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ソードアート・オンライン〜Another story〜

作者:じーくw
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GGO編
  第169話 現実の痛み


~2025年 12月9日~



校門から出た途端、冷たく乾いた風が頬を叩いた。

それは決して、冬の空、冬の空の下だから、と言う訳では無かった。1人校門を出た少女、《朝田(あさだ) 詩乃(しの)》は立ち止まると、白いマフラーをきっちりと巻き直す。これだけで、冷気が、冷たい風が遮れる訳ではないけれど、このマフラーは数少ない温もりの1つだ。


――……これで高校3年間の総授業日数、608日の内156日が終わった。


 それは、全体の4分の1が終わったと言う事。通常では、こうやって数える様な事はしないだろう。詩乃は、ある日を境に日数を数える様になった。

 誰しもが通る道。高校生活、いや中学生活もそう。

 それが、詩乃にとって何よりも苦痛でしかないのだ。だから、こうやって毎日の様に数える、数えながら呪文の様に呟く。


――……いつかは終わる。必ず終わる。


 と。
 この半ば強制的に所属させられている、この《高校生》という集団から解き放たれたい。毎日、毎日あの収容所めいた場所に通い、無気力な教師たちの講義を聴かされ、幼児期から何一つ内的に変化していないのではないか、と疑いたくなる連中と並んで体操などなんだのすることにどのあるのだろうか。

 でも、その中でも輝いている教師や生徒はいる。尊敬の念を贈るべきところがある人達もいる。

 でも、それでも自分にとって不可欠というわけではないのだ。だから、即就職する為に専門学校を、と思っていた。だが昔気質の祖父、自分の幸せを、と願っている母。その2人の事もあり、やむなく高校へと進学したのだ。

 結局、彼女は呪縛から逃れる事が出来なかった。


――そう、中学時代と同じ様に……。


 詩乃は、今日の苦行を終えた後、買い出しにと商店街へと向かう。一人暮らしをしているから、毎日の家事は自らでしなければならないのだ。


――別に、それは苦行でも、ナンデモナイ。アノ学校生活ニクラベレバ。


 そして、献立を考えつつ、アーケードの中央にあるスーパーマーケットへと向かう。元々少食だと言う事もあり、一汁一菜が基本。あとはバランスを整えるだけだ。勿論、一人暮らしだから金銭にも気を使ったバランスだ。……味は二の次。

 ある程度の献立を考え調達、会計を済ませて外へと出たその時だった。……彼女が、高校生活を苦行と思う様になった元凶と出会ったのは。

 否、違う。

 あの時のことを繰り返しているだけの……。





 そして某時刻。
 街中、アーケードにある大型書店の中から出てくる者がいた。

「うん……、たまにはネット注文以外にも、こう言う所も良いな」

 手に持った袋の中にあるのは、とある専門書。


――……これから久しぶりにあのゲームをするんだ。


 色々と乗っている本を買う為に。普通、このネット社会。調べれば簡単に判るし、通信販売をすればすぐ、と言わずとも家にいたままで、手に入る。だけど……外の世界も思う存分に楽しまなければならない。
 それは、この数年で本当によく判った。自分から 足を1歩、踏み出さなければ、景色は見えてこないと言う事を。そして、これこそが親が願っていた事でもあった。……彼にはまだ判らない様だったが。

「さて、次は……ん?」

 左手に下げた買物袋を抱え直し、前を見た時だ。

 2つの建物の隙間、所謂路地に人影が見えた。

 街中であれば、アーケードの中であれば、人がいても別段不思議ではないだろう。だが、なぜだろうか……?  この現実の世界だというのに、あの世界(・・・・)で感じたある気配を視た気がした。
 ……不快な気配を。

 見えた人影は4つ。

 路地の奥の方にいる様だが、視力には自信がある。PCばかりしているのに、眼は本当に良かったから。その対立状況は3:1。1人を3人がかりで、追い詰めている様にも見える。まだ、話まで聴いていなかったから、一概には言えない。
 だから、足音を成るべく殺しながら、向かっていった。


 彼、事 《竜崎隼人》がこの町に来たのは全くの偶然である。

 綺堂の用事に一緒について来た、というのが正しい。

 台東区、東京国立博物館の館長とは古馴染みらしく、その彼に会いに来たとの事。

 博物館で使われているクラウドコンピューティング、そして防犯システムもそう、隼人が関わっている事も多いから、是非にと以前から呼ばれていたという経緯もある。今回が丁度良かった。そして、隼人にとっても東京国立博物館、所謂《トーハク》には前々から興味があった事もあるのだ。





