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黒魔術師松本沙耶香 妖霧篇

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5部分:第五章


第五章

 ヤードに入ると事件が彼女を待っていた。案の定霧に関するものであった。また一人行方不明になったというのだ。それも沙耶香が出歩いていた夜にだ。これは彼女のプライドを刺激しかねないことであった。
「貴女には向かわなかったようですね」
「どうやらそのようで」
 沙耶香は話を聞いてその目に普段とは別の感情を宿らせた。それだけだった。表立っては感情を露わにすることはなかった。
「罠に気付かれたのでしょうか」
「そこまではわかりませんが」
 ハーネストはそう話をしながら手許にある今しがたファックスで届けられた新たな資料に目をやっていた。
「場所は・・・・・・オックスフォード=サーカスです」
「あの人通りの多い場所でですか」
「最近のこの事件のせいでね。夜でも静かなものになっています」
 ハーネストは資料を沙耶香に手渡しながら応えた。
「行かれますか、オックスフォードに」
「ええ」
 そして彼女はそれに頷いた。
「どのみち行かなければならないでしょう」
「はい」
「では行くとしましょう。すぐにでも」
「そう来なくては」
 それを聞いてハーネストもマクガイヤも笑った顔になった。
「こちらとしても張り合いがありません」
「やはり捜査は歩いてやらないとね」
「こうした事件はエルキュー=ポアロでは不向きですから」
 沙耶香は返答に腰掛け椅子の小柄な探偵を出してきた。
「それは何故」
「彼はあくまで科学に拠ってものを考えています。そしてこの世界の常識に基づいています」
 マクガイヤの問いにそう答えた。
「ですが私の仕事はこちらの世界だけではないので。あちらの世界に関するものもまた多いのです。それでは座って考えていても何にもなりませんから」
「成程」
 マクガイヤはそれを聞いて頷いた。彼女はさらに言った。
「シャーロック=ホームズ、いえどちらかというとフレンチ警部でしょうか」
「フレンチ警部というには少し派手なようですが」
「ではマイク=ハマーも入れましょうか」
「またえらくワイルドですね」
「黒魔術は常に危険が周りにありますので」
 妖しげに笑ってそう言う。
「むしろハマーよりも危険な世界かも知れませんね」
「おっかないことだ」
「何ならいらしてみせます?黒魔術の世界に」
 妖しげな笑みをたたえたまま二人に対して声をかけてきた。
「危険も。慣れると麻薬のようなもの」
「離れることができなくなると」
「はい。如何でしょうか」
 そして問うてきた。
「退屈も。常識も何もない。混沌と無法が支配する世界もまたよいものですよ」
「生憎我々は法の番人でして」
 ハーネストはこう言ってそれを断った。
「無法の支配する世界には。足を踏み入れることはできないので」
「それは残念」
「私が棺桶エドや墓掘りジョーンズなら喜んで入ったかも知れないですが私は彼等ではないので」
 ハーレムで暴れ回る二人の黒人の刑事達である。暴力と犯罪が蠢く魔都ニューヨークにおいて時には法さえも越えてそれを守る者達である。しばしばやり過ぎることもある猛者達だ。
「入ることはできません」
「ではそしらの巡査部長さんも」
「生憎」
 マクガイヤもそれを断った。
「レディからの申し出は有り難いのですが」
「あら」
「今の生活が気に入っておりますので。申し訳ありません」
「では私はこのまま混沌と無法の世界にいましょう」
「そしてそこから事件を解決する」
「はい。ではその混沌と無法を確かめに行きましょう」
「わかりました。それでは」
「はい」
 こうして三人はオックスフォード=サーカスに向かった。この前のボンド=ストリートと同じくロンドンの中心部にある場所である。その日は晴れで丁度人も多かった。
 赤いバスが路を走り人々がにこやかな顔で歩いている。店があちこちにあり赤や青の看板を掲げている。三人はそこの交差点にやって来た。
「ここです」
 ハーネストがそう言ってその交差点を指し示した。そこにはもう制服の警官達が何人も詰めていた。そして捜査にあたっていた。
「警部、お早うございます」
 その中の若い警官がハーネストを認め敬礼をしてきた。見ればマクガイヤと同じような年齢の若い警官であった。
「お早う」
 ハーネストはそれに返礼した。それからその若い警官に問うてきた。
「何かわかったことはあるか」
