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機動戦士ガンダムMSV-エクリチュールの囁き-

作者:桃豚(21)
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20話

 今日もなにやら天気は思わしくない―――。
 こんな日ぐらい、もっと気温を上げてくれればいいのに―――厚い雲に覆われた曇天の空を、獏と仰ぐ。天気予報でも曇り空であることは確認していたが、実際に目で見る分厚い雲の層は、やはり鬱とした気分にさせる偉容をこれでもかと言わんばかりに見せつけてくる。クレイ・ハイデガーは、あてつけでしかない文句が湧き出るのを、自省することもしなかった。雨が降らないのが、せめてもの救いであろうか―――。
 いや、それどころではないと言った方が正しい。そんな思索を巡らせることで、当面の艱難から目を反らしているのすぎない。一般常識からすれば、艱難というほどのものでもないのだが、クレイにとっては、今まさに迎えんとする「任務」は、甚深なまでに艱難だった。
 フライトジャケットのお蔭で寒さに身を縮こませることはないが、どうにもこの天気の悪さが気を削がせる。
 基地前のゲートに我無く立っていると、クレイのBDUのポケットの中で携帯端末が痙攣する。その軋むような音と震えに、大仰にびくりとした。恐る恐る携帯端末を取り出し、呼び出し画面を見る寸前まで、クレイの心臓は生涯で最も忙しなく収縮と膨張の運動を繰り返していたに違いない。ハイスクールへの入試でも、士官学校入学のテストの時だってこんなに緊張したことはなかった気がする。
 だが、呼び出し画面が示すのが予想と違っていたことに気づくと、益のない安堵感を覚える―――同時に、呼び出し画面に提示された名前に、クレイは口を噤んだ。そうして、応じた。
(えー、こちらコマンドポスト。ロメオ、聞こえてるか?)
 端末越しに聞こえた声は神裂攸人のものだった―――生真面目そうに繕った声に、クレイは苛々と呆れが臓腑に溜まるのを感じながらも、敢えて顔を固くした。
「こちらロメオ。何か」
(貴官の装備は今次作戦に不適切ではないか。今日は基地内待機任務ではないのに何故軍服か)
「小官は「任務」と聞いている。問題はない」
 はぁ、と携帯端末越しに溜息が鼓膜に触れた。
「だってしょうがないじゃねーか。俺そんな服なんて持ってないし、買う暇も無かったし! て言うか、お前どこから見てんだよ!?」
 きょろきょろと周囲を見回し、背後を振り返える―――。
 にこり、と笑みを浮かべた門兵がサムズアップする。黒い肌の中にちらと見える白い歯が眩しい。
(お分かりいただけただろうか?)
「ったくちゃんと仕事してろよ……」
 呆れの視線で門兵を睨めつけるながら、クレイも悪態とともに溜息を吐いた。どうせあの門兵も楽しんでいるに違いない。
 なんで俺がこんな目に遭うんだ―――。
 眩暈を覚える。こういうのは俺じゃあなくてもっと適任がいるだろう。それこそ、この電話の向こうの奴とか―――。
「クレイ!」
 鬱々とした思案を破ったのは、基地の方から届いた透明な声色だった。
(こちらコマンドポスト、通信終わり。武運を祈る)
 合わせたように、携帯端末の通信が切れる。
 携帯端末をポケットに仕舞う手は、我知らず震えていた。
 振り返ったままのクレイの視線の先に、彼女を捉える。
 心臓はもう、今にも自圧のせいで圧潰しそうなほどに潰れては破裂を繰り返す。
 ちょこちょこと小走りで駆けてくる彼女は途中、門兵2人の前で綺麗な敬礼をしてみせる。返礼する大柄な男と、2言3言交わすと、彼女の紅い瞳がついとこちらを向く。
 気取られないように唾を飲み下す。心臓の拍動音が、冷静になろうとする理性をどやしつけるようだった。
「待った?」
「いや、さっき来たばかり」
 無邪気な笑みを浮かべる彼女―――エレアに対し、クレイはなるべく普段と同じように接するように努めた。そのせいで素っ気ない声色になったのを、やや悔やむ。
「今日は寒いね」
「最近寒い日が多いからな」
「こういうのって結構寒いんだね」
 言いながら、エレアは自分の穿く赤いチェック柄のミニスカートの端を摘まんで見せた。
 確かにミニスカートは寒い日は殊に堪えそうだ。スカートなぞ穿いたこともないクレイには実感として同意はできないが、間接的に下着を外部に露出させていると思えばおおよそ想像はつく。
 ―――エレアの出で立ちを見たクレイの脳裏には、先ほど愉快に真面目な声を上げていた男の顔があった。
 ミニのプリーツスカートにブラウンのブレザーからは白いブラウスが覗いていた。畢竟、ハイスクールのユニフォームを想起させる服装だった。そのあどけない出で立ちに反して、白い肌を覆うソックスはちょうど膝ほどまで届くタイプであり、ミニのスカートとの境界線に敷かれた絶対不可侵の領域には、ニーソックスのずり下がりを防ぐための黒いガーターベルトが横断していた。