 隼人が不快感を感じ取った路地裏では、その感覚に間違いのない事が行われていた。

「じゃ、下ろしてきて。ATM近いし、ラクショーでしょ? なんならカードと番号渡せばうちらが行ってくるけど?」
「………」

 詩乃が出会ったのは、3人の女子生徒。リーダー格の遠藤と言う女性を筆頭にしたメンバー。

 同じ制服……だが、スカートの丈に多大な差があるから素直にはうなずけない。この3人は、東京の高校に地方から出てきたばかりで、当然知り合いも居なかった詩乃に初めて声をかけた来た者達。気さくに話しかけてくれて、地方から出てきたばかりで、とある出来事もあり人見知り、人間不信になりかけていた彼女もやがて、4人でファーストフード店にまで寄ったりする様になった。主に、話は聴く側であり、話題によっては閉口する事もあったけれど、詩乃は嬉しかった。

――……自分の過去を知らない人達と友達になったのだから。

 漸く呪縛から解放される。普通の女子生徒になれる、そう思えたから。

 そんな願望。ただの普通の友達、普通の生活。ささやかだと思われる当たり前の事だが、それに飢えていた詩乃はこの時気付かなかった。この3人は、詩乃が1人暮らしだから声をかけてきた事に。

 ただの便利屋、無料の宿泊施設程度にしか見ていなかったのだ。

 日に日に増えていく、彼女達の私物。そして 学生だというのに、酔っ払って家に入ってきたりもした。流石の詩乃も苦言を呈したが、『友達っしょ』というたった一言が帰ってくるだけ。

 そして、ある日のこと、詩乃が図書館で勉強や読書をした帰りの事。自宅に、盛大な笑い声が聞こえてきたのだ。

 ……それも、あのトモダチのモノだけでなく……、その内の数人は間違いなくオトコのモノだった。そこで漸く詩乃は真実を悟った。

 自分の事を、どう見ていたのか、なぜ声をかけてきたのか、それらを。

 詩乃は警察を呼び、双方の意見が食い違いをみせるものの、最終的にはアパートでは誰の名義は朝田詩乃となっている事。詩乃と他の連中の性質を警察が見た所、大体察してくれた事もあり、戸惑いはしたものの、交番へと促されたのは詩乃ではなく遠藤だった。

 当然そこからの報復、逆恨みは速やかだった。

 詩乃の弱みを探ろうと、悪魔ごとき調査能力で詩乃が此処にいる理由、一人暮らしをしている理由。……もう、ネットですら殆ど載っていないであろう《事件》まで調べ上げた。

 そして、全校に暴露されたのだ。それが引き金(トリガー)だった。

 詩乃に話しかける生徒はいなくなり、教師ですら直視する事を避ける様になった。


 そう、全て逆戻りとなってしまったのだ。


 そして、詩乃は心から思った。


――己を救えるのは己しかいない。
――トモダチなんか、イラナイ。
――周囲ノ全テガ、テキ。


 そう、思ってしまったのだ。





「んだよ。行くのか渡すのかさっさと決めろよ」

 ニヤニヤと笑っていた表情が一変。完全に笑いを消し、低い声で遠藤は言った。そして、詩乃の返答は。

「嫌」

 ただ、短く一言。断固とした拒絶だった。だが、それをする事で更なる敵意と害意を呼び起こす事になるのは想像し易い。それでも、弱い自分をこれ以上みせたくなかった。曖昧な態度をとって、逃げる事も。あの世界で、鍛えた 《もうひとりの自分》。……彼女に負けない様に、くじける訳には行かなかった。

「手前ェ……、なめてんじゃねぇぞ」

 右の目元をぴくぴくと引きつらせ、遠藤が一歩踏み出す。そして、取り巻きの2人も素早く詩乃の後ろに回り、至近距離から取り囲んだ。

「――もう行くからそこをどいて」

 詩乃は低い声でそう言う。たとえ、どれほど切れたポーズを取ろうとも、言われようとも、遠藤達に実際の行動に出る度胸はない、と踏んでいた。
 そこそこ名門であるあの高校。素行不良でも起こせば、退学になりかねないし、警察沙汰になるのは以前の一回でこりている筈だ。そして、以前にも保護者同伴の面談の際に見た彼女達の顔を見て一目瞭然だった。

