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乱世の確率事象改変

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蒼天に染めず染まらず黒の意志


 しゃなり、と静かな音が鳴った。
 この大きな謁見の間の端で鳴るその音を合図に、部屋の中の空気が一段に冷え込んで行く。
 コツ……コツ……と磨き上げられた靴が音を鳴らせば、一足ごとに精神の奥底までピンと張りつめざるを得ず。
 しかして、一人の少女は微笑んで拳を包んだまま俯き緊張や畏れは無く、一人の覇王は不敵に笑ったまま臣下としてのカタチを崩さず。
 その中心では、黒の男が少しばかりの緊張を浮かべて頭を下げていた。

 白銀の髪の少女が高貴な衣服を身に着けるのは随分と久方のこと。久遠に戻る事は無いと思われた立ち位置と近しい所に、彼女は戻ってきた。
 随分とまあ、変わるモノだ。
 しゃんと伸びた背筋は自信を表し、穏やかな微笑みは暖かくとも厳しさを秘めても居る。
 気弱と思うことなかれ。軽々しく思ったことを口にすることはなく、思考を積んだ上で不可避の線引きの中で判断し判別し、彼女は決断を下すのだ。
 口から放たれる言葉の重さを、彼女は知っている。一時的とはいえ、覇王よりも上位に立っていたのだから。

 その少女――――月は黒の隣で、優艶にも見える微笑みを浮かべて、真っ直ぐに玉座を見据えていた。
 ゆっくりと腰を下ろした人物と目を合わせて、秋斗の心は少しばかり冷え入る。
 十人に聞けば十人が美少女だと答えるようなその容姿は年の割に大人びて、纏う空気は華琳のそれと似て非なる。

 大陸に唯一存在する人の頂点。天と名乗ることが許される人物――――皇帝劉協が、其処に居た。

「官渡での戦働きご苦労であった徐公明。黒麒麟の記憶を失ったと聞いておるから、そなたに洛陽の礼は伝えぬ。
 楽にするがよいぞ。今更名を名乗れとも言わんし、此度の謁見は外には漏れることは無い。帰還した紅揚羽と曹孟徳子飼いの隠密で隠しておる故、そなたの素で話せ」

 心配することは何も無いと示した上で、こちらの問いかけには全て答えて貰うという強要に等しい命令。
 下らないモノを見据えるような瞳は冷たく、彼の黒瞳を穿ちぬく。
 小さな少女にしては完成されている皇帝の所作に、秋斗は薄く口を引き裂いた。

「……ご恩情ありがたく頂戴致しまする。しかれども陛下の御前で言葉を崩すことは致せません。例え望まれようとも、内に持つ敬意を表さずしては陛下の御威光を貶めてしまいますゆえ」

 ビシリと一線、彼は線引きを引いた。
 為されることが当然の命令であれど反発は緩やかに。理を以って説くに足る事由として、あくまでコレは謁見なのだと示して見せる。

 本来生まれ育った国が国だけに、彼は皇帝という最上位のモノに敬意を表すことだけは守りたいのだ。
 象徴君主制の完成系を知っているからこそ、彼はこの場で言葉を崩す事も、友達や仲間のように話すことも絶対にしない、してはならない。

 共に伸し上がって行くモノならまだ分かる。幼い時から友達で、最底辺から最上段に駆けあがるのなら馴れ馴れしく接することも許されよう。
 しかし劉協が蒼天としてこの世に生を受けた以上、皆が敬意を持たずして象徴とは成り得ない。
 上から目線のモノ言いなどしない。気兼ねなく接することを望まれようとも、皇帝と人間の間の線を取り外してしまっては、彼が目論んでいる国の姿は作れないのだから。

 天は一人孤独に立つべき。人が想い、慕い、敬い、愛するから天なのだ。人が願ってやまず、届かぬからこそ天であるのだ。対等に見える立場のモノが居ては、それだけ天の高さを低くしてしまう。
 誰でも簡単に隣に立てる、否、“同じ高さまで昇ることが出来る天”などに、何の価値があると言うのか……それが分からぬ彼では無い。
 彼の生きていた国の天たる皇は、誰にも穢されることは無く、人々に愛され、人々を愛していたのだ……それがあるから、彼は皇帝の存在を貶めることだけはしない。