 クレイ・ハイデガーはロリコンである。厳密に区分するとロリコンではないようだが、とにかくロリコンである。そんなことは部隊の全員がいつの間にか先刻承知という事態になっていたが、奴は士官学校時代からの知り合いだ。クレイのことはより詳細に―――具体的に言えば、どんな服装が好きだとか、下世話な話をすればどんな『プレイ』をしてみたいだと―――について熟知している。
 攸人の差し金だ―――恨めしく思ったのは、彼女の存在にドギマギしているという自分のわかりやすさから眼を逸らすためだった。
 ジャケット越しでもわかる豊かな二つの青りんご。
 スカートとニーソックスの間に見える艶めかしい肉のホライゾン。
 たかだかそれだけで欲情して勃起してしまう自分が哀れでならなかった―――ナボコフはニンフェットの定義を変えるべきだと思う。エレアは17歳というが、十分に彼女は悪魔的なニンフェットと言って問題ない気がする。あるいはリリスか。
 微かな沈黙の気配。不味い、と思ったクレイは、咄嗟にしゃべることを考えた。沈黙になって気まずい雰囲気になることの心苦しさに苦い思い出のない人間などいないであろう。
「服―――」
「え?」
「いや、可愛いなーって……」
 クレイの声は、尻すぼみになってしまった。
 エレアを直視していることなんてできなかった。
 昨日攸人やらヴィルケイやらヴィセンテやらと語り合ってただ言われたのは、いいと思ったら口に出せということだった。自分の惨めさを考えないようにするために咄嗟に思いついたことだったが、いざ実践してみるととてもじゃないが正気ではいられない。何分チキンなクレイには難関すぎる。
 きょとんと目を丸くしたエレアは、数秒ほどそうした後に、ぱっと笑みを浮かべた。
「ありがと」
 化粧のせいだろう、白い肌がほんのりやわらかな桜色に染まった彼女の頓着ない笑みだけで、クレイの心臓はもう役立たずの機械に成り果てるところだった。
 上手く行った…らしい。奇妙な満足感に浸されたクレイは、顔がにやけで歪むのを必死に自制しながら、おう、と素っ気ない声で相槌を打った。
「……クレイ『も』そういう服なんだね?」
「え? うーんまぁ……そうかな」
 歯切れ悪い返答―――そんなわけはないのだが。
 恐らくスクールの制服をイメージしたコーデ、というきちんと意味のあるエレアに比べて、クレイがBDUにフライトジャケットという服装を選択したのは単に寝間着以外の碌な私服がないという理由でしかない。こんなことならもっと服に金をかければ良かったなぁ、と今更に思っても後の祭りも甚だしい。
「えーと、じゃあ、行こうか?」
「うん!」
 元気のいい返事に、思わず苦笑いを浮かべた。
 目指すは歓楽街。曇天の空を今一度眺めたクレイは、今回の『任務』に―――『要人(デ)の歓楽街(ー)逍遥(ト)の護衛任務』へと心を引き締めた。
                    ※
 歓楽街、とあるビルの屋上。
 吹きすさぶ風は冷たく荒々しい―――歩兵用のフル装備に身を包んだ男は、馴染ともいっていいその乾いた空気を身体で感じながら、己の腕の中に横たわる物々しい銃器を構えた。
 ビルから目視で見下ろせば、閑散とまではいかずとも、人通りの少ない街並みが広がっていた。
 標的(ターゲット)はすぐに見つかった。通りを行く2人連れ。銀髪の小柄な女性に、何故か軍服姿の男。
 事前の予定通り―――巌のような顔に猛禽のかぎづめのごとき眼が笑みに歪む―――。
 男―――クセノフォン・ブリンガーは、両手に抱えるほど大きな狙撃銃のスコープに目を合わせた。
 照準レティクルの中央に、栗色の髪の頭を重ね―――。
(こちらコマンドポスト、聞こえているか)
 ごく普通の連絡―――そう思うのは、ヘッドセット越しに聞こえた声が笑いをかみ殺したものであると知らない人間ということだった。
「なんです?」
 肩を落としながらも、狙撃銃は構えたままだ。流石にスコープ越しでなければ、遠くで道を行く2人連れを識別するのは難しい。
 むろん、弾倉には相応のものが入っているが、トリガーガードにすら指は触れていないし、そもそもセーフティはかかったままだ。
(2人はどんな感じだ?)
「まあ可もなく不可もなくといったところでしょうか。問題もなさそうです。オーウェンも問題ないと―――あ、今ぬいぐるみ売ってる店に入りましたね」
(ぬいぐるみ?)
 訝るような声だ。えぇ、と相槌を打つクセノフォンは通信越しの声色に、疑問に持つようなことだろうかと思った。
 確かに予定外だが、ショーウィンドウに飾られた可愛らしいぬいぐるみにエレアが惹かれたと思えばおかしな点はない。
「何か?」
 一応聞いてみたが、通信相手―――フェニクスは、問題ないというだけだった。問題ない、というならそれに拘泥する理由もない。了解、と一言だけ応じた。
(何かほかに問題点はあるか?)
「特に―――あ」
(どうした?)
