった。
 女性があやし始めて数分もすれば、赤ん坊はすっかり泣き止んで、女性の腕の中でいつも通り物静かに思案にでも耽っているようにどことも知れないところを眺めていた。
 礼を一つ、女性の手から赤ん坊を受け取って、厨房の奥に戻っていく女性の後姿を見送ったモニカは、赤ん坊を抱きながらもう一度席に座った。
 生まれた時の体重は2000gほどと小さく生まれた赤ん坊だったが、今ではすっかり大きくなってしまったものだ。こうして抱えているだけでも腕が怠くなってくる。
 もちろん倦怠など感じない。己の産んだ子どもに対し、育てることに酷苦を感じることもある。だが、それ以上に愛おしい存在なのだ。何の条件も無く、ただ愛しいが故に愛する。それが、母親が子に対して抱く生来の感情であろう――――――。
 だがそれであるが故に。
 逆説的に、己の子に愛を抱けないことは、己の子を無垢に愛することが出来ないことは、なんて、悲しい出来事なのだろう―――。
 不意に頬を何かが触れた。というか叩いた。
 ぎょっとして自分の腕に抱かれる子どもを観れば、酷く不満そうな顔をしながらモニカの頬を叩いていた。
「何? どうしたの、シーブック」
 相変わらず眉間に皺を寄せながら、不満そうな顔でモニカの頬を叩いている―――あ、と、モニカは気づいた。
 いつの間にか、強い力で子どもを抱いていた。いてーぞおい、と言いたげな顔を思えば、彼の抗議の顔も頷ける。
 慌てて手に込めた力を緩めると、ほっとしたような顔をして、そうして再び虚空を眺めはじめた。
 なんだか不思議な子供だな、と、我ながら他人事のように思う。よく、こうして静かにどこかを眺めては、時々思い出したように子どもらしく振る舞うのだ。
 大人びた、と言うか、変な子供と言うのか。
 名前を付けたのは自分だが、果たしてその名前に何を込めたのだろう。
 誰か背中を丸めて本を読む男の姿を見たような―――
 子どもの顔を眺めていると、からんからん、と丸い金属音が鳴り、モニカは顔を上げた。 入口付近で視線を彷徨わせていた女性と目が逢う。
 蒼い瞳。栗色の髪の毛はサイドだけ長く伸ばして、あとはショートカットよりは少し長い程度の長さだ。身長は160cmを少し超えているくらいだろうか。すらっとした身体つきはどこかモデルみたいだ。ジーンズにタンクトップそれだけの格好なのに様になっている。切れ上がった目つきは大人っぽい雰囲気ながらも、少しだけ童顔の彼女だった。
 プルート・シュティルナーは、物憂げな表情を一転させて笑みを浮かべた。
「ごめんごめん、遅くなっちゃって」
 店の奥に礼をしながら、モニカが座る窓辺の席にプルートも腰を下ろした。
「こちらこそすみません―――呼び出してしまって」
「いいよいいよ。今は暇だから」
 右手で頬杖をつきながら、ひらひらと手を振って柔和な笑みを浮かべる。
 窓辺から差し込む陽光。深海のような蒼い瞳の奥底までは決して届かない陽光、それでも温かな人工の丸い灯りは、確かにプルート・シュティルナーの姿を抱いていた。
「お待たせしました」
 店主の奥さんの声が耳朶を打つ。「あぁ、どうも」と頭を下げながら、テーブルの横に立つ彼女からトレーを受け取る。朗らかそうな女性の笑みに、店の奥を眺めれば、髭を少しだけ生やした短髪の男が優しげな視線を向けていた。
 トレーに視線を移す。白い米―――こうして炊かれた米を、日本では特別にご飯と言うらしい―――は女性の出身地である地球の日本からわざわざ取り寄せているらしい。つやつやとした白い輝きは太陽の輝きを受けてなお、慎ましげな美しさを艶やかに孕む。
 ほかの料理も見逃せない。メインディッシュの料理は鯖の味噌煮だ。見た目こそ泥で煮込んだようで表し難いが、味は料理の良さを言語で語ることの陳腐さを改めて自覚してくれるほどで、味噌のスープもレイヤーを為した重厚でありながらもほかの料理を演出する素朴な味わいで感動的だ。全体を俯瞰してみれば、鯖の味噌煮のその地味な見た目も、日本と言う風土の飾らない、そして奥に秘めた熱意の緊張を端的に表しているのだろう。
「お決まりでしょうか?」
「えーっと、じゃあ同じものを」
「わかりました。ブライト!」
 店の奥に声をかける。髭を生やした男が頷いた。
