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機動戦士ガンダムMSV-エクリチュールの囁き-

作者:桃豚(21)
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32話

 細胞から滲み出たような湿度の高い溜息を吐く。
 エルシー・プリムローズ・フィッツジェラルド―――プルート・シュティルナーはベッドに身を投げ出した。衝撃と同時に、鼻の毛の一本一本の間をするりと梳きぬけていくようなさわやかな抜ける匂いが満たし、ふわりと柔らからいベッドの感触に我知らず口笛を吹いた。
 生まれてこのかた軍人で、そうして宇宙艦での生活が日常だった彼女の知るベッドとはがちがちと固く、寝ているだけで身体が痛くなりそうなものなのだ。
 ベッドに寝転がったまま、マットを叩く。反発の力は強すぎも無く、適度に手を押し返す。毛布を掴んで顔に押し付ければ、どこか品の良い果実か花の匂いが肺を満たした。
 こういう生活があるんだな、とプルートはベッドに横になったまま首を回した。
 アナハイム・エレクトロニクス社とサナリィ間の技術交流の一環、というイベントに乗じて、ある目標の監視のためのエージェントとしてエンジニアに紛れ込んでいるというのが今のプルートの立場である。技術交流の場を提供しているジオン共和国の一部の人々とネオ・ジオン、そしてアナハイム・エレクトロニクス社や地球連邦政府や軍とのあらゆる思惑の複雑な交差があるんだろうな、くらいはプルートも考えているが、あまり深くは考えないようにした。考えたって栓のないことだし、軍人である己が関わる話でもない。ただ言えることは、こうしてアナハイム・エレクトロニクス社の将来有望なエンジニアの卵として相応の扱いを受けていて、それがプルートの経験を遥かに超えているというだけの話だ。個室であって、しかもベッドがあってデスクがあって。各々の備品も綺麗に手入れが行き届いていて、しかもなんと冷蔵庫付きだというのだから驚きである。万年困窮のネオ・ジオンとは雲泥の差である。
 なんだか、ちょっと、悪いなと思う。パラオでの生活の困窮を思えば、自分だけが贅沢をしているようで居心地が悪い―――まず足を上げ、そうして勢いをつけながら飛び跳ねるように起き上ったプルートは、白くてなんだか高そうなサンダルを履くと、化粧台の前に立った。木製の化粧台に手をついて、縦長の鏡をまじまじと眺める。童顔で、もみあげだけが長い栗色のショートヘアの切れ目の少女が胡散臭そうに自分を見返した。
 結局、任務と割り切るほかない。ある目標を取りあえず監視すること―――そのための、一要素だ。プルートには、束の間の休暇と解釈するだけの認識は無かった。
 それにしても、とプルートは切れ目をなおさら鋭くするように眉間に皺を刻みながら、鏡に映る己を注視した。
 上下ともに黒のTシャツとショートパンツという特に筆の必要も無い出で立ちである。格好だけなら、休憩中のラフな服装と変わりはない。
 問題は、そこではない。プルートは怪訝な顔をしながら、自分の胴体を―――正確には胴体の上半分、凹凸のあまりない胸のあたりを眺めた。
 『666』の格納庫に出入りするようになってわかったことが1つ。あの部隊の一部身体的特徴はオカシイ。隊長も平均よりは随分だし、07のコールサインの彼女はさらにその上位種である。何より屈辱―――ではなく理解不能なのは、監視目標である。
 背が自分より低いのに。低いのに。わなわなと慄きながら、プルートは自分の胸に触れた。
 取りあえず、プルートは考えるのを止めた。
 判然としないまま、プルート・シュティルナーはベッドに腰掛け、天井を見る。白い天井はまだ見知らぬ素っ気なさがあったが、天井の幾何学模様みたいなものがシミらしいと知るくらいには慣れてきた。
 頭を過る男の顔。
 特に身嗜みに気を使っているわけでもなく、垢抜けない雰囲気を纏った男。
 クレイ・ハイデガー、と言ったのだったか。クレイ―――土、という言葉が確かに似合う、派手そうなところは無い男だ。
 ふと、気が付くとあの男のことを考えている。
