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或る短かな後日談

作者:石竹
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後日談の幕開け
  四 幕開け

 登りの階段。私達が登って来た地下からの階段、その真横にあった閉じ切った扉……来るときには、丁度死角、気付く事なく離れた扉を、突進、その勢いのまま突き破り。アリスを咥えたまま消えていく影を、今すぐにでも追いたいと思えど、彼女。未だ、身体から溢れた肉蛇の中心……恐らく、彼女の意思を無視して蠢くそれ等を、なんとか、引き剥がそうと。引き千切り、引き千切り……よろめく姿、ふらつく姿、赤い粘菌、落ちた蛇。繰り返し、繰り返し、繰り返す彼女を。放っておくことなんて、出来るはずもなく。
 マトの元へと駆け寄り。彼女の体、黒い蟲、蛇……彼女から生えた無数の触手。牙を持ったそれは、口を開くそれは。近付く私に対しても威嚇し。口を開いたそれの首、切り裂きながらも掴み、握る度に埋まり、切り潰しながら引き千切る。彼女の腕、それは。赤く、赤く、血に……粘菌に汚れ、染まっていて。
 やはり、この肉蛇は。彼女の中に巣を作ったわけではなく。彼女の体の一部なのだと理解する。酷く悪趣味で、惨たらしい改造。無理やりに変異させられた、植え付けられたその姿は、まるで、まるで。

 怪物のよう、だと。否応無しにそう思わせて。彼女は、少女、少女だと言うのに。身体、弄ばれ。心も、思いも、尊厳も、何もかもを。顔も知らない誰かに。向けられた悪意の根源たる、糾弾する事も叶わない誰かに、踏み躙られていて。

「マト、マト……!」

 触手、肉蛇。身は竦み、竦んでも。裂けるまで開き、牙を覗かせ息を吐くそれを、掻き分けて。噛まれ、噛まれ、痛みはなく。私が近付いても、尚、気付けない彼女の。恐怖の声を零しながら、只々、蛇を毟る彼女の手を掴んで。

「マト、やめて、大丈夫、大丈夫だから……」

 何が、大丈夫なのか。自分でも分からないまま、掛ける言葉、黒い蠢き、掻き分け。その先に覗いた彼女の顔、重なる視線。彼女の目は、酷く怯え。自分の感情を押さえ付けがちの普段とは打って変わり、うろたえ、恐怖し、取り乱し。瞳、溜まった涙は、澄んだ雫は溢れて零れ、流れ落ちて。そんな、彼女の目を覗き。思わず、目を背けたくなるほどに。痛ましい姿へと変わり果てた、彼女の手。指の代わりとでも言うように埋め込まれた刃が、握る私の手を切り埋まるのを感じながら。

「マト。お願い、落ち着いて聞いて。その蛇は、あなたに植え付けられている。認めたくなんて、ないだろうけれど。あなたの」
「違うっ、私、私は、こんな、こんな……」

 また。肉蛇、掴み、抉り取ろうとする彼女の手を。更に強く握り締めて。

「落ち着いて、お願い。これ以上、自分を傷付けないで……お願い」

 掛けるべき言葉が見つからず。けれど、何か、何か。伝えなければ。心が壊れてしまうのでは無いかと。それが、怖くて。
 そんな。恐怖からか。焦りからか。私は。

 私は。

「……アリス、が……」

 彼女の目が。湛えた涙、その奥で。今までとは異なった不安の色。恐怖を映して。
 それは。恐らく、禁じ手。きっと、彼女にとって、とても狡い手、言葉を。私は投げた。投げてしまった。

「アリス……アリス、は。あの、怪物は……」

 不安気に辺りを見回し。アリスはどうしたのかと問う、彼女。私は、彼女の心が癒える前に。壊れかけの心、更に追い詰める言葉。彼女の抱えた恐怖を、不安を、狂気を。先送りにさせる言葉を投げてしまったのだと。
 後悔した時には、遅く。彼女は、手首を掴んだ私の手では、抑えきれない程に強い力で私の両肩、手の平で抑え。僅かに埋まる爪、絡み付き締め付ける黒い肉蛇。鬼気迫る表情、力。無数の蛇の蠢く音。私の目に映るのは、捕食者の姿、私達、死人の天敵に対する恐怖。この場で呑まれ、取り込まれ。欠片も残さず消えてしまうのでは無いか、と。伸ばしかけた手、伸ばす前に、何をしているのかと心が冷え。大切な仲間、共に目覚めた姉妹を前にして……思わず、銃へ。手を伸ばそうとしてしまったことに、罪悪感が湧き上がって。

