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真・恋姫†無双 劉ヨウ伝

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第150話 謀臣賈詡暗躍す

 賈詡は執務室で一人書類仕事をしていた。彼女は目の周りに隈を作り時折うとうととし襲い来る疲労と睡魔に抗っていた。
 彼女の様子から満足に睡眠が取れないほどの多忙ぶりなのが窺えた。執務室の窓から覗く植木は青々しく太陽を浴び彼女の放つ雰囲気とは対照的だった。
 賈詡が呆けた表情で窓の外を眺めていると、その木の枝に小鳥が止まり気持ちよさそうに囀りだした。その様子を彼女は恨めしそうにしばらく眺め、視線を机の上の書類に戻し目を通し署名をした。彼女は深いため息をつくと項垂れた。

「あと少しで終わる」

 賈詡は机に角に積まれた竹巻に視線を向け凝視すると独白した。彼女のつぶやきを聞く者はこの部屋にいない。彼女は視線を戻すと書類仕事を再開した。
 賈詡はうとうととしながらも筆を走らせる。
 ときおり居眠りをするが直ぐに覚醒して仕事に戻る。
 この繰り返しで仕事を進めていた。

「詠さん、いらっしゃいますか?」

 仕事に集中しようとしていた賈詡は声を掛けられたことに不愉快そうに眉根に皺を寄せ扉に視線を向けた。睡眠不足も相まり彼女は気が短くなっているようだ。

「誰?」

 賈詡は訪問者にぞんざいな喋り方で返した。賈詡が感情を隠さない理由はここが執務室とはいえ董卓の屋敷だからだろう。この屋敷は涼州人だけで仕切られているため身内しかない。賈詡が気兼ねすることもない。

(さく)っす!」

 扉越しから聞こえる声は元気が良かった。その声を聞き賈詡は声の主に気づいたようだ。

「入っていいわよ」

 賈詡は外で待つ人物に中に入るように促した。すると部屋の戸を開け女性が入ってきた。年の頃は呂布と年近いように見えた。彼女の名前は李粛。呂布とは親友である。橙色の髪は短く揃えられ、快活そうな健康的な笑みを浮かべていた。室内にも関わらず彼女は直槍を持ち、太刀打ち部分を握り右肩に乗せていた。その様子を賈詡は憮然とし半目で凝視した。

「詠さん、相変わらず暗いっすね」

 李粛は白い歯を見せ健康的な笑顔で賈詡のことを見た。目の周りに隈がある賈詡とは対照的である。

「あんた達が仕事しないからでしょ!」

 賈詡が目を見開き突然李粛を怒鳴った。李粛は驚いた表情を浮かべるも直ぐに笑顔になる。

「適材適所ってやつっすよ。アタイも恋も机仕事は性に合わないんす。詠さん、アタイ等に書類仕事手伝って欲しいんすか?」

 李粛は悪気がない人の良さそうな笑みで賈詡を見た。賈詡はため息をつくと真剣な表情に変わった。李粛との掛け合いで目が覚めたようだ。

「顔色良くなったすね! これアタイのお陰?」

 李粛は嬉しそうな笑みを浮かべ賈詡を見た。賈詡はうっとうしそうに半目で李粛のことを見た。

「司馬建公に贈り物は届けて来てくれた」

 賈詡は気を取りなすと司馬防の名前を出した。

「治書御史は受け取らなかったっすよ」

 李粛は即答した。

「それだけ? 何か他にないの?」

 賈詡は切れそうな表情で李粛に尋ねた。

「ええっと。治書御史の屋敷に行って門衛に治書御史に会わせて欲しいと頼んだっす。そしたら門衛は一言『お帰りください』と言うんで帰ってきたっす」
「一度断られただけで帰ってきたの?」
「やだな〜。 詠さん、餓鬼の使いじゃないんですよ。しつこく食い下がったんすよ。贈り物だけでも受け取って貰えないですかね〜と頼んだっすけど無理だったす」

