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黒魔術師松本沙耶香  薔薇篇

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1部分:第一章


第一章

             黒魔術師松本沙耶香  薔薇篇
 鎌倉。長い歴史を持つこの街に今一人の女がやって来た。
 黒く長い、絹の様な髪を上で束ねた白面の女だ。二重の目は細く切れ長でそこにブラックルビーを思わせる漆黒の輝きを放つ目がある。
 唇は紅く、まるで血で染めたようである。それが白い顔と不気味なまでの対比を見せていた。
 女にしては高い背を黒のスーツで覆っている。その下に着ているのは白いカッターと赤いネクタイであった。そのスーツから見える首も手も雪の様に白い。
 この女の名を松本沙耶香という。彼女は今鎌倉に降り立ったのだ。 
 この漆黒の堕天使に一人の男が歩み寄ってきた。男はサングラスをかけ、黒い服を着ていた。
「松本沙耶香さんですね」
 男は沙耶香に問うてきた。
「そう名乗れば貴方はどうされますか?」
 沙耶香は男にその白い顔を向けて言った。低く硬質の、それでいて整い、中に淫靡なものさえ宿した声であった。
「御招待に参りました」
「では貴方が」
「はい」
 男は恭しく一礼した。それからまた述べた。
「旦那様がお待ちです」
「わかったわ」
 沙耶香はそれに頷く。
「見れば約束通りの時間ね」
 彼女はここで懐から懐中時計を取り出した。それで時間を見る。時計に着けた銀の鎖が日の光を受けて眩しく輝く。
「律儀なことね」
「それが私の主義でして」
 男はまた恭しく述べた。
「それでは御約束通り」
「ええ」
 沙耶香も彼に応えた。
「御案内致します」
「案内してもらう前にいいかしら」
「何でしょうか」
 男は沙耶香のその言葉に動きを止めた。
「聞きたいことがあるのだけれど」
「それは」
「この案内はあの方の意志なのね」
「はい」
 男は短い言葉で答えた。
「左様です」
「そう、それならいいわ」
 沙耶香はそれを聞いて満足したように頷いた。
「それじゃあ」
「はい」
 沙耶香は男に案内され車中の人になった。暫くして鎌倉の郊外に出た。車はまだ進む。
「鎌倉も変わったわね」
 沙耶香は窓の外から見える風景を眺めながら言った。
「暫く来なかっただけなのに」
「左様ですか」
「ええ、そう思うわ」
 その切れ長の漆黒の目は鎌倉の落ち着いた風景を眺めている。そこに見えているのは果たして現実の世界であるのかそれとも別の世界であるのかはわからない。だが彼女はそこに鎌倉を確かに見ていた。
「魔性の気が。強くなってるわね」
「ですから貴女においで頂いたのですよ」
 車は男が運転していた。彼は沙耶香の方を振り返ることなく述べた。
「その為だったのね」
「お金の方は既に口座に払い込んであります」
「ええ、知っているわ」
 彼女はその整った形の顎に左手を置きながら窓を見ている。窓の外の風景から目を離すことなく言葉を返した。
「九桁とは思わなかったのだけれど」
「些細な気持ちです」
「些細な、ね」
「このお話はお金の問題ではありませんから」
「それよりももっと大事な問題ね」
「そういうことです」
 相変わらず男は振り向くことなく言葉を返す。見ればバックミラーでも沙耶香を見ることはない。ただ前を見据えて車を運転していたのだ。運転しながら話をしている。
「わかったわ」
 沙耶香はそこまで聞いたうえで言葉で頷いた。
「どのみちお金は受け取ったし」
「宜しいのですね」
「この世界では契約は絶対だから」
 その目は相変わらず窓の外に向けられているが心は違っていた。
「喜んでね」
「有り難うございます。あの方もお喜びになられるでしょう」
 そうした話をしながら沙耶香を乗せた車は鎌倉の郊外を進む。そして一軒の古めかしい洋館の前で止まった。
 正確には洋館を囲う壁の玄関であった。建物はあまりに大きく、まるで城の様であり庭も広大なものであったがそれを囲う壁はまるで城壁の様であった。
 その門はまるでロココ式の様に壮麗であった。銀色に輝くその門の前で沙耶香は車から降りた。
「中には入らないのかしら」
 沙耶香は共に車から降りてきた男に顔を向けて問うた。
「はい。それよりも御覧になって頂きたいものがありまして」
「何かしら、それは」
「庭にございます」
 男は言った。そして門の端にあるボタンのスイッチを押した。
「どなたでございますか」
 女の声が返ってきた。男はそれに応える。
「私だ。あの方を御連れしてきた」
「左様ですか。それなら」
「うん」
 それに従う形で門が左右に開かれた。そして沙耶香を出迎えるのであった。
「こちらです」
 男が手で門の中を指し示す。遥か彼方にあの洋館が見える。庭は左右対称であった。館だけでなく庭までもヨーロッパ式であった。
「車はどうするのかしら」
「他の者がなおしておきます」
「そう。じゃあこのまま中に入っていいのね」
「どうぞ」
「それじゃあ」
 沙耶香は男に案内され玄関をくぐった。その足でそのまま先へ進んでいく。やがて彼女をかぐわしい香りが包み込んだ。
「この香りは」
 彼女はその香りを知っていた。
「薔薇の香りね。しかも赤薔薇」
「おわかりですか」
「ええ。薔薇は好きな花だから」
 そう言いながらその切れ長の黒い目をさらに細める。
「すぐわかるわ」
「ここにあるのは赤薔薇ではありません」
「他の薔薇も」
「はい。白もあれば黄色もあります」
 男は語る。
「黒も。そして青も」
「青い薔薇も」
「左様です」
「本当に薔薇が好きなのね、あの方は」
 沙耶香はそこまで聞いて今度はその紅の唇を微笑ませた。それは純粋な笑みではなく妖艶さと倒錯を兼ね備えた誘う様な笑みであった。まるでそれで誰かを悪の道に誘惑する様な。
「できたばかりの薔薇まで入れるなんて」
 長い間青い薔薇というものは存在しなかった。薔薇の中には青い色を拒絶する遺伝子が存在する。その為青い薔薇というものは存在しないのだ。その証拠に青い薔薇というのは不可能という意味も含んでいるのだ。
 だが今ではそれが誕生したのだ。そして庭に飾られている。人の手によって生み出された美の一つである。
「五つの色の薔薇で庭を飾っているのね」
「庭だけではありません」
「あら」
「飾っているのは。この館全てなのです」
「それは素晴らしいこと」
「いや、薔薇よりさらに素晴らしいものがありますよ」
 ここで前から一人の男が沙耶香の方に歩いてきた。

 
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