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アンジュラスの鐘

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1部分:第一章


第一章

                  アンジュラスの鐘
 そういう時代だった。そう言ってしまえば何もなくなってしまうが。
 この時は誰もがそれに納得した。そして指示した。私はあの時反対だった、と後になってから言う者がいる。あれは間違いだった、わかっていたから反対していたのだと。だがこの時にそんなことを言うのは殆ど誰もいなかった。いたのは本当にごく一部であった。皆納得していたのだ、全部。
「皆結果なんてわかっていたんだよ」
 作家の太宰治は後になってこうしたことを小説の中で語った。
「どうなるかなんて。けれど親が負けるとわかっていてそれを見捨てる子供はいない」
 彼もまたそれを指示していたのだ。
「後になってあれは間違っていたとか。そんなことを言うのは卑怯なんだ」
 そしてこう言いたかったのだ。
「あの戦争はね、そうしたものだったんだ。誰もが納得して、そして戦ったんだよ。そうした戦争だったんだ」
 第二次世界大戦。それはそうした戦争だった。誰もが戦争を支持し、そして戦った。終わった時に泣き崩れた多くの人達。その時泣いたのは彼等の偽らざる心だったのだ。
 吉川英治も戦争を支持していた。彼の作品である上杉謙信では謙信を当時の日本に重ね合わせていたという。純粋に大義を信じていた。確かに否定される面もある。だが彼等はこの時確かに大義を信じていた。誰もがそれを信じていた。高村光太郎も詩に残していた。皆あの戦争を見ていた。そしてそれに参加したのだ。何もかも捨てて。皆戦っていた。
 大人も子供も。戦争を見ていた。皆その中で生き、戦っていた。これを否定することは誰にもできはしない。
 そんな中で宗教家達も戦争に参加していた。僧侶も神主も。日本にあった全ての宗教団体が支持していたと言っても過言ではないだろう。それはキリスト教も同じであった。
「その御考えに変わりはありませんね?」
 佐世保。日本海軍の基地がある街である。軍港でありここには多くの軍人達がいる。その中にある海軍の兵舎の一室で一人の神父が将校の服を着た男と話をしていた。
「はい」
 その初老の神父はそれに頷いた。迷いのない返事であった。
「私は神父です」
 彼は言った。眼鏡の奥の目には強い光があった。
「この命は神のものであります」
「では」
「ですが。私は日本人です」
 神父は将校にまた言った。
「今日本は重大な時を迎えています」
「はい」
 将校はその言葉に応えた。それは軍人である彼が最もよくわかっていることであった。
「その通りです、今は」
「アメリカとの戦争が近いのですね」
「それは」
「いえ」
 否定しようとする将校の言葉を遮った。二人は今窓から差す光をつてに話をしていた。そして互いを見て対峙して座って話をしていたのだ。
「皆、もうわかっていますよ」
「・・・・・・・・・」
 将校はその言葉を聞き俯いてしまった。
「わからないわけがないでしょう。ラジオや新聞ではもう」
「そうですね。もう皆わかっていますね」
「はい。臣民は皆陛下の赤子となり」
 神父は言った。
「この戦いに全てを捧げる覚悟はできております。そう、それは私も」
「神父であっても」
「ですから私は日本人です」
 彼はまたそれを言った。
「神にお仕えしていても。それは変わりません」
「左様ですか」
「ですから今ここにいるのです」
「それでは」
「はい、微力ですが」
 彼は言う。
「私も。ここにいさせて下さい。そして」
「はい、皇国の為に」
 将校もまた強い声で言った。
「宜しくお願いします」
「私はここで皆さんの心を救うことができれば」
「では長崎の教会は」
「よいのです」
 神父はそれまでの厳しい顔を消していた。声も優しいものになっていた。
「ここにこそ救われるべき人達がいれば。私はここにいます」
「有り難うございます、これで」
 将校は礼を述べた。
「私達もまた救われます」
「大尉」
 神父は将校に声をかけた。見れば彼の階級は確かに大尉のものであった。
「貴方はクリスチャンなのですか?」
「ええ、そうです」
 大尉はその言葉に答えた。