 李粛は額に一筋の冷や汗を流し身振り手振りで時には大袈裟な動きを織り交ぜながら自らがいかに頑張ったかを賈詡に必死に弁明した。

「想像通りの反応ね。あまり期待してなかったからいいわ。それに目的は達成できたしね」

 賈詡は興味を失ったように李粛から視線を逸らし、口元に指を当て考え事をはじめた。

「あの〜。詠さん、馬届けて来なくても良かったんすか?」

 李粛は考え込む賈詡に声をかけた。だが、賈詡は李粛の問いかけに答えず考え込んだままだった。

「詠さん、アタイにも分かるように教えてくださいよ!」

 李粛は蚊帳の外に置かれふて腐れ賈詡に文句を言った。

「五月蠅いわね」

 賈詡は李粛を面倒臭そうに睨んだ。

「アタイに使いをやらせておいて何も教えないなんて狡いっすよ」

 李粛は賈詡に抗議をした。

「仕方ないないわね」

 賈詡は面倒臭がりながらも李粛に事情を説明する気になったようだ。

「あんた劉正礼を知っている?」
「劉正礼? えーと。ああ、思い出した! 恋が言っていたか超強そうな奴っすよね」

 李粛はわくわくした様子で賈詡に返事をした。賈詡は李粛の調子に少し疲れている様子だった。

「劉正礼は車騎将軍にして先帝から清河王に叙爵された人物で冀州を地盤に華北に強い影響力を持つ人物よ。先帝の信頼が厚い証に彼は太守すら独断で処刑できる使持節を与えられているわ。現在の皇帝陛下も口には出さないけど劉正礼を信任してそうよね」

 賈詡は不満そうに言った。先帝に信頼され、現皇帝にも信任される正宗を警戒する彼女の気持ちは当然と言えた。正宗を排除することは容易でないからだ。また、現皇帝の妹である劉協は表にこそ出さないが正宗のことを信頼している節がある。そして、王允を中心とした清流派の官吏からの強い支持もある。正宗は賈詡にとって厄介この上ない存在となっていた。

「そいつがどうしたんすっか?」
「劉正礼は私達の敵よ」
「そうなんですか」

 李粛は何でもないような反応だった。賈詡は李粛の反応がお気に召さなかったのかこめかみに青筋を立てた。

「そうなの。だから劉正礼の陣営に種を巻いたのよ」
「種?」
「不信の種よ。私達と司馬建公が裏で繋がっていると憶測を劉正礼に抱かせるだけでいいのよ。今は十分よ」
「でも、治書御史は受け取らなかったっすよ」
「そうね。それでもいいのよ」

 賈詡は李粛から逸らし天井に視線を向けて言った。

「何で治書御史にアタイが馬を持っていたら車騎将軍が治書御史を疑うんすか?」

 李粛はちんぷんかんぷんの様子だった。

「劉正礼の側室は司馬建公の次女。そして私達は劉正礼の正室である袁本初の命を狙ったわけ」
「治書御史がアタイ等とつるんで前中軍校尉を襲撃させたと思わせるんすか? 流石に無理くないっすか?」

 李粛は賈詡のことを変な目つきで見ていた。賈詡が疲れでとうとう頭がおかしくなったと思っているようだ。賈詡は李粛の視線に苛立ちを見せた。

「あんたの考えている通り司馬建公は曲がったことが大嫌いで頑固で厳格な性格だわ。でも、そんなことは重要じゃない」
「何でっすか?」

 李粛は賈詡を同情するような視線を送った。

「董卓配下のあんたが贈り物を持って司馬建公を尋ねたことに意味があるのよ。後は私が事実に尾ひれをつけて噂を洛陽に流すつもり。劉正礼のことだから洛陽に間者位何人か送ってきているはず。噂が流れれば勝手に劉正礼の元に届くわ」
「相変わらずっすね。詠さん、そんなんじゃ友達できないっすよ」