 ……家ではそれなりに普通のいい子にしているという事。

 ただ、高校で日頃の鬱憤を晴らそう、とか、高校で武勇伝を、と子供じみた考えを持っているのだろうと言う事を。

 だが、詩乃よりも遠藤の方が上手だった。

 どうすれば、詩乃が苦しむのか、それを全て熟知しているからだ。再び口元が歪む。そして、芝居じみた行為をする様に、ゆっくりとした動作で右手を持ち上げ、詩乃の眼前に向ける。それの構えは、親指と人差し指で作るポーズ。子供だったら、誰しもがした事があるであろう、拳銃を模す時の構え。
遠藤が狙ったのは、詩乃の精神だ。

 まるで射抜かれたかの様に、詩乃は硬直した。そして全身を冷気に包まれた様な感覚にも見舞われる。心拍数もどんどん上がり、足元も覚束なく、目に映る光さえも消える様な感覚にも見舞われた。

「ばぁん!」

 いきなり遠藤が叫んだ途端、詩乃の喉から補足高い声が漏れた。身体の奥から震えが込み上げ……、倒れそうにさえなる。

「なぁ、朝田ァ……、こんな指じゃ物足りないだろぉ? 今度、持ってきてやるよ。モデルガン。兄貴が何個か持ってんだよなぁ」

 左手で、胸ぐらを掴み、そして眉間に押し付けんばかりの勢いで右手、人差し指を突きつける。……それと同時に目の前が真っ暗になってしまう。そのモデルガンを想像しただけで、胃が収縮してしまう。ガタガタと震える詩乃を、ニヤニヤと見つめる3人。
 
 その時だった。

「たった1人相手に、3人掛りとは感心しないな。……たとえ、女の子であろうとも」
「ッ……!?」

 突如、背後から声が聞こえてきた。遠藤は驚き、思わず詩乃を掴んでいた左手を離し、振り向いた。

「あっ……」

 詩乃は、左手には解放されたが、その左手で支えられていた状態だった為、もう立つ事も難しくなり、地面に座り込んでしまった。その衝撃で、カバンを前、遠藤をすり抜け、前の方にまで飛ばしてしまう。その中には、今日買った野菜が入っているのだ。散乱してしまうかもしれなかったが、詩乃は何も考えられなかった。

「……っと」

 そのカバンは、新たな来訪者のすぐそばにまで、飛んだ様であり、それに手を伸ばして掴む。そして、突然の事で半ば呆然としている3人の間を縫って、座り込んでいる彼女の傍まで来た。

「……大丈夫、か?」
「ぁ……」

 そう、声をかけられても何も言えないし、言える言葉も見つからなかった。助け舟を出してくれているとはいえ、相手は知らない男だったから、と言う事が多少なりとはあるだろうが、今はそれ以上に精神が不安定だったのだ。

「って、おい。おいおいおい!なんなんだよ、テメエは」

 いきなり現れた来訪者、現れた男に驚きを隠せなかったが、遠藤は直ぐに調子を取り戻した。男の声だったから、かなり警戒をしていたのだが、見た所同い年か僅かに上だろうか。背丈は自分達よりも高かったが、全体の印象的には線の細い身体。

 帽子をかぶっており、表情はそこまではっきりと、しっかりと見えなかったが、何処か大人しそうな男、が第一印象。

 こちらは人数で圧倒しているし、そんな優男、部外者が突然入り込んできて、いきり立った様だ。

「これぇ、ウチラの問題じゃん? 何? 正義の味方ごっこでもしてんの?」

 強気な姿勢のまま、現れた男の方へと向く。他の3人も同じだ。

 男は、ゆっくりとした動作で、詩乃の手を握ろうとする。

「ひっ……!」

 当然、詩乃の身体は更に萎縮した。

 この目の前の少女が、何をそこまで怯えるのか、その根源は判らない。ここに近づいた時ははっきりと立っていたし、言い返しもしていた。

 この遠藤と言う者が言う様に、彼女達の問題で、解決も出来そうだ、と思ったのだが、突如状況が一変したのだ。

 指先を突きつけられた少女は、力なく倒れそうになった。あれが、引き金(トリガー)なのだ、と言う事は 見たとおりだった。このまま、ここで倒れていても状況がよくなるとは思えないし、何よりこの連中に任せていたら、この少女がもっと酷い事になるのは目に見えている。

