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機動戦士ガンダムMSV-エクリチュールの囁き-

作者:桃豚(21)
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11話

 頬を撫でる氷風。正面から風を切るクレイの身体の奥まったところは嫌に生暖かく、肌に感じる冷たさはただ皮相を滑っていくだけだった。
 ただ走り、走り、走る23歳の男の顔は、いつになく―――あるいは、いつものように、峻烈に歪んでいた。
 草の大地を蹴り、濡れた空気を吸う。黒い穴のような視線が捉えるのは、漠然と充実する虚空ばかりだ。
 虚空に挿す銀光、あどけなく綻ぶ少女の顔立ち。
 固く拳を握りこみ、全身を強張らせたクレイは真っ赤な汗に塗れながら、ただただ走っていく―――。
 結局ろくすっぽ走りもせずに、走り込みを終えたのはそれから数十分の後のことだった。気分もよくなかったし、そんな気分でもなかった。蓄積した疲労となれ合うこともせず、表情筋が固まったかのような沈鬱を表情に浮かべたクレイが目指すのは、どこともしれないあの小高い丘だった。
 夜の帳は既に降り切っている。ずんぐりと広がる夜闇の中をふらふらと歩いたクレイは、その小さな丘の頂上付近―――頂上付近だが、少し降りたところに腰を下ろす。
 あの日以来何度か訪れたあの丘。淡く、惨めな期待とともに訪れた、あの丘。
 苛立ち、当惑、劣情―――期待?
 一息吐き、空を仰ぐ。眼中に入り込んだ景色は、酷く放恣で整然とした人工の空だった。
 胸中にとぐろを巻く、自棄的な極彩色の感情。
 またね、と言った彼女の姿と、こちらに手を振る柔和な笑みを浮かべる彼女の姿。想起した刹那、それに覆いかぶさるようにして思考にせりあがるニュータイプ、という言葉。
 あの一年戦争から広範に知られるようになった、どこか胡散臭い言葉は、戦場にあって撃墜王、あるいはエースパイロットの異名に類する言葉として語られてきた。
 手を掲げる。広げた手を、強く握りしめた。
 自分は凡夫だ。特殊な才能もない。センスがあったわけではない。それでも、クレイ・ハイデガーはエリートと評される場所にいる―――。
 自虐的な笑みを浮かべる。脱力しながら手を降ろして、クレイは鼻の穴から目一杯熱っぽい躰の中に空気を送り込む。
 クレイの頭にあるのは、翌日以降のシミュレーターのスケジュールだ。大抵、部隊規模での使用が主であり、数週間前から事前に予定が組まれているものだ。それでも、空いている時は空いている。
 あとは都合のつく日に張り付けば―――。
 至極、生真面目な思考。合理的で、熱のこもった思考。されどそれは、ただの思考停止の裏返しで―――。
 がさと草叢がざわめく。
「クレイ―――?」
 あの日聞いたはずの声が鼓膜をなぞりあげた。
 心臓の痙攣。緊張だけではないその心臓の蠢動に、クレイは手が震えるのを感じた。
 わざと、クレイは返事をしなかった。礼を失しているのは承知している。それでも、クレイは即答することなぞできなかった。
 もう一度、彼女が名前を呼んだ。もっとはっきりと、あるいは力強く。クレイは、その時初めて気づいたような素振りで、間の抜けた声で返事をした。
 立ち上がる動作も、振り返る動作も緩慢。肺を圧迫するほどに心臓がのたうちまわる音が蝸牛の中のリンパ液をかき回している―――。
 知っている感覚、だった。忌々しいほどの鮮やかな過去の反復が身体中を染め上げていた。
 声の方に目を向ければ、あの、少女が居た。
「あぁ―――フランドール中尉、でよろしかったですか?」
 わざとらしく身を正し、敬礼する。
「あ、うん、そう。エレアっていうの」
 なにゆえか狼狽えているような、困ったような表情だった彼女―――エレア・フランドールが右手を額に添える。流石に軍属ということもあって、綺麗な敬礼なのが却って奇妙な印象を与える。
 彼女は、何故ここに来たのだろうか。追ってきた? それはないだろう。じゃあ別な用事だろうか―――。
