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雷神の女装

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1部分:第一章


第一章

                   雷神の女装 
 北欧の神々の一人にトールという神がいる。雷と豊穣、それに冠婚葬祭を司る神でありその心は粗暴だがそれでいて実に心優しく実直な神である。
 質素な身なりをした筋骨隆々の大男でその厳しい顔にある黒い目は雷神のそれに相応しく輝かんばかりの強烈な光を放っている。顔中赤い濃い髭だらけであり髪も多い。神々の中で随一の戦士でありその鎚ミョッルニルを手に巨人達を倒していく。人間の守護者でもあり神々の英雄でもある。そんな神だった。
 トールの武器はそのミョッルニルである。これこそが彼の強さの象徴であり巨人達にとっては恐怖そのものであった。この恐怖を巨人の誰かが取り除いてしまいたいと考えるのも道理である。何しろ彼等にしてもそうおいそれと倒されるわけにはいかなかったからだ。それである日巨人族の王の一人であるスリムが動いたのであった。
「つまりだ。あのミョッルニルをわし等が持てばいいのだ」
「馬鹿な、わし等であのミョッルニルは扱えぬぞ」
「その通りだ」
 そのスリムと同じ存在である巨人族の王達がスリムの言葉を聞いて口々に言ってきた。しかしスリムはその少しずるそうな顔にある濃い黄金色の髭を歪ませて言うのであった。
「何、要はあの男の手にミョッルニルがなければいいのだ」
「それだけか」
「左様、それだけだ」
 そのことを強調するのだった。トールの手にミョッルニルがなければそれでいいと。
「それだけなら問題はあるまい。わし等が使う必要もない」
「確かにそうだ」
「それはな」
 これには彼の同僚である王達も頷いた。言われてみればその通りであった。
「では後はだ。ヴァルホルに忍び込んで」
「ミョッルニルを盗むと」
「ばれてもあれだ。奴等が受け入れられない要求を出せばいい」
 スリムはそう言ってまたずるそうに笑ってみせた。
「例えばフレイヤを妻に寄越せとかな」
「ほう、フレイヤをか。それは面白い」
「奴等は絶対にそれを受けないな」
「というよりかはあの女の方が受けまい。それこそ話を聞いただけで怒り狂うぞ」
「まったくだ」
 フレイヤは美と愛の女神である。とてつもなく美しい姿をしているが神々の女戦士でもあり猛々しい怒りを見せることでも知られているのだ。このことは彼等もよく知っているのである。
「ではそれで行くとしよう」
「うむ。吉報を期待しているぞ」
 こうしてスリムは霧に化けてヴァルホルへ向かった。しかしそれを遠くから見ている一羽の鷹がいた。鷹は巨人の世界であるヨトゥンヘイムを出るとすぐに人の姿になった。だがそれは人ではなかった。金色の見事な髪を短く刈りアイスブルーの目を持つ男だった。均整の取れた身体をしておりその顔立ちは細面で目がやや暗い感じはするが鼻は高く口元は微笑んでおり肌も白く美男子であると言ってよかった。彼の名はロキという。巨人族の血を引きながらも神々に属しており技術や悪戯といったものを司っている。神々でも屈指の知恵者と言われている。
 そのロキが話の一部始終を見ていたのだ。だが彼はここですぐにトールにこのことを知らせはしなかった。まずは本来の姿に戻ったうえでゆっくりとヴァルホルに戻りだしたのだ。
「急ぐとかえって面白くない」
 楽しげに笑いながらの言葉だった。
「それよりもこのまま待っていれば」
 その笑みに何処か邪悪なものさえ漂わせてきた。
「トールの奴がどれだけ怒るか見ものだ。わしが動くのはそれからでいいな」
 こう考えつつヴァルホルにあえてゆっくりと戻るのだった。果たしてロキがヴァルホルに戻ると。トールがヴァルホル中をえらい勢いで走り回っていた。
「ないぞ、ないぞ」 
 神々の屋敷という屋敷、ヴァルホルにある河という河、穴という穴を覗いて必死に探し回っている。大柄なのにその動きはかなり素早いものだ。
「何処にもない。何処にあるのだ」
「おいおいトール」
 ロキはさりげなくを装ってトールに声をかける。内心は笑顔だったが表では神妙な気遣う顔だ。
「一体どうしたんだい?そんなに焦って」
「これが焦らずにいられるか」
 トールはそのロキに顔を向けて厳しい顔を顰めさせて言ってきた。
「俺のミョッルニルがなくなったのだ」
「ミョッルニルをかい?あんたまた飲み食いしている時に一緒に飲み込んだんじゃないのかい?」
 トールは大食漢であり大酒飲みである。それをからかっているのだ。
「馬鹿を言え。幾ら俺でもミョッルニルは食わんぞ」
「それもそうだな。しかしじゃあ一体何処に」
「それがわからんから探しているのだ」
 厳しい顔でまたロキに述べる。
「果たして何処にあるのか。俺のミョッルニル」
「ああ、そういえばだ」
 ここでロキは芝居の第二段階に入ることにした。
「ちょっと小耳に挟んだんだがな」
「んっ!?何だ」
 身を乗り出してそのうえ耳を近付けてきた。手を耳に当ててさえいる。
「ミョッルニルに関する話か?」
「巨人族の王でスリムっていうのがいるだろ」
「あの狡賢い男か」
 トールはスリムの名を聞いてすぐにこう答えた。
「知っているぞ。次にミョッルニルの餌食にしてやろうと思っていた」
「じゃあ多分そいつだな。そのスリムは随分といい鎚を手に入れたそうでな」
「鎚か」
「持つところが小さくて誰にも操ることはできないがそれでもとびきり硬いらしい」
「間違いないぞ」
 トールはそこまで聞いて思わず声をあげた。
「そいつだ、間違いない」
「そうだな。ではスリムのところを調べてみるとしよう」
 既に全部わかっていたがここでも芝居をするロキであった。
「わしが調べ終わるまで少し待っていてくれ。いいな」
「うむ、頼むぞ」
 こうしてロキは数日時間を置いた。もう全部わかっているのでその間は何もしなかった。それで数日自分の館で適当に時間を潰した後でトールのところに参上した。そのうえでミョッルニルのことを全て話したのだった。
「そうか、やはりスリムがか」
「あと返して欲しかったらフレイヤを妻として差し出せとまで言っているぞ」
「それは流石に無理だろう」
 トールはロキの今の言葉に一言で答えた。彼もフレイヤの気性については嫌という程知っているのだ。
「それこそあいつ、ヴァルホルが壊れてしまう程怒るぞ」
「だろう?それはわかるよな」
「わかるからこそ無理だと言っているのだ」
 言うトールも少し怒っている感じだった。髭だらけの顔にあるその黒い目が眩く光っている。
 
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