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支え

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3部分:第三章


第三章

 彼女はこの時から身体を悪くしだした。それまで止まっていた喀血もまた起こるようになり床に伏す時間も長くなった。それがどうしてか女中にはよくわかっていた。
「お嬢様」
 たまりかねて彼女は床に伏す潤子に声をかけた。
「何かしら」
 障子を開けてきた女中に顔を向け声をかける。金色の日差しが見える。そしてそこからは蝉の鳴き声も聴こえる。もう夏であった。
「街に出てみませんか」
「どうしてかしら」
 潤子はそれに尋ねた。
「気分転換にでもと思いまして」
「気分転換」
「はい。如何でしょうか」
 外の蝉達はそれに応えたか声を一層大きくさせている。潤子はそれを聞きながら答えた。
「私はいいけれど」
「では行きましょう」
「けど、いいのかしら」
「何がですか?」
「こんな暑い日に。身体に悪いのではなくて?」
「冬にも言いましたね。病は気からと」
「ええ」
「たまにはこうした気晴らしも必要です。ですからどうですか?」
「けど」
 だが潤子はあまり乗り気ではないようだ。あの空襲以来忠行は屋敷にやって来ない。彼女にとってそれも気懸りなことであったのだ。
「いいの?本当に」
「旦那様や奥様には私が申し上げておきますよ」
 女中はこうまで言った。
「ですからね、まあ遊びに行くとでも思って」
「そんなに言うのなら」
 ここまで言われてようやく頷く気になった。
「行きましょう。宜しくね」
「はい」
 こうして潤子は女中と二人で街に出た。もんぺに着替えて街を歩いた。
「あまり変わっていないわね」
 彼女は病にかかってから街には出てはいない。だがそれでも覚えている光景と今の街並はあまり変わってはいなかった。それが嬉しくもあった。
「ええ」
「けれど。船は減ったわね」
「こういう御時世ですから」
 二人は港を見ながらそんな話をした。見れば軍艦も他の船もあまりない。今までは港を埋め尽くす程あったというのに。これが戦争というものであった。
「兵隊さんも。何だか慌しそうね」
「広島に大勢行かれているようですし」
「広島に?」
「はい。あと長崎に。何でも新型爆弾が使われたとか」
「そうなの」
「街が消し飛んだらしいです。それで大勢の人が亡くなられたとか」
「広島が。大変なことね」
「そして満州にはソ連軍が雪崩れ込んできたそうです。それであちらでも大変なことになっているとか」
「日本はどうなるのかしら」
「お嬢様」
 それを聞いて険しい顔になった。
「それはあまり仰らない方が」
「そうね」
 潤子はそれに頷いた。
「兵隊さん達が御気を悪くされるわね」
「ええ、まあ」
 本当は違う意味なのだが頷いた。二人はそのまま海軍の施設の方を歩いていた。まだ空爆の跡が残っていた。
「あら」
 ここで潤子はあるものに気付いた。
「赤煉瓦まで」
「はい」
 壊れていた。空爆によるものであるのは言うまでもない。
 赤煉瓦は舞鶴の市民にとっては誇りのようなものだ。海軍と共に生まれ、海軍と共に栄えてきた街だ。海軍は江田島の兵学校がとりわけ有名であるが赤煉瓦がトレードマークともなっていた。その赤煉瓦が崩れてしまっていることに潤子は悲しいものを感じると共に痛々しくなった。
「私小さい頃よくここに来たの覚えているかしら」
「勿論ですよ」
 女中もそれに応えた。
「よくお連れしましたから。暑い日でも寒い日でもここに来ましたね」
「ええ」
「あの頃のことはよく覚えていますよ。ほら、私が羊羹を買いましたよね」
「私と二人で食べた」
「はい」
 海軍では羊羹がよく食べられた。あとラムネもである。海軍が誇った巨大戦艦大和には羊羹やラムネを作る場所まであった程だ。その大和ももう沈んでしまっているが。
「あの羊羹は美味しかったわ」
「あら、アイスクリームの方がいいって駄々をこねていたのはどなたでしたから」
「昔のことなんで覚えていないわ」
「ずるいこと」
「うふふ」
 話していると上機嫌になってきた。笑っていると気持ちまでよくなってくる。そしていい話も舞い込んでくるものだ。最初は悪くとも。
「うっ」
 ここで潤子は突如として胸を押さえはじめた。
「お嬢様、まさか」
「ごほっ」
 危惧した通りであった。潤子は咳き込みはじめた。
「ごほっ、ごほっ」
 力のない咳が続く。咳き込むその整った顔に苦悶の色が浮かぶ。見るからに辛そうであった。
「大丈夫ですか」
「え、ええ」
 だが手にしたハンカチに血があった。それ程多くはなかったが血を吐いたのは事実であった。
「今のはそれ程多くはないわね」
「けど」
「大丈夫よ。けれどこれ以上歩いたら貴女に迷惑がかかるわね」
「私は」
「いいのよ。戻りましょう」
「はい」
 戻ろうとした。しかしそこで呼び止める者がいたのである。
「あの」
「何か」
 二人は声がした方を振り向いた。するとそこに一人の白い海軍将校の軍服を着た男が立っていた。