 困ったような、怯えているような、迷っているような顔で、何か言い出しかけては言い吃るエレアに対して、元々お喋りでもなければあまりにもガキのような緊張で何を話していいのかわからないクレイの間では、沈黙が鎮座するのは当然といえば当然だった。
 十数秒ほどの間の沈黙。クレイの脳裏にあったのは、親友やら同僚の戯言、もといアドバイスだ。
 ええい、ままよ。
 唾液を飲み込み、咽喉を鳴らした。
「そういえば、私は自己紹介もまともにしていませんでした。クレイ・ハイデガー少尉です。先週程から666着任になりました」
 エレアの表情がきょとんとする―――束の間、少しだけ彼女の顔に笑みが浮かぶ。
「じゃあ私も、かな。エレア・フランドール中尉。666でゼータプラスのパイロットやってるの」
 薄暗くなり始めているが、彼女のSDUの襟に縫い付けられた赤地に白のライン、そして白の円が二つ並ぶ階級章はよく見える。中尉―――自分の上官なのか、と思えば、先ほどとは別な緊張があった。
 察したのだろう。くすりと笑みをこぼしたエレアが、
「敬語とか別にいいよ? 階級上だけど私17歳だし、敬語で話しかけられると変な感じするから」
「そうですか―――いや、そうですか?」
「変わってないよ?」
 洒落と受け取ったらしいエレアが笑う―――素でやったクレイは照れた笑みで返すしかなかったが、あの出会ったときと同じ柔らかい表情になったのを見れば間違ってはいない―――ということなのだろうか。釈然とはしなかったが、まぁいいか、と好意的に捉えた。
「ここは、空がきれいだね」
 彼女が空を仰ぐ。つられてクレイも振り返るようにして空を仰ぐ。
 ラピスラズリが溶けた空は、すでに黒に犯されはじめている―――現実と魔がまぐわるその空は、確かに現実感の欠如態のようで幻想的だ。
 でも、君のほうが―――そんな言葉が不意に浮かんで、クレイはぞっとした。とても言えないだろうな、とも思った。そういう科白を吐けるほどの美丈夫でもなければ、クレイは若かった。苦笑いにもならないひきつった笑みが浮かぶ。
「?」
 いや、別に―――言いかけ、彼女のほうを見やったクレイは、素っ頓狂な悲鳴とともに身体をびくつかせた。
 手を上げれば、すぐ触れられそうなほどに近接に、エレアの肉体があった。
 不思議そうな顔をする彼女。宋白磁のようになめらかな白い肌でありながら、きっと触れればずうっと触っていたいほどに柔らかいのだろうか。
 息を飲みこみながら、たじろぎ、後ずさる。
 彼女の甘ったるい匂いが脳みそに沁みているのか? 蒙昧な空想を働かせるほどに、クレイは頭が気怠くなっていた。
 釈然としない面持ちだったが、特に気にも留めない様子になると、その場に座り込んだ。膝を抱える、所謂体育座りと言うやつだ。
 暗がりの空に鳴くのは虫と風か―――。瀟条の静寂の中、クレイの思考は混乱の極みにあった。
 人間の持ち得るありとあらゆる白と黒の感情が興る。日頃から物思いに耽りやすい性癖の持ち主だったが、今日はなおのことだ。
 考え込んでいたせいもあったし、また隣にずけずけと座っていいものかという余計な配慮もあってクレイが立ち尽くしていると、エレアの紅い瞳がクレイを見上げた。
 首だけ仰ぐようにして、エレアが見上げる。
 どうしたの、と瞳が尋ねる。座らないのか、と。ああ、と気まり悪く返事をすると、所在なさげにして、クレイも腰を下ろした。少しだけ、左にずれて座ったのは、彼の良心あるいは情けなさの故であった。
 彼女の隣にならんだクレイは、ちらと空を見上げる彼女を横目で一瞥する。
 彼女が?
 彼女が。
 彼女が、あの《ゼータプラス》のパイロットなのか。彼女の鈴のような綺麗な声はそう告げた。記憶をたどれば、数時間前にノーマルスーツを着たエレアの姿は驚くほど明瞭に立ち現われた。
 それでも、妙な現実感のなさがある。年齢は17、と言った。しかし、見れば見るほど彼女の年齢はもっと下のようにも見えた。それこそ15歳ほどといっても納得できる。そんな少女があの強さを。クレイが掠らせることすら拒絶したあの強さを、この少女が―――?
