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機動戦士ガンダムMSV-エクリチュールの囁き-

作者:桃豚(21)
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70話

「まったくあいつは妙なところで抜けているな」
 ぶつぶつと独り言を吐きながら、フェニクスは宿舎の廊下を歩いていた。こつこつと軍靴が床を叩く音が耳朶を打ち、どこか死んだように静かな廊下の中をゆらゆらと反響していく。
 クレイ・ハイデガーは生真面目な男だ。仕事を頼めば期限前に悠々と仕事をやり終えるし、内容も一年目にしては卒が無い。ただ、時々レポートの提出などが遅れたりするのが欠点か―――やり終えて、印刷したまま机の上に放っておいてしまうなど、やり終えているのに忘れることがあるのは如何ともしがたい。有能ではあるのだが、まだ一年目だ。色々と早計な判断は出来まい。上手く育てば、人の上に立つという意味では大成する人材ではないだろうが、将来的には上に立つ人間の補佐官としては有能さを発揮するだろう。
 微かに笑みを浮かべる。ガスパールと同じことを言っている。思えば、自分を連邦に引き抜いたのもあの男だった。
 似た者同士だな、と思う。上に立つ人間にはユーモラスが必要なのだ。クレイにも、そしてフェニクスにもその一面は欠如していた。
 そして、誰かの手で意図的に引き抜かれた、という点も―――。
 フェニクスは表情筋をミリほども動かさなかった。堅物そうに口元を結んで、琥珀色の瞳はいつも以上に鋭く切れ上がっていた。
 鏡の一枚ほどの飾り気のない階段を上がって、廊下の突き当りを左に行けばクレイに宛がわれた個室があった。
 この部屋の暗証番号は立場上知り得ていたし、エレアからも何度か教わっていた。留守中に悪いかな、とは思うが、何分早急に必要になった資料だ。提出を忘れた身分で口答えはさせまい、などと思いながら、壁に埋め込まれたタッチパネルに手を触れて―――。
 安物っぽい電子音と共に認証完了を示す青緑色の光が灯り、三葉虫が這った後みたいな「yes」の黒い文字が急かすように浮かび上がった。
 自動ドアが音も無くスライドし、黒い穴がぽっかりと口を開けた。部屋の奥では、弱弱しい人工の白い光が部屋の中で申し訳なさそうに身を縮こまらせていた。
 ぽかんとしながらその中の空間を眺める。そう言えば、クレイは最近よく部屋のロックを忘れているらしい。今日はデスクのライトも消し忘れ、か。
 真面目なんだか抜けているんだか。死んだように静かな部屋に足を踏み入れ、フェニクスは寂れたような光の下へと向かった。
 デスクの上は煩雑に散らかっており、3cmほどの厚みのある本が山のようになっている。辞書も何冊かあるらしい。
 見ればベッドの上も片付いておらず、今日の早朝はこの部屋は焦りの最中にあったというわけだ。
 もう一度デスクを見る。基本的に彼曰く、出していない時は仕事用のPCにデータとして入ったままか、あるいは机の上にあることが多いのだとか。
「これか」
 A4サイズで50枚ほどの紙の束を手に取る。タイトルを見れば、確かに目的の物だった。
 あとは早々に立ち去るとしよう。前にかかった髪を払うように首を動かした時だった。
 ふと、デスクの上の本が目に入った。サイズこそ小さかったが、その本は酷く分厚い。表紙にはその著者であろう人物の肖像画が描かれており、生真面目そうだがどこかコミカルさを感じさせる顔がフェニクスを見返した。
 そういえば、サイド3で聞いた時にこの本を読んでいると言っていた気がする。フェニクスはそれを手に取り、パラパラとページを繰った。
