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惨女

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1部分:第一章


第一章

                    惨女
 元はそうではなかったのかも知れない。しかし歴史ではこう書かれている。残虐な女であったと。
 呂后は漢の高祖劉邦の正室であり皇后である。劉邦が遊び人でどうしようもない男と言われながらもその周りに多くの人間を集めていた時に土地の資産家である呂家から嫁いだのだ。
 その後劉邦は楚の軍に入り秦を滅ぼすという大功により関中の王となった。すぐに項羽により漢中に追い立てられたがそこから兵を起こし遂にはその項羽を倒し皇帝となった。その間彼女は項羽に捕らえられたりもしたがそれでも生きていた。そうして晴れて皇后になったのだが。
 劉邦という男は生来遊び人である。酒好きであり女好きでもあった、皇后との間に二人の子があったがそれ以外にも多くの子があった。そして寵愛している后も多かった。
 彼がとりわけ寵愛していたのは戚夫人である。彼女は劉邦が漢中にいた頃に手に入れた女であり非常に美しくそれが為に愛された。その結果如意という息子を産んでいる。歴史の常であるが劉邦は皇帝になってからこの如意もまた深く愛し彼を跡継ぎにしようと考えだした。
 既に跡継ぎは呂后の子が定められていた。しかし皇帝になったわけではなく極端に言えば劉邦の一存で変わるものだ。そしてそれを変えることもできるのだ。
 戚夫人は常に劉邦の傍におりそして彼の寵愛を受けている。つまり彼の考えを変えることができる人間だった。尚且つ彼女にも野心があった。己の子を皇帝にするという野心が。
 その為機会があると何かにつけ。劉邦に対して囁いたのだ。
「如意について如何思われますか?」
 こう彼の耳元で囁くのだった。二人になると常に。
「あの子は利発ですね」
「そうだな。実にな」
 彼にしても我が子が可愛い。とりわけ寵愛する后の子だからだ。その彼を愛さない筈がなかった。そして劉邦は感情に動かされる方でもあった。
「ではやはり」
「はい、あの子こそが相応しいと思います」
 こう彼に囁き続ける。
「ですから」
「まあ考えておこう」
 実際劉邦も心が動いていた。
「今後な」
「是非お考えを」
(そして)
 夫人はここでいつも心の裏で邪なことを考えるのだった。口元に微かにそれが出る。
(皇后様はやがて)
 廃させようと思っているのだった。しかも廃立に追いやるだけでなくそこから死んでもらおうとも。これが当時の後宮でありよくあることであった。彼女の企みもこの中では普通のことだった。
 呂后は既に高齢で高祖の傍にいることは稀になっていた。会うことも稀になっており常に後宮の留守を守っていた。夫人が自分の子である太子の廃立を望んでいることは聞いておりそれと共にそれが自分の命運も決してしまうこともわかっていた。それで危惧を覚えどうべきか悩んでいた。その彼女に対して側近である女官の一人が言ってきた。
「では留侯に相談されては如何でしょうか」
「留候にですか」
「そうです。あの方なら必ずいい御考えを出して下さるでしょう」
 留候というのは張良のことである。劉邦の軍師であり彼に天下を取らせることに多大な貢献をしてきた。だが人柄は無欲であり神仙に憧れその為劉邦が皇帝になってからは朝廷にいることも少なく隠居同然になっていた。その彼の策を受けよというのである。
「それで如何でしょうか」
「そうですね」
 当然呂后にしろ彼のことはよく知っている。そして彼が夫人とも縁がないことも。そうしたことも考え女官の言葉に従うことにしたのだった。
 こうして彼女は張良に話を聞くことにした。そのまるで美女の如き穏やかかつ細い美男子が后の前に参上した。后はすぐに周りの者を下がらせ二人きりになったうえで彼に対して問うのだった。部屋の中は静まり返り緊張が支配した。
「貴方に来て頂いたのは他でもありません」
「太子のことですね」
 張良はすぐに答えてきたのだった。
「それは」
「おわかりなのですね」
「はい、そうです」
 また答える張良だった。
「お話は聞いていましたので」
「流石ですね」
 呂后はここであらためて彼の凄さを知った。伊達に劉邦に天下を取らせたわけではない。彼は後世では稀代の軍師とさえ言われるようになるのだ。
「そこまで察されているとは」
「いえ、それは」
「では。どうされるべきだと思われますか」
 后の顔が真剣なものになった。
「太子を皇帝にする為には」
「その為には人が必要です」
 張良はまずこう言ってきた。
「人がです」
「人といいますと」
「天下に四人の賢者がいると言われているのは御存知でしょうか」
「四人の賢者」
 后は彼の言葉を聞いてまずは考える顔になった。それから暫くして言うのだった。
 
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