「被害者はどうやらこの街に住むロンドン大学の学生らしいです」
「学生か」
「ここのある喫茶店の女の子が好きだったそうで。何度もアタックをかけていたそうです」
「だが振られ続けていたと」
「はい。それで今度こそは切り札を出すのだと学校で言っていたらしいです」
「切り札」
「これのことです」
 そう言って交差点の端に落ちているあるものを指差した。
「!?それは」
「薔薇の花です」
 若い警官はそう答えた。見れば紅の綺麗な薔薇の花びらが路に落ちていた。それは何枚も路に落ち交差点を彩るようであった。
「薔薇の花をプレゼントにか」
「他にもあったようですが薔薇の花を贈ろうとしていたのは間違いないようです」
「そうか」
 ハーネストはそこまで聞いてまずは頷いた。
「花を切り札にか。よくある話だな」
「それを持って心を惹こうとしたようですが。逆に自分が遠くへ引き込まれたようです」
「どうやらそのようですね」
 そこまで話を聞いていた沙耶香がゆっくりと口を開いた。
「そちらの方は。お見受けしたところアジア系の方ですが」
「ロンドンの探偵の方だ」
「探偵」
 ハーネストはこう言って沙耶香の身元を隠した。
「そうだ。今回の事件に協力して下さっている。失礼のないようにな」
「わかりました。それでは宜しくお願いします」
「はい」
 沙耶香は静かにその言葉に頷いた。頷きながらこの若い警官も信用できる人物だと認識していた。
 実はロンドンは人種的偏見の強い街である。よくある有色人種への偏見である。これはアメリカだけかと思われるが実は欧州のそれはアメリカのそれよりも遥かにそれが顕著なのである。
「アメリカでは人間として扱われるが欧州ではそうではない」
 ある黒人の若者が欧州に旅行に行った帰りに白人の親しい友人に語った言葉である。アメリカの白人と欧州の白人ではそうした意味において違っている一面もあるということである。特に最近では警官の間での人種的偏見が問題となっている。沙耶香もそれは知っている。だから今の警官の態度を見て信頼できると確認したのである。
「この薔薇の花びらですが」
「はい」 
 彼女はこの若い警官の説明に耳を傾けていた。
「花束にして持たれていたようで。紙の破片も見つかっております」
「紙の」
「昨夜の霧で大分濡れていますが。それでも僅かに残っていました」
「そうだったのですか」
「その紙や花びらの状況からして。行方不明になった学生は相当抵抗したようです」
「しかしそれも空しく何処かへと連れ去られてしまった」
「残念なことに。そしてここで彼の足跡も消えています」
「犯人の残した証拠は」
「何も」
 若い警官は口惜しそうに首を横に振った。
「目撃した話も。何もありません」
 それはわかることであった。彼女はその犯人の正体を知っている。だがそれはヤードで知っている者はいない。だから彼女も探偵と身分を偽って捜査にあたっているのだ。
「車等は」
「それすらも。下水道まで探したのですが。何もなしです」
「そうなのですか」
 話をしながらそれは当然だと思っていた。しかしあえて口には出さない。
「何もわからないです。手懸かりと言えるものも何もなしですから」
「残念ですね」
「この薔薇の花びらだけでしょうか」
「薔薇」
 ここでふとハーネストとマクガイヤに語ったマザーグースのことを思い出した。リング=リング=ローゼィーズである。
「赤薔薇ですね。それもかなり見事な」
「しかしそれだけでは」
「わかっています。何にもなりません」
 それはこの若い警官が一番よくわかっていることであった。
「こんなので。何を調べろと」
「私に任せて頂けませんか」
「貴女に」
「はい」
 沙耶香は頷いて答えた。
「この薔薇が。何かの答えになるかも知れませんですから」
「答えに、ですか」
「お任せ願えますか」
 そう言ってもう一回問うてきた。
「如何でしょうか」
「警部」
 彼一人では判断できかねないようだった。彼はハーネストに視線を向けてきた。
「その方には全面的に協力して頂いている」
 ハーネストはそんな彼に対してこう答えてきた。
「それでは」
「うむ。お任せするようにな」
「わかりました。それでは」
 彼はそう言われてあらためて沙耶香に顔を向けた。
「お願いします」
「はい」 
 沙耶香はそれを受けてうっすらと笑って頷いた。その切れ長の奥二重の目と紅の小さな唇に笑みを漂わせた。
「ではこれは一つお受け取り致します」
 そう言って花びらのうち一つを手に取った。
「それだけで宜しいのですか」
「ええ」