「マ、ト……」
「アリス、アリスは。何処に行ったの」

 焦りに駆られた。狂気に駆られた。彼女の言葉、もう。後戻りする事など出来ない。彼女は心に傷を負ったまま。アリスの元へ―――

「―――あの、怪物に連れて行かれた。上の階よ、すぐに」
「すぐに、すぐに追わないと」

 絡み付く肉蛇、解き。私の肩を放し、上の階へと続く階段、通路の先へと視線を向けて。彼女は、私に付けた傷も。自分の姿、赤く染まった姿にも、気付いてはおらず。消えた姿を探し求めて、獣の足、粘菌の滴り。赤い水溜りを残して、ふらつきながらも駆け出して。

「……私も……行かない、と……」

 マトも、アリスも、遠く、遠く。離れていく。壊れていくのを。何処か、心、胸の中。穴の空いたように、虚に。壊されたくない、壊れていく。どうしようもないのか。私は、何も出来ないのか、と。
 耳に備えた機械。鳴り出した音、雑音。それに、気を裂くことも。肩から溢れ、腕を伝って垂れた粘菌。払う事もせず。

 彼女の残した。赤い跡を、辿った。





 ◆◆◆◆◆◆





 彼女は、オートマトンは今、この状況を。何も理解できないまま。廊下を駆け、階段を登り、また、駆けて。
 身体の内側、這い回る蛇。そして、それは、彼女の胸に湧き上がる――食欲。その対象はあろうことか、アンデッド。彼女たちの前に群がる奴等へと向けられた。食べたいと思う、思ってしまった。その飢え、抱いた自分自身に対する嫌悪感が付き纏い。
 気持ち悪い、気持ち悪い、と。思わず、言葉を吐き出し。吐き出したところで、何も。変わりなどせずに。それを嘆く暇さえない。

 今は。彼女(アリス)のことだけを考えて。アリスはマトの錯乱、その内に。あの怪物、死に掛けのそれに連れ浚われて――それも、自分のせいだと。自分が戸惑いなどせずに。止めを刺すことが出来たなら。彼女を、こんな目に合わせることは無かったのに、と。零れ落ちて流れ続ける涙、嗚咽、止めることも出来ないまま。回らない頭、痛みの一つも感じない体で。只、只。
 冷たい、冷たい。体、胸の奥。苦しいばかりの。何故目覚めたのか、目覚めさせられたのかと。問えど、答えなど。返ってくるはずもなくて。

 止まりかけた足を無理に動かす。埃塗れの床、這いずった跡、落ちた粘菌。跡を辿り、階段。駆け登り、上へ、上へ。赤く。それは、彼女……ソロリティも変わらず。半ば、呆然としながら。離れていく心に、どうしようもない無気力感に苛まれて。肩に掛けた銃の重みは、疲れを感じないアンデッドの体だというのに、自棄に重く。刃を仕込んだ靴は、自棄に重く。
 そんな彼女の耳。埋め込まれた機器、改造された耳に走るノイズ音。
 徐々に鮮明に。小さな虫、無数のそれが這い回るように、砂に呑まれていた何かが這い上がるように。声が浮かんで。
 それは。機械音に似た。変換された声、抑揚の無い声。元は女性のものだろうか、それさえ怪しんでしまう声が。彼女の耳へと、何処かから届いて。

『――げ――早――』

 彼女の胸に湧き上がる不快感――それは、彼女の耳へと届いた声の主、何処かから声を送る誰かもまた、同じようで。

「な、に、何なの、何――」
『急げ――早く。早く、――役に立たない木偶が――』

 声は、理由も知れないままの彼女を責め立て。

「何を言ってるの、あなたは何なの……!」
『私は、お前の製作者――お前は、与えてやった姉妹一人さえ守れず……』

 顔を歪め。確かに、その通りで。

『急げ、お前の姉妹の心が壊れる。何のために――お前たち二人に――』
「分からない、何、何処に居るの、アリスはどうなって……」
『もうすぐ、彼女はオラクル――辺りのものを壊すだけの、壊れるまで暴走し続けるESP兵器。うわごとを喚くだけの……低自我のアンデッドに成り果てる』