「いえ―――なんであいつは軍装なのかなと」
 一瞬の無言の後、ヘッドセットにやつれた嘆息が漏れた。
(あいつがモテないってのはそういう理由なんだろうよ)
「あぁなるほど……」
 得心すると同時に、クセノフォンも歯切れの悪い声になった。
「それでは通信終わります」
(ああ、頼む)
 束の間、ハムノイズの音が耳朶に触れる。
 それでもまぁ―――クセノフォンはスコープから目を離すと、ごつごつした顔に皺を刻んだ。
                    ※
「ねージャック?」
 昼も少し過ぎた時間のファミリーレストランは、それでもそれなりの客足がある。騒がしいほどではないが、子供連れの客の闊達さは感じ取れた。
 ―――おそらく、目の前に座る彼女もまたそんな喧騒のうちの一つなのだろう。運ばれてきた料理を口に運びながら、先ほど買った大きなぬいぐるみに話しかける彼女に目を細めた。
「名前つけたの?」
「うん。ジャックっていうの」
 こんにちは、とエレアが言うのに合わせ、エレアに抱かれた真っ黒いぬいぐるみがぺこりとお辞儀する。
「黒い…豚か?」
「たすまにあでびるって言ってたよ?」
「タスマニアデビル?」
 オーストラリアの珍獣……だっただろうか。コロニーが直撃したオーストラリアは気候ががらりと変容したせいで生態系も変わり果ててしまったが、動物愛護団体の懸命な保護活動などもあって絶滅を免れた種もいる。タスマニアデビルもそうして絶滅を免れた種の一つだ。
 なるほどよく見ればおなかの当りに有袋類特有のポケットらしくものが装飾されている―――それはそれで某デブな猫の狸に見えてしまうのは気のせいだろうか―――丸っこいだけに余計に。
「男なんだな」
「違うよ? ジャックは元々女の子だったんだよ」
「え?」
「でも女の子じゃなくて男の子な気がしたから、男の子になったの」
「えぇ…」
 ねー、とエレアが言うと、肯定するように黒いぬいぐるみ―――ジャックがうんうんと下に揺れた。
 その愛らしいマスコット的なデザインに反して、複雑な事情を抱えているらしい。おなかに袋がついているからド…じゃなくてタスマニアデビルの雌なんだろうか。というか有袋類は雄にも袋があるのだろうか。それとも性転換手術はしていないとか?
 何を考えてこんな来歴にしたのやら。
「フェニクス喜んでくれるかな?」
 はてエレアが何を言ったのか、クレイはすぐに理解できなかった。
「ジャックのこと。フェニクスは気に入るかな?」
「なんで大尉?」
「これ、フェニクスにプレゼントするの」
 嬉々とした笑みを浮かべ、タスマニアデビルのぬいぐるみを持ち上げて見せる。
 ジャックとフェニクス。一見つながりは見いだせない―――というか全くつながりが見いだせないのだが。
 まじまじとジャックの顔を眺める。マスコットの癖に死んだ魚のような目の癖に満面の笑みは小ばかにしているようにしか見えない。
 案外こういうぬいぐるみが好きなのだろうか。超然とした女性、というイメージとは全くそぐわないが。いや、まぁ人の趣味にとやかくは言わないけれど
 なんだか変に考えることが多いな―――漠と思案しながら、なんともなしにクレイはエレアのことを眺めた。
 エレアはジャックを胸に抱いたまま、テーブルの上へとフォークを伸ばし―――。その軌跡を追うと、既に冷め始めた鉄板の上に目が行った。
 小柄な少女然としている割に肉塊500gを平然と平らげる途上の鉄板の上には、その物々しい鉄板とは違う色鮮やかな食べ物がまだ残っていた。
 ピーマン…だろうか。鉄板の熱に焼かれ、皮がやや変色していたが、大部分の鮮やかな緑色は損なわれてはいない。
 ふとそのまま彼女を眺めていると、彼女のフォークはこってりしたタンパクの塊と、時折揚げたじゃがいも、時折黄色いつぶつぶを刺しては口に運んでいく。
「―――食べないの?」
 それ、と視線で鉄板の上を指す。ぽかんとしたのも一瞬、むっと顔を顰めた。
「ぴーまんきらい」
「あぁそう…」
「ピーマンは人類の敵なんだから。こんなのいらないもん」
 ぷいと顔を背けながら、揚げたじゃがいもを口に運んでいく。
 ぽつねんと取り残されている緑色の野菜は、油のせいで照り返っていた。その様が泣いているように見えたのは気のせいだろう。
 頑なに疎外されてしまう哀れな彼。嫌いなものは仕方ない。嫌いなものを強制したところで拒絶意識は無くならないのだ。
「苦いからな。嫌いな人は多いっていうし」
 むー、と頬を膨らませる。こんなものがこの世に存在するだけでも心外だ、と言いたげだ。
 親をピーマンに殺されたのか? そんなお定まりのフレーズが頭を過る。
「くさいのがいや」
「臭い?」
 あまり聞いたことのない感想だ。ピーマン嫌いの子どもの常套句は苦いから、というものだとばかり思っていたが。
 ―――嫌いなものは仕方ないし誰だって嫌いなものはあろう。好みとは真偽の判断の及ばぬプライベートな領域である。それ故に一々厳格な大人の真似事のように食べろ、とは言わないが。
 顔を上げ、店を伺う。
 地球圏全規模展開する有名チェーンのファミリーレストラン。名前に反して筋骨隆々の巨漢がマスコットという店構えの『リトル・ボーイ』は、確かにチェーン店でしかない。食べ物を残したところで、近くの学校のアルバイトが事務的に処理するのが精々だろう。
「食べないのなら貰うが」
 かといって残すのも憚られる。
「ええー?」
「調理した人に悪いし。俺は嫌いじゃないし」
 彼女の前に横たわる鉄のプレートを見る。
 どうせマニュアル通りに火を通したものに過ぎない、所詮は合成タンパクの品。高級な天然物であるならいざ知らず、こんなものに頓着する理由はない―――と言われればそうなのだ。単に親の教育方針だったからというだけに過ぎない。
「クレイは食べたほうがいいと思う?」
「いいっていうかまぁ、俺は残すってのがあんまり好きじゃないっていうか」
 束の間、エレアが押し黙る。じっとピーマンを眺めること数秒、「食べる」と一言いうや、木製の取っ手のフォークを緑色へと突き刺す。そのまま口に運び―――盛大に顔を歪めた。一噛みごとに悶えるのなら食べずとも―――そう言っても、エレアは頑なにピーマンを咀嚼しては口に運んでいく。
 ―――窓辺りの席ということもあって、脇目を振れば自然と外に視線が行く。
 街行く人の数は多くないが少なくもない。時折道を横切る人がこちらに向ける視線はどんな意味を含蓄した視線なのだろう。
 ちらとピーマンと壮絶な果し合いをするエレアを一瞥する。
 陳腐な表現だが、間違いなくエレアは美少女だと思う。銀髪ということで神秘的でもあり、街を歩いている最中はひっきりなしに視線を意識した。
 そのような美少女の脇にいるのは、対してパッとしない男。特に手入れをしているわけでもない栗色の髪は寝癖こそ流石にないが、整髪剤をつけているわけでもない。
 周りから見たらどんな風に見えるのだろう。兄妹―――にしては顔面の格差社会にも程がある。父娘では歳の差がなさすぎだ。クレイが軍服を着ているから同僚といきたいがエレアは軍服ではない―――よもやいたいけな少女をたぶらかしている軍属などと見られていたり?