 そして、何よりも、彼は彼女の目の奥に宿っている黒い何かを感じ取ったと言う事もある。



――……嘗て、自分もそうだった、持っていたモノに。



 だから、あまり、他人に強く接するのは、この世界ではない事だったが、致し方なしと判断したのだ。ここまで、入り込んでいて、今更何もせず、何も言わずにbye-byeする訳にもいかない。

「悪い。ちょっと我慢をしてくれ」
「ぇ……」

 詩乃は、僅かに驚いたが、返事を返す事も出来ずに、成すがままだった。男は詩乃の手を取り、立たせたのだ。

「なんだぁ? マジでなんなんだよオマエ。 正義のナイトサマ気取り? マジウケんだけどー」

 ここから連れて行こうとする男を遮る様に立つ3人。


――……何処の世界にも同じだ。何処の世界でも下衆はいる。本質的には同じなんだろう。仮想でも、現実でも。


 この時、彼は心底思った。現実だろうと仮想世界だろうと、根底は同じだと言う事だ。影に蔓延んでいる、潜んでいる下衆がいない訳がない。……いなくなる訳も無い。

 そして、ゆっくりと視線を向けた。

「この子、見た所、気分が悪い様だ。……悪いけど、ソコ、のいてくれるか?」

 心底侮蔑する様な表情を見せた。
 その顔にキレたのか、或いは それ以前からなのか判らないが。いきり立ちながら手を上げた。

「ふざけんな、邪魔すんじゃねえ!」

 振り上げた右手を思い切り下ろす。

 詩乃はここでも見誤っていたのだ。激高した人間と言う物は、簡単に手を出すと言う事を。

 幾ら、いい子を見繕っていても、裏では、本心では他人の痛みなど考えずに行動する凶暴性、残虐性とも言えるものを内包しているのだから。一線を超えたら、躊躇と言うものも無くなると言う事を。

 そして、何より相手は男だ。

 遠藤は、仮に問題になったとしても、オンナ同士ならともかく、オンナとオトコの警察の扱い方と言うものは違うし、何より、『オンナに殴られた~』なんて情けない事を言うオトコもいないだろうと思っていたのだ。

 振り上げられた右手は、目の前の男の左頬を狙っている。平手打ちだ。

 重力と腕力を利用し、弧を描く様にその左頬へと向かった途中。“ぱちん”と言う音が響いた。まだ、手は相手の頬にはあたっていない。頬に当たる寸前。何か別の所に当たった様だ。

「……簡単に女の子が手を上げるものじゃないぞ」
「……はっ?」

 男は、平手打ちを左手の甲で受け止めていたのだ。淀みない速度、動きで。

「手前ェっ!」

 遠藤は当たると思っていたのに、と驚いていたが今度は左を振り上げる。そのまま、右頬へと平手打ちを放ったが、それも止められた。止められたと同時にだ。

「いたっ……!」

 遠藤は 急に鈍い痛みが左手首に感じた。

「ぁぐっ!?」

 そして、『痛い』と感じたと同時に反射的に動いて、いや動かされてしまった。思わず身体が反射的に逃げようとし、身体のバランスを崩したのだ。

「っと」

 そして、バランスを崩し、倒れそうになったその時、異様な痛みを感じたその手は離され、そして空いた片方の手で崩しかけた彼女の身体を支えた。

「悪い。条件反射が出てしまった。(そうだった。手を出すのは、男として最低、……だったな)」

 最後の方は何を言っているか、判らない。

 だけど、遠藤の目には最初に見えていた大人しそうな、と言う部分が一気に霧散。射抜くような眼光、そして 今まで感じた事の無い痛みを生んだその手。見た事の無いバケモノの様に思えてしまった様だ。喧嘩慣れしている風にはどうしても見えない。その事からも、目の前の男を測る事が全くできなくなってしまったのだ。

