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メフィストの杖~願叶師・鈴野夜雄弥

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第三話
  Ⅱ


「こんなとこで…演奏会?」
「そうなんだ。お前、バロック音楽好きだって言ってたの思い出してな。」
「そうだが…。」
「角谷…あれから一年経つんだ。忘れろなんて言えないが、せめて前向きに生きてほしいんだよ。」
「安原…。分かった…今日はこれを楽しむよ。あいつも好きだったから…。」
「そうだよ。さ、入るか。」
 二人の男性がそう言って入ったのは、喫茶バロックである。
 この二人…角谷と安原は中学からの親友で、この日は安原が常連にしている喫茶バロックの演奏会に親友を誘って来たのだった。
 最初、角谷はその申し出を断った。とても音楽を楽しむ気分にはなれなかったのだ。
 この角谷であるが、一年前に妻子を亡くしている。インフルエンザが悪化し、二人共に同じ日に息を引き取ったのである。
 それからというもの角谷は塞ぎ込む様になり、四ヶ月前には到頭会社を辞職してしまったのだ。
 しかし、安原はそんな彼を案じ、根気よく角谷の元を訪れては彼を励まし、どうにか前向きにしようと心を砕いていた。これが親友と言うものだろう。
 二人が店へと足を踏入れると、そこは全くの別世界と言え、角谷は一瞬自分がどこへ来たのか理解出来なかった。
 旧きイギリスを彷彿とさせる佇まいで、アンティーク調の家具やカーテンなどは見事に統一された美しい内装。その中ではそれに調和しうる美しい音楽が響いていたのだ。
 それは正しく、今を忘れるには打って付けと言える場所であった。
「いらっしゃいませ。」
 彼等が入ると、女性店員が静かに二人へと歩み寄ってきた。他のお客の妨げにならぬよう、出来るだけ音を出さない配慮がなされているようだ。
「予約してたんだけど…。」
「あ、安原様ですね?」
「はい。」
「二名様で席をお取りしております。ご案内致します。」
 そう言ってその女性店員は二人を予約席へと案内した。が…そこはあろうことか“例の席"であった。
 席へ案内した店員は西原英美…名札にはそう書かれていた。この店のタブーを知らない西原兄妹の妹である。
 だが、そんなことは露知らず、安原と角谷はその席へと腰を下ろし、直ぐにホットコーヒーを頼んだのであった。
「随分と良い雰囲気じゃないか。あいつらにも…見せたかったよ。」
「そうだな…。でも、きっとどこかで見てくれてるさ。」
 安原がそう角谷に返した時、ふと演奏が止んで拍手が起こった。
「では続きまして、今度は大バッハのフルート・ソナタ ロ短調をお聴き下さい。今回トラヴェルソを演奏して下さるのは、かの藤崎氏にも認められた縁田理賀氏です。」
 チェンバロの前に座る男…オーナーの釘宮がそう言うと、ステージ脇からスラッとした女性が現れた。すると再び拍手が沸き起こり、それは直ぐに鳴り止んだ。すると、ステージから愁いを帯びた旋律が紡ぎ出され、それが店内を満たした。
「…あの縁田氏の演奏をこんな場所で拝聴出来るとはな…。」
「角谷、お前知ってるのか?」
 安原は些か驚いた風に返し、それに角谷は苦笑しつつ答えた。
「知ってるも何も…夏奈子の恩師だよ。」
「は?」
 安原は驚いてそう声を出すや、周囲から「静かに!」と言わんばかりの視線を受け、多少顔を赤らめて口に手をあてた。
 角谷はそんな安原を見て可笑しそうに顔を歪めたので、安原は多少心が楽になった。
 暫くは珈琲を飲みながら、二人は音楽へと耳を傾けていた。だが、角谷はその中で亡き妻と息子のことを考えていた。

― 今、二人が生きていてくれたなら…。 ―

 そう思わずにはいられなかった。当たり前と言えばそうだが、人はそれを引き摺って生きるにはあまりにも脆弱な生き物であり、彼もまた然り…。
「続きまして同じく大バッハの音楽を。今度はオルガン用のトリオ・ソナタですが、それをフルート、ヴァイオリン、ガンバとチェンバロによる編曲で聴いて頂きましょう。」
 角谷がふと気付けば、釘宮がそう言ってステージに二人の人物を招いているところだった。
 そこに背の高い二人…鈴野夜とメフィストが加わった。女性の視線は二人に釘付け…と言った風で、男性陣は少々ムッとしている様子だ。
 しかし、そこから一度音楽が始まるや、それらの感情を軽く吹き飛ばした。
 曲はバッハのトリオ・ソナタ 変ホ長調 BWV.525で、愛らしいほのぼのした音楽だ。先のフルート・ソナタ ロ短調 BWV.1030とは対照的と言えた。
 飛び跳ねるように各楽器の奏でる主題が生き生きと交差し、まるで子供たちが遊び回っている様な音楽だった。