 無線の向こう。ソロリティの理解が追いつく、その前に。彼女は。言葉を続けて。

『早くしろ、急げ、姉妹を――アリスを失いたくなければ――早く――』

 声、走るノイズは、強く、強く。何処かで聞いた気がする音楽、言葉、悲鳴、心を軋ませる音……声を遮る何か、奇妙な、継ぎ接ぎだらけの音、音、音――彼女は。無線の向こうの彼女は。何と言ったか。

「何、何なの、ねえ、ねえ! 何なの! 答えて、ねえ! 答えろ! ねえ!」

 どれだけ、ノイズへ声を投げても。機械の耳に手を当て、叫び、声を上げても。
 返事は、無くて。只々聞こえ続ける不可思議な音。それは、心の壊れた兵器。ESPの暴走。実際に聞いても、幻聴の類としか思えないこの音は、アリスの放つ超常の力によるものかと。

 ソロリティは。首を振り。髪に指を埋め。思い描いてしまった姿、緑色の光、理解を超えた力、あまりに圧倒的で、暴力的な力を振るう彼女の姿をかき消そうとして。

「違、違う、違う……あの子は、そんな、違う、違う……!」

 聞こえなくなった声、廊下を走り、階段を上り――彼女に近付くにつれて強まる音。そして。

 段差の向こう。差し込む明かり。舞い上がった埃を宙に照らして。赤く垂らされ汚れた床。何か。蠢く音の漏れ出す扉。

 進みたくないと。しかし。進まなければ。彼女は、このまま。


 この場でこのまま、立ち竦み続けるなんて選択肢は。選ぶことなんて、出来るはずも。出来るはずも、なくて。


 嗚咽を零し。体は振るえ。足は、重く、ふらつかせながらも。

 段差の向こう。覗いた景色、その光景を。


 最も見たくなかった姿を。彼女は、見た。








 開けた視界。赤錆びた色の空の下に広がった、くすんだ色をした廃墟の世界。その光は、鮮やか過ぎるほどの緑、眩しすぎるほどの輝き。それは、他の誰でもない。彼女から。アリスの体から放たれていた。
 怪物は粘菌に塗れ、原型を失っても尚体を揺らす怪物と、空。飛来する翼、硬質の体、細い手足。顎を鳴らし、円を描き、赤い空から舞い降りる異形の虫……少女たちの体よりも大きな、ヘビのように長い体を持った蜻蛉達が其処にいて。
 虫たちはアリスを浚った怪物の体に群がり。あれだけ自分たちを苦しめたというのに、もう、沈黙して動くことも無く虫に食われていくだけとなったその姿――浚われたアリスはその怪物に。顎に、噛み砕かれ、引き摺られ。痛みは感じずとも心は潰され、姉妹たちから切り離された恐怖、打ち勝つことも出来ず、既に、意味のある言葉を発すことさえ出来なくなったというのに。虚ろな目から光を溢れさせ、只々ESPによる無差別な破壊を行うだけとなったアリスの体を啄ばもうと、打ち鳴らし迫る虫の大顎を必死に振り払おうと手を振るうオートマトン、彼女もまた狂乱したように。アリスの放つ光、浮き上がる瓦礫、欠片、肉、球を成した粘菌、浮かび上がり砕ける――彼女たち二人もまた。壊れゆきながらも只、只、群がる虫を追い払おうとしていて。

 その光景は。最も見たくなかった姿で。ソロリティは、その場で膝を着き。

『――遅かった、お前たちは。与えられた役割一つ果たせず――アリスの体に埋め込んだ心は既に壊れてしまった』

 声は。彼女の耳に直に届き。けれど、まるで、何処か遠く。彼女の心もまた、壊れてしまったように。

 乾いた笑み。泣き出しそうな顔で。ソロリティは眼前の光景。壊れた世界。壊れた姉妹……今も尚。壊れ続ける世界を見て。
 現実感が無い。足は地を離れたように、手は、力を奪われたように。体から心、精神……自我が、切り離されたかのように。全ての感覚が遠のいていって。

「……どう、して……なんで、こうなっちゃったんだろう……」

 ソロリティに、銃を握る気力は最早無く。宙に浮かび破壊を撒き散らすアリス、傍ら、のたうつ無数の触手、暴走するESPによる破壊を受けながらも、アリスを守ろうと、自身を守ろうと。気の触れたように群がるヘビトンボに爪を立て、喚き、泣く、オートマトン。足元に散らばる虫の残骸、それもまた。緑色の光に押しつぶされて崩れていく。