 それが何なのか、プルート・シュティルナーという少女にはよくわからなかった。ぺちぺちと顔を叩いたプルートは、なんだかよくわからないもやもやした無意識的な違和感とともに、また立ち上がって鏡台を覗き込んだ。
 表情に変化はない。切れ目の少女が青い瞳で見返すばかりで―――。
 と、ドアをノックする音が耳朶を打った。
「フィッツジェラルドさん、良いですか?」
 男の声が扉の向こうで聞こえる。部屋に設えられた時計を見れば、もう時間だった。
「あぁ、今行くよ」
 鏡台の前の椅子の、アナハイム・エレクトロニクス社のロゴマークの入った灰色のジャケットを羽織る。もう、その時にはそこにプルート・シュティルナーという存在は無く、そこに在るのはエルシー・プリムローズ・フィッツジェラルドというペルソナ連続体だけだった。
                      ※
 頬に感じた冷たさで、クレイは目を覚ました。
 頭蓋の裏側に感じる重たい感触―――頭蓋を満たす髄液が液化したオスミニウム金属に変わってしまっていた。感覚器官が受け取る情報を断片とのみしか解釈不能なほどに判然としない中、表情筋が引きつるほどに欠伸をした。
「お疲れさん」
 頭上から降りかかってくる声の方へ顔を向ける。知っている人物―――ヴィセンテが静かな微笑とともに、クレイの頬に冷え冷えした缶コーヒーを押し当てていた。
「すいません……ありがとうございます」
 緩慢な動作で身を起こし、ヴィルケイから缶コーヒーを受け取る。プルタブを開け、口に流し込む―――ひやりとした冷感に、濃いブラックの苦味が寝ぼけた脳神経に刺激的だった。
「ったくいつまでやってんだよ。涎は垂れてるわ顔にキーボードの跡はついてるわ……」
 さっと頬に手を当てる。確かに生ぬるく、ぬるぬるした液体の感触があった。カーゴパンツの尻のポケットから小さい鏡を引き抜けば、野暮ったい面に赤々とした四角い跡が無数についていた。
 慌てて唾液を拭き、野暮ったく伸び始めた髪をブラッシング。鏡を見乍ら鼻毛や目脂を適切に処理するのに5分ほどの時間がかかった。そうしている内に、キーボードの跡は目立たなくなっていた。
「いつもこんな調子なのか?」
 眉宇を顰めたヴィルケイが辞書のうちの1つを取り上げる。
 咎めるような調子だったのは、当然と言えば当然だった。『副業』に専念するあまり、本業が疎かになっては陋劣極まりない。殊に実戦実証も済んでいない兵器の試験などは極めて緊張を要する任務だ。常に万全を喫して挑まねばならないということは言うまでもない―――分厚い紙媒体とクレイを見比べるヴィルケイの眼差しが詰問していた。
「いえ、今日は休日とわかっていましたから」
 両眉を寄せたまま、辞書をデスクの上に置く。重たい音が耳朶を打った。
 「別にお前のペースは知らねーが」自身の微糖の缶コーヒーを呷った。「休めるときは身体を目一杯休ませろよ」
 「まぁお前の息抜きがそれって言われたらなんとも言わんけど」缶コーヒーを逆さになるほどに上向きにさせ、アルミの尻をぽんぽんと叩く。だらしなく舌を出しては滴ってくる苦い汁をキャッチする様を脇目に見ながら、クレイも缶の中身を空にした。
 空になったはずの缶を手首のスナップを効かせて素早く振り、中身を確認していると、ひょいとヴィルケイの腕がデスクの上に伸びる。
「これお前何回読んでるんだ?」
 しげしげと手にした本を眺める。パスカルの著作だった―――いや、と首を横に振った。何回、どころかまだ1回も読み終わっていない本のハズなのだが。
「そんなにちゃっちゃと読めないんですよ」
「ははぁ、なるほどね―――幾何学の精神?」
 ページを開いたヴィルケイが肩を竦める。元々栞が挟まっていたページに挟みなおすと、やたら分厚い本をタブレット端末の脇に置いた。
「今日も一日中学問ですかい、先生(・・)?」
「やめておきますよ。眠気で頭がはっきりしない時に考え事をしても無意味ですから…」
 そりゃそうだな、と首を縦に振り―――ハッと顔を上げたヴィルケイがぐいと顔を寄せた。
 整髪料のつんとした匂いが鼻孔の奥を突く。椅子ごとたじろぎなが顔をひきつらせた。
「暇なんだな?」