 綺麗な本だった。紙媒体が急速に世界から姿を消しつつあり、世界の多くの人間は電子書籍を読書の友としている。人の趣味趣向をとやかく言う気はないが、なんとなく寂しい。本を読む、という行為はもっと現前するものへの重さと、それに対する敬意をもった行為ではないのか? どこでもいつでも読める、などという有用性の位相だけで、読書を語っていいものなのか―――まぁ、愚痴である。
 パラパラとページが捲れるたびに古い紙の、吸えば肺の奥に溜まり、頭の中にじっとりと沁み込んでくる特異な匂い、それでいて軽やかな明るい知恵の閃きが神経を撫でていく匂いが鼻をつく。
 ―――何かおかしい。フェニクスは、ふと胸中に所在ない違和感が湧き上がるのを感じた。
 その理由も何もわからず、フェニクスはその本の上の部分を撫で―――。
 あ、と唐突に理解した。フェニクスは、その本があまりに綺麗すぎることに違和感を抱いたのだ。そして、本の上部に、最初のページ付近以外全く付箋が無いことに気づいた。
 クレイの所有する本を一度だけ見たことがある。付箋が上から横からはみ出し、ページを開けば赤線が引かれ、上下左右の小さな余白にびっしりと注釈や言い換え、疑問点、そして自分の疑問への自答などが書かれていたはずなのだ。はっきり言えば、彼に本を綺麗に扱おうなどという姿勢は欠片ほども存在していなかったのだ。読書とは、出会いであり対話であり、絶えざる源-闘争である。そこに生半可な妥協や安易な選好が入り込む余地は欠片ほども無い―――まさにそうした意思を感じさせる、まさに一つの戦場だったのだ。
 それが、この本には無い。確かに本自体は古いもので紙も黄ばみ始めていたが、保存状態は良かった。まるで、買ったまま放置されたかのように綺麗だった。
 読み方が変わった―――それは無い。何せ、最初のページのほうにはきちんと付箋が貼ってあるのだ。ページを開けば、やはり余白がなくなってしまうほどに細かくメモが記載され、そこにはこの本の保存状態など知ったことかという姿勢がありありと感じられる。
「これは―――」
 どういうことだ?
 その本を手に取りながら、フェニクスは自問する。この本を読み始めたと言っていたのはサイド3を訪れた時だった。それから3月以上の時間は警戒しているというのに、ほとんどページが進んでいない。
 ありえないことではない。なるほど哲学書を丁寧に精読しようと思えば、数ページとはいえ長い時間がかかる。この本もそれなりに有名な本で、歴史的にも注目されてきた本だ。だが、読んでみれば一文読むことすら困難というほどでもなく、何を言わんとしているのかを把握すること自体は簡単だ。
 最初のページだけに、その戦闘の残痕が刻まれている。捲ってみれば、同じ個所に何回も赤のボールペンで線が引かれている場所もあれば、一度だけ素っ気なく引かれている場所もある。まるで他人と話す人見知りのような姿勢は後の方になればなるほど顕著で、それはまるで毎回最初から読んでいるかのようで―――。
 ―――フェニクスは、目を見開いた。そして、振り返って背後のスライドドアを視界に入れた。
 ―――だとしたら。
 視界に掠めるモニカの表情―――彼女に連絡を取らなければ。フェニクスは手にした資料を放り棄て、己の役割を忘れてしまったかのように誰をも招き入れるドアが開くのも待てぬと言った体で部屋を出て、無線機を手に取った。
 普段の軍用コードとば別なコードにセットしかけ―――。
 甲高い音が鼓膜を刺した。不安を一気に煽るようなその音が鼓膜を叩き耳小骨を揺さぶり、蝸牛の中のリンパ液がぐらぐらと揺れる。聴覚神経を伝った電気信号は、フェニクスの頭の中で警戒警報の意に解釈された。
「これは―――!?」
 瞠目は刹那。
 一瞬で事態を理解したフェニクスは、その宿舎中に―――コロニー中に響くその音に背を押されるようにして、駆けだした。
 ※
 同時刻

「面白かったねー」
 満足気に笑みを浮かべるエレアに、クレイも頷いた。