 李粛は賈詡に共感できない様子だった。

「別に良いわよ。私には(ゆえ)がいるから」

 賈詡は椅子に腰掛けたまま腕組みして平然とした様子で李粛に返事した。その様子を見て李粛は小さいため息をついた。

「車騎将軍が治書御史を疑わなかったからどうするんですか?」
「どうもしないわよ。上手くいかなければまた別の方法を考えるだけ」

 賈詡はあっけらかんと李粛に言った。

「劉正礼が疑わなくても彼の周囲は分からないじゃない。人の信頼関係なんて、案外脆いものよ」

 賈詡は悪そうな笑みを浮かべ李粛に答えた。

「じゃあ月様と詠さんの信頼関係も脆いってことっすか?」
「何で私と月の関係が脆いのよ!」

 賈詡が李粛に凄い剣幕で怒鳴った。

「さっき人の信頼関係なんて案外脆いって言ったじゃないっすか?」
「あんた馬鹿じゃないの? あんたは恋が自分を殺そうとしていると誰かから聞いて裏切るの?」
「裏切るわけないじゃないすっか!」

 李粛は賈詡に怒鳴った。

「そういうことよ。人は強い信頼関係でもない限り疑ってしまうものなのよ。幾ら信頼関係が強くたって距離が離れていれば、その信頼関係も揺らぐものよ」

 賈詡は冷静な表情で淡々と李粛に言った。

「そんなもんすかね」
「そんなもんよ」

 賈詡は李粛に気のない返事をした。

「ところで。咲、あんたに預けた涼州産の駿馬はどうしたの? 持って帰ってきたのなら厩舎に止めて起きなさい」
「あれアタイのモノにしちゃいけないんすか? もう要らないんっすよね?」

 李粛は落胆した表情で賈詡に言った。

「何言ってんのよ。あの馬幾らすると思ってるの? 贈答用にまだ使えるんだから駄目よ」
「ええ——!? 何すか! 駄賃にくださいよ」
「駄賃ってね。駄賃には高すぎるでしょ。これあげるわよ」

 賈詡は服の中をごそごそして、ふて腐れる李粛に小さい袋を渡した。金属が擦れる音が聞こえたので銭だろう。李粛は袋を受け取ると袋の中身を覗いた。すると笑みを浮かべた。

「銭っす! 詠さん、いいんすか?」

 李粛は満面の笑顔で賈詡を見た。賈詡は李粛のことを「本当、現金な奴ね」と呆れた様子だった。

「咲のモノだから好きにしていいわよ」
「詠さん、ありがとうっす! 恋を誘ってご飯を食べに行ってくるっす」

 李粛は踵を返し肩に乗せた槍を陽気に振りながら去って行った。賈詡は一瞥すると仕事に戻るため自分の机に向かった。
 気分を取り直して賈詡が仕事を始めようとした。

「詠、私だ。今、大丈夫か?」

 すると戸越しまた賈詡を呼ぶ声が聞こえた。賈詡は集中を邪魔されたせいか不満気な表情を浮かべ部屋の入り口に視線を向けた。

「今度は誰?」

 賈詡は疲れた声で訪問者に返した。彼女は早く仕事を終わらせたいのだろう。机の上の竹巻と扉をせわしく視線を動かしていた。

「私だ。静玖(しずく)だ」

 扉越しから聞こえる声は賈詡の態度に気分を害する様子もなく自らの名を名乗った。声音は女性の声であったが先ほどの李粛とは違い落ち着いた実直そうな雰囲気を感じさせた。

「静玖さん? どうぞ入ってください」
「仕事忙しそうだな。あまり根を詰めては駄目だぞ」

 静玖と名乗った女性は部屋に入るなり賈詡の顔を確認すると開口一番に言った。賈詡は彼女の言葉に苦笑いを返す。賈詡の様子から彼女とは既知であり親しい間柄であることが窺えた。