 眉を顰めた劉協はじっと彼を見据えた。反して、華琳は彼の思い描く皇帝の扱い方が読めて楽しげだった。

――そう……やはりあなたの望むモノは私と同じ。そして月も。

 理解者は少ない。黒の隣で微笑む月を見て、同じ先を目指すことの出来るモノに歓喜が湧く。
 帝を象徴とする国家の創立は、権力の分散を考えている華琳と、漢の泥沼を知っている月には思いつくこと。

 例えば劉備のような思想なら、天と手を取ろうと考えるかもしれない。少女の幼き見た目を理解した上で、彼女も人だと説いて聞かせるに違いない。
 民の同情は得られよう。しかし野心を持つ者達には餌を与えることになり、少数の民には線引きを曖昧にさせてしまう。

『今の天が失われようと、代わりのモノが立てばいい』

 そういった隙を思考に挟み込まれる。手を取り合える劉備が代わりの天になればいいのだ、と。いや、劉備でなくとも、他の誰でもいい事になってしまう。それを象徴として貴べなどと、下らぬ妄言に等しい。
 上下関係を位置づけない遣り方は乱れを生むこともあるのだ。上手くいけばよくとも、悪く行けば容易く崩れる。
 代替の効く天に価値はあるか無いか……乱世の起りを考えれば、華琳や月、そして秋斗はその理論を悪手として受け止める。
 民主主義の国家を知っている彼からすれば余計に。

 しかしながら、劉協は彼の答えの隙をざっくりと突き刺した。

「……そなたは“天の御使い”であろう? 余と同じく人の身から外れているモノであれば、言葉を崩すことは問題なかろうて」

 問いかけの鋭さからも分かる聡明な頭脳に、彼は思わず舌を巻く。
 凍りつくような眼差しにあるのは疑念。そして、“天の御使い”という存在に対する感情が浮き出ていた。其処にあるのは期待と失望の二律背反であった。

――“天の御使い”……ね。

 くつくつと喉を鳴らした。誰にも聞こえないように口の中で呟いて、彼は苦笑を一つ。そのくだらなさに、安っぽさに。

「私が人では無い、と? ご冗談を」

――よく言う。世界の外から来た侵略者如きが。くだらねぇ。

 自分は人では無いのだと自分で肯定しながら、口からは嘘と本当を並べ立てるだけ。それしか出来ないし、誰にもバレてはいけない。

「私、そして黒麒麟が天よりの御使いであるならば、この子を救わない選択をする意味がございません」

 そっと横に流し目を送って月を見る。
 大陸で唯一、皇帝の為に戦った英雄を。誰よりも早く大陸の王となった、一番天下統一に近かった王を。

「我が盟友である曹孟徳も理解しているはず。“もし、覇王曹孟徳が英雄董卓の元に付いていたのなら、漢という国が亡びに向かう事は無かった”、と。ただ、彼女は知っていて見捨てたわけですが」

 ギシリ、と劉協の拳が握られる。その言葉は責めるに足るモノであり、月という少女を知っていれば許せるはずが無い。

 あの連合で董卓軍に付くモノが居たのなら勝利の確率も格段に上がったはずで、それが華琳ならば言うまでも無く大きい。
 画策は広域に渡り、人とのつながりを使うことなど容易に出来る。天与の才を持つ華琳なら、連合で勝利を収める方策を打ち立てることも出来よう。“他の勢力があまりに脆いこの世界に於いては特に。”

 黄巾の時の繋がりから劉備を呼ぶことも出来たであろう。華琳が董卓側に付いたのなら劉備も董卓の噂に疑問を挟んだだろう。そうすれば黒麒麟は必ず董卓軍に付くはずで、仲のいい幽州の公孫賛も董卓側に付くのは目に見えている。
 漢の忠臣と謳う馬騰も当然と董卓に与し、若い芽の力を見極められる孫呉でさえも袁家を討つ機会だと董卓軍に肩入れ出来る。

 それを分からぬ華琳では無いし、秋斗もその程度予測出来ないはずも無い。
 史実の董卓が善良で、史実の曹操と手を組んでいたのなら、乱世は長く続くことも無かったのではなかろうか……そんな可能性さえ彼は考えられるのだから。

――そうして、漢の平穏は守られたはずだ。董卓という絶対的強者を覇王の上に乗せて。“ただ民を救いたいのなら”、そして“自分達が幸せになりたいのなら”その選択肢は十分に選べた。