 『魔法少尉パンツァー☆彡りいな』。3年ほどに極東日本で制作されたアニメの続編映画が今日公開だったのだ。
 アニメ公開直前はプリティーでキュアキュアなジュニアハイスクールの少女たちが魔法少女に変身して戦うというシナリオの鉄板さと柔らかいタッチの絵柄をウリにしたアニメと思わせておきながら、ハードミリタリー・ハードSF用語がガトリングの弾丸の如く飛び交い、立ち入った哲学的議論が烈火の如く繰り広げられるなど一般人を置いてけぼりにし、分野の知識人を大いに唸らせた怪アニメとして名高い作品―――らしい。ともかく、今日公開された劇場版は、本編のその後の話である。魔法少女たちの服が迷彩仕様だったり、魔法の杖にトリガーとバイポットとスコープが装備されていたりとハチャメチャなのは相変わらずだったが、よもや上映終了とともに映画館が拍手で包まれるとは思わなかった。
「野戦兵の女の子って生理どうしてるのかな? 銃なんて撃ってる場合じゃないと思うんだけど」
「そ、そうなのか……」
 そこは釈然としない、と言った風に口をとがらせる。
 シナリオを考えているのが男なのであろうから、そういう所に気が付かないのは仕方ないのだろうが―――。
 クレイにも生体的に一生理解できないであろう出来事を想像していると、するするとエレアの右手がクレイの左手に絡まっていく。
 指の第二関節で互いの指を保持するのは、彼女の手が小さいからぎゅっと握ると圧迫感があるからなんだとか。
 まぁ、それは良いのだが―――クレイはその微かな彼女の存在を感じながらも、恐る恐る周囲に視線をやった。
 『魔法少尉パンツァー☆彡りいな』は割と色々な層から支持があるらしく、幼女もいれば20代のキャリアウーマンと言った風采の女性もいたり。
 そして、例によって『彼ら』もいる。その『彼ら』から浴びせられるどこか鋭い視線も、その理由はよくわかる。クレイもついこの頃はそちら側の人間だったからだ。
 かといって優越があるわけでもなく、クレイはその映画館のあるフロアを気まずい気分で抜け、映画館のあるビルを出た。
「あ! 見てよ!」
 エレアが黄色い声を上げる。
「―――おお」
 空を見上げて、クレイは思わず声を失った。
 黒い空からふわふわと降ってくる白い物体。それを手に取って見れば、微かな冷たさが肌を摘まんだ。
「雪?」
 手に落ちた断片を見下ろして、手を握る。溶けた塊は温い液体が残るばかりだった。
 もう一度空を見上げ、その降りしきる白い塊をまざまざと目に焼き付けた。
「わー! わー! キレー!」
 手を離したエレアがぴょこぴょこと跳ねるようにして階段を下りていく。まるで初めて雪を見たかのように目を輝かせて花が咲いたような笑みを浮かべる少女の後を追って、ビルから道路へと降りていく数段ほどの階段を降りる。
 ほう、と息を吐けば、白いもやのようなものが口から立ち込める。初めてでこそないが、クレイにとっても雪というのはそう多く経験するものではなかった。最近では雪中行軍の演習くらいなもので―――。
 些末な思い出だ。そんなことよりも、道路の広い歩道でぱたぱたと跳ねる少女の姿の方が、重要だった。
 降り始めた雪に驚いたのか、足を止めた人々が空を見上げる。そんな中、無邪気に雪を喜んでいる少女の姿はどこまでも無垢だった。
 スニグラチカのように白い肌はしっとりと広がる雪原のように美しかった。長い銀の髪は、幽かに響かせながらしとしとと降る雪のようだった。
 サイド3の時は、彼女は熱砂の上にいた。それでも似合っているな、と思ったが、こうして淑やかに降りしきる雪の下で楽しげにする少女の姿を見れば、やっぱりエレアには雪が似合うんだなと思う。
 流石にちょっとだけ寒いかな、と思うほどには寒さを感じる。街行く人々は雪に目を白黒させるのもつかの間、ぶると身体を震わせるとそそくさと足早にコンクリートを歩いていく。
「ねー、雪だよ雪! 綺麗だね」
