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赤い林檎

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1部分:第一章


第一章

                      赤い林檎
 街と呼べるものではとてもなく。バラックばかりだった。 
 闇市もそれは同じで粗末な屋台や廃材を集めてできただけの店が立ち並んでいる。そこに腹を空かせた人がたむろしているのが見える。
「さあ、残飯シチューはどうだい?」
「蜜柑水あるよ」
 こう売り手の声が聞こえる。そこに帰還兵の服そのままの若い男がいた。
 背は高く額が広い。黒い髪が鬣の様になっている。
 細目の顔に毛の量は多いが細い眉があり目の光は強く明るい。高い鼻にややこけた頬をしている。その彼が今闇市の中にいた。
「ものは一杯あるのか?」
 彼はそれを見て言った。
「ひょっとして」
「いや、どれもな」
 すると側にいた中年の男が彼に言ってきた。
「手は出せないんだよ」
「高いのかい?」
「まずそれがあってな」
 最初はそれだというのだ。
「それにな」
「それに?」
「米と交換だったりするんだよ」
「へえ、米と」
 彼はそれを聞いて驚きの声をあげた。
「つまりあれかい。物々交換か」
「そうさ。どうだい?凄いだろう」
「俺さ、ずっと仏印にいたんだよ」
 ベトナムのことである。こう呼ばれていたのだ。
「そこでもこんなことなかったけれど」
「戦争に負けたからな」
 中年の男はぼやくように彼に述べた。
「そうなってしまうさ」
「負けたのは俺も知ってるけれどさ」
 その返答はそれでもかなり明るいものだった。
「いや、それでも物々交換って」
「インフレとか何とかで金の価値がないらしい」 
 それでだと答えが返ってきた。
「それでなんだよ」
「インフレでか」
「そうさ。だからここで何か手に入れるには物と物の交換が一番さ」
 男はまた彼に教えたのだった。
「あんた何か持ってるかい?今」
「それは見ればわかるんじゃないのか?」
 彼は笑って男に述べた。自嘲でもなく明るい笑った顔だった。
「そんなことは」
「見たところ持ってないみたいだな」
「そういうことさ」
 その明るく笑った顔のままでの言葉である。
「今日本に帰って来てここに着いたばかりさ」
「そうだろうな」
「いや、電車の中も凄かったけれど」
 その中のことを話しはじめた。
「もう人で一杯でどうなんだって有様で」
「ここはもっと凄かったってわけだな」
「全くだよ。どんなものなんだか」
 今度は半ば呆れた様な声だった。
「花のお江戸は何もなし。これも電車の中で聞いてはいたさ」
「空襲で派手にやられたよ」
 男はそのせいだと話した。
「それでなんだよ」
「この見事な有様ってわけか」
「こんなのだからね」
 また言う男だった。
「この闇市でもそんな状況さ」
「そういうことか。じゃあまずは素直に家に帰るか」
「帰る家はあるのかい?」
「さてな。あったらいいけれどな」
 首を傾げさせながらの言葉であった。
「なかったらその時は」
「どうするんだい?」
「その時に考えるさ」
 こう述べるのだった。
 
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