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小鳥と薔薇

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小鳥と薔薇

                          小鳥と薔薇
 十九世紀中頃のアイルランドの話である。この時この国は深い絶望が襲った後であった。
 ジャガイモ飢饉である。当時アイルランドはイギリスの植民地でありその土地はイングランドから来た地主達のものであった。アイルランド人達は小作人としての地位に甘んじなければならなかった。 
 その彼等が食べていたのがジャガイモであった。麦は地主達のものだ。彼等は貧しいが故にジャガイモを食べていた。そのイモが疫病に襲われたのだ。
 長い間不作が続いた。それでも小作料は納めなければならない。イギリスの異民族支配は過酷なものである。その為彼等は食べるものがなくなり次々と倒れていった。大勢の餓死者が出てそれ以上の多くの者がアメリカへと旅立った。気がつけばアイルランドに残っているのは飢饉が襲う前の半分程であった。アイルランド人の多くが祖国から永遠に去ってしまうことになった。
 パトリックはそんなアイルランドに残った一人であった。茶色の髪と緑の目を持つ青年である。ハンサムではないが素朴で優しそうな顔立ちをしている。そしてその顔立ちと同じく素朴で優しい性格をしていた。コノートとレンスターを分けるダーグ湖の東岸にある小さな村に住んでいた。彼はそこにある家に一人で住んでいたのだ。
 かつては家族がいた。しかし今は誰もいない。両親は食べるものもなく、衰弱して死に、兄弟達は皆アメリカへと行ってしまった。彼はこの村に愛着があり残った。結果として彼は一人ぼっちになってしまった。
 だが彼は寂しいとは思わなかった。彼には友達がいたからだ。それは人間ではなかった。
 小鳥である。一羽の小さい小鳥だ。ケルトの血のせいだろうか動物の言葉がわかる彼はいつも小鳥と話をしていた。小鳥は彼と深い友情を結んでいたのだ。この小鳥の名をホリンといった。
 彼とホリンはいつも一緒だった。ホリンがいれば寂しくはなかった。そして辛い仕事も毎日こなしていた。一人ぼっちになっても平気だった。彼にとってホリンはかけがえのない存在であった。
 だが彼は急に元気がなくなった。塞ぎ込むことが多くなり、黙っているばかりであった。そして何かに悩んでいるようであった。
「どうしたんだい、最近」
 ホリンはパトリックに声をかけてきた。
「元気がないようだけれど」
「うん、実はね」
 彼はそれを受けて話しはじめた。ことの次第はこうであった。
 隣村に美しい少女がいた。パトリックはその隣村に行った時に彼女を見て一目惚れしてしまったのだ。彼女は赤い薔薇が好きでそれを持って来てくれた者を恋人にしたいというのだ。
「それだったら赤い薔薇を持っていけばいいんじゃないかな」
「簡単に言うけれどね」
 パトリックは答えた。
「この辺りには赤い薔薇はないんだよ」
「えっ!?」
 ホリンはそれを聞いて驚きの声をあげた。
「君は鳥だから遠くに行けるからわからないだろうけれど」
 彼は言った。
「この辺りには。白い薔薇しかないんだ。知らなかったかな」
「そうだったの」
 そういえばそうだった。ホリンも最近赤い薔薇を見てはいなかった。言われてようやく気付いた。
「だから。彼女もそんなことを言ったんだと思う」
 人はそこにないものを欲しがるものだ。彼女もまたそうなのだろう。赤い薔薇は今ここにはない。だからこそ欲しいと思うのだろう。
「だけれど。赤い薔薇はここには」
 ないのだ。どうしても手に入れることができない。ましてや今のアイルランドでは。薔薇よりも生きることの方が大事であった。あの飢饉は人の心も花も枯らしてしまったのだ。
「その白い薔薇さえも」
「けれどその赤い薔薇を手に入れたらその娘と一緒になれるんだよね」
「多分ね」
 パトリックはホリンの問いに答えた。
「赤い薔薇が手に入ればだけれど」
「わかったよ」
 彼はそれを聞いて頷いた。
「その赤い薔薇、僕が手に入れて来るよ」
「君が!?」
「うん」
 彼はこくりと頷いた。
「僕は君の友達だから。何があっても手に入れてくるよ」
「何があっても?」
「そう、何があっても」
 彼は答えた。
「だから安心して。いいね」
「本当にいいのかい?」
「何が?」
「いや、僕の為に」
 パトリックは心配そうな顔でホリンを見て言った。