 まぁ、と頷けば、眼前のイタリアンがにこやかな笑みを浮かべた。
「リフレッシュには身体を動かすのが一番さ」
 笑みはそのまま、シャツの裾に手をかけると一気に脱ぎ捨てた。
                   ※
「あじい……」
 空を見上げる。蒼穹を真横に分断する巨大なコロニー構造―――人工太陽は、今日も遺憾なく仕事に勤しんでいた。ニューエドワーズに比べれば、大分―――というかとんでもなく熱かった。流石熱帯の気候を再現するだけは、ある。
 上半身と四肢を露出するハーフパンツ型の水着故にSDUを着ている時ほどは暑くはないが、赫い光にじりじりと肌が炙られていると立っているのすら億劫だ。ビーチパラソルの下にすごすごと退散すると、ビーチチェアにごろりと寝転がった。
「お前はもやしかよ?」
 声の方に顔を向けると、ヴィルケイとジゼルが佇んでいた。陽光やビーチすらも、ヴィルケイの容貌を引き立てるためだけに存在しているかのように思えるほどに、眼前の優男(ロメオ)の水着姿は似合っていた。
「まぁ、もやしの割にはマッチョだけどね」
 大胸筋を突くジゼル。軍人ですからね、と生真面目風に応えながらも、素早く視線を振る。前かがみになったジゼルの編み込んだもみあげが垂れ、その毛先の間の空間に目をやれば―――無意識に手を口元に当てた。無意識下に表情筋が弛むのを手で押さえつけているのである。
 彼女の姿が視界を掠める。極まりが悪いような、妙に漠然とした感触―――。
「お、来た来た」
 身を起こしたジゼルがコテージの方に視線をやる。寝そべったまま、身体を逆反りさせてその視線の先を追う。
 熱で歪んだ視線の向こうに、彼女はいた。フェニクスに手を繋いでどこか覚束ない足取りでおっかなびっくり歩くさまは、ともすればそのまま不知火の先に融けてしまいそうにすら見えた。
 半ば衝動的に真っ白なプラスチックのビーチチェアから身体を起こしたクレイは、改めて背後に視線をやった。
 熱いな、クレイは思った。太陽のせいだろうか―――そうだろう。太陽のせいで戸惑いも無く人を射殺する人間がいるくらいなのだから、太陽のせいで心臓の鼓動がせっかちになってもちっとも不思議ではない。
 途中までフェニクスと一緒に来て、そうして途中で何か言葉を交わした後、フェニクスはコテージの方へと戻っていった。
 ちょこちょこと歩を進めてきた彼女、エレア・フランドールの白い肌がビーチの白砂が反射した陽光を孕んで艶めかしく閃く。子どもっぽい見た目に反して、黒のビキニにシースルーのパレオはとんでもなく大人っぽかった。俗っぽく言えば、エロかった。
「どうかな?」
 自信なさげに身を縮めたエレアが上目づかいでクレイを仰ぎ見る。
 自分に聞いているのか、と把握するまでしばし時間がかかった。そうしてハッとしたクレイは、大仰に咳払いをし、落ち着き払った様子を繕うためにわざとらしく両手を腰に回した。
「とてもよろしいかと」
 こくこくと頭を垂れる。
 はぁ、とヴィルケイが溜息を吐いた。
「お前ね、もうちょっと良い言い方は出来ないのか?」
「はい?」
 さっぱりわからない、といった風にヴィルケイに視線をやると、声色通りの呆れ顔をしていた。ジゼルも梟みたいなジト目でクレイを見据え付けるばかりだった。
 違うよ、とエレアが頓着ない笑みで2人を見比べた。
「クレイは恥ずかしいからあーいう言い方したんだよ」
 ね、と彼女の赫い柔らかな視線がクレイを正面から抱き込む。全身が、特に顔の皮膚が酷く熱くなるのを感じたクレイは、だんまりのまま俯いてしまった。
「ガキかよ……」
 結局呆れは変わらずにヴィルケイが呟く。こういうところが可愛いんだから。ねー、とエレアとジゼルの間で奇妙な合意が形成されていることは、結局クレイの耳には入らなかった。
「ま、なんにせよ良かったわね。クレイに好評で」
 うんうんとエレアが首を縦に振る。
「なんだ? ジゼルのプロデュースか」
「まーね」
 えっへんとジゼルが大きな胸を張る。さも高邁な批評家のように頤に人差し指と中指を当て、値踏みする視線をエレアに向けたヴィルケイが納得したように唸り声を上げた。
「あどけなさと妖艶さという一見アンチノミーな魅力が同時に展開されるという緊張感を感じさせる意欲的なコーディネートだな」