 穏やかな時間は。和やかな時間は。確かにあった筈で。どうしてこうなってしまったのかと、問いかけようとしたところで答えるものなど此処には無く。束の間の平穏を乞い手を伸ばそうとしたところで、その腕は、見境無く振るわれた超常の力に切り裂かれた。

 もう。此処で終いなのだと。短かな生。蘇らされ、弄ばれ。過去の記憶、取り戻すことさえないまま。生きていた頃に紡いだ物語を知ることも無いまま。彼女たちの短かな後日談は、迫り来る大顎、それを以って、幕を――


「リティイイッ!」


 叫ぶ声。反射的に、引き戻された思考、足は。無意識のうちに迫る顎を恐れたのか、飛び退き。耳元、勢い余ったそれが背後へと流れる風圧、羽音が掠めて。
 見れば。ソロリティの目に映るのは。仄かに赤い涙を流し。体、蠢き溢れた肉蛇、鉄の爪。必死の形相で声を張り上げたオートマトンの姿で。

「マ、ト……?」

 オートマトンの心は、既に。壊れ切ったものだと。ソロリティの目には映り。しかし。
 普段の彼女と打って変わり、狂乱し、叫び声を上げ、力任せに、出鱈目に。爪を振るう彼女も、また。壊れかけても尚、僅かに。恐怖、狂気に覆われたその目に、正気の光を残していて。

 呼びかけた声、ソロリティへと向かった虫、避けることなく立ち尽くした彼女が。そのまま壊されることを恐れて。そして、また。自身らへと向かう、アリスへと向かう。飛来する虫へと爪を伸ばし飛び掛っていく彼女の姿を、ソロリティは呆と見つめて。

 彼女(マト)は、まだ。精神が壊れかけても尚。崩壊の寸前へと至っても尚。姉妹が壊されることを恐れて。姉妹を守るために、その、狂気に満ちた乱舞を続けていて。

「マト……アリス……」

 指が動く。遠退いていた感覚が指先に戻り、手が、腰へと伸びていく。膝を着いたままであった足は踏み出され其処に立ち。彼女は吊るされたホルスター、包まれた重み。二丁の無骨な大型拳銃。その、銃把を握り締めて。
 オートマトンは。未だ。アリスを守ろうと、自分を守ろうと。動き続けているというのに。自分が此処で、座り込んでいるだけなど。彼女には出来ず――否。責任感、罪悪感、それらもまた胸を刺して喚くとは言え。彼女自身が、オートマトンを。アリスを。守りたいとそう願って。

 三人の、大切な時間を。取り戻すことを、欲して。

「ごめんね、一人切りにさせて……私も」

 今行く、と。彼女は、二丁の拳銃を握り締め。

 旋回する蛇蜻蛉。超常の光。赤い粘菌、緑の体液。虫達の残骸、肉片。散らばり彩られる煉獄へと。
 姉妹の元へと、駆け出した。







 踏みつけた緑色の液溜まりが跳ねて彼女のブーツを汚す。流れ落ちた粘菌が黒い体毛、備えた尾に垂れ、獣の足を汚していく。
 しかし。汚れなど、今更。彼女たちの目には映らず。オートマトンの振るう刃は、厚い外骨格に阻まれながらも肉を裂いて。狂気の中に取り残された彼女たちの元へと、ソロリティは歩を進めて。
 アリスは変わらず、何事かうわ言を零しながら溢れ出す光、直に触らず物を破壊する、その力を振りまいていて。空を埋めて旋回する無数のヘビトンボ、小型のそれが徐々に近付きつつあるのを横目に見ながら、ソロリティは。オートマトンが爪を振る様、その周り。自身が狙いを定めるべきは、どの敵なのかを見定めて。

「マト! アリス!」

 オートマトンとアリスへと執拗に迫る二匹のヘビトンボ、四対、五対と、人間の手によって変異を施され、歪なままに繁殖した昆虫兵器。小型のヘビトンボが成した群れを掻き分けるように飛来した三匹を合わせ、この、虫の檻。五匹の異形が人形たちへと牙を向けた。