 運命の分かれ道、あらゆる確率が収束したのは、あの連合で華琳がどう動くかでもあったのだ。董卓が勝者となる確率を、彼女は選ばなかったわけだが。

「故に私も黒麒麟も“天の御使い”などでは有りません。英雄董卓が作る世よりも、激動の乱世を制した覇のモノが敷く世界を望んでいます。覇王と同じく乱世を喰らう欲望に塗れた人間で、己が描く世界を作り出したい人間です」

 宣言を一つ。覇王と同じ道筋を望む彼は、壊してからしか作りなおせない。皆に手を取らせる為の優しい確率は……彼が隣の儚げな少女と共に戦うことを選ぶ事象でしか起こり得ない。

「それについては後でお茶でも飲みながらで如何でしょう、陛下?」

 たおやかな声が場によく響いた。
 皇帝の仮面が外れかけ、少し不快な感情を出していた劉協の耳に届く。
 月が何も傷ついていないことに驚いた彼女は、少しだけ眉を顰めて口を開いた。

「……“もしも”じゃ……“もしも”そなたが……いや、黒麒麟が劉備よりも先に月と出会っておったなら……どうした?」

 苦悶の声だった。
 自分を救おうとしてくれた彼女に、せめて何か救いは無かったのかと。
 もしもの話は後悔のカタチ。黒麒麟が月を絶望の底で救ったのは知っていても、何か他にもなかったのか、と。

「……初めからこの子に出会って仕えていたのなら、例え敵がこの世界の全てであっても抗ったでしょう。そしてこの子と出会った上で私が覇王や袁家以外の有能な主の元に居たのなら、己が主を董卓軍に付かせて覇王を打倒する事を上奏したでしょう。それ程の価値がこの子には有り、そして……覇王曹孟徳を従えるという事はどの勢力にとっても何より優先すべき力であり、私が思い描く世界を必ずや作れるが故に。
 これは妄想、妄言に過ぎません。事実は今この時こそが全てです……が、その時の内部状況にもよりますけれども、“董卓と出会った徐公明”は覇王と出会いさえしなければ、必ずや覇王の打倒を選び、董卓が作る世を望むでしょう」

 月と出会ってから仕えるのが華琳以外なら、漢の復興を選んでも良かった。覇王の元に居ない場合は、彼は覇王を従える事に重きを置いて動こうとするだろう。この世界で一番恐れ、憧れ、追い駆ける覇王を打倒し従えることこそ真っ先に選ぶのが、未来を知っている彼の筋道。
 月が持つ王の器は広い。それこそ、この世界に於いて上が居るとすれば華琳くらいだと秋斗は考えている。だからこそ、曹操という強大な敵を倒して自身が仕える王の力を示させたい彼は、月と出会ってしまえば従うことを選んでしまう。
 覇道を突き進む覇王を従える事が出来るなら、そのモノが作る世界は華琳と秋斗が望む世界にしか成り得ない。それほど二人の想いは強すぎて、出来ない場合は二人を殺すしかなくなる。

 月にはその器がある事は誰でも分かる。受け入れる王である月ならば、彼や華琳の思想の受け皿には成り得るのだ。
 連合で董卓が勝つということは頂点に月が来るということ。秋斗はそれでもいいと思っているし、華琳にしても、敗北して月の成長の手助けをさせられる状態に陥ったならその地位を呑み込み、月を支えることを選ぶだろう。

 もう一つ、歴史を変えかねない程の才能を持つ曹操という人間の協力を、人の世を救いたい彼は誰よりも求めている。だから覇王と出会わない彼は華琳を打倒して従える方法を選ぶ可能性が高く、華琳も打ち倒されることでしか従う事など無い。

――私の目の前でよくそんなことが言えるわね……秋斗。

 内心で考えながらも、華琳の頬は上がっていた。
 根っから話し合うつもりなど無い彼の遣り方は嫌いでは無くて、思い描く世界は華琳や秋斗の思想が無ければ出来上がらないとも同意している。