「もう少しで仕事が一段落付きそうだから、それが済んだら一休みしようと思います」

 静玖と名乗った女性の名は段煨(だんわい)牛輔(ぎゅうほ)と並び董卓軍の中核を担う中郎将である。段煨は長い黒髪と黒い瞳が特徴的な妙齢の女性だった。彼女の瞳は鷹のように威圧感を他者に与える雰囲気を醸し出していた。しかし、賈詡は怖気づくこともなく平然とした態度だった。

「静玖さん、禁軍の掌握はどうですか?」
「いい感じだ」

 段煨は笑顔を浮かべることもなく淡々と賈詡に報告した。

「それは良かったです」
「詠、清河王の配下が洛陽に来ているようだぞ」

 段煨は賈詡に唐突に言った。彼女の言葉に詠は驚いた表情に変わるが直ぐに険しい表情に変わった。

「誰ですか?」
「私は直接面識がなかったが、禁軍の校尉の中に顔を知っている者がいた。その者の言葉を信じるなら周渤海郡太守だろう」

 段煨は確証はないと前置きをした上で賈詡に話した。賈詡の表情は疲労感が消し飛んだのかと思わせるように目を見開き立ち上がった。
 先ほど幽鬼の如く目の周りに隈を作っていた同一人物とは思えない変わりようだ。

「どうして、周公瑾が洛陽に来ているんです?」
「そこまでは分からん。だが周太守は王司徒の屋敷に真っ直ぐに向かったようだ。洛陽へは王司徒を訪ねにきたのだろう」
「劉正礼は荊州にいたんじゃ。でも、周公瑾を洛陽に差し向けるということは劉正礼が荊州を立って上洛しているということじゃ」

 賈詡は右手の親指の爪を噛みしばらく考えこんだ。その様子を段煨は沈黙したまま、賈詡が話しはじめるのを待っていた。

「もし、今劉正礼に上洛されるとまずいです。王子師が勢いづいて私達の排除に動くかもしれないです」
「そうなるのであろうか? 清河王は三千足らずの兵を率いて荊州入りをなされたと聞く。そのような御方が我らを武力で排除するつもりはないと思うがな。詠、お前は清河王を警戒しすぎだ」
「三千の兵に騙されてはいけないです。荊州入りは私達を欺くためかもしれないです。荊州は劉正礼の従兄妹・袁公路が治める南陽郡があります。あの地で兵を集めて上洛を可能性があります」
「深読みし過ぎだろう。清河王は兵を集めなくとも精強な軍を冀州に抱えている。わざわざ練度の低い兵を荊州で集める理由がないし、そんな兵を引き連れ上洛しようなどと思うわけがない。詠、お前は疲れすぎている。少し安め」

 段煨は賈詡を心配したように見つめ諭した。

「こんな時に休める訳ないです! 静玖さん、直ぐに集められるだけの兵を率いて私と一緒に来てください」

 賈詡は段煨に話すと部屋を出ていこうとした。

「どこに行くつもりだ?」

 賈詡を見る段煨の視線は厳しかった。

「周公瑾を軟禁するために拘束しにいくんです」
「本気なのか!?」

 段煨は賈詡の発言を狂人の戯言と思っているような表情だった。賈詡もそれを感じ取ったのか部屋を出ていこうとした。

「待てと言っている!」
「静玖さんは周公瑾を拘束するのに協力してくれないんでしょ。霞に頼みますから、さっきことは忘れてください」
「周公瑾を拘束してどうするつもりだ。袁前中軍校尉の一件もある。これ以上清河王の勘気に触れるような真似は止せ!」