 軽く一礼した女性が店の奥に戻っていく。途中、気品の有りそうな夫婦に掴まり話に華を咲かせている姿を一瞥しながら、子どもを椅子に座らせると、モニカはシルバーのフォークを手に取った。
「日本食かぁ、エドワーズ以来だな」
 興味ありげにプルートがトレーを覗き込む。
 あの一見以来、連邦政府に投降したプルートは紆余曲折の後第666特務戦技教導試験隊の一員として迎えられることになったのが、まぁ、それはともかく、だから彼女もニューエドワーズの食事にはありついているのだ。
「よっと」
「あ」
 ひょいとプルートが手を伸ばし、小皿のたくあんを一切れ摘まむ。そのまま口の中に放り込んだ。
「ちょっとお行儀が悪いよ」
「 「お」!行儀だってさ! モニカもすっかり教育ママだな」
 ぽりぽりたくあんを咀嚼する音を立てながら、プルートはお道化たような調子正面に座る子どもに同意を求めるように視線を向ける。子どもは相変わらず虚空を眺めて―――いなかった。何やら喃語を呻きながら、プルートを見ながら両手をぱたぱた振ってはまた何かを呻いていた。
「なぁに? どうしたの、シーブック」
 子どもの頭を撫でる。プルートは思案気に視線を上に向けた後、納得したように手を打った。
「わかった。たくあんが食べたいんだな?」
 モニカが注意する暇も無く、またプルートが小皿からたくあんを一切れ摘まむ。赤ん坊は今までのむすっとした表情とは一転してにこやかな、赤ん坊らしい無邪気な笑みを浮かべた。
「ちょっとプル、止めてよ。歯も生えてないのよ?」
「んなこと言うなよ。ほら、めっちゃ嬉しそうじゃん。死にはしねーよ」
「そういう問題じゃ……」
 モニカの制止も聞かず、プルートが身を乗り出して真っ黄色の大根の断片を差し出す。赤ん坊は何の躊躇も無く黄色い切れ端を両手で握ると、迷わずそれを口に入れた。
 冷や冷やしながらその光景を眺めていると、赤ん坊は特に何の不快も示さずに一心不乱にたくあんをしゃぶり始めた。
「おー、マジで食ってる」
 目を丸くしたプルートが子どもっぽい笑みを浮かべる。そういうんなら最初からやるんじゃないよ、と恨めしい視線を送りながら、思う。
 大人の女性というのだろうか。どこか大人びた雰囲気の中に、子どもらしい素振りが混じる。
 なんだか、プルートも、最初に出会った時に比べてなんだか変わった気がする。片耳だけつけた金色のハート形のピアスがきらりと悪戯っぽく閃いた。
「あいつは、まだだよ」
 また漬物に手を伸ばしたプルートが、思い出したようにそれを口にした。本当に何でもないようなことを言うみたいに、道端に生えているプラムを毟って握り潰すように。フォークで鯖を切り分けて丁度口に入れるところで、モニカは開けた口を閉じた。ぽちゃりと垂れた味噌のスープが白い食器の縁に零れて、茶色い沁みを丸く描いた。
「やっぱりまだ?」
 声が覚束なる。視線はフォークに刺した切り身だけに注いでいた。
「あぁ―――まだ、あの子は」
 プルートの声も、行き場を無くしたように萎んでいく。モニカは、フォークに刺した鯖の切り身を口に入れた。
「なぁモニカ。お前が気に病む必要はないんじゃないのか? その、あたしはその時いなかったけど、でもモニカが悪いわけじゃないんだろう?」
 プルートはやはり視線を上げなかった。彼女の声は少しだけの微笑みを湛えている。精一杯、そのようにしている。
 モニカもプルートと目を合わせようとはせず、窓の向こうに視線を投げた。
 自分の表情はよくわからない。筋肉は動いておらず、恐らく無表情であろう―――いや、モニカも同じように、千切れそうなほどの小さな笑みの情動を、表情筋の筋繊維に凝らせていた。
 降り注ぐ光を孕み、湖の水面が囁く。ちろちろと、ひそひそ話をするみたいに―――。
「でも、それでもやっぱり、決めましたから」
 口からするりと、恐ろしいほどの滑らかさでもって声が流れる―――モニカは、視線を少しだけ上げたプルートを見返した。
 ―――独りの男の結末と、独りの少女の結末。その終末を引き起こしたのは、どうあっても自分なのだ。それが命令であり、それが善を確信した行為であり、結果的に、総体的にはその行為は善であった―――としても。