 振り返って、両手を万歳するようにしながらぶんぶんと両手を振るエレア。後ろを歩く男は驚いたようにエレアを見た後、微笑を浮かべてその小さな少女を見遣った。
「なんで雪なんか降ってるんだろうな」
 黄昏を受けて煌めく氷の結晶を眺めながら、クレイは数時間前に会ったあの老紳士の顔を想起していた。
 道行く人々の顔つきを見れば、天気予報がどうだったかは察するに余りある。
 何故、あの男はそんなことを聞いたのだろう―――頭の片隅に棘が刺さったような違和感を覚えながら、クレイはエレアの隣に立った。
 まぁ、どうでもいいことなのだろう。そんなことよりも、この雪が降っているというこの事実の方が大事なことのように思えた。だって、雪の下にいるエレアはとても綺麗だから―――。
 結晶を払うように、エレアの頭に手を乗せる。不思議そうにクレイを見上げる少女の形相を見ながら、クレイは得も言えぬ幸福と果敢無さの混然とした有機的持続を感じた。
 時の経過と共に人は変わる。人間の一貫性とは全くの幻影であり、1年前の自分は全く異なる赤の他人である―――。
 そうかもしれない。そうではないかもしれない。ただ言えることは、愛とは永遠であるというのは騙りであるということだけだ。
 何故か惹起したその寂れた情操に困惑していると、エレアは特に何を言うでもなくクレイに身体を預けた。
 ちょうど彼女の頭頂部がクレイの首元あたりにくる。頭頂部の旋毛を見下ろして、クレイはその彼女の重さに羞恥を感じながら周囲を見た。
 咎めるような視線もあれば、特に気にしていない―――というか、そもそも同じように抱き合ったり口づけをしたりする人々もいたりしたり。
「ねぇ、この後どうしよっか」
 エレアが顔を上げる。彼我距離は僅かに10cmほども無くて、その綺麗なかんばせに顔を赤くしながら、クレイは「決めてないのか」と不自然なほどに素っ気ない声を出した。
 こくんと肯くエレア。
「そう言えば」クレイはそれについては別に気にしないことにした。「プレゼントって結局何だったんだ?」
「それなんだけど…」
 どこか歯切れが悪そうに彼女は俯く。彼女の手がジャケットを握る力はどこか強くて、どこか弱弱しかった。
 何か、彼女が次に言う言葉を聞いてはならないような気がした。それでもきっと、それを聞くと何か重大なことが生じるような、そんな予感がクレイの頭の奥の中で腫瘍のように凝り固まっていく。
 彼女が口を開く。さくらんぼみたいな唇が蠢動して―――。
 ―――クレイの耳朶に触れたのは、エレアの声ではなかった。
 コロニー全体に響くようなその甲高い音―――それが何なのかを頭で理解するより早く、クレイは自分の腕の中の少女の顔を見た。
 どこか怯えたようで、それでも己の立場を理解しているが故にエレアの目は決然とクレイを見返した。
「警報音―――司令部に戻らなきゃ」
 クレイは彼女を抱きながら、顔を周囲に向けた。
 突然のその音に誰しも目を白黒させていたが、流石に軍事関係者が多いコロニーらしい。パニックが起きるような様子もなく、何人かの男が声を上げて周りの人間に指示を出しているらしかった。
 その内の1人と目が会う。スーツに身を包んだ男が頷くと、足早にクレイの元へと駆け寄る。
「すみません、ハイデガー少尉でいらっしゃいますか?」
「ええ。貴方は?」
「警備部隊のものです。市民の誘導は我々が行いますから、貴官は格納庫にお戻りください」
 目を見開く。なるほど休暇中の警備の人間かと把握する。
「何があったんですか?」
「いえ、それはこちらでも……」
 申し訳なさそうに男が身を竦める。それもそうかと思い直して男に礼を言い、エレアの手を握り、クレイはエレアの足元に目を落とした。彼女が履いている黒いヒールはあまり高くないとは言え、流石に走るのには適していない。
