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黄花一輪

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1部分:第一章


第一章

                    黄花一輪
 昔と感じるならそれこそ気の遠くなるような昔であり近いと思えばつい昨日のことであろうか。少なくとも想えばそれはすぐ側にあることである。
 中国はかって多くの国に別れていた。その中に魏という国があった。
 彼はその国の生まれであった。名を聶政という。彼は背が高く長い腕と立派な身体を持ち、精悍な顔をしていた。生まれは決して卑しいものではなかったが父を早くに亡くし、生活は貧しかった。
 彼には母と姉がおり二人の為に軍に入って生活を支えていた。長い腕と立派な身体を持つ彼は剣技に長け忽ちのうちに魏でも名を知られる剣の使い手になった。
 だが。彼の貧しさをからかう者が同僚にいた。
「今何と言った」
 酒場のことであった。仲間内で飲んでいる時に彼は向かいに座る同僚を見据えた。
「言ってみろ、何と言った」
「聞こえなかったのか」
 その同僚は馬鹿にした目で彼を見返してきた。
「御前はまるで犬だと言ったのさ」
「何故私が犬なのだ」
 彼は杯を置いて同僚を睨みつけてきた。犬と呼ばれたことに憤りを覚えたのは言うまでもない。
「言ってみろ。ことと次第によっては」
「じゃあ言ってやるさ」
 酔った弾みか。同僚は退くこともなく周りの仲間達の制止も振り切って述べた。
「御前は母と姉の為に働いているのだな」
「それがどうした」
 聶政は言い返す。
「それだ。何の役にも立たない無駄飯ばかり食う女二人の為にあくせく働いている。これが犬でなくては何なのだ」
「母上も姉上も無駄飯食いなどではない」
 自分のことを言われるよりも腹が立った。彼にとってはかけがえのない肉親であり幼い頃から育ててくれた有り難い存在であるからだ。
「それをその様に言うか。謝れ」
「犬に謝ることはない」
 しかし同僚は彼を馬鹿にした顔で見るだけであった。
「まだ言うのか。では母上と姉上にもか」
「犬の親も姉も犬だ」
 彼は言った。
「他の何だというのだ?」
「ぬうう」
「おい聶政」
「落ち着け」
 同僚達は彼の間に入って制止しようとする。
「こいつは酔っているんだよ」
「だからな」
「そうか」
 聶政は彼等の言葉を聞いて落ち着きを取り戻した。だが男はさらに言った。
「犬でないというのなら証拠を見せろ」
 聶政を挑発してこう言ってきた。
「見せられないのなら御前も御前の家族も犬だ」
「では見せてやる」
 もう我慢ならなかった。眦を決して立ち上がった。
「それがこれだっ」
 そう言うと腰の剣を抜いた。そのまま流れる動作で男の胸を刺し貫いた。それで終わりであった。
「犬は剣を使いはせぬ。わかったか」
 血の中に横たわる男を見下ろして言った。彼は家族の為に剣を抜いたのであった。
 だが。それにより。彼は故郷を失うことになった。すぐに酒屋を後にするとその足で母と姉、そして金を持って国を後にした。
 彼は魏を去ると東の斉の国へ家族を連れて入った。そこで牛や豚の屠殺業をやって生計を立てることとなったのであった。同時にそれで母と姉を養い、また自身を仇と狙う者達を避けたのであった。
 この頃魏の側にある韓において政争が起こっていた。この時韓において権勢を持っていたのは宰相の侠累であった。その彼と争っていたのが衛の濮陽にいる嚴仲子であったのだ。
 この嚴仲子という人物は剛毅な人物であり歯に衣着せることがなかった。それは侠累にも及び政策や過ちに対してもずけずけとものを言った。これがもとで彼と激しく対立することになったのだ。
 両者は激しく争ったが結局は宰相である侠累の権勢が勝った。嚴仲子は朝廷において彼を強く批判し、激昂のあまり剣さえ抜いたがこれは他の貴族達に止められた。だがこのことにより彼は韓にはいられなくなった。そして国を出て諸国を流離うこととなったのであった。
「こうなれば」
 彼は復讐を誓った。それを誓いながら諸国を渡り歩いた。そして斉に辿り着いた。
 ここで彼はある人物の噂を耳にしたのであった。
「聶政!?」
「そうです」
 斉にいる知り合いの貴族田縦に迎えられ彼の屋敷で互いに杯を重ねている時にこの名を聞いたのであった。
「腕の立つ男でして。今はこの国の都で牛や豚を殺して生計を立てております」
「牛や豚を!?」
「ええ。元は魏にいたのですが」
「はい」
 田縦は杯の中の酒を飲み、干し肉を指でつまみながら話を続ける。聶政もまた同じ様にしていた。まだ明るい時間の筈なのに何故か周りが暗くなったように感じられた。
「いざこざで人を殺しまして。それでここまで逃れてきたのです」
「そうだったのですか」
「体格もよく、並々ならぬ腕の持ち主です」
「どうしてそれを知ったのでしょうか」
 嚴仲子は彼に問うた。
「その様なことを」
「刃の使い方を見ればわかります」
 それが彼の答えであった。
「ある程度のことは。私も剣の心得はありますから」
「そうなのですか」
「おそらくあれだけの使い手はそうはおりますまい」
 そのうえでこう述べてきた。
「素晴らしい剣客です」
「剣客」
 その言葉が心に響いた。侠累への報復を諦めていない彼にとってはまさに奇貨の様に思われたのであった。
 彼はまた田縦に問うた。
「その方はこの国の都におられるのですよね」
「ええ、確かに」
 彼は答えた。
「何なら紹介致しましょうか」
「お願いします」
 嚴仲子は頭を下げて頼み込んだ。
「是非共」
「わかりました。それでは」
 彼はそれを受けてくれた。
「すぐに参りましょう。宜しいですね」
「はい」
 こうして彼は聶政の家に向かった。そこにはみずぼらしい家とその前で犬を殺している粗末な身なりの男がいた。

 
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