 譬えそれが結果的に善かったとしても、周りの人間がそれを善いとかたったとしても。
 その善のために零れてしまったものを顧みなければ、ならないはずなのだ。世界がそれを忘れても、歴史から消されてしまっても、言葉が語ることすらできないとしても。
 人間にそれを把持する方法などありはしない。言うなればそれは、不可能の試みなのだ。言葉の空無の奥に住まう存在の発語を人間の言語として世界に出力することは、ある地点で限界に触れざるを得ない。だから、人はその不可能の試みの前で挫折し、気晴らしのお喋りを延々と空転させ続けるのである。
 だが。
 だが。
 それでも。
 それでも―――それでも、と言い続けることを止めてしまうならば、人間が受け取り紡いだ存在の想いを、理性だけで捨ててしまうというのなら、そんなヒト種などという隔絶存在などはさっさと絶滅してしまえばいい。自我なるものが、理性からの叫びを感情という名のホームドラマに仕立て上げることしかできないのであるならば、そんな人類などに生命を貫徹する価値は霞ほども無い。
 プルートは、そっか、と言って、それ以上何も言わなかった。
 結局プルートも同じものを頼んで、レストランで食事を終えたモニカと赤ん坊とプルートは、同じサイド1の3バンチコロニー、エデンへと赴いた。
 エデンについて、ポートから出たモニカは眼前に広がる光景をぼんやりと眺めた。エデンに限らないが、サイド1は最初期のコロニー群なだけあって奇妙に牧歌的だ。間延びするほどに緑が広がり、ここが本当にコロニーと言う強大な工業構造体の中なのかを疑ってしまう。空を見上げれば、淡く匂い立つ雲を隔てた向こうにも、まだ緑の大地が広がっている。
 エレカの一つも見当たらず、結局目的地まで足で行くことに辟易して、聞いていたよりも異様に暑い天候にも辟易したモニカは、空に浮かぶ大地を呆然と眺めながら歩みを続けた。赤子は特に何も言わず、真摯な瞳をどこかへ向けていた。
 どれほど歩いたか。気が付けば、モニカは町から少し離れた小高い丘に登っていた。
 振り返って、町を見下ろす。本当に、街というより町だ。立ち並ぶ建築物は軒並み低くて、つい一昨日まで見た高層ビルがずらずらと立ち並ぶ光景に居たものだからなおさら視線が低い。小高い丘から町を一望するという光景が、なんだか懐かしい。そんな光景など、今はじめて見たというのに。
 汗が腕に落ちる。じりじりと照り付ける光に加えて、子どもを抱きかかえているのが何より辛い。子どもと自分が接する境界線が蒸れて酷く痒いのだ。
 前を歩くプルートの足取りはどこか重たく、それでいて軽やかだった。草を踏みしめ大地をしっかりと掴むスニーカーは粘り強い。ポケットに両手の親指を除いた指を入れて、しゃんしゃんと上下に揺れる。時折、鼻を通り過ぎていく微かにだけ湿った風の中に、甘い匂いが混じる。鼻孔の奥に残滓を溜めながら、肺の底に沈殿していく色欲の分泌物のような薫り。そうでありながら、採れたてのさくらんぼみたいにさっぱりした薫り。背筋を伸ばして前を行く女の、少女のような体臭。少しだけ、髪が伸びていた。前は首筋にかかるくらいだったのに、今は、肩にかかるくらいだ。
 羽虫でもいたのか。プルートが顔を振る。長く伸びたもみあげが大きくうねり、運動に振り回された金色のピアス、ペンデュラムの軌跡を描いた軌道が放つ黄金の煌めきで、視神経に鮮やかに発火する。
 ふとプルートが足を止める。まるで一枚の風景でも眺めるようにプルートの背を見ていたモニカは、立ち止まったことにぶつかる寸前で気づいた。
 丘の中腹ほどで、人が降りてくるところだった。Tシャツにジーンズ姿の20代中ほどの男で、深くかぶった帽子からはみ出た黒い毛が覗いている。ポケットに手を入れて歩く姿はなんとなく垢抜けなくて、モニカはなんだか自分を見ているようだった。その男が顔を上げて、プルートの顔をまじまじと眺めていた。
 懐かしい人を見つけたように目を丸くして、そうして肩を落とした男は視線を逸らした。結局男は何も語らず、帽子を深くかぶり直し、一礼するとモニカたちの脇を通り過ぎていった。 
 男の背に視線を送る。赤ん坊が何か畏れるような顔をしながらむずがって、モニカは男の背から視線を逸らした。