 恋人同士―――ない。絶対にない。胸が微かにドキドキするのを確かに感じながらも、自分の考えを即否定する。
 恋人―――肩肘をついた手のひらの上に顎を乗せた格好で、クレイは静かに溜息を吐いた。
 フラッシュバックする光景。
 攸人と並んで歩いていたエレアの後姿。
 ちらと覗いた彼女の横顔―――笑み。
 なにもそれだけでエレアは攸人のことが好きなのかな、と思うほど短慮ではない―――少し思ったが―――クレイとて女性と喋るときに笑うこともある。女性と2人で何かしたりもする。その時クレイは別にその女性に好意を寄せているのではなくても、だ。
 だがそれはあの夜の彼女の笑みをも、そんじょそこらの笑みと同価値であるとすることでもある。そしておそらくあの時の彼女の笑みも、同僚や友人への笑みだったのだろう。考えてみれば、初見でクレイに好意を寄せることなぞあるはずがない。一目ぼれさせるほどの容姿でもなければ性格でもないというのは十二分に承知している。
 だが嫌われているわけではないのだからアタックのチャンスはあるではないか―――と言われればそうなのだが。
 そうこう思案しているうちに、彼女はピーマンを全て処理していた。よほど不味かったのか、水を何杯も注いでは飲むを繰り返したのちに、クレイに毒気のない笑みを向けた。
「頑張ったな」
 うん、と元気のいい返事と共にピースサインを作る。エレアにとってピーマンを食べることはそれほどの激戦だったのだろう。
 こんな少女が、こんなまさに子どもそれ自体のようなエレアが。
 世の中、というのは不平等なものである。
「―――じゃあ、行こうか」
 ファミリーレストランを出れば、もう昼下がりといって良い時間だった。
 曇天の空の間隙から味気のない陽光が差し込む。最悪雨が降ることも覚悟したが、どうやら気象管理局の連中はどうやら話の分かる奴ららしい。
「きれいだね」
 空を仰ぐエレアが目を細める。
 暗鬱とする黒雲から曙光が差し込む様は確かに美しい。地球のそれとは異なり人の手によって再現されたものであるが、神の存在をその光で確信するのも頷ける。
「あれ、天使の階段って言うんだよ」
「てんし?」
 エレアが小首を傾げる。
 宇宙世紀も始まって1世紀が経とうという0094年、『神』の存在は迷信とされ、多くの人間の精神から排斥されてしまっている。その善悪や本当に『神は死んだ』のかは議論の要するところだがそれはともかく、神が何事なのか知らないということは宇宙世紀の若い世代では珍しいことではない。クレイもある程度は知っているが、それでも曖昧にというだけにすぎない。
「ん~、羽が生えた人?」
「羽が生えてるの!? 人に?」
 目を丸くしたエレアが空を見上げる。
「いやまあ人っていうか。神様の言葉を伝えたり死んだ人の魂を運んだり…ってのは別な話だったかな」
 記憶を掘り起こすように頭に手を当てたクレイが言うと、彼女の真紅の瞳が一瞬クレイを捉え―――空を仰いだ。
 死んだ―――。
 “天使の階段”を見上げたまま、ぽつりと彼女が呟いた声がクレイの耳朶を打った気がした。いつものあどけない声色とは違う色の音、沈鬱したような―――。
 思わず彼女を見る。
 陽の光を受けた彼女のかんばせには、黒い色使いはない。
 ―――気のせいか。
 タスマニアデビルを抱く彼女の顔にはいつもの笑みが戻っていた。
 特に気にするでもなく再び大通りを歩きながら、クレイはひたすら昨日夜通し考えた今日の予定を思い浮かべた。
 あとは映画の一つでも見てそれからそれから―――。
「うわー! うわー! うわー!」
 いつの間にか先に行っていたエレアが何かの店のショーウィンドウに顔を張り付けんばかりにして歓喜の悲鳴を上げていた。
 急かすように手招きする彼女のもとに寄り―――クレイは息を飲んだ。
「綺麗だね」
 先ほどの神々しさへの畏敬というのとはまた違った美麗さにエレアが年相応の黄色い声を漏らす。
 ショーウィンドウに並ぶ小奇麗なアクセサリーの中で、彼女の目を引いたのは一際小さな金属の欠片―――指輪だった。
 やや動揺する。
 どうして指輪? と彼女の横顔を伺えば、夢中で指輪を眺める笑みがあった。
 ファッションとして指輪をするのも珍しいことではない、と聞いたことはある。ちょっと綺麗なものに憧れる―――何もおかしなことはない。うんうんと頷きながら、邪念を払うようにショーウィンドウに並ぶ品物を注視する―――素振りを見せながら、クレイはエレアを横目で一瞥する。
 目を輝かせて、というよりもきらきらさせてといった様子で穴のあくほどに眺めるエレア。
 クレイは顔を上げ、改めて店構えを見た。
 どこかしらのチェーン店ではなく個人経営の店のようだ。豪奢、というわけではないが小奇麗に整えられた店構えは、経営者の品の良さを思わせる。店主は年若い女性かもしれない。
 『ニューエドワーズ』は軍事コロニーとはいえ、新生サイド4コロニー群再生計画の足掛かりとして設立された一面も持つためか、軍属に関わらない人も多い。度重なる戦争で微かにだが厭世観漂う地球圏の中では、こうした個人経営が儲かるぐらいには活気にあふれているコロニーだった。