 遠藤は、思わず地面に座り込んでしまう。

「……ここの地面に座ってたら、制服が汚れるぞ」

 そう、忠告をしつつ、まだ苦しそうにむせている彼女の手をしっかりと引いて、この路地裏の奥から連れ出したのだった。

 取り巻きだった2人も全く動く事が出来ない。ただただ、唖然として2人を見送る事しか出来なかった。








 そして、アーケード通りまで出てきた所で、彼は誌乃の手を離した。

「大丈夫か? ……その、悪かった。いきなり手なんか握って」

 そう言うと、握っていた手を離した。彼女はまだ震えており それが止まる事は無かったのだ。

「ぁ……」

 詩乃は、驚いてはいたものの、不快感はいつの間にか消え失せていた事に改めて気づいたのだ。

 震えは確かに止まらない。だけど、守ってくれた、連れ出してくれた事にもあっただろう。

 まだ、100%信用出来る、信頼できるとは到底思えないが、助けてくれた事は事実。だから、お礼をと、どうにか言葉を出そうとしたその時。

「隼人坊ちゃん」
「っ……!?」

 今日は比較的人通りが少なく、今さっきも1人も居なかった所に、いつの間にかいる人がいて驚いた。……今日は、何だかこんなのばかりだ、とも頭の何処かも余裕が少し、生まれた様でそう思ってしまう自分もいた。

「あ、えっと。ちょっとあってね」

 振り向き、誰が来たのかを確認すると、少し申し訳なさそうにそう言う。なぜ、そんな表情を?と詩乃は思った。さっきまでは、拒絶反応からか、恐怖すら感じたのだが、今のその表情にはそんな物は感じられない。ただ、なぜそんな表情をするのかだけが気になっていた。

「言われた事の、半分は守れなかった。守るモノって事はそうだけど……、その、怪我をさせかけてしまったよ……」

 彼は申し訳なさそうにそう話した。……でも、詩乃はまだ意味が判らない。


――半分? 守れなかった?


 一体どう言う意味……、とメガネの奥でぱっちりと開いている目を何度も瞬きをさせた。

「ほほ……。大丈夫ですよ。坊ちゃんはしっかりと私の言った事を守ってくださいました。誇りに思うこそあれ、咎めなど知ません。……それに、お嬢様が混乱なされてますよ」
「……ふぇ?」

 詩乃は、突然自分の事を《お嬢様》などと言われて、思わず声が裏返る。

 そんな風に呼ばれた事など一度も無いし、もう1人の男の人は慈愛の表情は、コレだ。とお手本を見せているかの様に笑っている。異性とは言え、ひと回り、ふた回り以上は離れているであろう初老の男。佇まいから、執事か?とも思える身のこなしを見て、少し、安心に繋がったのだ。

 そして、何処かの偉いヒトなのか?とも思った。

「確かに、暴力はいけない事です。……が、暴力から身を守る為に、最低限度の事はしなければならない。それを見誤らない事です。過剰防衛と正当防衛は紙一重ですから」
「……うん」

 そう言うと、彼は背広の内ポケットに手を伸ばした。そこから取り出したのは高級そうな財布。詩乃が何をするのか、聞くまでもなく、くるりと向きを変え、傍に置いてあった自動販売機へと向かった。
そして、持ってきたのは温かいお茶だ。

「今日は一段と冷え込む。お飲みなさい」
「ぁ……ぁの……」
「遠慮は無用ですよ。突然の事が連続で混乱しているでしょうが、少し身体を温め、落ち着いてください。そして、落ち着けたら誰か呼びましょう。保護者の方は傍にいますか?」
「い、いえ……わ、私は、その……ひとり、暮らしなので……」
「……そうですか」

 その歳で、頑張ってきたのだろう、と思った。学生の身での1人暮し、と言うのは別段珍しいものではない。だが、制服を見た所、某都立高校だと言う事が判り、そこから必死に勉強し、頑張ってきたのだろう、と言う事は想像するのは難しいことではない。

「……あの、ありがとう……ごさいました。わ、私は大丈夫、です」
「いやいや、私は何もしておりませんよ。ただ、お茶をご馳走しただけで……、ああ。坊ちゃんに対して、ですか。 坊ちゃん」
「あ、うん……。(爺や、お願い…… 坊ちゃんは ちょっと止めて)」
「ほほ……、承りました」

 最後のやり取りは聞こえなかった。
 ただ、にこりと笑うと本当に正しい姿勢、歩き方とはこういう事を言うんだろうなぁ……と思わせる様な歩き方で、少し離れていった。

「あ、あの……えっと。さっきは……」
「……無理するな」
「ぇ……?」

 詩乃は、必死にお礼を言おうと言葉を絞り、頭を下げていたのだが、顔を上げた。

「……何か、合ったんだろ? 助けた、なんておこがましい事は言わないよ。余計な事、とも言えないか。……あのまま、見過ごす真似はオレには出来なかったから」
「い、いや、助けてくれたよ。……私の方こそ、御免なさい。助けてくれたのに、私はずっと貴方のことを」