 段煨は賈詡の進行方向を遮り厳しく叱咤した。

「私は別に勘気に触れる真似はしません。屋敷にお招きするだけです」
「言葉遊びなどするな」

 段煨は厳しい表情で賈詡の顔を見据えた。賈詡は段煨の視線を逸らすことなく真っ直ぐ見ていた。

「劉正礼には死んでもらいます」

 賈詡は堂々と段煨に言った。

「お前は正気なのか!?」

 段煨は困惑した表情で賈詡を見た。

「ええ正気です。上洛した劉正礼と会い、彼を御すのが難しいと分かった時は劉正礼を殺す機会を窺います。表向きは劉正礼に服従し機を見て禁軍と董卓軍合わせ十五万で攻め殺します。私達は皇帝陛下を確保し、逆らう百官を斬り殺し朝廷を完全に掌握します」

 賈詡の狂気の計画に段煨は顔を強張らせた。

「お前には挟持がないのか!」

 段煨は賈詡の言葉に激怒した。

「劉正礼は三千の兵しか連れず上洛するなら争いのために上洛するのでなく私達と話し合うことが目的なのでしょう。それに私達が大人しく付き合う道理はありません」
「詠、清河王をだまし討するつもりか?」
「ええ。劉正礼が上洛中でなければ彼を殺す機会は永遠に訪れない。彼の妻である周公瑾を駒として手元に置いとけば劉正礼は逃げることはできない」
「卑劣極まりない。お前は月様の目の前で同じことが言えるのか?」

 段煨は賈詡に失望したかのような様子だった。

「卑劣? 私達は政治をやっているんです。私達が有利にことを進めるためならどんな卑劣な手段も惜しまないです」
「お前のやっていることは綱渡りのように危ういものだ。もし、失敗すれば私達全員が破滅することになるのだぞ」
「権力を握るとはそういうことです。好機を逃さずぎりぎりの駆け引きで高みを目指す。何が間違っていると言うんです!」

 賈詡は段煨に対して声を荒らげた。先程まで段煨へ敬意を感じさせた賈詡の態度からは想像もできなかった。

「周太守に何をするつもりだ?」
「何もしません。周公瑾はあくまで人質です」

 賈詡は謀臣と評するに相応しい冷徹な笑みを浮かべ段煨に告げた。段煨は表情を固くした。賈詡の狙いが正宗であると分かったからだろう。そして冥琳はあくまでも正宗への保険といったところか。

「清河王を殺すことにしくじったらどうするつもりだ」

 段煨の様子から賈詡の策に同意していないことが伺えた。

「私は劉正礼を殺す機会を窺うだけです。確実に殺せないなら諦めます。ですが、殺せると確信したら私は迷わず劉正礼を殺します」

 賈詡は覚悟を決めている様子だった。

「清河王と対立する考えは捨てろ」
「静玖さん、もう話は終わりです。仕事に戻ってください」

 賈詡は段煨の言葉を拒絶して遠ざけようとした。

「詠、清河王と対立するような真似は止せ。彼の風下に立つことが何故不満なのだ? 相手は華北四州の実力者。対立しても無益だ。月様とて天下など望んでいない」

 段煨による説得に賈詡は一瞬沈黙した後、口を開いた。

「月は私と一緒に天下を目指すと言ってくれました」
「それはお前が言わせたのだろう。あの方は天下など望んでいない。月様はただ民が健やかに暮らせる世に成ればと思っているだけだ。清河王は華北の地を豊かにしていると聞く。その方と共により良い天下を築けるように協力すればいいだろう。そうすれば月様は清河王に相応の礼遇を受けることができるはずだ。何故、天下にこだわるのだ」

 段煨は賈詡を説得した。だが、賈詡の耳には段煨の言葉は耳に届いていないようだった。

「私は月が治める天下が見たいんです。そのためなら私は幾らでも手を汚すつもりです。私は霞に用がありますから出て行きます」

 賈詡は段煨との会話を一方的に打ち切り出て行った。段煨は賈詡を呼び止めようとするも賈詡が振り向くことはなかった。

「詠、どうして分からぬのだ」

 段煨は賈詡の去った方向を見つめながら憂いた表情を浮かべていた。

「周太守を見逃して正解であった。詠、お前に悪いが周太守はもう洛陽にいない。私は月様を死なせる訳にはいかない。清河王は三千の兵で上洛されると聞いている。彼は武力で私達を排除しようとは思っていない。和解の可能性は十分にある。その可能性を見す見す捨てる訳にはいない。幸い陳留王は月様に友好的であられる。今なら清河王との間をお口添えをしていただくことも可能なはず」