 平日の昼過ぎということもあって、ショーウィンドウの中にはまばらに人がいるらし。
 数秒。
 数十秒。
 時間単位が分を過ぎても、銀髪の少女はぴくりとも動かずにショーウィンドウを眺めていた。
 彼女が見ているのは相も変わらず―――指輪だ。ピンクゴールドにしめやかに閃くリングは、それほど高価なわけではないらしく、子どもが少し我慢すれば手が届くほどの金額だ。
 うんうんと唸った後、エレアは重たい息を吐いた。
「じゃあ、行こっか」
 振り返ったエレアのキャンパスはいつもの絵の具が塗られていた。
 曖昧に返事をしながら、もう一度値札を一瞥する。よもや、とも思ったが、やはり桁数に間違いはない。
「買わないの?」
 既にショーウィンドウから目を離していたエレアの目と、先ほど彼女が熱中していた指輪を見比べる。先ほどの素振りは見るからにその指輪をはめている自身を夢想していたようだったし、見当違いではないハズなんだが、と思った。
 案の定、さっと顔に影が差す。
 ぎゅっとタスマニアデビルを抱きしめる力が強くなった。
 あぁなるほど―――”ジャック”と目が合ったクレイは、それとなく理解した。この真っ黒であまり可愛らしいとは思えないこのタスマニアデビルのぬいぐるみ、凡庸な見た目に反して結構高価なものだったのだ。少なからず、エレアが欲しがっていたリングの二倍以上の値段ではある。
 欲しいけれど買うに買えない。きっとそんなところだろう。理解するや、逡巡―――決断。
「ちょっと待ってて」
 エレアの返答も待たず、クレイは店の中へと入った。
 広さは20畳ほどの店内は案外飾りっ気がない、というよりほとんど簡素と言ってよかった。
「いらっしゃいませ」
 クレイを出迎えた店員は、50代ほどの女性だった。品のよさそうな薄い目に、パリッと着こなしたスーツの様を見ると、若作りとは違う若さを感じさせる。
「店の前のものならこちらにありますよ」
 理知的な顔立ちに親しみ深さを感じさせる笑みを浮かべた店員が導くように手をもたげる。その手の先導の先は店と奥のプライベートを仕切るように、レジとともに横たわるショーケースだ。その中を覗き込めば、すぐ件のリングが見つかった。
 見つけるや、すぐ購入した。値段は大したことはない、ちょっと高価な本を買ったと思えばむしろ安いくらいだ。
 やたら細長い紙袋を受け取り、礼を言いつつ店を出る。
「はいこれ」
 縦長の紙袋の下にぽつんと蹲る黒い巾着袋を人差し指と中指で摘まむようにして持ち上げ、ぽかんとしたエレアの顔の前に垂らした。
「あ、これ」
 袋を受け取り、紐を開けて中身を取り出した彼女が目を点にする。
 天使の陽を受け、桜色のリングが翼ある光を厳かに放った。
「あげるよ」
「え…なんで?」
「折角というかなんというか。なんか、『そういうもの』らしいし」
 攸人曰く「まぁちょっとしたなんかをプレゼントするといいんじゃない」とのことだったのと、昔プレイしたPCゲームのデートシーンでは確かにプレゼントとかあったなとという追想がある―――参考がPCゲームってそれどうよ、とは思うが。とまれ、決して冒険的な行為ではない、という自覚は強い―――こうした思惑の根底に『浅ましさ』があることがある、という事実に表情筋が複雑に強張る。
 困惑したように眉宇を寄せたエレアが指輪とクレイの顔を交互に見比べる。
 ―――何か変ではないか。流石に手放しで喜んでくれるとは思ってはいないが、眼前で困り顔をするエレアの様子は明らかに予想外だった。
 何か致命的ミスを犯している―――まず、物品の選択ミスが思い浮かんだが、それはないと思う。確かに彼女はあの指輪を―――。
 指輪。そのキーワードが頭のどこかに引っかかる。
 指輪を贈る、とはそもそもどういう意味だったか―――指輪を贈る、とは暗に婚約を意味してはいまいか。
 クレイとエレアの関係はあくまで仕事の同僚―――仲間、であって仲睦まじい暖色の関係ではない。今回彼女と2人でいるのは、あくまで彼女の護衛という理由なのだ。どんな因果で自分が選ばれたのか、というかこれのどこが任務なのだと思うが―――その癖、基地司令権限で下された任務というのがなおのこと異様である―――どちらにせよ彼女とはまだ初デートどころか恋人以前の関係なのである。その上で、物として残る物を、まして指輪をプレゼントする。
 プロセスは悪くなかった。が、考えれば考えるほど、愚策と称することすら尊称に感じてしまうほどの行為ではないか―――。
「ご、ごめん。俺こういうの全然慣れてなくてさ…。普通に考えれば指輪なんて重いってわかるよな」
 なるだけフランクになるように砕けた笑みを浮かべる。それこそ気落ちしている気分を気取られては、エレアが悪いかのような印象を与えかねない。なるべく禍根無くことを終わらせることが最善だ。
 はい、と手を差し出す。一瞬、手が震えそうになるのを精一杯静止した。おそらく、震えは相手に伝わらなかった…と思う。
 エレアは、しかし両手で指輪を握りしめ、ふるふると頭を横に振った。