― 謙一が生きてたなら…。 ―

 考えたくはない。たが…どうしても考えてしうのだ。
 あの時こうしていれば…あの時ああしていたら…。
 どんな人間にもあることだ。人間に過去の後悔は付き物だが、それを乗り越えて生きなくてはならない。
 過ぎ去った日々は、もう戻ることはないのだから…。
「…二人に聴かせたかったな…。」
 小さく呟いた角谷の声を、安原は聞き逃がさなかった。だが、彼は聞こえない振りをした。今はこの音楽に委せるしかないのだと…そう思ったのだ。
 暫くは音楽に身を委せていたが、ふと安原の携帯が震えた。
「あ、悪い。」
 安原はそう言って携帯を取り出し、周囲に気を使いつつそれに出た。
「もしもし…冴島君か。え?あの書類をか?…うん…分かった。直ぐに行くから…ああ、心配するな。それじゃ。」
 そう言って会話を終えるや、安原は済まなさそうに角谷を見た。すると、角谷は苦笑しつつ「行けよ。お前、部長なんだから。」と言い、安原に会社へ戻る様に促した。
「悪いな。終わる頃に迎えに来るからさ。」
「いいよ。ここからだったら一駅だし、運動がてら歩いて帰るよ。」
「そうか…。それじゃ、またな。」
「ああ。気を付けて行けよ。」
 そう言って角谷は安原を見送った。
 だが、心の中では安堵の溜め息を洩らしていた。何故なら、ここなら自分を知る者がいないからだ。
 実を言えば、角谷は安原の好意をあまり快く思っていなかった。確かに有り難いとは感じてはいるが、今はまだ放っておいてほしいと思っているのが本音なのだ。
「あれから…一年か…。」
 彼はまた小さく呟く。だが、それは音楽の波に埋没し、誰の耳にも届かない。
 彼は彼で考えてはいるのだが、どうしても心の片隅に引っ掛かるものがあるのだ。
「あいつらさえ居なかったら…。」
 また、呟く。
 過去の幻影…それは自らの影に隠れて色濃く痕を遺す。そしていつしか、それが躰へと纏わりつき、次第に心を蝕んで行くのだ。
 少しすると音楽が終わり、拍手が響き渡る。そして拍手が止むと、釘宮が口を開いた。
「申し訳ありません。ラストオーダーの時間になりましたので、少し休憩を挟みます。ニ十分の間に御注文のある方はお願い致します。」
 そう言うや、あちこちからオーダーの声が上がった。
 角谷もメニューを広げ、近くを回るウェイターへと声を掛けた。
「すいませんが宜しいですか?」
「はい、お決まりですか?」
 そう言ったのは鈴野夜で、角谷は些か面食らった。釘宮は口調から店の店長、ないしオーナーだと推測出来たが、まさか鈴野夜がウェイターだったとは思っていなかったのだ。その上バイトだと知れば、きっと何故ここにいるのかと首を傾げるに違いないが…。
「あ…珈琲とラザニアをお願いします。」
「畏まりました。以上で宜しいですか?」
 鈴野夜がそう確認すると、角谷は折角だからと追加した。
「それじゃ…食後にフルーツタルトを。」
「はい、畏まりました。では、少々お待ち下さい。」
 鈴野夜は手慣れた様に注文を取り、軽く頭を下げて次のテーブルへと注文を取りに行った。だが…鈴野夜はもう一度その席に座る男を振り返り、無性に嫌な予感を覚えた。
 本来なら、そこに予約を入れる筈はない。たとえ西原兄弟でも、こんな席を予約席にするとは考えなかった筈だ。それが手違いで予約席へ客を入れてしまい、ここが代わりに予約席になってしまったのだ…。
 鈴野夜は「何かある…。」と思いはしたが、一旦男のことは忘れて仕事へと集中したのだった。
 一方、男…角谷は何をするともなく、ただ漠然と周囲の喧騒を聞いていた。残った僅かな珈琲を啜り、再び心の奥の“それ"について考えを巡らせていた。