「もう、居るんだな」
 堕ちる光を遮るように、右手でひさしを作ったプルートが立ち止まる。背中に滲んだ汗が黒いタンクトップを黒く染める。丸い光を孕んだ雫がうなじを伝い、タンクトップの襟に吸い込まれ、黒い模様を深くしていく。
 風が草草と密やかに睦言を交わし、モニカの足元を通り過ぎていく。遠くで啼いた鳥の声は誰か、何かに品の良いお辞儀をしているようだった。
 額から落ちた水滴が頬を伝い、首元をひやりとさせる。指先が痙攣して、重ねた右手の人差し指の爪のエナメル質の表面と中指の指紋が擦れあう。栗色の髪の少女が黄昏の光を受けて、メランコリーな影法師が長く長く長くながく延びていく。
 1児の母となった女性が、視線を上げた。
 丘の上には一本だけ木が立っている。大木と言う程でもない。人が3人も集まれば木の周囲を抱きかかえられるくらいの大きさで、高さも10mもないだろう。本来は鮮やかな緑色なのだろうが、幽邃を受けた樹木は枯れているようである。
 その木陰に誰かいる。風に銀の髪をそよがせて、向こうを眺めていた。逢魔の光を受けた銀の髪が妖を孕み、黄金に煌めく。
 心臓の血管が一斉に委縮する。心臓の筋肉が蠕動し、心臓が肥大する。
 プルートが彼女の名前を呼んだ。彼女は振り返らず、ただ風に髪をそよがせていた。
 モニカが彼女の名前を呼んだ。彼女は振り返らず、ただ風に髪をそよがせていた。
 稺き人が声を上げる。誰かの影は微かにだけ身動ぎして、こちらを、振り向いた。
 ※
 お母さん―――耳の中を舐めるような、穏やかな声がしっとりと鼓膜を濡らす―――お母さんと誰か来たよ。
 自分の、娘の声だ。判然と薄れた意識が、くしゃりと固着した。
 小高い丘の上。視界を遮るものは何もなく、明るい陽が真上からじりじりと照り付ける。もの憂いように見上げる。脇に立つ樹が影を作ってくれなければ、熱で溶けて死んでしまいそうだ。なんて。樹はもう若くないのか、ごつごつした皮膚は触れればぽろぽろと崩れそうで、そして実際手で触れてみれば、その威厳を感じる見た目に反して、呆気なく樹皮が剥離して、砕けて大地に落ちていく。掌の爪の中に、指紋に、樹の屑が付着していた。また、木にふれてみる。
 しっとりと肌の上を伝っていく微かな冷たい身動ぎを感じながら、娘の顔を見た。
 見上げる少女の瞳は青く、セミロングの髪は栗色だった。純白の肌は雪のようで、触れればそのまま溶けてしまいそうだ。娘が右手に握ったシネラリアの灰色の花弁が風と戯れてゆらゆらと頭をもたげる。綺麗なお花。足元にはサイサリスの紅の襞が艶やかなに咲いている。綺麗なお花。名前はわかんないけど白い花もお淑やかに首を下げて雪が零れるように綺麗綺麗キレイきれい。イヌサフランの紫色きれいきれい綺麗なお花。肌と同じくらい白いワンピースを握る少女の顔つきはなんだかもの悲しい。そういう顔を見るのは嫌だな、と思って、手を取って、背後を振り返った。
 1人の人影が眼に入った。と、思ってから、3人だと気づいた。
 風が吹く。少女が頭にかぶった麦わら帽子が飛びそうになって、慌ててその帽子を押さえた。
 名前を呼ぶ声が聞こえる。栗色の髪の蒼い瞳の女性が、無邪気な笑みを浮かべて手を振っている。黒い髪の女性が柔和な―――笑みを浮かべている。
 ………。
 その音に、声色に、何故か、なんだかチェルノーゼムのような懐かしさを感じた。
 そっと耳元で囁く戯れの(エクリチュール)
 鼓膜に触れ耳小骨を震わせ蝸牛の中のリンパ液を羊水のように揺らし頭の奥底にじっとりと浸透していく柔らかい性/聖の安らい―――。
 でもそ、れのな。ん。な、のかそ、のなつか、し。さ、がし。ょう、たい、て、なん、なのか。わ、から、なく、をそれで、もな、にかな、とか、んが、えよ、う、がす・る・け、れ、ど、か、んが、えよ。うとするた、び、はあた、ま、が、なか・でう。じ、む、しに。け、っき、ょくか、んがえ、るの。をや、めたか、らの……たうちま。わ? ――――――る……[]、
 。
 なぁに、お母さん。優しい笑みの表情を指示して、小さな少女がオカリナの音色みたいな声で言う。
 娘を見返した。蒼く紅い瞳が(くら)く黒い光焉(ひかり)を呑込む。
 今、なんて言ったの?