「リ……ティ、リティ……!」

 ソロリティの投げた声へと、オートマトンは、半ば、呻くように言葉を返し。ソロリティは、彼女の正気がまだ、残っていることに安堵し。
 新たに飛来したそれへと向けてソロリティが引き金を引く。吐き出した弾丸は硬い外骨格に弾かれ。僅かに傷を受けた異形は、尚も彼女等へと迫り。オートマトンが翳した爪もまた、空を切り。見た目の歪さと裏腹に、元の、蜻蛉としての器用さを残したそれは、個々にばらばらの枚数を備えた翅で宙を舞い。距離を置いては迫り、顎を開き、噛み付かんと。三体の人形へと襲い掛かる。
 寸でのところで躱しても。また、羽音響かせ近付いて――そんな、ヘビトンボ達でさえ。未だ言葉を返さないアリスの放つESP、引き起こす知覚混乱、感覚に齎される異常にふらついていて。
 そんな、よろめき、屋上の床、這うように飛んだその虫を。オートマトンが引き裂き、崩し、解体する。ソロリティの放った弾丸が、宙を行く影を撃ち貫く。

 息は荒く。一瞬でも油断したならば、その大顎に噛み砕かれる。鉤爪を突き立てられ、肌を抉られ。絡みつく足、張り付く虫に。頭から食い砕かれるだろう、と。頭に過ぎった光景を、舌打ち、頭を振って掻き消して。

 今は。姉妹たちへと迫る敵を払って。彼女たちの正気を取り戻さなければ。そう、自身を奮い立たせれば。

 視界の端。オートマトンの爪も。自身の銃弾も。受けることなくその場で軋み、音を立て、無理やりに折りたたまれるように。押しつぶされていくヘビトンボを、ソロリティは見て。
 それが。アリスのESPによるものに他ならなくて。一度の攻撃も受けていない昆虫兵器、硬い外骨格も、強靭な顎も関係なく。否応無しに行われる破壊は、いつ。自分たちへと――ソロリティと、オートマトンへ向かっても、おかしくは無く。奮い立たせたばかりの自身の心、背筋、冷たい水が流れるようなその感覚に、思わず震えて。

 もう。手遅れなのではないか。例え、虫の群れからアリスを救い出したとしても。もう、彼女は。アリスは戻って来ないのではないか、と。ソロリティは。
 背後、受けた衝撃、左手。食い込んだ顎。痛みの無い傷み、間近で見た虫の目、開いた顎、それに。思わず、彼女は。小さな悲鳴、共に。力の限り振り払って。
 零れ落ちた粘菌。小型のヘビトンボの群れは、遂に。飢えに駆られ、姉妹たちの立つ屋上、彼女たちの元へと降りて来て。無数の虫たち、遠く距離を置いた大型のヘビトンボ。オートマトンの振る爪は小型のそれを数匹切り落とし。緑色の体、体液、数多の目、羽音。肉を啄ばむ虫の群れ。そんな、中で。

 アリスは。少女は。狂気に満たされ、正気を失いながらも。自身へと群がるそれ等を恐れて。身を捩り、体を守ろうと身を縮込ませ――恐怖に呻く、呻く口から。
 零れ落ちたのは。姉妹の名で。

「アリス……?」
「リ、ティ……マト……」

 正気を取り戻したわけではない。狂気を振り払ったわけではない。しかし。
 肉を抉り、食らう虫、死を。感じもしない痛みを恐れた彼女は。

 朧な意識の中で。姉妹を頼って。

「アリス、アリス……っ!」

 ソロリティが飛び交う虫を掻き分けてアリスの元へと駆け寄っていく。二人の声に気付いたオートマトンが虫を切り裂き、叩き落とし、アリスの元へと近付いていく。宙に浮き、体を震わせ、狂気の中で助けを求める、アリスの元へと。辿り着いた彼女は。ソロリティは。

 その体を。腕、体、走る傷、制御出来ないESPに傷つけられて。傷つけられながらも。
 強く抱きしめ。彼女へと群がるヘビトンボから身を守り。そんな彼女たちを、オートマトンは。虫を払い、抉り切り裂き守ろうとして。

「アリス、大丈夫、ここにいるわ。二人とも、リティも、マトも居る。大丈夫」

 返す言葉は、うわ言のそれで。しかし、確かに。羽音に埋もれそうになるその音、耳を澄まして、掬い上げれば。
 彼女たちの名前。ソロリティと、マトの名前を。彼女は確かに紡ぎ、その身を、抱き締める彼女の腕に埋めて。