 誰もいない部屋で段煨は独白した。



 賈詡は張遼に命じて五十名の涼州兵を引き連れ王允の屋敷にやってきた。賈詡は涼州兵に屋敷の周囲を囲ませると屋敷の門前で門を空けるように屋敷に向けて叫んだ。しばらくして屋敷の門がゆっくり開かれていく。

「これは何の騒ぎだ!」

 猛り狂った剣幕で王允が足を踏み鳴らして屋敷の門をくぐってきた。彼女の後には兵達に怯えた家宰と思しき女が付き添っていた。

「王司徒、お騒がせして申し訳ございません」

 賈詡と張遼は馬から降りると拱手をして王允に挨拶した。王允は二人の態度にこめかみに青筋を立て屋敷の周囲を取り囲む兵達に視線を送ると右手をあげ兵達を指さした。

「この物々しい兵達は何だと言っているのだ!」
「王司徒の屋敷に周渤海太守がご訪問されているとお聞きしました。つきましては董少府が周渤海太守とお会いしたとお出迎えにまかりこした次第でございます」

 賈詡は王允の怒りなど気にせずに淡々と答えた。これが王允の感情を逆撫でしてしまった。

「『お出迎えだと?』 笑わせるでない! 武装した野蛮な兵達を引き連れて何がお出迎えだ」

 王允は涼州兵を侮蔑するような一瞥した。涼州兵の何人かが王允の態度に頭にきて大声を張り上げるが張遼が睨みつけ黙らせた。王允は涼州兵達に一瞬怯むが「これだから野蛮な涼州人は」と小さい声で独白した。

「涼州の出にて無骨者ゆえ無礼の段お許しください。王司徒、周渤海太守はお在宅でしょうか?」

 賈詡は王允の言葉を軽くいなし話を進めた。となりにいる張遼は顔から冷や汗を流していた。彼女の表情には「帰りたい」と書いているようだった。

「周渤海太守は来ていない」

 王允は顔色を変えずきっぱりと言い切った。

「これは異なことを。周渤海太守の顔を知る者から報告を受けたのですが」
「報告した者が見間違いしたのであろう。そのような情報で三公である私の屋敷に兵達を引き連れやってくるとはどういう了見なのだ。無礼であろう!」

 王允は賈詡の物言いに不快そうだった。

「それはまことでしょうか?」

 賈詡は王允の言葉を信じていない様子だった。

「信じる信じないなどどうでもいい。このような真似を私にして覚悟はできているのだろうな。明日の朝議で貴様らの無礼を議題に上げさせてもらう」

 賈詡は苦虫を噛んだ表情で王允を見た。王允は賈詡の態度が気に入らないのか睨み返した。

「用がないならさっさと失せろ!」

 王允は捨て台詞を賈詡に投げ捨てると踵を返して屋敷の中に戻ってこうとした。その後を家宰が足早に追っていく。

「王司徒、お待ちください。まだ用は済んでいません。屋敷の中を(あらた)めさせていただきます」

 王允は足を止め賈詡の方を振り向いた。その表情は今にも賈詡に斬りかかってくるような雰囲気を放っていた。張遼は「いい加減しい」と小声で賈詡に注意した。

「私の屋敷を検めるだと?」

 王允の表情は「お前は本気で言っているのか?」と語っていた。王允は賈詡を敵意に満ちた目で睨み付けた。彼女は尚書令である賈詡に三公である自分を虚仮にされたことが余程腹立たしかったのだろう。