 彼の言い分は、大陸を治めるモノは優秀で器があれば誰でもいいと言っているに等しいが、その実、覇を貫いた王が居なければ望む平穏には成り得ないとも示唆している。
 才を重要視する華琳の思想を持ちながら、才ではなく和を用いる仁徳の君に尽くしていた矛盾だらけの黒麒麟……その男は他の何処にいっても内部を変えようと動くのだと、華琳にもそう思えた。

 玉座の上、思いの外高い月と華琳の評価に劉協の目が見開かれる。

「多分ですが……“もしも”劉備の元に居た黒麒麟がこの子と出会っていたら、黄巾の時に関わりがあった曹操軍と敵対を選んででも董卓軍に付くことを選ばせていたはず。幽州の白馬長史を仲間に加えて袁家や覇王の打倒を目指したでしょう。長い乱世をより速く鎮める選択肢を選ばないはずが無く、覇王の服従の機会を逃すような黒麒麟でもありません。
 敗北の危険よりも、曹孟徳が大きな力を得ることを阻止しつつ、自分は劉備の思想に従っているフリをしながら曹孟徳と同じことを説くでしょう。その果てに……異端者として排斥され殺されるとしても」

 細められた目は厳しく、劉協の瞳を射抜いた。
 自分は劉備の敵で、黒麒麟も劉備とは相入れないときっぱり言い切ったに等しい。
 茫然と口を開いた劉協の顔に、少しばかり恐怖が滲む。

「そ、そなたに……忠義は無いのか……?」

 帝としてそれを受けてきた劉協は、英雄と謳われるその男の本質に恐れを抱く。
 内部で暗躍する影に操られていたのが彼女や彼女の姉、そして母であり、今現在の華琳が行っていることとも似通っている。故に、彼女は恐怖を覚えた。
 人は操られることを受け入れられないモノが多い。立場が上であるモノならば、自分の考えに従わないモノを疎ましく思ったり、畏れを抱いたり、排斥しようとするモノも居る。

 彼の場合は主の為に折れることなどせずに、自らが殺されることも是としている。自分よりも誰かの方が先頭に相応しいから……彼は決して一番前に立とうとはしない。それが余計、皆を勘違いの泥沼に引き摺り込んで行くのだが。
 野心を抱きながらも剣として振られることを望む彼を本当の意味で扱えるのは……正しく、この大陸で同じ思想を持った覇王くらいしか居らず、覇王の元でしか生きられなかった。

 彼が望もうと望むまいと、与えられた名前……“徐公明”の通りに。

「忠義とは主を信じ仕えることと考えております。
 信じますとも……変わってくれる、分かってくれる、己が王なら私の描く世界を作れると……それが私と黒麒麟の忠義で、その為ならばこの命を捧げても構いません。私程度を呑み込めない王が強大な覇王に勝てるなら、この世界は変えられない。その時は生かされる覇王がその王を殺すか、覇王が殺された場合は若くて才持ちしモノが偽りの平穏を壊し尽くすことでしょう。
 歴史はそうして繰り返します。“今この時だけの平穏”で満足しては……死んだモノ達の想いにも、先を生きる人々の想いにも、報いれないのですから。“徐公明”は……大陸を平定し、悠久の平穏を作り出せる王、それも覇を貫く王の元でしか生きられません」

 劉協の瞳に移る彼は異端。
 身に宿す忠義は王にではなく、自分が思い描く世界に対してだけ……いや、殺された人々や世界を変えようと抗った人々に対して、と言おうか。
 通常の忠義とはあまりにかけ離れている。バカらしく愚かしい。

 人それを……狂信と言う。
 戯言、絵空事に近しい世界を思い描く彼は、誰よりも理想家。

 彼女は知らない。秋斗が生きていた世界が二千年先に漸く作られていたことも、彼がそれの雛型を作りたいことも知らない。
 言うなれば視点が遠すぎるのだ。悠久の平穏をと望みながら、その場その場で手を打とうと考えるしかない普通の人達では、彼の想いを受け入れることすら出来ない。
 天与の才を持つ華琳や、長く黒麒麟を喰らってきた月、そして……雛里や詠や徐晃隊など、彼と想いを共有してきたモノくらいしか、真には分かり得ない。