 彼女はそれを不とはしなかった。
「この一枚の薔薇だけで。私は充分です」
 そしてその薔薇を手にした。それでここでの捜査は終わりであった。
「それだけで本当に宜しいのですか?」
 本部の部屋に入るとマクガイヤが彼女にそう尋ねてきた。
「はい」
 沙耶香はそれに対して静かに言葉を返した。
「これだけあれば。私の知りたいことは全てわかるでしょう」
「それが黒魔術と」
 ハーネストはここでこう言った。
「そういうことですね」
「おわかりですか」
「あ、いや」
 だが彼はその言葉に対して慌てて手を横に振った。
「これはあくまで予想でした」
「つまり推理ですか」
「推理というものでもないですね」
 照れ臭そうに笑って言う。
「予想に過ぎませんから。ですがその予想が当たったようで」
「そうですね」
「それは何よりです。ではそれに関してはお任せして宜しいですね」
「ここに空いている部屋が一つあれば。それでいいです」
「空いている部屋が」
「ありますか?何処でもいいですが」
「巡査部長」
 彼はそれを受けてマクガイヤに顔を向けてきた。
「あそこはどうかな」
「あそこですか」
 マクガイヤはそれを聞いて目で頷いた。
「いいんじゃないでしょうか。人通りも少ないですし」
「どんな部屋ですか」
「いえ、ここの建物の隅にある部屋でして」
 マクガイヤが彼女に説明した。
「もう百年以上使われていないのですよ。何なら掃除させますが」
「いえ、それはいいです」
「そうですか。ではすぐに使われるのですね」
「ええ、すぐにでも」
 それに応じた。こうして沙耶香はその部屋に一人篭ることになった。
「ここです」
 案内するマクガイヤが確かに建物の一室の前で立ち止まった。そして彼女にその部屋を手で指し示した。
「宜しいですね」
「はい」
 静かに頷く。そして扉に手をかける。
 手をかけたかかけないかのうちに扉が開いた。そして彼女は中に入った。
「それではお願いします」
「はい」
 部屋に入ると扉が閉められた。こうして彼女は暗闇の部屋の中に一人となった。
「さて」
 一人になるとまずは懐に手を入れた。
「そろそろはじめようかしら、真面目に」
 そう言いながら懐から煙草を取り出す。一本の巻き煙草であった。
 それを口に咥えると指を近付けた。その白く細い指の先から出した火で火を点けた。そして煙草を吸って一先口から離した。
その口から白い煙を吐き出す。煙草の火で部屋をほんの少し照らしていた。そこに映るものは本当に何もなかった。埃と殺風景なコンクリートの壁だけであった。
 指をパチン、と鳴らす。それだけで埃は何処かへと消え去ってしまった。これで部屋の掃除は終わった。
 煙草を吸い終わるとその煙草も消した。それから部屋の中央に向かうとそこで立ち止まり何かを詠唱しはじめた。
「・・・・・・・・・」
 それが何処の国の言葉なのかおそらく誰にもわからないであろう。少なくとも日本語でも英語でもなかった。今この世に残っているどの国の言葉でもなかった。
 そして何時の時代の言葉なのかもわかりはしなかった。全く誰にもわからない、未知の言葉であった。彼女はその言葉を一人呟き続けていた。そしてそれを呟き終えるとその足下に魔法陣が浮かび出て来た。
「おいで」
 一言そう言うとスーツのポケットから先程受け取った赤い薔薇の花びらが出て来た。そしてそれは沙耶香の目の前でユラユラと舞っていた。
「御前は何処から来たの?」
 花びらに問う。一見すると悪ふざけのような光景である。だがそうではないことは彼女の目を見ればすぐにわかることであった。そう、彼女は今真剣であった。
「そう、御前は唯の薔薇なのね」
 花びらを見ながら言った。
「それで御前を買った人を襲ったのは?」
 また問うた。そうして問い続ける。そしえあることを聞いた。
「そう、あの歌を」
 その歌の名を聞いた沙耶香の顔が変わった。
「わかったわ」
 そしてそこまで聞いて頷いた。
「御前にはその歌なのね」
 それを聞くと腕をかざした。そして花びらの下に手の平を置いた。
「おいで」
 花びらはその言葉に従い舞い降りた。そして雪の様に細いその手の平の中に消えていった。まるで氷が溶けていくように消えていった。
 花びらが消えたのを見届けると沙耶香は下を見下ろした。それだけで魔法陣は消え去ってしまった。
「今回の事件にはあの歌が」
 そう呟くと部屋を後にした。そしてハーネスト達のところに戻るのであった。



 
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