― 結局は…金なのか? ―

 否。そんなことはない。
 金だけが全てではないと、妻…夏奈子は教えてくれた。死の時でさえ、妻は苦しみの中で自分を心配してくれたのだ…そう彼は考えを訂正するが、角谷の心には既にどす黒い陰が纏わりついていた。
 そんな自分に気付き、そしてまた自分を嫌う…それの繰り返しなのだ。
「お待たせしました。皿が熱くなっておりますので、お気をつけ下さい。」
 暫くすると、そう言って店員がラザニアと珈琲を持ってきてテーブルの上に置いた。
 持ってきたのは西原の妹の英美だった。他はまた演奏に戻るためにセッティングをしている様で、ステージ脇へと集まっていた。
「次の曲目は何ですか?」
 角谷は何気無く問った。すると、英美は苦笑しつつ返した。
「私も知らないんです。その時によって曲目を変更するとかで。」
「そうなんですか…。」
「何か聴きたい曲でも?」
 英美は男性が何か言いたそうにしていたため、そう問い掛けてみた。尤も、マーラーの交響曲…とか言われてもどうにもならないのだが。
「いえ、そう言う訳ではないので…。」
「別に構いませんよ?でも、ルネサンスからバロックまでですけど。」
 そう言って微笑む英美に、角谷は頭に浮かんだ曲を口にした。
「コレルリの“ラ・フォリア"を…。」
「大丈夫だと思いますよ。オーナーに伝えておきますね。」
 そう言って会釈をすると、英美はそのままステージの釘宮の元へ向かった。そんな彼女を見て、角谷は再び亡き妻を思い出した。
 いや、何を見ても何を聞いても…どうしても亡くした二人が頭を過る。それがずっと…二人を失ってから今この時までずっと続いているのだ。
 恐らく…これから先もまた…。
「それでは次に、イタリアの作曲家アルカンジェロ・コレルリの“ラ・フォリア"をお聴き頂きます。」
 そうして響いた音楽…リコーダーと通奏低音による懐かしい響きは、角谷の心を押し潰さんと彼の中へと雪崩れ込んできた。
 この曲は、彼が妻と出会う切っ掛けになった曲だった。
 それは、彼の妻…夏奈子が音大にいた頃、角谷はその近くの会社で新人として働き始めていた。
 夏奈子はルネサンスからバロックの木管楽器を学ぼうと、手始めにリコーダーを習得するために練習していた。
 彼女はよく大学近くの河原で練習しており、それを角谷が偶然聴いたのが出会いの切っ掛けだった。初めに話し掛けたのは角谷で、夏奈子は大変驚いた風だった。
 リコーダー…独語でブロックフレーテだが、日本語では縦笛。どれだけ巧みに演奏しようと、所詮は学生の楽器と思われるのがオチと言うもの。
 だが、角谷はそんな夏奈子の心中を察してか、もっと演奏が聴きたいとその場に座ったのだった。夏奈子はそんな彼を変とは思わず、音楽好きな青年…そう思って練習を再開した。
 その曲が“ラ・フォリア"だった。
 二人はその後、何度も会うようになり、時には時間を忘れて音楽の話を延々と語り合った。
 角谷も元は音大を目指していたが、自分に才が無いことを自覚して諦めたのだ。自分は聴く方が向いている…そう思ったのだ。 そのためか、夏奈子も角谷の前では張り切り、より多くの楽曲を演奏しようと頑張っていた。
 練習なのか本番なのか…彼女は見る間に上達して行き、幾つかのコンクールで優勝してプロになることが出来た。
 その中で、二人は当たり前の様に付き合い始め、出会ってから五年後には結婚した。
 だが、角谷は夏奈子を家庭に束縛することはせず、音楽をずっと続けてほしいと言った。彼女は自由であってほしかったのだ。夏奈子はそんな角谷を心から愛し、やがて長男の謙一が生まれ、二人は幸せそのものだった。
 だが、その数年後…夏奈子と謙一が相次いで風邪を拗らせて入院した。最初は軽い肺炎で、暫く入院すれば回復すると言われた。
 しかし数日後…医師から新型インフルエンザと聞かされ、角谷は唖然とした。そして…ワクチンも治療薬も無いと言われ、角谷は医師に掴みかかった。
 何とかならないのか…どうにか既存の薬で凌ぎ、薬が開発されたら投与することが出来ないのか…そう聞いたは良いが、その答えを聞いて角谷は再び唖然とするしか出来なかった。
 薬が出来るまで…持ち堪えることは難しい。残念ですが、今の医療では限界です…医師はそう言って彼の手を退け、そのまま診察室から出ていったのだった。
 衰弱して行く妻子…ただ見ているしか出来ない自分…。悲しく、虚しく…そして腹立たしかった。
 無論、患者は全て隔離病棟で、側に行く時は帽子にマスクに使い捨ての手袋を着けねばならない。それでも…感染の可能性はあるが、角谷はそうしてでも妻子の傍らに居続けたかった。
 そんなある日。角谷は嫌なものを見てしまう…。
「先生…これで一つ。」
「まぁ、大丈夫ですよ。心配には及びません。」
 そう言って一人の医師が男性から分厚い封筒を受け取っていた。そこは非常階段であり、角谷はたまたま風にあたりに出ていたのだ。その真下で…それは行われた。
 だが、それが金という確証はない。そして、新型インフルエンザに関わるとも断言出来ない。
 しかしだ…結果、権力や資産のある家の者は、誰一人死ぬことはなかった。
 考えたくもなかった。そんな考えで…夏奈子と謙一の思い出を汚したくはなかった。

 今だけは…音楽が彼の心を癒してくれるように…。



 
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