 逡巡も無くクレイはエレアの身体を抱き上げる。彼女の小さい悲鳴が微かに鼓膜を打つのも構わず、高々20kmほどなら彼女を抱いたまま走れることを把握すると、彼女の肩と膝の辺りを強く抱き寄せて、あとは足を前に出して―――。
 クレイの(からだ)がそれを志向しかた刹那、異様なほどの悪寒が身体(こころ)を舐めた。
「クレイ!」
 抱きかかえたエレアが悲鳴をあげる。それより早く、その悪寒がなんであるかを―――あの実戦の時に感じた、確かな虚無への還元へのあまりにも稺い恐れだと想起したクレイは、そのパシオーの原因、自分の背後を丐眄した。
 誰か、黒髪の女が右手に構えた何かをクレイに向けていた。黒々としていて、その切っ先の孔からはとても嫌な金属の塊が飛び出すんだ、と嫌にシンプルな考えが頭を過る。
 その女の指はトリガーガードの下に潜り込んでいて、サイトは確実にクレイを捉えていた。
 女は神に贖罪を求める追放の民のように、決然と怯えが同居した形相をしていた。その行為に罪悪を感じて、それでも成せばならぬと―――それが己の役割と理解し、滅私に徹する幼げなかんばせ。どこかで見たことがあるようなその顔を見て、クレイは明瞭な輪郭を伴った単一現象への還元をありありと感じた。
 右手の人差し指の腹が重たい引き金を押し込む。マズルフラッシュが爆発し、バレルから飛び出した金属の断片は銃声が響くのと同時に頭部の皮膚を食い破り肉を貫き、頭骨を綺麗に破砕して、破壊された骨片と共に内容物を滅茶苦茶の血塗れにした。
 綺麗な赤い華が咲いた。てらてらした血液の飛沫が飛び散り、クレイの顔に付着した。
 悲鳴、絶叫、怒声。人間の発した音声と共にエレカのブレーキを踏む甲高い音が鼓膜を貫き、そこでようやく我に返ったクレイは、次の瞬間視界に飛び込んできた物体から逃れるようにして路面に倒れ込んだ。
 道路に留まっていた他のエレカを薙ぎ倒す勢いで驀進してきた黄色いちゃちなエレカが歩道のガードレールを破壊し、ドリフトしながら歩道に突っ込む。何人かは車体に横殴りにされるようにして吹き飛び、スーツ姿の警備部隊を名乗った男は階段の角に後頭部を打って死んでいるらしかった。
 ちょうどクレイのすぐ目の前で停止するや、車窓を開けると同時に見知った男の顔が覗いた。
「乗れ。此処は不味い」
 オーウェン・ノースロップは特に色も無く、淡々と口にした。
「どうなってるんです、これ!? いきなり―――」
「早くしろ。死にたいか?」
 オーウェンの鋭利な視線がクレイを射抜く。先ほど感じた死という体験の感覚とオーウェンの言葉が重なり、ぞっとしたクレイはエレカの後部座席のドアの取っ手に手をかけた。
 ドアを開ける。エレアを先に乗せ、クレイもさっさとエレカの車内に飛び込むようにして乗り込んだ。
 オーウェンがアクセルを踏む。車外から聞こえる、怒鳴るような声とアサルトライフルの銃声に身を竦ませながら、クレイはふと車窓から赤いものが目に入った。
 女だった。先ほどクレイに銃口を向け、将に殺さんとしていた女―――。
 銃を撃つ直前、オーウェンに頭を狙撃されたのであろう。
 即死だったはずだ。死ぬということに付随する感情を感じる暇も無く、あの女―――少女とすら呼べたかもしれない女の存在は無化されたのだ。
 ガードレールを再び破壊して、黄色いエレカが道路を逆走する。クレイは自分の顔に着いた女の血液を左手の親指で拭って、その存在の痕跡を恐々とした目で見降ろした。
                   ※
 モニカ・アッカーソンは、自分のしなければならないことを迅速に熟していた。
 重要なデータの保存、重要でない―――あるいは最重要のデータの破棄。『何か』あったらすぐに動けるようにサナリィの上の人間から命令はあったが、よもや本当にその『何か』があるとは。自分に情報を伝えたサナリィの上層部の人間―――ジョブ・ジョンとか言ったか―――あの男は、『これ』を知っていたのではないか?