「うん? そうなんだ、良かった」
 ヴィルケイが滔々と語った評価はエレアには理解できなかったらしいが、ともかく褒められたらしいと把握したようだった。良かったですね、とヴィルケイに頭を撫でられたエレアは満足げに笑みを咲かせていた。
 ―――なんだか、釈然としない。その釈然としない感情の原因も十分に理解し、それが子ども染みた感傷でしかないことも理解していたクレイは、それを特に表に出さなかった。
 「お前のことだからさぁ」ヴィルケイが意味深な蒼い瞳を向けた。「スク水が良いとか言うんじゃねーかと思ったよ」
「すくみず? なにそれ?」
 ジゼルとエレアがきょとんとヴィルケイを眺める。得意げに鼻を鳴らしたヴィルケイは、
日本(ジャッポーネ)の伝統的な競泳水着さ」
「競泳水着が好きなの? それなら連邦の競泳水着でいいじゃない」
 ジゼルは何が何だかといった風に怪訝な眼差しをしていた。そうした視線も十分理解できるといったように頷いたヴィルケイがくいと顎をクレイに向ける。
「まぁ良いモノではあります……」
「ふーん?」
 興味ありげにジゼルが首をかしげた。だが、クレイはそれ以上の説明には立ち入らないことにした。スク水とはなんぞや? という話を詳細に語れば、それこそ数十分の時間を要するのである―――SUKUMIZU is philosophy。それはともかく、元々クレイはヴィルケイに連れられてきた理由を知らなかった。
「結局何をするんですか?」
「あぁ、それなんだが―――」
                     ※
「―――『アカデメイア』?」
 思わずパーソナルコンピューターの液晶画面の言葉を鸚鵡返しに音読した。眉間に深く皺を彫ったフェニクスは、そのままコテージの部屋に備え付けてあった色褪せた木製のデッキチェアの背もたれに身を任せた。
 画面に映った情報は、ニューエドワーズに残したままのインフォーマーから送られてきた暗号通信を解凍したものだ。だからこそ、その文字面の中に不意に浮かび上がって来た見慣れない―――見慣れているが見慣れない言葉に思わず声を上げたのだった。
 クセノフォンだったら知っているだろうか―――思い立ったが、今は無駄だった。クセノフォンは今しがたビーチの方へ水着一丁で全力疾走していったばかりである。
 フェニクスは立ち上がった。そのままコテージの窓の傍に寄り、開け放たれた外の世界を網膜に映した。
 空を見上げる。人工太陽の焼き付けるような光が一瞬で視神経のキャパシティを超え、思わず目を瞑る。そろそろと目を開け、遼遠まで遥かに伸びる大洋(オケアノス)を眺めた。
 白い砂浜に打ち寄せる静かな蒼の水面(みなも)に映った眩い閃光―――思わず舌打ちした。だが、それでも物にあたるほど子どもではなかった。苛立たしげに空を―――忌々しい人工の太陽は目に入らないように―――空を、見上げた。
 何の変哲もない空だった。空の向こうに海がある光景も、慣れてしまえばなんでもない光景だ。一見可笑しな光景なのだが、科学技術に成り立っている光景と思えば何も疑いを差し込む余地はない光景だった。そうして、スペースノイドたちはそうした光景はありふれたものだったのである。何せ、空を見上げれば逆さになった街があるのが常識なのだ。今更海があったって―――という話である。
 そうして息抜き気分で漫然と空を眺めていると、ふとフェニクスの視界に薄ぐらいものが掠めた。
 黒雲、だった。
 暗雲が立ち込めるような―――。そんな使い古された文学的形容を思い出したフェニクスは、再び暗澹たる気分になった。
 「リゾンテの気象管理局は仕事熱心なことだな」鼻を鳴らした。「ニューエドワーズも見習ったらどうだ?」
 あてつけのように愚痴る。そうして自己嫌悪に陥ったフェニクスは、今一度空を高く見上げた。
「――――――何者だ……貴様らは……?」
 眼差しを鋭利に細める。さんさんと陽光を降り注ぐ太陽の取りつく島のない静謐さは、相も変わらず人工的な冷たさに溢れていた。 
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