「何があってもって」
「友達じゃないか。何でそんなことを言うんだよ」
「友達か」
「そう、僕達は友達だよ」
 ホリンはにこりと笑ってこう言った。
「こんな状態だけれどね、ここは」
「うん」
 何もなくなってしまったアイルランド。彼等はそこに一人と一羽でいた。他には何もなくなった。だが友情だけは持っていたのであった。
「それでも僕達はいるから」
「それじゃお願いできるかな」
「勿論だよ」
 ホリンはまた答えた。
「だから。安心していて。君は彼女と一緒になれるよ」
「それじゃあ僕も約束するよ」
「約束!?」
「うん。君が僕の為に何かをしてくれるのなら」
 パトリックは言った。
「僕は君を守るよ。何があっても」
「それも友達だからかい?」
「そうさ」
 彼は頷いてそれに答えた。
「君が僕の為にそこまでしてくれるのなら。僕は君を何があっても守るよ」
「有り難う」
 ホリンはそれを聞いて彼に礼を述べた。
「それじゃあその言葉よく覚えておくよ」
「うん」
 パトリックは頷いた。ホリンはそれを見てから飛び立った。
「今から探して来るよ」
「無理はしないでね」
「大丈夫だよ」
 彼は笑って友に対して言った。
「きっと赤い薔薇を持って来るからね」
 そう言い残して旅立った。それからホリンは約束通り赤い薔薇を探して回った。
 だが赤い薔薇は見つからなかった。コノートにもレンスターにも白い薔薇があるだけであった。そして痩せて何もない土地と無気力に座っているだけの人々が。本当に何もかもがなくなっていた。
「かつては綺麗な国だったらしいけれど」
 その美しいアイルランドはなくなってしまった。飢饉が全てを壊してしまった。人々は去り、去らなかった者の多くは死んでしまった。そして国自体も荒れてしまった。イギリスの為に。
「また戻れるかな」
 それはホリンにはわからなかった。これからどうなっていくのか。ホリン自身もパトリックもどうなっていくのかわかりはしなかった。だが彼はそれでもパトリックの為になりたかった。理由は細かいものではない。彼が友人であったからだ。それ以外には何もなかった。赤い薔薇も。探せど探せど何処にもなかった。
「ここには白い薔薇しかないわ」
 尋ねてみるといつもこうした答えばかりであった。薔薇どころか花さえも少なくなっていた。餓えに耐え切れず食べられてしまったのだろう。皆そうでなくては生きていくことができなかったのだ。仕方のないことであった。それでも多くの者が死んでしまっていた。最後には荒れ果てたかつての美しい大地と残されたあてもない人々だけであった。希望はもう残ってはいなかった。
「それでも僕には」
 だが彼には一つだけ残っていた。パトリックとの友情が。彼はその為に今飛んでいるのである。
 だが見つかりはしない。そして探し続ける。どれだけ飛び回っただろう。ふと赤い薔薇の噂を耳にした。
「それは何処にあるの?」
 囁いていた小鳥達に対して尋ねる。
「レンスターの果てに」
 小鳥達はこう答えた。
「あるらしいわ」
「わかった、レンスターの端だね」
 それを聞いたホリンの顔に希望が宿る。
「そこに行けば赤い薔薇が手に入るんだね」
「ええ。けれどいいの?」
「何が?」
 ホリンは小鳥達の言葉に応えた。
「その薔薇を手に入れるにはね。命が必要らしいのよ」
「命が」
 それを聞いたホリンの顔が青くなった。
「そうよ。それでもいいの?」
「白い薔薇なら。探せばまだあるよ。それじゃあ駄目なの?」
「うん、駄目なんだ」
 ホリンは気を取り直した。そして言った。
「赤い薔薇じゃなければ。これは約束なんだ」
「約束」
「そうさ、友達に誓ったんだ。絶対に赤い薔薇を持って来るって。だから」
「行くのね」
「うん」
 彼は頷いた。
「死ぬのに」
「それでもいいんだ」
 ホリンはまた言った。
「友達の為なら何でもするって決めたから」
「そうなの。それじゃあもう私達から言うことはないわ」
 小鳥達はホリンの顔と声に強い決意を見た。そして頷いた。
「行って来て。そして赤い薔薇を」
「うん、それじゃあ行って来るよ」
 ホリンは意を決した。飛び立ち言われた森に向かった。迷うことはなかった。そこに死が待っていようとも。
 パトリックはこの時畑で仕事をしながらホリンを待っていた。夜になると休み、何日も何日も。彼が何時帰って来るか、それだけを考えていた。
「今日も帰って来ないかな」
 彼はふと一息ついて呟く。空は青いがそこにあるのは雲だけである。他には何もない。