 大陸の常識で生きてきた劉協には、彼の在り方も思想も浮世離れしすぎていた。

「……確かにそなたは……“天からの御使い”ではなさそうじゃ。しかし余はそなたのことを……別の意味で人とは思えぬ」

 ふるふると首を振って、劉協は俯いた。
 彼女が仄かに憧れていた英雄は、平穏の為に狂っていた。
 何がそうさせた。何がこの男を此処まで狂わせた。そう考えても答えは出ない。
 忠義溢れる歴史上の英雄の枠からも外れているこの男は、瞳に覗かせる光からも察せられる程に、己の思い描く平穏を渇望してしまっている。
 落胆なのか、それとも失望なのか……劉協は内に描いていた幻想の姿を打ち壊された。

 彼の喉が鳴った。不敵なはずの苦笑は、少しばかり寂しげな音だった。

「……陛下。黒麒麟に救いだされた私からもお話を一つよろしいですか?」

 ぽつりと、月が小さく言葉を零す。
 すっと目線をそちらに移した劉協は、彼女の力強い眼差しに少しばかり圧された。

「よい。申してみよ」
「ありがたく……では、こんなお話を致しましょう」

 ふっと優しい笑みを浮かべた彼女は、桜色の唇から細やかに言葉を流していく。

「ぬるま湯に絆されず一人氷の河に身を沈め、兵士と共に血だらけになりながら戦っていた男の人が居ました。命が保障される安全圏に収まることなく、ほんの一筋の刃で死ぬこともある最前線を、兵士と共に切り拓いて想いを繋いでいた男の人が」

 今の彼とは違う、本物の黒麒麟の話。
 徐晃隊から聞いたこと、雛里から聞いたこと、そして、彼が戦場から帰って来ておかえりと迎えた時のこと。友を諦観するだけに留まらず、己が手で切り捨てることすら厭わないと、小さな背中を見せていた時のことも……全てを思い出して月は語る。

「両肩に背負った命の数は敵味方の別なく全て、掛けられる期待は王と並ぶ程に高く大きく、望まれる姿は世を救う英雄にして善良な正義の使者。
 ただ駆け抜けるだけなら良かった。武人として戦うだけで済むのならきっと戦に価値を見出せた。
 自分の為に戦えたなら良かった。手の届く範囲だけの幸福で満足出来たならきっとそれは普通の幸せでありましょう。
 それがどうしたと居直れるくらい傍若無人ならば良かった。自分の望む世界の為だけに戦えるならきっと乱世を楽しむことも出来た。
 人を騙すことに愉悦を感じられる人間ならば良かった。素知らぬふりをして内心で舌を出せるならきっと心痛めずに戦い続けられた。
 しかし彼は……そのどれにも染まること無く、一人でも多くの人を救わずに居られず、人が持つ生への渇望を叶えずにはいられなかった」

 今尚、心に残る姿がある。
 彼らと笑い合いながら持っていた懺悔と苦悩。
 屍を食んで血を啜って力と為してきたから、彼はその責を全うせずにはいられない。
 他者を救う為に命を以って責を果たそうとした月だからこそ、徐晃隊と雛里を除いて、彼の想いを代弁するに足りる。

「未来を読めるのではないかと思える程の予測の数々は、常に人を救うことを考えて立てた“もしも”の方策。可能性を一つ一つ摘まみあげて積み上げて、そうして乱世の為のことしか考えておりませんでした。
 他者への憎しみを持つことも出来ず、誰にも答えを求めることなく真っ直ぐ突き進み、乱世を乗り越えられる力を得る為に友達さえ切り捨てた。
 自己へ憎しみを向けられることを望み、自分を殺したいと憎んで生きろと言いながら、幸せになってくれと懇願する。そんな人でした。
 自分を憎むであろう他者の幸せを望む人間が、この世界にどれくらい居りましょう?」

 思い出すのはあの夜のこと。
 生きてくれ、と震える声はまだ耳に残っている。
 救わせてくれ、と懇願しながら零した涙は……偽悪を貫く彼が流した本心の一雫。

 嗚呼、と月は思う。
 あの時、確かに月は救われた。
 謝られていたら彼が描いている世界など信じられなかっただろう。
 綺麗事を並べられたら彼の矛盾に失望していただろう。
 彼が救いたいのは自分達だけではなくて、生きている人そのモノなのだから……王であった月と同じく。