 少女の甘酸っぱい情欲的なさくらんぼのくちびるが、微かに動いた。
 不思議そうに子どもが見上げる。
 今、わたしは、何か、言ったのだろうか。
 自分の唇に人差し指を当てて、どこか果敢無い真っ白な肌の少女の顔を見ながら、しばしもの思いに沈んでみる。
 うーん。うーん。
 よく、わからない。確かに唇が動いたような気がしたが、くちびるが何を発したのか、その言葉がどんな意味を持っていたのか、確かめる術は無かった。物象化されたフェノメナルなはずのもの、風に乗って消えてしまった言葉など、ものとなってしまった言葉など、どうしようも無かった。
 頭上には青い蝋を薄く伸ばしたような蒼穹が広がり、煌めく心地よい光が彼女を照らす。真上で閃く陽光はあまりに強くて、照らしていくもの全てを白く、白く、白く、焼けるように白く、染め上げていく。黒く、黒く、黒く、全ての牛を塗りつぶしていくように染め上げていく。
 かつて黄金であったと憧憬される無が、痕跡が現前していた。
 全てが純白に翻訳されていく。真ん丸の太陽から降り注ぐ光は酷くとげとげしていて、全てのものの境界線を溶かしていくようだ。
 平衡感覚が無い。手にふれていないとたおれてしまいそうだ。
 方向感覚が無い。手にふれていないとどっちがどっちだかわからなくなりそうだ。
 記憶感覚が無い。手にふれていないと1びょうまえのことがわからなくなりそうだ。
 未来感覚が無い。手にふれていないとまえにすすむことすらできなくなりそうだ。
 手から、樹を離した。ぽろぽろと肌が崩れ落ちていく。
 影のひとつも見当たらないほどに溟く、沈黙が澄み切った淀んだ視界の中、何かの朧な輪郭が浮かび上がっていく。
 化石になった恐竜のたまごみたいだ。殻はもう雨風でぼろになり、ざらざらした摩擦的な粗い手触りの外殻で、既に中身は死んでいる。いや、死んでいない。その内奥、一番奥、たまごが子宮(マトリクス)のうちで安らいでいる内から、生命の芯に秘めた瑞々しい源泉が溢れ、流出した液体、存在者の誰も知らぬ間に農夫の足跡の内側で聖化された無の遍在―――それは存在か? 相対か? 異なる第3項による切断か? だが、きっと模写し得ぬ、戯れることは可能に見える空無の奥底に沈殿し続けるであろうことが予見される空の聖杯から湧き出て、農夫の足跡を満たしていく代名詞的な充溢…―――が、まだ息づいて、痙攣している。
 わらった。
 わらったのだ。
 むじゃきでむくなほほえみが、エレアの口角を柔らかく上げさせ、頬に丸みを与え、赤い眼差しに温かさをはらませる―――。
















                                










                                    































 ――Hörte jemand ihr zu? …… 
 

 
後書き
これにて終わりです。
長々お疲れさまでした。

 
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