 ―――恥ずかしかったのだ。クレイ・ハイデガーはプライドの塊なのだ。
 ニュータイプ。ないしその類似品。模造品。情欲をかき乱す匂いが染みついた脳髄の奥で這い出して来る言葉。同じような空の下、初めてこの少女と会ったときに攸人が口にした言葉。
 さっき感じた威容はそういった類のものだったのではないか。
 視線は夜空。不意に、あのさ、と彼女が口にした。
「ニュータイプって、嫌い?」
 え、とだけ声が出た。
 思わず彼女を見返して―――彼女はまだ、夜空から視線を変えてはいない。
 どうして彼女はそんなことを聞くのか。まさに今自分が思ったことを彼女は聞いたのだろう。
 ―――ニュータイプ、という力の定義は酷く曖昧だ。人の考えがわかるといってもどのレベルでわかるのかを実証的に扱ったデータはないということは、それなりに調べものをしているクレイは知っている。それでも、程度問題こそあれど、わかるのだという。彼女はよもや自分の心を見たのではないだろうか―――。
 さっと風が吹いた。どこか冷たい風が彼女の銀色の髪をさわさわと撫でていく。
「嫌いだったのは過去形かな」
 言う声色はいつも通り。
 彼女が少しだけ視線をこちらにくれた。
「昔―――といっても18ぐらいの時だったかな。あの時はまだガキだった」
「今は?」
 彼女の紅い瞳はもうクレイだけを視界に納めていた。
「今はよくわからない……ってとこだな。嫌いではなくなったけど」
 んー? と歯切れの悪い唸り声とともに彼女が首をかしげる。
 クレイとしても、自分のニュータイプ、という言葉に対する自分のスタンスは明瞭としていないのだ。
 昔は嫌いだった。心底憎かった。否、ニュータイプが嫌いというよりも、それは生まれ持った才能、特別さに憎悪したのだ。そしてその憎悪を哲学という装備で理論武装して出してしまったのが自分の論文であって……。
「まぁ、嫌いではないかな。苦手意識はまだあるんだけど、それでもちょっとってぐらいだから」
 自分の拙さを思い出していたせいもあって、クレイの表情は照れ笑いのような苦笑いのようなものになった。
 そっか。一言呟き、彼女はまた空を見上げた。
「えっとね三t年…ちょっと不安だったの」
 不安?
 クレイは無言で、どうして、と。彼女もそれを理解しているのだろう、少し居住まいを正した。
「わたしは、それだから」
 風も吹いている。自然の音は満ち満ちているのに、彼女のその指示代名詞を含んだ小さなが鼓膜を正確につつく。
 それ、が何を指すのかはテクストを理解していれば明瞭だ。もちろん、クレイも理解した。「フェニクスの部屋にいったとき、クレイの書いたやつ読んだの」
「俺のって、あの俺の?」
 うん、と頷く彼女の素振りは弱弱しい。
 その素振りでわかる。思わず自分の額を鷲掴みにした。あの文章はあのジャミトフ・ハイマンのニュータイプ思想に依拠したところが大きい。ジャミトフ・ハイマンはニュータイプをミュータントと蔑む。流石にそこまでの憎悪でもって語りはしなかったが、それでもニュータイプなどという存在は不必要だと語った記憶は明瞭にある。
 彼女は「それ」だ。「それ」を排撃するような文章を目の当たりにすれば、気に病むのは当然だ―――。
「今度からいっしょにいることになるのに、嫌われてるのは嫌だな~って」
 彼女は、笑みを作った。安堵の笑み、なのだろうか。
 内心で舌打ちする。かつての自分の行いが知らず、誰かしらを傷つけてしまうとはなんという失態であろうか。無論、当時の自分にそれを予測しろというのも無理な話である。3、4年後に、全く関わりがないような場所でこんなにも可愛らしい少女を傷つけるなぞどうして予測できようか。そんな話は重々承知したうえで、よりにもよってとは思う。
「でも嫌いじゃないんだったのならよかったな」
 えへへ、と笑った彼女の笑みは、ただただ純真だった。喜、という感情をストレートに表すだけのその無邪気さに、クレイは見惚れた。23歳。その年齢がイコール彼女いない歴な彼には、ついぞ無縁なその笑みに、心臓が不整脈でも起こしたかのように痙攣して―――。
 彼女の身体が不意に揺れた。それがなんなのか、を判断するより早く、クレイの身体に重さがのしかかった。
 触れ合うのは肩。
 経験した事柄はそれ。
 判断はそこまで。否、それだけでもない。そのまま、彼女はころん、とクレイの肩に絹の頭を乗せた。
「あ、あの……」
「なに?」
 恐る恐る身近に迫った彼女を見て―――ついとこちらを見た紅い光との相対距離は寸前。違う。彼女のその白い、白い肌が近い。
 心臓が痛い、痛くてしょうがない。鼻孔から突き抜ける蠱惑的な彼女自身のその甘ったるくねっとりした杏の香りが、粘性となって心臓を縛り上げる。
「何をしてらっしゃるのかなと……」
 返答は先ほどの笑み。それだけで、クレイは顔が真っ赤になるのを感じた。
 心臓が痛い―――でも治らなくていい。俯きながら、彼はそんなことだけを考えた。 
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