『怖がっていた』、と詩乃は言いかけたが口を噤んだ。
 弱い所を見せたくない、と言う思いがここでも僅かながらに残っていた様だ。感謝はしている。改めて、感謝は、本当にしているんだ。それでも、弱い自分を乗り越えなければならない。
 その強い思いが心にあるから、それが悪い方向へと向かってしまった様だ。

「……心に巣食った痛み(・・)は、簡単に取れるモノじゃない」
「っ……!?」

 詩乃は、その言葉を聞いて、驚いた。

――……なぜ、なぜ彼はそう思ったのだろうか?

 状況から見ると、《カツアゲ》《暴行》《ケンカ》が連想される状況だろう。

 他にも幾つか思いつくのに、なぜ彼は『心に巣食った痛み』と表現したのだろうか。

 そして、その時だ。

「あれ、朝田さん?」

 座っていたベンチの二軒先にある建物はゲームセンターの方から声が聞こえてきた。そして、そのままゆっくりとした足取りで近づいてくる。

「……あ、新川君」

 詩乃は少年の名前を知っていた。
 彼こそ、詩乃がこの街で唯一気を許せる……いや、少なくとも的ではない存在だと言える人物であり、ここではないもうひとつの世界では戦友と言っていい間柄の少年だ。

「え、えっと……あ、朝田さん? そちらのひとは……?」

 やや、動揺している様に声をかけてくる。
 その心の機微については、彼は判るよしもないが、やや離れた位置で見ていた初老の男には直ぐに判った。

 あの彼女に好意を持つ少年なのだ、と言う事に。

 そして、彼女も普通に名前を言っていた所を見ると、情報はないものの少なくとも信頼はできる人物だと言う事も判った。

「え、えっと、彼は……「ちょっと、オレが 道に迷ってしまってね。道を彼女に聞いていたんだ」っ」

 彼はそう言うと、立ち上がった。

「どうもありがとう。ここからは『大丈夫』……だから。そっちも『大丈夫だよな?』 さっき、小銭、落としていたみたいだけど」

 《大丈夫》と言った部分をやや過剰に強調した。

 その真意は詩乃は直ぐに判った。言葉の中にある《小銭》云々は、全く関係ない。彼は『大丈夫な人なのか?』と言う事と、『後は大丈夫だな』と言う事を話の中に含めていたのだ。

 でも、詩乃は納得をしているわけではない。

 貸し借りと考えたくないけれど、それでも借りっぱなしと言うのは性分じゃない。……そして、何よりも、助けてくれた事に対して、ちゃんとお礼も言いたいし、さっき言った言葉の、心に巣食う痛みの真意も知りたかったから。

 でも、弱い今の自分の事だ。おそらく、弱さが顔に現れているのだろう。そして、彼がそれを見透かした。無理しているのだろうと、汲み取った。

 自分の意思で、動かない、動けない事に苛立ちさえ覚えるのだが、今の弱い自分にはどうすることも出来ない。
 だから……。

「う、うん。大丈夫。ありがと、『奢ってくれて……』 今度、『私が奢る』から、ね」
「……ああ。楽しみにしてるよ」

 そうとだけ、せめてにと返した。
 今度がちゃんとあって、そしてその時こそ、ちゃんと謝れる様に。


 彼は、それを聞いてにこりと笑うと、少し離れた所で待機していた初老の男の人の下へと歩いて行って、合流していた。軽くお辞儀をする彼と、一糸乱れぬ作法を持って頭を下げる仕草を見たら、誰だって恐縮してしまうだろう。
 状況がいまいち判っていない 新川もやや驚きを隠せない様子で、ぼうっとしていた。

 そして、しっかりと詩乃も頭を下げて見送った後。これまでの事情を正直に話そうかどうか、と悩んだ。その時、新川から疑問を聞いた。

「え、えっと……何処かの偉い人、なの? 朝田さん」
「いや、私にも……判らなくて」

 これは本当の事だ。
 名前位聞いておけば良かったと今なら強く思う。だけど、初対面の相手にそこまで言える様な強さを持っていない。……全員が、周囲全員が敵だと、強く思った自分なのだから。一度、心に刻み込んだ印を簡単に消す事などは出来なかった。