「陛下……黒麒麟もこの人も確かに平穏に対する狂信者です。しかし……それは王に想いを馳せる兵士達となんら変わりません。
 私は侍女に身を落として、黒麒麟と共に戦う兵士達と多くの時間を過ごしてきました。それぞれに幸せがあり、それぞれに願う世界があり、それぞれに欲しい平穏があります。彼らの想いの華を紡いで繋いで、黒麒麟は平穏の世を作り出さんと戦っておりました。
 そして末端である彼らが命を賭けるから黒麒麟は戦える……同様に私達は、末端で汗を流して血税を納めてくれる民が居るから生きていくことが出来ます。私達が約束する平穏とは、生きる民全ての為であるべきでしょう。故に、私も覇王曹孟徳も黒麒麟も何も変わらなくて、私達が望む平穏は民達の願いを叶えることに等しい……私はそう思います」

 少しだけでも、彼の戦っていた意味を伝えておきたくて、月は想いを話した。

 一礼して頭を下げた月に、劉協は穏やかな視線を向ける。
 劉協が知る世界は箱庭だけ。生まれた時から準備された籠の中の鳥で、月の見てきたその世界が少しばかり眩しく感じた。
 人の想いがどれほど強いのか。平穏とはどれほど尊いモノなのか。末端の兵士に至るまで渇望する平穏を……自分は作ろうと思っていただろうか、と。

 それでこそ尚、人の願いを紡ぐ彼のことを、“天の御使い”とは言えるのではないか。
 劉協はそう思う。
 同時に、自分の浅はかさに落胆する。
 見知っている少女からの言の葉ならばこれほど真っ直ぐ胸に入るのだ。
 天であれと、そうあれかしと高めてきた自分は、やはり虚像だと感じる。

 沈黙が静かに場を支配していた。華琳は月を優しい瞳で見つめ、少しばかり誇らしげに小さく笑った。

「陛下。長い時間を玉座の上で過ごすのもなんでしょう。お茶とお菓子をご用意いたしますので東屋にて続きをしては如何でしょう?」
「む……余はまだ疲れておらんぞ」
「いえ……臣に少し考えがございます。陛下もきっと……納得して頂けるかと」

 疑問が浮かぶ。目的を話さぬ華琳は普段通り。場の主導権を取りにくる彼女に、劉協は少しばかり不満げに眉を寄せた。

「……何を考えておる」
「楽しいこと、でございます」

 にっこりとほほ笑んでから、華琳は秋斗を流し目で見やった。
 変わった表情は彼の良く知るモノ。悪戯をする時の華琳の不敵な笑みが其処にあった。

――またなんか企んでやがる……。

 頬を引き攣らせた秋斗は少しだけ顔を俯けた。今度はどんなことを仕掛けてくるのか、彼には全く予測さえ出来ない。
 同じように、劉協も華琳の思惑など読み取れない。
 ただ……月だけは華琳と同じく、楽しそうに微笑んでいた。

「では徐公明。東屋にお茶とお菓子を準備せよ。見張りは張コウと夏侯淵を立て、周辺の警備も怠るな。東屋周辺には誰ひとり寄せてはならん」

 一体なんだと呆れながら、彼は御意と一言呟いて部屋を後にする。
 ゆっくりと抜けて行く黒の背を見送ってから、月が劉協に言葉を紡いだ。

「素のあの人とお話をしたいと陛下はおっしゃいましたので……その為の準備を致しましょう」







 †







 晴天の霹靂。雲一つ浮かばない空の下で、お茶を用意した秋斗の隣で楽しげに笑う女が一人。

「にひ、一個くらい食べてもいい?」
「ダメだバカ。やんごとなき人には最上級のお持て成しをするもんなんだ。つまみ食いされた後のもんなんて許されるわきゃねぇだろが」

 礼儀礼節ってもんを知れ、と彼は睨みつけ、伸ばされた手を払いのける。

「ぐぬぬ……だって昨日着いたとこだからまだ娘娘のお菓子食べた事ないんだもん。秋兄も朝まで帰って来なかったし……おいしいモノ食べたいじゃんか」
「八つ刻まで待て。お前の分だってちゃんと用意して貰ってあんだぞ?」
「待てない! お腹減った!」
「昼飯は食っただろ!?」
「別腹ってやつだよー♪ 甘いお菓子かー……秋兄が食べたい♪」
「あぁ? どういうことだよ?」

