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聖愚者

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8部分:第八章


第八章

「それだけでか」
「それ以上に何が必要でしょうか」
 またこう言葉を返す聖愚者だった。
「神にそうして育てて頂けるだけで」
「他のものは欲しくはありませんか」
「はい、何も」
 あくまでこう言うだけであった。その呆けた言葉で。
「食べられ。こうして着るものがあるだけで」
「そして住む場所は」
「寺院に住まわせてもらっています」
 だというのである。これは聖職にあるから当然と言えば当然であった。
「雨露も凌ぐことができています」
「左様ですか。では今で」
「何も不安も問題もありません。そして」
 聖愚者はさらに言うのであった。
「私はただ神に感謝するだけです」
「そうですか。それだけですか」
「他には何もいりません」
 言葉は変わらない。あくまでこう言うだけである。そしてそこには呆けていながらもはっきりとした意識が存在しルブランにも見えたのであった。
「何も」
「わかりました。それではです」
 ルブランはここまで話を聞いて懐からあるものを取り出した。それは一個の大きなサファイアだった。彼の持っている財産の一つである。青い輝きを北の街の中に見せていた。
「これをどうぞ」
「いえ、いりません」
 だが聖愚者はその呆けた顔で断るのだった。
「私はいりません」
「ですが寄進として」
「寄進は寺院にして下さい」
 こう言って受け取らないのだった。目の前にそれを見ても首を横に振るだけである。やはりどうしても受け取ろうとしないのであった。
「私にではなく」
「左様ですか」
「ですからお収め下さい。私に寄進はいりません」
 その言葉は変わらなかった。
「ですから」
「わかりました。それではです」
 ここまで聞いては彼もそれ以上は無理強いできなかった。サファイアを己の懐に戻してそのうえで再び聖愚者に対するのであった。
「これは寺院に寄進させて頂きます」
「そうして下さい」
「では私はこれで」
 最後に一礼するのであった。普段とは違って心からの一礼を。
「お元気で」
「また会いましょう」
 聖愚者は座ったまま彼に対して告げるのだった。
「神のお導きで」
「はい、それでは」
 こう言葉を交えさせてそのうえで別れる二人であった。ルブランは従者と共にまた街を歩きはじめた。その中で従者に対して言うのだった。
「サファイアだが」
「はい、今先程のですね」
「寺院はないか。まずはそこに入ろう」
「寺院といいますと」
「決まっている。寄進だ」
 それだというのである。
「このサファイアを寄進させてもらう」
「宗派が違うのにですか」
 主の言葉を聞いてすぐに眉を顰めさせた。普通宗派が違えば寄進なぞしないからだ。この辺りキリスト教世界は実にはっきりと区分されている。
「それでもですか」
「関係ない。いや」
「いや?」
「あの方に寄進するのだ」
 こう従者に対して述べたのである。
「あの聖愚者にな」
「そうですか。あの方にですか」
「ああした方もおられるのだな」
 そして言うのだった。
「世の中には」
「白痴でありながらですか」
「いや、白痴だからこそだ」
 彼は言い換えた。
「だからこそだ。ああした方もおられるのだ」
「白痴だからですか」
「人というものは案外色々と考えられるようになっても駄目なのかな」
 こう考え出しているルブランであった。
「それよりもだ。ただ神だけを考えられればそれで幸せになれる」
「あの方の様に」
「少なくとも我が国にはああした聖愚者はいない」
 このことは間違いなかった。カトリック世界においてはそうした存在はいない。あくまで東方教会、とりわけロシア正教独自のものなのである。
「だからこそ余計に目に入ってしまうな」
「そして考えてしまうと」
「考えてはよくないのだろうがな」
 こう前置きはした。
「だが」
「だが?」
「これは寄進させてもらおう」
 右手にまたあのサファイアを取り出していた。それを右斜め後ろに控えるようにして共に歩いている従者に対して店ながらの言葉であった。
「是非な」
「わかりました。それでは」
「いい方を見られた」
 ルブランはこう言って微笑んだ。
「人は。なまじ頭がいいからといってそれがいいものとは限らないのだな」
「確かに」
 従者は主のこの言葉に静かに頷いて応えた。そうして黄金色のアーチ状の独特のロシア正教の寺院に向かいそこで寄進をするのだった。


聖愚者   完


                2009・9・20
 
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