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黒魔術師松本沙耶香  人形篇

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1部分:第一章


第一章

               黒魔術師松本沙耶香  人形篇
 一千万の煩悩と欲望をその中に包み込んでいる魔都東京。眠ることのないこの街はこの日もその妖しい黒い輝きを放ちつつその爛熟した繁栄を夜の世界に映し出していた。
 その中心の一つにあるのが銀座であった。ここでは毎夜美酒と享楽の宴が繰り広げられている。この街が江戸と呼ばれていた頃より栄えていたが江戸が東京となり、そして震災と戦乱により二度焼け落ちてからはこの街の数多い頽廃と美麗の中心の一つとなっていた。
 今宵もその頽廃と美麗の中に酔いしれる人々が濃紫の夜の中に集っていた。今そこに一人のうら若き女性が足を踏み入れたのであった。
 黒い髪を肩のところで切り揃えている。今の若い女性にしてはやや小さく、華奢な身体を黒く、丈の長い法衣の様な気品のある服で覆っている。その顔は化粧気がなく、素っ気無いものである。だがもととなる顔立ちそのものは整っていた。卵を少し低くした様な形をしており、白い透き通る様な肌にはっきりとした二重の大きな瞳。赤い唇は小さく、そして頬はほのかに赤くなっている。それは酒のせいであろうか。
 いや、それは違っていた。この街に戸惑いを覚え、悩んでいるのであった。彼女はこの街に対していい感情は持ってはいなかった。
 多くの者を魅了し、その中に包み込んできたこの銀座はそれと同時に堕落した魔窟と多くの者に蔑まれていた。彼女もその蔑む者達の中にいたのである。だが今日その魔窟の中に足を踏み入れてしまった。彼女はそれを恥じ、戸惑っていたのだ。どうしても入りたくはなかった場所に足を踏み入れてしまったのだから。
「確か」
 彼女は左右を見回していた。そして何かを探していた。
「この近くだったというけれど」
 フランスのある小説家の書いた作品の主人公を看板に使っているというその店。その店については彼女も本で読んだことがあるので名前だけは知っていた。そしてそこに通っていた客も。
 その中には彼女が学生時代に好んで読んでいた作家もいた。北の国に生まれ、端整な顔と女性的な作品で知られた作家である。
 他にも多くの作家がこの店を訪れたという。その中には文豪もいればもうその名前が人々の記憶から消え去ろうとしている作家もいる。東京で客死した作家にある作家の墓前で自害した作家に。多くの作家がこの店を訪れ、酒を楽しんだという。文学を知る者にとってはちょっとした店である。今彼女はそこを探していたのだ。
 もう少しでそれが見つかる筈である。その看板はとても目立つものだからという。それは何か。他ならぬそのフランスの小説家の主人公が看板にいるからである。そして彼女の前にその主人公が姿を現わした。
 シルクハットに片眼鏡をかけた彼がそこにいた。彼女がイメージする彼とはかなり違っていたがそのキザにも見える風貌は紛れもなく彼であった。彼は彼女を黙って見詰めていた。
「ここね」
 間違いなかった。そこ以外に有り得ない。彼女は意を決した顔で彼の下にある黒い扉の前に立った。そしてそこに手をかけゆっくりと開いた。鈍い音が聞こえたように感じた。
 中に入るとそこは彼女が写真で見たままの姿であった。古めかしいつくりであり、キャンドルで照らされている店の中は何処か古ぼけていた。その中は思ったより狭い。カウンターの他に席はなく、そこにいた数人の客達は黙ってカクテルを少しずつ飲んでいた。カウンターの客席の後ろと、バーテン達の後ろにボトルが並んでいる。店に入っただけで酒と木の香が漂ってくるようであった。
 彼女は席を探した。端の席が空いていた。そこからは店の入口が見える。その席が空いているのを見てほっとしたものを感じていた。