 疑念を抱きつつ、予想していたより素早く事―――デスクの上のあらゆる電子機器をハンマーで徹底的にたたき壊すという原始的且つ堅実な作業―――を為したモニカは、額の汗を腕で拭うと、手のひらの上の3cmほどもないカプセルを見下ろした。
 保存すべきデータは全てここにある。唾液を飲み込んだ後、目を瞑ったモニカはそのカプセルを一飲みにした。
 咽喉を異物が通っていく感触。つまりかけ、もう一度飲み込んだモニカは、涙を滲ませた。
 これで仮に自分に何かあっても、データが流出する恐れはない。その上、十数時間後には排便の中に紛れて出てくるだろう。是非とも、その汚物の中から先ほど飲み込んだ白いカプセルを取り出す機会が巡ってくることを期待しよう―――。椅子にかけたジャケットを羽織って、そうしてモニカはデスクの引き出しを引いた。
 ほとんど中身のない引き出しの中、唯一、そして圧倒的に存在するガンメタルの武装。ミロク・ブローニング・アームズ社の小ぶりなハンドガンMB17は、女性で軍事訓練など受けていないモニカでも扱い得る。
 狭い屋内ではアサルトライフルよりも取り回しに優れるハンドガンが好まれる―――。
 所詮、そんな情報は知識でしかない。まともに銃撃の訓練すら受けたことが無いモニカに一体何ができるというのだろう。何も、出来はしない。仮に銃撃戦に遭遇したならば、ものの1秒でモニカという存在は物理的対象と化す、つまりは射殺される。そもそも相手がサブマシンガンならばハンドガンの利点など無いも同然なのだ。
 それでも、無いよりはましだ。そっと震える手でその黒々したハンドガンを手に取る。その大部分をプラスチックで構成するそれは、案外ひやりとした感触も無く、無機的で無味乾燥だ。
 撃ち方をぶつぶつ口に出しながら、それをジャケットの内ポケットに突っ込む。そしたら後は―――。
 ドアをノックする音が鳴ったのはその時だった。ぎょっとしながら応えたモニカは、もう一度インターフォン越しに「なんでしょう」と上ずった声を上げた。
「MPのフランツ・ドゥオーキン少佐です。よろしいでしょうか」
 ほっと胸を撫で下ろす。連邦の軍人ならば安心だろう―――。
 壁のタッチパネルを操作すると、灰色のドアがスライドしていき、その向こうに壮年の男が立っていた。
「モニカ・アッカーソン女史で間違いないでしょうか」
「間違いないありません。ところでいったい何が?」
「どうやらこのコロニーに向かっていた輸送船団がネオ・ジオンの部隊の襲撃を受けたとか。それに呼応するようにして、司令部施設で戦闘が開始された模様です。恐らく、最近雑務処理などで増員した民間人に扮していたのでしょう」
 司令部施設での戦闘―――宿舎のすぐ近くだ。その方向を一瞥すると、
「有事の際には貴女の生命の保護を優先するようにと命令を受けています。アッカーソン女史、行きましょう」
 「私の?」モニカは眉を顰めた。「いえ、少佐は持ち場についてください。私は一人で大丈夫です。それに、命令とは誰に―――」
「上の人間にです。さぁ、早く」
 急かすようなその男の声は、どこか不自然なほどに声が上ずっていた。
 微かな疑念を抱きつつも、モニカは逡巡する。私は一人で大丈夫です―――自分で言った言葉が頭の中で反響する。
 無理だ。司令部施設などここから200mと離れていない。そこでは今、実弾が飛び交い人間が殺傷されている―――。
「―――わかりました、行きましょう」
 男が頷く。ジャケットの内ポケットの中に蹲るMB17の存在を感じながら、モニカは自分に宛がわれた個室を後にした。 
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