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義愛

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4部分:第四章


第四章

「あの駐在さんの奥様がか」
「そうだ、来られるらしいぞ」
 村ではそのことが話題になっていた。まさか森川が自分の妻まで呼ぶとは思わなかったからである。
「何でそんなことを」
「わからんな。どういうことだ」
「成程、そういうことか」
 だが長老には彼の考えがわかった。
「あの方はわし等の為にそうして下さるのじゃ」
 こう村人達に対して言った。
「わし等の為に!?」
「そうじゃ」
 長老は言う。
「家族でな。わし等の為に働いて下さるおつもりなのじゃ」
「馬鹿なそんなわけがある筈がない」
「日本の駐在さんがどうしてわし等の為に」
 彼等には信じられなかった。どうして日本人が自分達の為にそこまでするのか。する筈がないと思っていたからだ。
「清のお役人みたいにか?」
 長老はそんな彼等に問うた。
「賄賂ばかり要求すると思っておるのか?」
「そうじゃないんですか?」
「やっぱりお役人は」
「どうやら日本のお役人は違うらしい」
 長老は彼等にこう答えた。
「真面目な方々のようじゃ」
「真面目な」
「では聞くが今まであの駐在さんが間違ったことをしたことがあったか?」
 長老は問う。
「ないじゃろう。そういうことじゃ」
「それじゃあ」
「わし等は」
「うむ、信じてもよい」
 長老はにこやかな顔で語った。
「あの駐在さんはな。素晴らしい方じゃ」
 長老の言う通りであった。森川はそれから家族ぐるみでさらに村民の為に尽くした。自費で教師を呼び、農業を教え続ける。自ら鍬を持って畑を耕し夜遅くまで泥にまみれた。教師を雇った時と同じく自分の金で農具を買って村民に与えた。まさに身を粉にして働いていた。
 貧しい者には金子を、病気の者には薬を。彼は自らの身体を切っていた。時には真に自らの身体を切ることすらあった。
 ある日のことであった。海岸で事故が起こった。
「あれは」
 森川が海岸を見ると海の中で一人の少年が泣いていた。どうかしたのかと思った。
「どうしたんだ!?」
 森川は海岸から彼に尋ねた。
「牡蠣を獲りに海に入ったんですが」
「牡蠣をか」
「はい、そこで足を切りました」
 だから泣いているのだ。
「痛くて。もう」
「待っていろ」
 森川はそこまで聞いてすぐに動きだした。制服の上着を脱ぐとすぐに海へ飛び込んだ。
「えっ、駐在さん」
「そこを動くなよ、今行く」
「けれど」
「けれどもどうしたもない。足を怪我しているんだな」
「は、はい」
 少年は答えた。
「なら大事だ。早く手当てをしないと大変なことになるからな」
 もう少年のすぐ側まで来ていた。その身体を抱きかかえる。
「よし、じゃあ岸まで戻るか」
「あの、駐在さん」
 突然のことなのでまだ何と言っていいのかわからない。
「どうしてここまで」
「どうしてとは?」
 森川は少年を後ろに抱えながら尋ねる。
「その、村人なのに。只の」
「村人かどうかは関係ない」
 森川はそれに応えて言った。
「わしはな、君達の為に働こうと誓ったからだ」
「僕達の為に」
「そうだ、だからこれ位はどうということはないんだ」
 太く強い声であった。聞いているだけで安心できる。
「では家まで帰ろうか」
「僕の家までかなりありますよ」
「そういえばそうだったな」
「ええ、ですから」
 降ろしてもらおうと思った。だが森川はその前に言った。
「ではそこまで行くか」
「えっ」
 少年はその言葉に自分の言葉を詰まらせてしまった。
「そこまでって」
「他に行くところがあるのか?」
 森川は逆に彼に問うた。
「ないだろう?じゃあそこまで連れて行く。安心しろ」
「はあ」
「今は足を大事にするんだ、いいな」
「わかりました」
 その言葉にこくりと頷く。
「親御さんから貰い受けた身体だ。大事にしろ」
「・・・・・・はい」
 思わず涙が出た。森川の心を知ったからだ。少年はそのまま家まで送られた。玄関まで辿り着いたところで彼は森川の足に気付いた。
「駐在さん、その足」
「何、大したことはない」
 見れば森川も怪我をしていた。足をバッサリと切っていた。それは少年のものよりも深い傷であった。
「すぐに治る」
「すぐにじゃないですよそんなの」
 少年は慌てて彼に言った。
「すぐに手当てしないと。そうだ」
 慌てて家の中に入って行く。そこから水をたっぷりと入れた桶と奇麗な白い布を持って来た。
「これで。手当てして」
「済まないな」
「済まないのはこっちですよ」
 少年はまだ慌てていた。だがもう森川の足の傷口を洗っていた。
「こんなことまでして頂いて。それで怪我まで」
「こんなもの昔から普通だった」
「普通とは?」
「怪我のことだ。ああ、いい」
 森川は少年から布と桶を受け取った。そして自分で手当てをしながらそう言った。
「自分でやるからな」
「はあ」
 自分で手当てをはじめる。そんな彼に少年はまた問うた。
「それで普通とは」
「怪我のことだ」
 彼は言う。
「こんなのは普通だったのだ」
「そんな深い怪我も」
「看守の時もな。何かとあってな」
 この場合は囚人達とのことではなく様々な作業だ。森川はそれも自分からやっていたのである。自分が汚れることを厭わなかったのである。
「それでだ」
「そうだったのですか」
「うむ、気にすることはない」
 そう言って少年を落ち着かせる。
「これでわかってもらえたかな」
「駐在さんは凄い人なんですね」
「凄い!?わしがか?」
 かえってこの言葉には戸惑いを見せる。
「ええ。そうやって自分から危険なことに向かわれて怪我までされたのに。そんなことを仰って」
「武士はな、そうじゃったからな」
「武士!?」
 あまり聞かない言葉であった。台湾においては。
「それは何でしょうか」
「まあ簡単に言うと軍人だ」
「軍人ですか」
 森川はわざとわかりやすいようにそう説明したのである。
「左様、軍人としての心得か。もっと広く言うと日本人の気構えか」
「日本人の」
「あんたも日本人なんだぞ」
「俺がですか!?」
「他の何だというんだ。ここは日本なのだ」
「はあ」
 こんなことを言われたのははじめてであった。今まで彼等は野蛮人だの蛮族だの言われてきたのである。だが森川は彼等を日本人と呼んだ。そして同じ目線で語り掛けてきているのである。
「それでは当然だろう、あんたも日本人だ」
「俺も駐在さんと同じ」
「そう、同じだ」
 ニコリと笑って述べた。
「日本人なんだ」
「じゃあ俺もその武士になれるんですか?」
 何か狐につままれたような顔になって問う。

 
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