「エレア?」
「違うの…そういうんじゃなくて」
 もじもじと歯切れの悪いように身をよじる。
 陽光を受け、化粧でほんのり赤らんだ彼女の頬が柔らかに照る。
「本当にくれるの?」
 クレイの顔を覗き込むように、上目づかいに見やるエレア。
「もちろん。エレアが喜んでくれたらなって思って買ったものだ」
 どうやらクレイが余計な勘違いをしていたらしい―――安堵を感じたクレイの声色も、自然と緩んだ。
「ありがと…凄い嬉しい」
 顔を上げた彼女の満面の笑みが、その言葉を何よりも物語っていた。
「どういたしまして。そういってもらえると俺も良かった」
 クレイも思わず笑みが零れた。
 後ろ暗い予想も杞憂に終わって良かった―――けれど。
 エレアのその他意のない無邪気な笑みに、クレイの胸がちくりと痛む。彼女の無垢につけ入ろうとする自分の小賢しさと浅ましさ。純粋に彼女に喜んで貰いたかったから、だけではない自分の思惑を、クレイの高潔な理性が責める。
 きっと―――クレイは彼女の笑みから目を逸らし、まっすぐ伸びていく通りの向こうに目を投げる。
 アニメの主人公とかなら、本当に純粋な気持ちから善意を行えるのだろう。先ほど自分が言った言葉も、エレアの笑みを正面から受け止めて素直に言えるのだろう―――所詮、クレイ・ハイデガーは疚しいだけで外面を取り繕うので精一杯な存在を脱せないのだ。そして、それを顔にも出さずに平気な面をしていられるような存在なのだ。
 そうしたクレイの内面はともかく、エレアが喜んでいるのは事実だった。この予定外のプレゼントの後、終始エレアの顔にはたんぽぽの花のような笑みが咲いていた。
もう後は帰るばかりという時になって、エレアが気まぐれで入った公園のベンチに腰掛けたクレイは温い溜息を吐いた。
 長時間の緊張による疲労と、大過なく無事に今日が終わったという安堵感。何より、彼女が表面上はつまらなそうにしていることはなかったことに奇妙な達成感があった。
「好き―――か」
 公園の中心でちょうど居合わせた子ども数人と戯れているエレアを眺め、音のような一言を呟く。
 明確に輪郭を持たないたった一言。
「好きってどういうことなんだろうな」
 なぁ、と隣のベンチに座るタスマニアデビルの頭に手を置いた。真っ黒に混濁した目のジャックの不気味なほど満足げな笑みは、クレイの心を肯定しているかのようにも揶揄しているようにも感じた。
 エレアとセックスがしたい、とは思う。
 でもそれは『好き』なのだろうか。
 単なる彼女をそこいらの如何わしい店に並んでいるダッチワイフと思っていることと、何が違うのだろう?
 色情狂いと自分は、どう違うのだろう―――?
「ただいま」
 公園から帰っていく子どもたちに手を振って別れを告げ、クレイの座るベンチまでぱたぱたと走ってきた彼女がクレイの隣に腰を下ろす。
 雪解けの冷水のように美しい銀色の髪。
 幼げな顔。
 ミニスカートからちらと覗く健康的な肉感の太腿。
 おかえり、と素っ気なく言いながら彼女のリリスを感じていたクレイは、ふと彼女の左手に目が行った。
 逢魔の光を受け、ちらと光る桜色。
 彼女の左手の―――薬指で、光っていた。
 頭が真っ白になる。世間の習俗とやらはとんとわからないクレイでも、その意味は知っていた。
 Why?
 Warum?
 なぜ?
 Perche´?
 ふと、とある答えに辿りつく。ある種、この状況で、思い浮かぶのが当然ともいえる答え―――でもなぜ、と置き去りにされた問いの巨大さに、クレイは途方に暮れた。
 いやまあ、指のサイズの問題とかもあるのだろうが―――。
 そんなクレイのことなど知ってか知らずか―――彼女の姿が揺れた。その揺れは戻ることもなく、そのままクレイの肩に頭の重さを乗せた。そのまま、彼女の右手がするりとクレイの脇を犯し、その小さな手のひらを、クレイの手のひらに絡めていく。
 柔らかい手のひら、温かい彼女の肢体。クレイの腕が彼女の脇腹に、そして微かに―――彼女の、乳房に、触れて、い、た。
「ね、クレイ?」
 クレイの思考がついていかない。なに、と応える声は酷く冷静だったが、頭の中の新皮質は壊死したように真っ白になっていた。
 言ったまま、彼女は何も言わなかった。彼女の手のひらを握る力が、徐々に強まっていく―――痛い、と思うほどに。
 握られるがままにしている手のひらが、じっとりと汗をかきはじめたことに焦りを感じ始めながら、やはりそうなんだろうかと思った。ちらと一瞥すれば、彼女は俯いて―――雪解け水のような銀髪からちらと覗く外耳がほおずきみたいに紅かった。
 でもなんで、という答えは相変わらずで―――クレイの迷いも当然なのだ。エレアとクレイの関係なぞ、振り返れば振り返るだけ特筆するものでもなかった。彼女と話したことなど片手で数えることができなくなったがまだもう一方の手のひらの半分も埋まっていないという数だし、劇的な出会いをしたわけでもない。ただ、彼女は一度だけ意味深な素振りをしてみせたことはあったが―――なら、あの時から? でもなぜ?