「ただ……、これ、ご馳走してくれたから、……何時かはちゃんと返さなきゃ」
「え? でも朝田さんが教えてあげたから、じゃないのかな?」
「え、あー……うん。でも 私 そんな大層な事、してないし。 向こうの方が大きい。 貸し借りなしが、心情……だから」

 詩乃は軽く笑顔を作ってそういった。その笑顔に、新川は相好を崩して頭をかいた。

「そうだったね。シノンもきっと……」
「あ、うん……」

 詩乃はゆっくりと頷いた。でも、あの世界の自分と今の自分はまだまだ遠すぎる。

 まだ、あんなに強くなんかない。……強くなれていないから。強くなれてないからこそ、今日あった本当の出来事を、この街で唯一気を許せる彼にも。戦友である彼にも言えなかったんだ。


「あ、ねぇ。一昨日の事、聞いたんだ。大活躍だったんだってね? なんと、あのベヒモスをやっつけちゃうなんて」


 そこからの話はあの世界、《GGO》の話になった。

 何を隠そう、彼こそが彼女を銃の世界に導いた人、なのだ。
 詩乃は過去を振り払う為に、再び《あの銃》と対峙できる様になる様に、心に深く深くえぐり、消えない弾痕を刻み込んだあの黒い拳銃ともう一度向き合い、戦い、乗り越える為に。


 《詩乃》は、《シノン》となったのだ。









 そして、同刻某場所にて。

「……良かったのですか?」
「ん? どうして」
「いえ、坊ちゃんは何処か頑なに彼女のことを拒んでいる様子でした。……私も全てではありませんが、大体事情は察しました。お礼を、と思っている彼女を振り払う様に戻って、と言えば乱暴に聞こえますが」

 そう言う男は勿論、綺堂だ。詩乃を助けたのは隼人。

 ……まぁ、十分判ると思うけれど、一応明記しておく。

 そして、隼人は軽く空を見上げた。
 綺堂こと、爺やは彼女とはあまり話してないし、あそこだけを見たら、怯えていた、位にしか思いつかないだろう。……心を読める超能力者ならまだしもだ。

「……彼女は、以前のオレと一緒だ、って思ってね」
「え?」
「深く傷ついて、俯いて、自分の殻に篭ってたあの頃の」
「………」

 綺堂は、口を噤んだ。
 隼人がいわんとしている意味が直ぐにわかったからだ。

 隼人は、あの手を指し伸ばした時に、詩乃の目を見ている。何処か、何処かで見た覚えのある瞳。黒い……何かが宿っている様な感じがするあの眼。

 それはそう、似ている。同じだったんだ。


――……毎日、鏡の前で見ていたんだから。無力を嘆いていたあの頃に。


 彼女が抱える闇が何なのかは判らないけれど、何かを抱えている事はわかったのだ。

「……オレは、乗り越えられた。爺やや、玲奈、皆のおかげで、ね……。彼女もきっと乗り越えられるって信じてるよ。安易だって、思うかもしれない。でも他者に踏み込んでもらいたくない領域は間違いなくあるから。たとえ善意だったとしても、どう取るかで変わるから」
「そう、ですね」

 綺堂は頷いた。
 彼女に何かがあるとは言え、別に何年も、いや何日すら経っていない。今日あったばかりの他人に何が判るものだろうか。似たような境遇があったとしても、下手な同情は相手を傷つけるだけだ、と思ったのだろう。
 そして、何よりも彼女の事を知っている訳じゃない。今日あったばかりであり、目の色の奥を見たからといって、全てを判ったとは絶対に言えないから。

「また、何処かで合えたら、その時、改めて色々と話してみるよ。……ちゃんとね」
「……それがよろしいかと思いますよ、坊ちゃん」

 綺堂は笑った。
 こうまで他人の心を判る少年に育まれた事を嬉しく思う。彼を支えてくれた皆や彼女に深く感謝をするのだった。


 そして、勿論最後には一応忠告をする事にした。

 嘗て、《マダムキラー》 なーんて呼び名も実はあったりする綺堂。親が親なら子も子。と言う事で、隼人も同じような素養を秘めている様、と思ったのだ。

「坊ちゃん。玲奈お嬢様を泣かせたらダメですよ?」
「……ん? なんで玲奈が泣くの?」

 隼人の返答を聞いた綺堂は、苦笑いをしていた。

 かつての自分は、ここまで鈍感じゃ無いかな?っとも思っていたのだった。


 
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