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メフィストの杖~願叶師・鈴野夜雄弥

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第四話
  Ⅵ



 その日の夕刻。
 演奏会を間近に控え、天河とグスターヴは学生達の間で右往左往していた。
「おい、もうすぐ時間になるから、皆は舞台脇に列を作って控えていろ。」
 天河はそう言うや、直ぐにグスターヴの所へと行く。
「グスターヴ、根回しは?」
「大丈夫だって。全員来なけりゃならねぇ様にしてあるさ。町の有力者も粗方呼んだしな。」
 グスターヴがそう言ってヤンチャ坊主がするような悪い笑みを見せると、天河もニッと笑い返して言った。
「さぞ面白いショーになるだろうね。」
 ここは大学にある音楽堂だ。コンサートホール…とまではいかない前時代的な建物だが、戦後に改築がなされており、かなり良い響きを得られていた。
 その音楽堂に今、多くの人々が詰め掛け、音楽の始まりを今か今かと待っていた。
「ったく…あたしが何でこんな人混みの中に…。」
 そう嫌そうにぼやいたのは、めかし込んで派手な着物を纏った藤子であった。その隣には、対照的に地味な格好をした亭主の洋介が無表情で座っている。
「ちょいと、あなた。この中から梓を見付けて、さっさと萩野家へ送んないと…」
「そう急ぐこともあるまい。ここは末席…梓を確実に見付けるのであれば、ここが最適ではないか。出口は私らの左右にしかないのだから心配するな。」
 そう返す洋介に、藤子は些か苛立って言った。
「そんな呑気なことを言わないでちょうだいな。あの子は金の卵なの。とっとと萩野の子を孕んでもらわないと。」
「藤子、ここでその話しはするな。ここの大学の多くの方が顧客なんだからな。」
「分かってるわよ!」
 そう強く返すと、藤子は嫌々ながらも正面に向き直った。
 その二人から五列ほど前には、話しに出ていた萩野夫妻がいた。
「静江…こんなものを見物しに来ていて良いのか?」
「良いではありませんの?」
「しかしだな…今日は松山の娘が…」
 藤一郎がそこまで言いかけると、静江は冷たい視線を彼に浴びせて返した。
「それはこの演奏会の後の話しですわ。少しは静かにお出来になりませんの?」
「…。」
 そう静江に窘められ、藤一郎は些か項垂れて口を閉ざした。
 息子の敬一郎はと言えば、松山夫妻の座る末席に控えており、その目は梓を探してキョロキョロしていた。
 末席から十四列離れた場所には、早々に来ていた木下家の人々、そしてその横には、こっそりと来ていた梓とアキも席に着いていた。無論、この混雑では見付かることもない。
「栄吉さんや、わしがこんなとこへ来て良かったんなのぅ…。」
 アキが栄吉…修の父へと心配になって問い掛けた。
「アキさん、たまには良いじゃないですか。」
「そうですよ。いつもあれこれと大変なんですから、たまにはこうした珍しい催し事を見るのも良いではありませんか。」
 栄吉の言葉に繋げたのは、修の母である茜だ。
 木下夫妻は、実はアキとは永い付き合いだ。先代の吉之助がアキと囲碁中間だったのだ。アキが夫の虎吉を亡くす以前からで、虎吉もまた吉之助とは戦友だったために家族ぐるみの付き合いをしていた。
 しかし、虎吉は許嫁問題が拗れる以前に他界したため、この様な状態になったのだが…。
 この栄吉と茜だが、一人息子の修に家を継ぐよう強要することはなかった。それ故、二人は息子を大学まで行かせ、自分で遣りたいことを探させたのだ。
 無論、息子が家を継ぎたいと言えば継がせるが、それは息子自身が決めることだと考えた。そのため、梓のことも知っていながら口を挟まなかったのだ。
「修、お前がこんな演奏会に連れてきてくれるとは…正直、驚いた。」
 栄吉は笑みを見せて息子へと言った。
「たまたま指揮をなさる教授と面識があったんだよ。父さん、よくラジオで古典音楽を聴いてだじゃないか。」
「さして家にも居ないのに、よく知ってたな。」
 栄吉はそう言うと、茜に「なぁ?」と言って二人で笑った。
 だが、その笑みには少しばかり影が差していた。
 ここへ息子が招いた…きっとそれは何かがあるからだと考えたのだ。それに気付かない親ではない。だから二人は、覚悟を決めてここへやって来ていたのだ。
 それがたとえ、今生の別れとなっても…。
 そうしているうちに天井の明かりが消され、照明は壇上のみになった。そこへ楽員達が各々楽器を手に出てきたため、観客は拍手でそれを迎えた。
 少しして全員出揃って着席すると拍手は収まったが、そこへつかさず指揮者である天河が現れた。すると再び大きな拍手が上がり、天河が指揮台の手前でお辞儀をして指揮台へ上がると、直ぐに拍手は静まった。