 どうしていいかもわからず、それでもクレイが彼女の手を握り返そうとしかけた瞬間、手のひらに感じていた痛みがどこかへ行った。拍子に、彼女の身体(カラダ)から感じていた柔らかさも温かさも、クレイの隣から逃げていく。
 すっくと立ち上がったエレアは―――指輪を左手の薬指から引き抜く。クレイが呆気にとられるのもお構いなく、彼女がぐいとその飾りっ気のない指輪を突きつけた。
 はめて。
 俯いたままの彼女の口がその言葉の形に歪む。綺麗に切りそろえられた前髪のせいで、彼女の目元は窺い知れなかった。さくらんぼみたいにあかい彼女の白い頬っぺたは、はたしてチークシャドーのせいなのだろうか?
 はめて、ともう一度彼女の薄くて婀娜っぽい唇が喘ぐ。
 そっと、彼女の手からリングを受け取ると、彼女が差し出した左手を手に取った。小さな手だ、と思う。ごつごつしていて、手入れもしていないクレイの手とは違ってすべすべしていてぷにぷにと柔らかくて、ちゃんと手入れのされた手だ。
 逡巡の後、クレイはゆっくりと叛逆した。理不尽なまでの罪悪感を負いながら、クレイは彼女の指に―――薬指に―――リングをはめた。サイズ合わせをしていないハズの指輪は、金庫の電子ロックを開けるように、綺麗にはまった。
 綺麗だけれど飾りっ気のない手のひらで、唯一ちょこんと居座る桜色の指輪。その様を凝視していたせいで、エレアに名前を呼ばれたときにすぐに反応できなかった。相槌をうつのにワンテンポ遅れ、慌てて顔を上げた時ようやく気付いた。
 あ、という暇はなかった。いや、暇がなかったのではない。物理的に、クレイは口を開けられなかった。身体全体にかかる重さと服越しでもわかる彼女の女(からだ)のふかふか(・・・・)とした感触。そして何より、クレイの唇を塞ぐ彼女の熱さで言葉を発することなぞ出来そうもなかった。
 実際、それは些末なキスだった。互いの唾液を交わらせるようなものでもなく、ジュニアハイスクールの、いや、ませたプライマリースクールの子どもだってしているような、ただ唇が触れ合うだけのソフトな接合。
 どれほど唇を触れあわせていたか、などという枕詞を思い出すこともないほど、客観・主観時間にして短い間の存在の接合だった。ベンチに座るクレイと抱き合うようにして膝の上に乗っかったエレアは、クレイの胸に手を当て、それで自分の身体を支えるようにして、ゆっくりと溶解して融合していた粘膜に境界線を引いた。
「えへへへ…しちゃった」
 隠し切れない羞恥を孕んだ無邪気な笑みを浮かべて、彼女の唇が蠱惑的に形を変える。
「しちゃったって…」
「だって恥ずかしくて言えないし…クレイから言ってくれないし。こういうのは、男の子の方から言うんだって聞いたもん。るーるいはんだよ」
 ぷー、と頬を膨らませるエレア。赤い瞳は恨めし気にクレイを睨んでいた。
「マジ?」
「マジじゃなかったらこんなことしないもん」
 いよいよエレアはクレイの頬を両手で摘まむと、ぐいぐい頬を引っ張る。
 案外力が強い。彼女の頬を摘まむ力は万力―――とまではいかなくても、そのひ弱そうな外見からは大分乖離した力だった。流石は軍属ということか―――って。
「いだだだ…いてーよ」
 ぺちぺちと彼女の手を軽く叩く。
「あ、ごめん」
 ハッとしたエレアは、慌てて頬を摘まむ手を離した。いいよ、と笑みを作りながら、両手で頬に触れる。多分、赤くなっているだろう。
「随分力が強いんだな」
 いてて、とわざとらしく言いながらお道化てみる―――クレイ本人としてはなるべくフレンドリーに振る舞ってみたつもりだったが、エレアはやや戸惑ったように肩を竦めてしまった。
「変かな…」
 伏し目がちにクレイを赤い目で見上げる。
 身体を小さくする少女。怯えたようなその姿は、その外見相応にひ弱に見えた。
「その…『普通』じゃ、ないから」
「あ―――」
 だが、エレアという少女は『普通』ではないのだ。その少女は、ひとたびMSという剣を持てば、戦場に勇壮を轟かせる技量の持ち主なのだ。その腕は身をもって知っている。
 ニュータイプ。強化人間。
 後頭部を痛いくらいに掻く。
 『普通』という言葉。『異常』という言葉。その言葉をすんなりと受け入れかけたことが不愉快だった。
 腕組みする―――膝の上にエレアがちょこんと乗っていて、その正面で気難しい面をしているというのも珍奇な事態だが、些末なことであろう―――。
「だめかな?」
 クレイのその眉間に皺を寄せて瞑目する姿を、どう応えたものかと難儀する姿と受け取ったらしくどこか不安げに眉宇を寄せていた。
「いやちょっと考え事を」
「むぅ…」
「というかそれはこちらの台詞なんですがね…だって、ねぇ」
「だってって?」
 ころんと小首を傾げる少女。
 エレアと出会って、そこまで日が経っているわけでもない。何かあったわけでもない。
 愛の感情に、物理的時間経過は必要条件でこそあれ十分条件ではない。重要な継起は外的時間ではなく内的持続における何がしかである。だが、その内的持続における何がしかとやらも特に思い当たる節が無いのだ。
 いや、むしろ―――脳裏に過るあの日の光景。
「てっきりユートとだと思っていたが」
「なんでユート?」
 はてな、と首をかしげたまま唇に指をあてる。