「アリ、ス、アリス……っ」

 助けに来るのが遅かったと。間に合わなかったと。ソロリティの頬、思わず零れ落ちた涙、嗚咽交じりの呼びかけ。更に強く抱きしめ。抱きしめるその腕の中、身を埋めた彼女は。

「――リ、ティ?」

 うわ言とは異なる。はっきりとした、意識の籠った声を上げて。

「アリス……?」
「リティ……リティなんだね。マトも……良かった……助けに来てくれたんだ」

 覗き込めば。その瞳に、狂気は無く。抱きしめた体、呼びかけ、引き戻された意識、正気。取り戻したアリスは、心から。安堵したといった様子で。

「怖かった……怪物も、虫も……体を食べられるのも……勝手に、壊れていくのも……」
「ごめん、ごめんね、もっと、もっと早く……」
「ううん、いいんだ。ありがとう、リティ、マト……よかった……よかった……」

 涙を零しながら、笑みを浮かべるアリスを見て。ソロリティもまた、つられるように、頬を綻ばせ。しかし。
 やっと。取り戻した意識、手の中にあってさえ。彼女の、ソロリティの体は。辺りを飛び交う虫たちが、戦い続けるオートマトンが。ひとりでに傷ついていくのと同じように、裂け、滲み、垂れる赤に彩られつつあって。

「……リティ」
「なに、アリス」
「……一緒に目覚めたのが、リティやマトで良かったよ。本当に、ありがとう」

 アリスは。自身を抱きしめる腕を、優しく離し。屋上、汚れた床に、足を着けて。

「……私だって。アリスやマトと一緒で良かった。だから、こんな……こんな場所から、早く逃げて」
「無理だよ。私はもう、この力を抑えることも出来ない。このまま一緒に居ることは、出来ないよ」
「そんなこと……っ」

 一歩。彼女は。ソロリティの腕を離れ。距離を置いて。

「今までありがとう。本当に、ありがとう。でも……ここで、お別れだよ」
「いや……嫌よ。嫌。そんなことを言わないで。お願い。私たちは大丈夫、大丈夫だから――」
「ごめんね。でも。私も、もう――」


 もう。この世界で生きるのは、無理みたいなの。


 そう。背を向けながら。涙を流しながら。諦めたような笑みで言う、彼女の手を。
 掴もうと。伸ばし、伸ばしても。


 彼女の手へ。届く、前に。


 アリスの体が今までのそれを遥かに越える輝きを以って光を放つ。緑色の輝きは、あまりに強いその光は、最早、白に近いほど。流れ出す力、膨張し肥大した自我次元接触は、強烈なノイズを引き起こして溢れ出し。アリスの目に映る全て。自分の体を含めた全てへとその、不可視の力、圧倒的な力の奔流、極めて暴力的で抗いようの無い破壊の渦を巻き起こして。
 廃病院の屋上、硬い硬いその床が剥がれ砕け宙に浮き。飛び回る虫達が逃げる間も無く崩れていく。渦を成した破壊の力は、まるで目には見えない巨大な怪物が暴れまわるかのように。全て、全てを打ち砕いていって。

 思わず身を守ったソロリティの腕や足、腹が抉られ、頭から軍帽、彼女にとっての過去の手がかり、その一つであるそれが吹き飛び空で崩れて。オートマトンの傷ついた体を、更に傷付け溢れ出した粘菌は、まるで生き物のように空で球を成して踊り爆ぜ。しかし。
 彼女達の心は、この破壊の中にあっても。それがアリスのものであるからか。不思議と、恐怖は湧かず。寧ろ、彼女の力の中。何処か安堵さえ覚え。
 有るのは。アリスがこのまま、壊れてしまうのではないかという不安だけ。

「アリスッ!」

 オートマトンが声を上げる。振り向いたアリスは、自身もまた傷つきながら。この、破壊の渦の中心で。小さな笑みを浮かべていて。

「ごめん、マト。リティも。怪我させてしまって……」
「そんなこと、いい……っ! アリス、早く、こっちに……!」

 そんな。彼女の言葉に。アリスは首を、横に振って。

「アリス……!」
「ごめん。もう……もう、生きていたくなんて、ないんだ。皆を傷付けて、怖い怪物や、虫に襲われて……それに。私はもう、この渦にも耐え切れないんだ。だから」