- さぁ、ショーの始まりだ。 -

 天河はタクトを取り、凛とした静けさの中で降り下ろす。
 一曲目には、ヘンデルの“水上の音楽"が華々しく鳴り響く…筈だった。
 しかし、天河がタクトを降って響いた音楽は…。
「…えっ…?」
 そこで響いたのは祝祭的な明るい音楽ではなく、暗く重々しい音楽だった。
「これは…“大フーガ"…?」
 栄吉が不思議そうに呟く…。
 そう…これは紛れもなくバッハの“大フーガ"。正確には“幻想曲とフーガ ト短調 BWV.542"…の、管弦楽編曲であった。元来はオルガン曲で、この当時でもレコードで幾人かの録音が聴けた、割合にポピュラーな作品でもあった。
 だが、聴衆にとっては正に寝耳に水状態である。
「止めんか!」
 そんな演奏の最中、一人の老人が怒りを露にして壇上の天河へと怒鳴った。
 だが、天河はそれを気に止めることなく、尚も演奏を続けていた。
 そのため、老人は壇上へ上がって天河へと直に怒鳴った。
「天河君!君は何をしとるのか理解しとるのか!」
「分かっていますよ?」
 老人に振り返り、天河は笑ってそう返す。
 天河は老人と向き合うためにタクトを置いたが、どういうわけか演奏が止むことはなかった。まるで何かに操られているかの様に、楽員達は皆一様に無表情で演奏を続けている。
 それは何処と無く不気味であり、聴衆はどうしたのかとざわめき出した。
「貴方、先日そこに座る櫻井氏より賄賂を受け取りましたね?」
 天河の声は音を無視して正確に届く。しかし、言われた老人はそこには気付かず、ただただ目を丸くした。
「き…君、一体何を…」
「天下の二ノ宮教授が賄賂とはねぇ。」
 畳み掛ける様に言う天河に、老人…二ノ宮は顔を真っ赤にして叫んだ。
「何を言うか、この小童が!儂があの様な輩から賄賂なぞ…」
 二ノ宮が全て言い切らぬうち、天井にふと何かの映像が映し出された。
 急に上が明るくなったために皆が一斉に天井を見上げると、そこには櫻井が二ノ宮へと札束を渡している場面がはっきりと映っていた。
「…なっ…!」
 だが映像はそれだけに留まらず、天井のあちらこちらへ次々に別の映像が映し出されていく。
 映像にはここに招かれた有力者などが映っており、そのどれもが知られれば破滅しかねないものばかりであった。
「こ…これは違う!」
「何者かの陰謀だ!早く止めろ!」
「名誉毀損で訴えてやるからな!」
 そうした罵声が飛び交う中、不意に全ての映像が変わった。次に映し出されたのは…。
「…っ!?」
 その映像が映し出され時、末席の二人が真っ青な顔をして立ち上がった。
 その二人とは…藤子と敬一郎であった。
 藤子は様々な男との情事や賄賂を渡す姿が…敬一郎は藤子との情事や修への再三に渡る嫌がらせなどが映し出されている。
「デタラメよ!あなた、早くこんなもの止めさせてちょうだい!」
「有り得ない!私はこんなことは一切していない!」
 二人は力一杯叫ぶ。だがそれに対し、二人の人物が対応して立ち上がった。
「藤子、お前が何をやって来たかは知っていた。これで離縁出来ようと言うものだ。」
「あなた…何を言って…」
「お前は私の財が目当てなのだろ?それで…花江を殺したのだろ?」
 藤子は目を見開いて言い返す。
「何を言ってるのか分かってますの!?」
「あぁ。あれを見ればな。」
 洋介はそう言って天井を指差す。そこには、藤子が家政婦に成り済まして松山家へ入り、前妻の花江の食事へ何かを入れている姿があった。
 実は、洋介は密かに藤子を調査させていた。
 最初は気付かずにいたが、藤子のとある仕草で分かったのだ。それは首を斜めに傾ける癖であった。
 では、なぜ娘の梓を放置したのか?それは世間体のためでも義理のためでもなく、命のためであった。無論、梓の…である。
 藤子は自分が犯人だとバレれば、恐らくは皆殺しにするだろう。そうさせぬためには、梓に耐えてもらうしかなかったのだ。
「昨日、雇っていた探偵から知らせが届き、お前の悪事を暴く証拠が入っていたのだよ。これで…やっと梓を解放してやれる。」
 そう言うや、洋介は藤子を一瞥してその場から立ち去った。
 当の藤子は何も言えぬまま、茫然としてその場へとへたり込んだのだった。
 もう一人立ち上がっていたのは、静江である。
「敬一郎、男だったら観念おし!」
「母さん!息子のことを信用出来ないのか!」
「出来ないよ!私がお前のしたことを知らなかったとでも思うのかい!この戯け!」
 そう怒鳴られた敬一郎はビクッと体を強張らせ、そのまま何も言い返せなかった。
 そんな敬一郎を庇う様に、横から藤一郎が口を挟んだ。