「早く帰って来て欲しいな」
 そして彼が帰って来る時を待つ。だがそれはなかった。それでも彼は待っていた。
 空を見上げ続けている。その頭の上を小鳥達が通った。
「あの森の薔薇だけれどさ」
「薔薇!?」
 パトリックはそれを聞いてハッとなった。そう、赤い薔薇のことである。
「あの薔薇を赤くするのには命を捨てなきゃいけないのに。あの小鳥はそれでも行ったよね」
(まさか)
 ホリンはそれを聞いて危惧を覚えた。
「そうだね。それでも友達の為って言ってね。どうなるんだろう」
(間違いない)
 その小鳥が誰なのか、もうすぐにわかった。
「あの森に向かったけれどね」
「多分何があっても赤い薔薇を手に入れるだろうね。本当に命を捨てて」
「命を!?」
「ん!?」
 小鳥達はパトリックが声をあげたのを聞いた。そして彼に顔を向けた。
「人間のお兄さん、僕達の言葉がわかるの?」
「ああ」
 彼は答えた。
「僕はここの人間だからね」
「隣の島から来た人じゃないんだ」
「違うよ。だから君達の言葉がわかるんだ」
 かって繁栄し、失われたケルトの術。ドルイド達が伝えた術。それが僅かに彼に残っていたのであろうか。
「そうだったの」
 小鳥達は彼の側に降りて来た。そしてまた言った。
「それで僕達の言葉がわかったんだ」
「うん。ところでさっきの話だけれど」
 パトリックは尋ねた。
「その小鳥は。何処に行ったんだい?」
「レンスターの端の森に」
「レンスターの。そこに向かったのか」
「けれど今から歩いて行っても間に合わないよ」
「えっ」
「馬でも。絶対に間に合わない」
「そしてあの小鳥は」
「そんな。じゃあどうすれば」
「だったら歩かなければいいのさ」
「そして馬も使わなくていいよ」
「けれどそれじゃあ駄目じゃないか」
 パトリックは困った顔をして言った。
「間に合わないよ」
「足に頼ったらね」
 小鳥達は言った。
「けれど他にどうやって」
「移ればいいんだよ」
「移れば?」
「そうさ。まずはこれを受け取って」
「うん」
 小鳥達からそれぞれ羽毛を受け取った。
「それをね、飲むんだ」
「羽毛を飲むのかい?」
「鳥になれ、って念じながらね。鳥の言葉で」
「鳥の言葉で」
「人の言葉だったら無理だけれど鳥の言葉なら大丈夫だよ」
「そうしたら鳥になれるから。すぐにその森に行くことが出来るよ」
「そうか、有り難う」
 パトリックは一言礼を述べるとその羽毛を飲み込んだ。鳥の言葉で飛べ、と念じながら。
 すると不思議なことが起こった。彼の姿が見る見るうちに鳥のそれになったのだ。今彼は完全に鳥となった。
「それならすぐに行けるね」
「うん」
 鳥になったパトリックは頷いた。
「これならすぐにでも」
「ところで聞きたいのだけれど」
「何だい?」
「その小鳥だけれどね」
「うん」
「貴方の。何なのかな」
「友達さ」
 彼は答えた。
「友達」
「そう、かけがえのない友達なんだ」
 彼は強い声でこう言った。
「他の何よりも」
 この時わかった。彼は恋よりも友情が大切なのだと。そしてその為の犠牲なぞあってはならないのだと。彼はわかったのだ。
「そんなに大事なんだ」
「うん、だから今から行くよ」
 そう言って翼を動かした。そして舞い上がる。
「友達を救いに」
「頑張ってな」
 小鳥達は彼に声をかけた。
「それ程大事なものなら」
「何があっても守り抜くんだ」
「僕は誓ったんだ」
 彼は最後に言った。
「何があっても彼を守るって。今がその時だ」
 そしてレンスターの端へ向けて飛んで行く。他には何も見ようとはしなかった。ただ森だけを目指していたのであった。
 森にまで辿り着いたのはあっという間だった。気が付けばもう森の前にまで来ていた。彼にはわかった。そこに今ホリンがいるのだと。
「君を死なせはしない」
 パトリックは森の前まで来ると一言こう呟いた。
「犠牲になんか。絶対にさせない」
 そして森の中に入った。そのまま薔薇のある場所まで向かった。
 この時ホリンは薔薇の前にいた。そして薔薇の話を聞いていた。
「そうしたら君は赤い薔薇になれるんだね?」
「そうよ」
 薔薇は澄んではいるが冷たい響きの声で彼に答えた。
「私が赤い薔薇になるには血が必要なの」
 薔薇はホリンに対して言う。
「その棘に貴方の胸を刺せば。その血で赤くなれるわ」
「本当に赤い薔薇になれるんだね」
「私は嘘は言わないわ」
 薔薇はまた冷たい声で言った。
「けれど、それでいいのね」
「うん」
 ホリンはその緑の棘を見詰めながら応えた。