 だから、ごめん、と。呟く彼女に。オートマトンは。言葉を失い。

「ごめん。ごめん……わがままばっかり言って」

 オートマトンが、アリスへと近付く。自身の手、備えた爪。頑なに手を握ろうとしなかったのも忘れて。アリスの体を抱きしめる。

「ごめん。ごめんね。ごめん、ごめん……!」

 抱きしめられて。その腕の中で。堰を切ったように溢れ出す涙、嗚咽、言葉。そんな二人をソロリティは、静かに。涙を流したまま、見守ることしか出来ずに。

「マト、リティ……」

 強く強く。最早。体に爪、食い込むことも忘れて。痛みも感じぬまま。嗚咽の中で。彼女たちを包む破壊の渦は、その力の奔流、輝きを。頂へと至らせて。

 刹那。輝きは、四方へ。風を乗せて、破壊し尽した物の残骸を乗せて。あれだけの力、破壊の狂騒。全てが嘘だとでも言うかのように爆ぜ。

 空に、消えた。







「……マト」

 その場へ座り込んだまま、ソロリティが言葉を掛ける。破壊の後の静けさ。静寂に包まれても尚、抱きしめることをやめず、やめられず。アリスの体を抱き続けるオートマトンへと。
 彼女の腕の中のアリスが。言葉を発することはもう、無く。眠ったように、只、何処か安堵したように。意識を失った、自我次元との接触を断った、彼女の体が残るばかりで。

「……私たちは。これからどうするべきなのだろう」

 アリスの体を抱きしめたまま。オートマトンがそう呟く。半ば、放心したように。只々、彼女を抱きながら。そう、小さく呟いて。

「……分からない。けれど……私は、許すことが出来ない」

 オートマトンは、黙したまま。

「私たちを蘇らせた誰かを……弄んだ誰かを。私は」

 ソロリティの紡ぐ言葉は。静かな廃墟、静かな街と同じ。酷く静かで落ち着いた――しかし。

「許すことが、出来ない」

 明確な。強い憎悪。恨み、怒り、怨嗟を孕んでいて。

「……そう。私は……分からない。何をするべきなのか。アリスは……私たちに、どう在って欲しいのか」

 でも、と。彼女は、言葉を繋いで。

「あなたがそうしたいなら。一緒についていきたい。私たちが離れ離れになることは、きっと。アリスも望んでいないだろうから」

 赤い空。錆びてしまったような空。遠く浮かぶ黄色い雲。沈みゆく日、赤みを増す日。徐々に暗くなりゆく空に見下ろされながら、廃墟。言葉を響かせて。

「アリスの体は、私が貰うよ。こんなところに、置いていきたくなんてない。ずっと一緒に……何処まででも、連れて行きたい」

 オートマトンの言葉。その意味を。ソロリティは、理解して。

「……分かった……いいよ。終わるまで待ってる」

 アリスの体。誰にも渡したくないのは……こんな世界に埋めたくなんてないのは。彼女も同じで。

「ありがとう……」

 言葉を紡ぎ。紡いだ、彼女のその口が。
 裂けていく。裂けていく。覗いた歯は、尖ったそれは。赤い空から降りた光に影を作ったその牙は。グールのそれを彷彿とさせ。そんな傷も、彼女の再生力を以ってすれば。直ぐに塞がる一時の傷で。

 アリスの体を飲み込む姿。抱いたままに牙を突きたて、けれど、優しく、悲しそうに。言葉の一つ発することなく食らう姿を。赤い涙を……血の涙を流す姿を目に、焼きつけて。

『――東へ向かえ。そこで、お前達を待っている』

 ノイズ交じりに声が届く。ソロリティの耳に備え付けられたそれが、何処からか発せられた言葉、彼女へと向けた言葉を拾って響く。

「……勝手ばかり。すぐにでも行くわ。……絶対に」

 許さないから、と。言葉、零し。オートマトンがアリスの体を飲み込んでいく姿、赤い世界、廃墟の群れ。破壊しつくされた屋上で。
 彼女たちの後日談は。記憶を奪われ。体を弄ばれ。姉妹までもを奪われた、彼女たちの後日談は。


 燃えるように紅く滲んだ。夕日に照らされる中で、幕を開けたのだった。


 
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