「大丈夫でしょうか」
「え、ええまあ」
 どうやら今血を吐いたところを見られたらしい。少し狼狽を覚えた。
「一応は。気分もよくなりましたし」
「しかし用心することが大事ですね。こちらに来られませんか」
「こちらにとは」
「病院ですよ。海軍の」
「病院ですか」
「薬もありますし。如何でしょうか」
「そうですね」
 潤子はちらり、と考えを巡らせた。病院に行ったとなれば女中も怒られはしまい。それに薬をもらえれば少しは楽になる。そう考えると迷いはなかった。
「わかりました」
 その申し出を受けることにした。それに病院ならば若しかすると忠行がいるかもしれない。そうした考えもあった。そして彼女は女中と共にその将校に案内され海軍の病院に入ったのであった。
 海軍の病院だけはあった。かなり大きい。それに施設も町の病院とは比較にならないものであった。それを見て彼女は心に安心するものを覚えていたのであった。
「落ち着かれましたか」
「はい」
 案内役を務めてくれているその軍人に答えた。
「病院というだけで。何か落ち着いてきました」
「それは何よりです」
 軍人はそれを聞いて微笑んだ。
「私はここに勤務しているのですがね。そう言って頂けると嬉しいです」
「この病院にですか?」
「はい」
 彼は答えた。
「軍医をしておりまして。細木と申します」
「細木さん」
「はい。宜しくお願いします。今こちらは何かと人手不足でして。至らない点も多いと思いますが」
 そういえば人が異様に少なかった。戦争のせいだとはいえ少し変な程少なかった。
「広島や長崎で色々とありましてね。それであっちに人を送っているのですよ」
「そうだったのですか」
「あと東京にも。帝都は何度も激しい爆撃を受けておりましてね」
「そうらしいですね」
 それも聞いていた。今日本の至る街がアメリカの爆撃を受けていた。街という街が瓦礫の山と化していたのであった。
「そっちにも人を送っていまして。おかげでこうした状況だったのですよ」
「大変なんですね、本当に」
「それが戦争ですから」
 細木はそう言って苦笑した。
「けれど貴女御一人を何とかすることはできますから。私は結核については詳しいですから」
「よかった」
 女中はそれを聞いて顔を明るくさせた。
「地獄に仏とはこのことですね」
「まあ仏かどうかまでは言えませんがね」
 苦笑を続けながらそれに答える。
「それでも医者の端くれですから。薬を差し上げることはできますよ」
「有り難うございます」
「本当はね、もっといい薬も医者もいるのですが。生憎物も人も何もない状況でして」
 人については先程言われた。ものについては嫌という程わかっていた。とにかく何もない時代だったのだから。
「せめて藤崎さんがおられればね。もっと楽ができるのに」
「藤崎!?」
 潤子はその名前に反応した。
「え、ええ」
 細木はいきなり言われたので少し戸惑いながらもそれに応えた。
「藤崎中尉ですが。御存知ですか」
「こちらの者なので。名前だけは」
「そういえば中尉は舞鶴の御出身でしたね」
「はい」
 婚約しているということは隠した。そのうえで彼に応えたのだ。
「お知り合いだったとは。中尉は今はこちらにはおられませんよ」
「そうなのですか」
 それを聞いて安心した。今までどうなったか不安で仕方ないからだ。今生きているということだけわかればそれでよかった。しかしさらに突っ込んで尋ねた。
「それで今どちらに」
「東京です」
「東京、ですか」
 それを聞いて嬉しいのか心配なのかわからなかった。広島や長崎ではないらしい。新型爆弾が何なのかはわからないがそれに遭ったわけではないらしい。しかし東京もかなり危ない。だから心配なのであった。
「先月からね。急に決まりまして」
「そうなのですか」
 だから姿を見せなかったのだ。手紙が来ないのは忙しいからであろうかと思った。
「あちらで空襲に遭った人達の救護にあたっておられます。昨日の電報がありまして」
「電報が」
「ええ。御国のことをね。願っておられましたよ」
「そうですか」
 生きている。そして元気なようだ。それを聞いてさらに安心した。
「またこちらに帰られると思います。お知り合いの方でしたらまたその時においで下さい」
「わかりました」
 薬をもらってその時は帰った。帰り道潤子は上機嫌で微笑んでいた。
「よかったですね」
「ええ」
 女中の言葉にも頷いた。
「忠行様が御無事で」
「東京におられたなんて」
「また戻って来られますよ。言うならば出張ですから」
「そうね。けれど」
「けれど?」
「お手紙の一つ位いいでしょうに。送って下さっても」
「軍人にはそれよりも大事なものがあるのですよ」
 女中はそう言って笑った。
「それをお察し下さい」
「そうね」
 潤子も笑った。そして二人はそのまま屋敷に帰るのであった。幸い女中は怒られずに済んだ。運がよかったしそれに潤子の機転がきいた。薬は女中をも救ったのであった。


 
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