 大きな樫の木の側に生えている白い薔薇。そこにある棘はまるで剣の様に鋭く、尖っていた。禍々しいまでに尖っているそれを彼は身じろぎもせず見詰めていた。
「その為に来たから」
「わかったわ。ではその胸を棘に刺して」
 薔薇は言う。
「そして私を紅く染めて」
 ホリンはそれに従い前に出る。その小さな胸を棘に近付けていった。
(さようなら、パトリック)
 心の中で呟いた。それは別れの言葉だった。この何もなくなってしまったアイルランドで彼が持っていたたった一つの友達。彼は今その友人の為に命を捧げようとしていた。
(せめて僕のことは。忘れないでいてね)
「待ってくれ、ホリン!」
 だがここで聞き慣れた声が聞こえてきた。
「えっ!?」
 声は後ろからだった。ホリンはハッとして後ろを振り向く。そこにはその友人がいた。人の姿に戻ったパトリックがそこに立っていたのであった。
「間に合ったみたいだね」
「パトリック、どうしてここに」
「ホリン、もう赤い薔薇はいらないんだ」
 彼は言った。
「いらないって」
「話は聞いたよ。その薔薇は赤くなる為には君の命が必要なんだね」
「そうだけれど。それを何処で」
「小鳥達に。聞いたのさ」
「あの小鳥達に」
「そうさ。それで僕は彼等から羽と言葉を貰って鳥になった」
「そしてここまで来たんだ」
「君の為に。言ったじゃないか、何があっても君を守るって」
「それで」
「そうさ、僕はもう赤い薔薇はいらない」
 彼は言った。
「それよりも。君を失いたくない」
「パトリック」
 ホリンは友人のその言葉に心を打たれた。まるで雷を受けたかの様に。
「赤い薔薇も恋もまた得られる。けれど、君との友情は失ったら絶対に得られないから」
「それでもいいんだね?」
「うん」
 迷いはなかった。強い調子で頷いた。
「だからここまで来たんだから」
「有り難う、パトリック」
 ホリンはそれを聞いて一言礼を述べた。
「僕の為に。薔薇と恋を捨てて」
「言ったじゃないか、それはまた手に入るって」
 彼はまた言った。
「だから。ここから去ろう」
「行くのね」
 薔薇は二人に声をかけてきた。
「うん、君が赤い薔薇になれないのは残念だけれどね」
「けれどいいわ。私だって白いままでもいいから」
 さっきとは少し気持ちが変わっていた言葉であった。
「今まで赤くなりたくて仕方がなかったけれど。誰かを犠牲にしてでも」
「けれど今はそうじゃないんだね?」
「ええ」
 彼女は答えた。
「もう白いままでよくなったわ。誰かが犠牲になるのなら」
「そう」
「そうよ。それに今は白い薔薇しかなくても何時かまた赤いのも咲くかも知れないし」
「赤い薔薇も」
「その時まで。待つわ」
「そうなんだ」
 彼女も赤くなることを諦めた。パトリックとホリンはそんな薔薇に別れを告げて森を出た。そのまま湖の側にあるパトリックの家にまで帰るのであった。
「ねえホリン」
 パトリックはまた鳥になっていた。そして飛びながら横にいるホリンに声をかける。
「何?」
 彼はそれを受けて友人に顔を向けた。
「今はこの国には何もないよね」
「うん」
 彼は友のその言葉に頷いた。
「本当に何もなくなってしまったけれど」
 パトリックは両親も、そして兄弟も失ってしまった。全てをあの飢饉で失ってしまったのだ。
「けれど。また出来てくるよ」
「また?」
「そうさ、だって君と僕も友情が作られたし」
「友情が」
 そうであった。彼等には今友情があった。他にはなくてもそれだけがあった。そしてパトリックはその為に彼を救ったのであった。約束を果たしたのだ。
「それは守られたし。だからこの国も」
 ホリンは下に広がる大地を見た。何もなくなってしまった大地が。だがそこには新たな緑が生えようとしていた。飢饉で食べるものがなく全て食べ尽くされた筈なのに。そこに緑が甦ろうとしていた。
「また多くのもので満ちるようになるよ」
「うん」
 そしてそれは現実のものとなった。パトリックはこの後その娘とは別の娘と恋に落ちた。彼女と結ばれて多くの子供と孫をもうけることになる。その横には常にホリンがいた。彼の最も大切な友人がそこにいたのである。その最後の時には祖国が甦るのを見た。何もかもなくなった筈の国が甦る姿を見ることができたのであった。


小鳥と薔薇   完


                                  2006・3・2 
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