 くるくるとその場で回る明を訝しげに見た。彼女はべーっと舌を出して笑う。
 一歩、二歩で彼の隣まで並んだ。妖艶な笑みは童顔にしては大人っぽく、上目使いに少しドキリと鼓動が跳ねる。
 にへらと笑った彼女は……また赤い舌を出した。

「昼間のふしだらは無しだけどー、ちゅーくらいならいいよね♪」
「却下だ!」
「えー、別にちゅーくらいいーじゃん。お堅いなぁ」
「なんでお前としなきゃならねぇんだ」
「じゃあぎゅーってして? してくれたらちょっとはお腹も満たされるし」
「甘えんなバーカ。それに仕事中だろ? しっかり働け」
「隠密なんか帰って来てから粗方殺しちゃったよ? 周りの人払いも秋蘭が済ませてるんだからちょっとくらいいーでしょー? あたしだって寂しかったんだもーん」

 きゃいきゃいとはしゃぐ明は、彼の服の裾を握りつつ駄々をこねる。
 子供か、とツッコミたくなるも彼は代わりとばかりにため息を零したて……ぽん、と頭に手を置いた。

「ふぇ?」
「まああれだ。どうしてもってんなら夜まで待て。でも……お前は夕以外に依存するべきじゃないと思うがな。出来る限り一人で割り切ってみな」

 ぐしぐしと赤髪を撫でる。復讐を遂げた後に、もしまたブレてしまっているのなら少しだけは支えよう、そう伝えた。
 下から睨む黄金の視線は咎めに近しい。

「……なにさ。別にそういうんじゃないよーだ」
「クク、そうかい。なら却下だ」
「なにさなにさ! 朔にゃんとかひなりんは抱きしめるくせに! この幼女趣味! へんたいっ!」
「ぐ……お前なぁ――――」

 誤魔化しで怒った振りをしていることは分かっているが、やはりその言い分は彼にとって認められないモノで。
 何か返そうとしても、ふふん、と鼻を鳴らして彼女は目を細めて遮った。

「ちっぱいでちんちくりんでつるぺたじゃないとダメなんでしょ? だって春蘭とか秋蘭と一緒にお風呂入っても手を出さなかったらしいじゃん?」
「お前なんで知ってやがる」
「霞姐から聞いちゃった♪ いいなー……あたしも一緒にお風呂入りたかったぁ」
「……全力で拒否させて貰う」
「えー? だって秋兄は大丈夫なんでしょ? ほら、こーんなことしても、さ♪」

 言いながら、彼女はぎゅうと彼の腕に抱きついた。
 たわわな胸が押し付けられるカタチ。さすがの彼も看過できない事案である。

「こんの……バカ明っ」
「いったぁ!」

 でこぴんを一つ。直ぐに明は離れて額をさする。
 大きなため息を吐いた秋斗はやれやれと首を振った。

「むー……痛いじゃん」
「調子にのんなバーカ。その分だと大丈夫だろ」
「ちょっとした冗談でもダメなんて……秋兄ってばやっぱりおかたーい」
「お前が軽過ぎるんだって。ほら、そろそろ行け」
「はーい。ちぇっ、つまんないのー」

 拗ねた口振りを残して脚を進める明は、頭の後ろで組んでいた腕を外して……思い出したように振り返った。

「でも秋兄……空いてる夜でいい。また離れちゃうからさ、その前に一回だけぎゅってして? あたしを此処に感じる為に」

 悪戯好きな女の子の笑みでありながら、その瞳が少し揺れていた。それ以上は求めないから、と訴える。
 胸に空いた空しさを快楽で埋めるつもりは無く、似通った彼と溶け合うつもりも依存するつもりも無く、自分と彼が違うモノだと確かめたい……と。

「……はいよ。一回だけな」
「ん、ありがと。
 にひっ♪ じゃあ幼女達とのお茶会楽しんでねー♪」
「ちょ、おまっ」

 がっくりと項垂れる彼をおいて、明は脚を弾ませて走り去った。
 さわさわと風が流れる東屋で、振り向いた彼は大きなため息を一つ。近付いて来ていた影に、きっと明とのやり取りは見られているに違いないと思って。
 ただ後に……人影三つをちゃんと見た秋斗の目が見開かれる。