「カトリックです。親の代から」
「そうだったのですか」
「長崎に生まれましてね」
 ふとここで遠いものを見る顔になった。
「江田島に進みまして。それから」
 海軍兵学校のことである。当時海軍将校といえばエリート中のエリートであった。誰もが羨むような存在だったのである。今となっては遠い昔の話であるが。
「横須賀から。こっちに来ました」
「左様でしたか」
「まあ誰も気にしないので言わないでいましたけれどね」
 そう述べて苦笑した。
「何分キリスト教というのは海軍には馴染みが少ないものでして」
「いえいえ」
「私の他にもちょっといますが。連中にも宜しくお願いします」
「わかりました。それでは」
「はい」
 二人は頷き合った。
「御国の為に」
「行くのは靖国ですが」
「神の御加護があらんことを」
 不思議な話であった。神を信じていながら行く場所は靖国なのである。だが彼等はそれを自然に受け入れていた。死ねば靖国に行き、また神も信じる。それでよかったのだ。彼等はそう考えていた。キリストを信じると共に軍人であり、そして日本人であったのだから。彼等はそれでよかったのだ。神も靖国も信じていたのだ。
 程なくしてアメリカとの戦いがはじまった。世の中は沸きに沸き返った。
「鬼畜米英!」
「今こそ奴等を討つ時だ!」
「亜細亜の大義をここに!」
「八紘一宇の精神を東亜に!」
 そんな言葉が溢れ返った。こうした一連の言葉を批判し、侮蔑するのは容易い。だが現在の目で無謬の価値観と絶対的な正義で以ってこれを一方的に断罪するのは愚かな話だ。この時代にはこれが正義だったのだ。正義というものは時代によって変わる。価値観もまた。全て時代によって変わるものなのだ。
 神父もまた戦争が起こり、それを喜んだ。彼は佐世保にいる僧侶や神主達と酒を囲んでそれを祝っていた。
 それは神主の神社で行われた。彼の家の広間で胡坐をかいて乾杯していた。
「まずは乾杯」
「真珠湾への攻撃は大成功でしたな」
 日本酒を杯に入れていた。そしてそれぞれの法衣のまま楽しく談笑していた。
「連中には今まで煮え湯を飲まされてきましたからな」
「全くです」
 髪の毛が一本もない厳しい顔の僧侶が年老いた神主の言葉に頷いた。なお彼はこの酒を般若湯と言い張って飲んでいる。僧侶は酒は駄目だがこの般若湯ならばよいのである。いささかどころかかなりの詭弁であるがそれでも酒は飲みたいものなのである。誰であっても。
「それが今、晴らされたのです」
「ですね、これから」
 神父もそれに頷いた。その横では天理教の法被を着た若い男もいた。
「日本の大義を彼等に見せてやりましょう」
「威勢がいいですな」
 神主は若い男にそう言葉をかけた。
「これはまた」
「もうすぐ私も戦場に行きますし」
「ほう」
「赤紙が来ました。御国の為にね」
「頑張ってきて下さい」
「わし等ももうちょっと若ければ」
 僧侶は心から残念そうな顔をして述べた。
「御国の為にのう」
「うむ」
「この戦争は大義ある戦争ですからね」
 神父は酒をちびりとやりながら言った。黒い神父の服に日本酒はどうにも合わなかったがそんなことは意識してはいなかった。そもそもこれだけ違った様々な宗教が集まっていることこそが異様なのだから。
「何とかして尽くしたいですよ」
「その通りじゃ」
 神父のその言葉に神主は大きく頷いた。
「この戦、勝たねばならぬ」
「うむ」
「かって露西亜と戦った時よりもな。意義ある戦いじゃ」
「あの時は国がなくなるところじゃった」
 僧侶がそれに頷く形で言った。
「じゃが今度は。東亜の為に」
「戦わなくてはならぬ」
「この戦争に負ければ」
「全ては終わりじゃな」
 神主の言葉はこれまでになく深刻なものになった。
「じゃからわし等も御国に尽くすのじゃ」
「わしの弟子も大勢戦場に行くことになっている」
「ですね」
 僧侶達もそれは同じであったのだ。誰もが戦争に参加していた。そして大義を信じていた。この大義は彼等にとっては決して偽りでも幻でもなかった。この時代に生きた全ての者にとっては。確かに存在したものなのである。
「わしの寺の鐘も出した」
 僧侶は言った。
「あの鐘をですか」
「うむ」
 若い牧師に頷いた。
 
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