「静江、あんなものに惑わされるな。息子の幸せを考えれば…」
「それでは、直ぐにでも離縁させて頂きます。目が節穴な人と添い遂げるつもりは御座いませんので。」
 静江はそう冷たく言い切ると、藤一郎に視線も向けずにその場より立ち去った。
 それには藤一郎も蒼冷め、慌てて藤子の後を追い掛けたのだった。
 その場にはもう、藤子も敬一郎にも見方になってくれる者はいなくなった。それどころか、大半は二人へと白い目を向けている。後の大半は、自らの罪をどう帳消しにするか思案してる風である。
「さて皆様、これはなかなかの喜劇に御座いますが、これより今宵のメインを御覧頂きましょう!」
 天河がざわめく来客達にそう言うや、辺りは暗闇に閉ざされた。今度は壇上にも光はなかった。
 客は余りのことにどうしてよいか分からずにいたが、不意に蒼白い焔が広がって辺りを照らし出した。
 見れば、その中心には金の髪を靡かせ、シックなスーツに身を包んだ男が立っていた。
「お初にお目にかかります。私の名はミヒャエル・クリストフ・ロレ。貴殿方は私のことをこう呼んでいるのでしょう?“願叶師"…と。」
 ロレがそう挨拶するや、辺りは蜂の巣を突いた様な騒ぎとなった。
 ある者は命乞いをし、ある者は逃げ出そうと戸口に殺到し、またある者は自分がどれだけ良い人間かを並べ立てている。
「やれやれ…。そんなに罪を償うのが嫌なのかねぇ…メフィスト。」
「まぁな。そんでも、ああいう奴等はほっといても自滅すんだろ?」
「それもそうか。」
 二人は逃げ惑う者等を嘲る様に見たが、その中にあっても二人を直視し続ける者達があった。
 それは…木下夫妻と修、そしてアキと梓であった。
「あ…あの御方が…。」
 アキはふと立ち上がり、ロレへと手を合わせて祈る様に言った。
「どうか梓を幸せにしてやって下され!わしに渡せるものがあるなら、何でも差し出しますけぇ!」
「お婆ちゃん!」
 突然のアキの言葉に、梓は蒼くなって慌てて止めに入った。もし万が一、それが聞き届けられてアキにもしものことがあったらと…。
「いや、その願いは既に他の者より依頼され、契約は成されている。」
 ロレは微笑んでそう返すと、皆はキョトンとロレを見返した。
 そんな人達に、ロレは再び口を開いた。
「だが、あなた方からも対価を取ることになるだろう。修と梓は私が連れて行く故。」
 ロレがそう言うや、今まで呆けていた藤子と敬一郎が叫んだ。
「そうはさせんぞ!」
「梓は私のものだ!」
 二人はそう叫んでロレへと駆け寄ろうとしたが…そんな二人にロレは言った。
「愛も知らぬ虫螻めが!」
 その声は建物全体から響き、二人のみならず、そこで慌てふためく人等を硬直させた。
 その上、二人にはメフィストが後ろから回ってその耳に囁いた。
「死後の永遠と世の数十年を天秤にかけても良いがよぅ…残りの人生を地獄で暮らさせるってぇことも、俺達にゃ出来るんだぜ?どうする?」
 その声は甘美であり、また氷の刃のようでもあった。とても人間に出せる声とは思えず、二人はその場で腰を抜かしてしまった。もう何も言えず、ただ震えるしかなかったのであった。
 その折、意を決したかのように木下夫妻が立ち上がり、ロレの元へ歩み寄って言った。
「貴方は…本当にかの願叶師なのですか?」
「その通りだ。」
「では…私の息子をお委せしても…宜しいのでしょうか?」
「問題ない。」
「では…私共の対価は、何を差し出したら宜しいでしょうか?」
 夫妻がそこまで言うと、ロレはやや顔を下げ、少しばかり淋しげな目をして返した。
「それは…“時"だ。」
「“時"…とは?」
 栄吉は意味を理解出来ずに問い返した。隣の茜も首を傾げている。
 それに対し、ロレは軽く目を瞑って言葉を紡いだ。
「これからの長い歳月、あなた方は二人に会うことは出来ない。それは、二人と過ごす筈の“時"をあなた方から奪うと言うことに他ならない。それ故、それが対価となる。」
 そうロレが言うと、その場に集うものは皆、目を見開いて意味を理解した。
 強いて言うならば、会えぬ“痛み"が対価となるのだ。その辛さや悲しみに耐えること…それが修と梓が幸福になるための対価だった。
「さて…時間だな。」
 ロレが目を開いてそう言うと、修と梓は互いに手を繋いで言った。
「はい。」
 その答えを聞くや、メフィストが「パンッ!」と手を叩いた。

 すると…そこにはもう、ロレの姿もメフィストの姿も…そして、修と梓の姿もなくなっていた。




 
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