「賈詡っち。やり過ぎや」

 張遼は賈詡を制止した。賈詡は張遼の制止を払いのけて前へ進み出た。張遼はため息をつくと顔を左掌で覆った。

「この私の屋敷を家探しする理由は何だ? 相応の理由があるのだろうな?」
「理由はお応えできません。司隷校尉を兼ねられる董少府の御下命でございます。謹んでお受けください」

 賈詡は淡々と王允に言った。

「司隷校尉であろうと理由もなく三公の屋敷を家探しできるわけがなかろう。正式な段取りを踏み出なおしてくるのだな」

 王允は賈詡に吐き捨てるように言うと今度こそ屋敷に戻っていた。賈詡は苦々しく王允の後ろ姿を見送った。

「賈詡っち、さっきのはやり過ぎやで。賈詡っちだけやない月も相当叩かれるで。こんなことを続けたらうちらの味方のうなる」

 張遼は王允の屋敷の門が閉じられるのは確認すると賈詡を諭しはじめた。賈詡は黙って張遼の話を聞いていたが彼女の視線は閉じられた屋敷の門に向けられ、それを睨み続けていた。

「屋敷に周公瑾はいるのよ。彼女を拘束できれば私達も運が開けてくる」
「逆やろ。清河王と真正面から激突することになる。賈詡っち、清河王と対等な駆け引きをしようなんて考えるのは止めとき。今は大人しく清河王の下座に立ち機会を窺うのが最良の選択やと思う。形式でも清河王に信任を得られば王司徒とも上手くやっていけるはずやろ」
「今の情勢で清河王の下につけばもう復権の機会はないわ。それどころか王司徒一派は私達を排除する方向に動くはず。私達が清河王から強い信任を得られれば別だけど、今までのことがあるから無理に決っているわ」
「ほうやな。なら涼州に戻って元通りに生活すればいいやろ。うちは今の堅苦しい生活より気に入っていたけどな」

 張遼は背伸びすると目を細め雲の流れる青空を気持ち良さそうに眺めていた。

「あんたも月と同じことを言うのね」

 賈詡は視線を落とし張遼の聞こえないように独白した。張遼は賈詡のつぶやきを聞こえなかったのか賈詡に視線を向けた。

「何か言ったか?」
「何も言っていないわ」
「そうか。なあ。賈詡っち、ほんまに屋敷に周公瑾いるのか?」

 張遼は賈詡の言葉に半信半疑のようだった。

「静玖さんからの情報よ。ある程度信頼性はあるわ」
「静玖さんは周公瑾と面識ないやろ。見間違いがちゃうか?」

 張遼は少し呆れていた。

「静玖さんによると情報元は禁軍の校尉からの情報らしい」
「その校尉は信用できるんか?」
「静玖さんが発言が信用できない校尉からの話を私に知らせてくると思う?」

 賈詡は張遼に視線を向け尋ねた。

「ないな。ということは王司徒が嘘をついている。もしくはもう周公瑾はこの屋敷にはいないか」

 張遼は顎に右手の親指と人差し指で支え屋敷の門を眺めながら独白した。

「周公瑾がもう屋敷を出て行った可能性はあるわね。でも、王司徒のことだから信用できない」
「不漁不漁や。もうええやろ」

 張遼は賈詡に言った。

「霞、このまま王司徒の屋敷を見張っていて頂戴。兵達は半分私が引き連れていくわ」

 賈詡は張遼の言葉など耳に入っていないと言わんばかりに逆の指示を出した。

「賈詡っち、本気なんか!? うちらの立場が悪くなるだけやで」
「いいわね」

 賈詡は張遼に有無を言わせなかった。張遼は項垂れため息をつきながら頷いた。賈詡は張遼の返事を確認すると二五名の兵を連れて去っていった。
 賈詡の冥琳への執着が王允の疑心を醸成させることになる。 
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