「あの」
 そして店の者に声をかける。ベストに蝶ネクタイの如何にもといった格好のバーテンであった。
「端の席に。座って宜しいでしょうか」
「ええ、どうぞ」
 バーテンはそれに応えて彼女にその席を勧めた。彼女はそれを受けて店の奥へと向かった。見れば店には今までここに来た作家達の写真が飾られている。それは何れも彼女が知っている作家ばかりであった。
 あの端整な顔の作家もいる。彼にしては珍しくネクタイにベストといった格好で椅子の上に胡坐をかいて座っている。終戦直後の写真らしい。この時彼は流行作家になっており、その混乱の中である文豪と激しく対立していた頃であった。その最中でここで飲んでいたのだ。
 彼の左には彼と同じくその文豪達と戦った作家達が並んでいた。皆ここで飲んでいたのだ。そして同時に戦っていたのであろう。彼等は無頼に生き、そして無頼の中に死んだ。戦争の後の混乱と頽廃の中で彼等は生きていた。その輝きは一瞬のことであった。人々の記憶からも忘れ去られようとしている。だが彼等がかってここにいたという事実は今もここに生きているのであった。
 彼女はその写真を見ながら店の奥へと向かう。そしてまずはそこに座った。
「メニューは」
 座ってから尋ねた。だがその返事は意外なものであった。
「うちにはメニューはありませんよ」
「えっ」
 それを聞いて少し驚いた。その整った人形を思わせる顔が微かに動いた。
「そのかわり料金は高くはありませんので」
「いえ、それでも」
 メニューがないということは彼女にとってそれだけで驚きだったのである。
「まあそれが昔からのうちのスタンスですので。驚かれましたか?」
「はい」
 まだ戸惑いが残っていた。こくりと頷く。
「最初にうちに来られた御客様はそういう方が多いんですよ。まあすぐに慣れますよ」
「はあ」
「そして何をお求めですか?」
「ワインを」
 彼女は言った。
「ロゼで。ありますか」
「ボトルで宜しいですか?」
「はい」
 彼女は答えた。
「それでなければ駄目なようなので」
「?」
 バーテンはそれを聞いて怪訝な顔をした。
「駄目とは」
「いえ、何でもないです」
 だが彼女はその言葉は誤魔化した。
「こちらの話ですので」
「そうですか。ではどうぞ」
 バーテンはカウンターから一本のボトルとガラスのグラスを出してきた。
「ごゆっくり」
「はい」
 彼女はこくりと頷きグラスに入れられるロゼのワインを見ていた。それはトクトクとガラスの中に入りそのグラスを薔薇色に染めていた。彼女はそれ越しに店の中を見回していた。
 店の中の客達は会社帰りのサラリーマンやOL達ばかりであろうか。かって多くの文豪達が出入りしていたとは思えない程ごく普通の店である。だがその店の香りは何処か違っているように思えた。それは今目の前にあるワインのせいであろうか。彼女は今そのワインが注ぎ込まれたグラスを手に取った。
 そしてそれを口に近付け含む。口の中をワインの赤く、退廃的な香りが支配する。少し飲んだだけでその誘惑に溺れてしまいそうな、そうした危うい香りと魔性を漂わせていた。
 その魔性を一口含むとそれまで映っていた全てのものが変わったように思えた。そしてグラス越しに何かが見えて来るのであった。
「いらっしゃい」
 だがバーテンの声がその目に映るものを真実だと教えている。今彼女が見ているものは現実の世界なのである。だがそれはとても現実の世界には見えないように思えた。
 店の扉が開きそこから一人入って来る。薔薇色に染められたグラス越しにそれが映っている。黒いスーツと白いカッター、そして赤いネクタイに身を包んだ若い女性がやって来る。黒く切れ長の二重の瞳に白い、蝋の様に白い顔に薔薇よりも紅い唇。夜のそれよりも黒い髪は上で束ねている。その女性がゆっくりと店に入り、そして彼女のいる店の端へとやって来たのであった。
 
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