 来るのは華琳と月と帝のはずで、それ相応のお茶会のつもりだった。
 しかし現実……先程と変わらぬ華琳と月の隣には、“帝”の姿は其処に無かった。

「さて、此処に居るのは帝ではない、と言ったらどうする?」
「バ、バカなことを……悪戯が過ぎるぞ」

 首を振った。形式を重んじる華琳がそんなことをするはずが無いと思ったから。
 楽しそうに口を引き裂いた華琳が小さく笑う。

「認めないわけね? じゃあこう言いましょう。この場は泡沫のまほろば。蒼天の下に居るこの時、此処に集うモノは人である。
 幸いなことに雲一つ無い良い空なのだから、その意味さえ分からないあなたではないでしょう?」

 ぐ……と言葉に詰まる。
 天子を蒼天と例えるのなら、蒼空の下で二天は要らない。
 鬱屈とした雲など一つも無い晴れ晴れとした晴天に、個人の澱みは一つもいらない。

「降参? まだ意地を張る? 意地を張ってもいいのよ? 続ければ続ける程あなたらしい姿が浮き彫りになるのだから」
「……相変わらずお前さんの相手は苦手だ」
「私に勝つつもりだったんでしょう? この程度で音を上げるの?」

 先ほどの事さえ話に出して、華琳は彼を追い詰める。
 特にこういう場に於いては、秋斗が華琳に勝つ術は無い。先手を取られた以上不利ではあったとしても、である。

「ああ……分かった。俺の負けだ。此処はまほろばでいい。蒼天の下、大地に立つのはただの人。了解だよ、覇王殿」

 遊びたい盛りに同年代の友達と遊ぶことすら許されぬのは、どれほどの地獄であろうか。
 大人たちからも敬われ続けるのは、どれだけ寂しいことだろうか。
 まほろばならば許される。彼女が帝では無いのなら許される。一人の少女の心すら救えないなら、彼は人を救うことなど出来ないであろう。

 故に、秋斗は呑み込んだ。人の心を持った天でなければ、きっと世界は変わらないから。彼女の心を殺してしまうのは、彼の描く世界では否だから。

 よろしいと頷いた華琳に対してふるふると首を振って、彼は椅子を引いた。一番風が心地いい席の椅子を。
 後に、月の隣で少し警戒している、一人の少女の前に膝を付いた。

「“初めまして”。俺は姓を徐、名を晃、字を公明という。今回は特製のお茶とお菓子を準備したから、話をしながら目一杯楽しんで行って欲しい」
「うむ……苦しゅうないぞ。余は此処ではただの協じゃ。以後、まほろばのお茶会で堅苦しい態度は全て禁ずる。よいな、徐公明?」

 皇帝の衣を脱いで、彼女が着ているのは侍女の服。
 彼の崩れた言葉にほっと一息ついてから、腕を腰に当てて尊大なモノ言いをするその侍女が愛らしいながらも可笑しくて、秋斗は苦笑と共にその美しい白金の髪を優しく撫でやった。

「りょーかい。んじゃあ、そうさな……始まりはこんな言葉でどうかな」

 首を傾げた。先ほどとはうって変わった彼の言葉遣いに少しばかり驚きながら。
 何を言うのだろう。何を言ってくれるのだろう。人に思えなかったその男が浮かべる笑みは……彼女を労わる穏やかさに満たされていた。

「おかえり、協」

 目を見開く。意識せずに唇が震えた。

 ずっと天として生きる一人の少女に一時の幻想を。
 本当は在ったはずの、人として帰る場所を作り出す為に、彼は彼女におかえりを届けた。

 少女は、姉を失ってから久しく言われていない言の葉を耳に入れて、蒼天の瞳から一筋だけ涙を零した。

――ただいま。

 他愛ないやり取りが人の始まり。
 暖かい感覚が胸に広がっても、彼女は上を見上げた瞳に蒼い空を映し込んで、それ以上大地を濡らすことはしなかった。



 
 

 
後書き
んで頂きありがとうございます。

帝との謁見のお話前編。次はお茶会で。

孫呉と益州勢力、どちらを先に書こうか悩み中です。
そろそろ白蓮さんか蓮華さんを書きたい。

アンケートの方締め切らせて頂きました。
ご協力してくださった方々、ありがとうございます。感謝です。
一位になったキャラの短編的なお話をそのうち別枠で上げることにします。

その他√についても後々に。

ではまた
 
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