「いやだって、前に一緒に歓楽街にいたからさ。あのデパートに居たじゃない」
「あれ、あの時クレイもいたの?」
「あぁちょっと用事で」
 ふーんと肯く。エレアはやや恥ずかしそうな照れ笑いを浮かべて、くいくいとスカートの裾の部分を摘まんで見せた。エロチックだななどと思って慌てて目を逸らした。
「ユートはクレイと仲良いんでしょ? だから、クレイどんな服が好きなのかなって聞いたら一緒に買い物付き合ってくれたんだー。わたし、服なんて買ったことないから」
 ぱたぱたと両手を広げ、改めて服を見せるようにする。
 攸人の顔を思い浮かべる。絶対にからかい目的で楽しんでやがったのだろう。喜んでいいのやら、憤然とすればいいのやら―――。
「これって変じゃないかな? こういうの穿いたことないからわかんないんだけど」
 スカートとニーソックスを軽く叩く。
 確かに華やかな見た目の彼女だが、軍服以外の服を着ているイメージはなかった。ガーターベルトをくいくいと持ち上げては不思議そうにする仕草は、端的に善かった。
「変ではないよ―――むしろグッジョブ」
「そっか―――これちょっと金具が変な感じするから変なのかなって」
 彼女の手先を見る。確かにニーソックスをずり落ちないようにするための金具が皮膚と接している―――そういう苦労もあるのだなと変な考えが浮かんだ。
 攸人は関係ない。だとしたら、クレイが戸惑う理由も、また無かった。
 心臓が拍動する。目の前の少女は、クレイ・ハイデガーという存在にとってあまりにも不相応な存在だった。
 高嶺の華。だが世の通年として、高嶺の華へとたどり着く山道は険しいとは限らない。むしろ道は急峻とは程遠く、無謀な登山者(チャレンジャー)がひょうひょい登って雅な華を無粋に摘んでしまうものなのだ。ただ、偶然にもクレイの前にその道が開けたにすぎない―――。
 だが、道は、あるのだ。
「その…俺なんかで良いのであれば―――というかむしろ俺も、その…」
 吃る。その先の言葉を言おうとしても口が引きつる。
 だって仕方ないではないか。人間には未経験の事実に対して上手く対処できない性質の人もいるのだ。
「かわいい」
「うぅ…」
 吃音を繰り返す様を評してのエレアの一言でなおさら顔を赤くしてしまった。
 ジゼルもそんなことを言っていた気がする―――うぅむと難しい顔をして、エレアは猶更ころころと笑みを浮かべていた。
「あーもう、そう。そうだ、ここにいる人は好きという感情を強く感じているようだ」
 ええいままよと口にする。口にしてから、もっとましな言い様は無かったのかと酷く後悔。そして言った事実に耐えられず、へなへなと身体を小さくしてしまった。
 気が抜けたらそのまま拍動する心臓が口から転がり出てしまいそうで―――。
 ふと視界の端で姿が動く。へ、と顔を動かしたときには、勢いよくエレアがクレイの身体に抱き付いてきた。きっと台詞枠があるならビックリマークとエクスクラメーションの系列を滅茶苦茶に並べているであろう、頭を真っ白にしながらしどろもどろに所在なく手を彷徨わせる。
 結局、数秒ほどどこに落着させていいのかわからず、クレイはエレアの背中と腰の間ぐらいの場所に手を乗せた。
 エレアが顔を上げる。
 彼我距離10cm。コンビニで売っている定規ほどの距離は、確かに物理的にも内的にもそれにふさわしい距離だった。
 彼女が緩く目を閉じる。それが何を意味するのかすぐに理解し、クレイは足の指先に力を入れてグーパーを繰り返した。
 今度はそっちから、と。彼女の存在が、甘く語っていた。
 南無三。恐る恐る目を閉じ、クレイは彼女の境界線的器官に自分の存在の産まれ出る器官をゆっくりと重ねた。かつん、と彼女の前歯に自分の前歯が当たったのが、なんとも無様で―――。
 でも。
 熱いと、思った。
                    ※
 寒いと、思った。
 理屈上は、これでもほかのコロニーよりも大分温かい温度設定にされているのはわかるのだが―――。その癖、アイスクリームなんかを頬張っているのだから、文句を言う資格はないと思う。
「う~ひゃっこいひゃっこい」
 道路沿いにあるアイスクリームの屋台で買ったアイスクリームを舌先でぺろぺろと舐めながら、女は肩で風を切る。
 厳冬期の北海道に比べれば大分マシだが、何分薄着で来たのが不味い。温暖な天気、と聞いていたのに―――天気予報を見ていないのが悪いのだ、と言われると何も言えないのだが。
 さっさと基地に帰ろう。そして今日はビールでも飲もう。あったかい部屋で、冷えたビールでも飲みたいところだ。
「―――おろ?」
 ふと、女は道路の反対側の道路を歩く男が目に入った。
 栗色の髪の男―――そういえば、ここに配属になっていたんだっけ、と思った。だが、それだけなら、事前に知っていた情報を思い出したというだけの話である。だが、日本人の彼女が驚いたのは、その男がいるということだけではなかった。
 男は、手を繋いでいた。銀髪の少女と、どこか恥ずかしげにして、小指と薬指だけを絡ませていた。
 へぇ―――あの人が、ねぇ。
 白い色のアイスクリームを頬張る。
 きん、と口の中を冷たさが刺した。 
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