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ある少女の話

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ある少女の話

                  ある少女の話
 あれは和歌山の洋館での話だった。僕は旅行で白浜に来た時にたまたまその横を通り掛かった。
 見ればかなり古い洋館であった。建てられて一体どれだけ経っただろうか。明治の初め頃に建てられたものではないかと思った。
 その洋館は崖の先の方にあった。そしてそこからは青く広い海と空が見えていた。それはまるで二色の宝石をちりばめたかのように美しかった。
 僕は暫くその空と海に見惚れていた。だがここで洋館から一人の少女が出て来た。
「もし」
 僕はその声に気付きふとそちらに顔をやった。そこには白い薔薇の様なドレスに身を包んだ美しい少女がいた。長い髪は黒く、絹の様に美しい。そして白いきめの細かい肌を持ち目は琥珀の色をしていた。十六七頃であろうか。小柄で華奢な少女であった。
「はい」
 僕は彼女に答えた。気がつけば彼女はもう僕のすぐ側まで来ていた。
「海と空がお好きですか?」
 彼女は僕に問うてきた。
「はい、まあ」
 僕は問われるままそれに答えた。
「嫌いではないです。けれどここから見える空と海は」
「特に美しいと仰りたいのでしょう」
 彼女は優雅に微笑んでそう言った。まるで妖精の様に美しい笑みであるがこの時僕は気付かなかった。その微笑みには別のものが隠されていたと。そしてそれは妖精であっても僕が普段本で読む妖精ではなかったのだ。妖精といっても色々いる。その妖精は邪な妖精であったのだ。
「は、はい」
 そして僕はその微笑みに捉われた。彼女の言葉に従い、そのままに答えた。
「ここまで綺麗な空と海は今まで見たことがありません」
「そうでしょう」
 彼女はやはり微笑んでいた。
「もっと見たいと思いませんか?」
「もっとですか」
「ええ」
 今度は目を細めてきた。その大きな瞳が美しい線となった。
 僕はそれを拒むことは出来なかった。それは何故であったのか今ではよくわかる。この時僕は既に彼女の虜となっていたのだ。だからこそそうして彼女に従ったのだ。
「宜しければお家へいらっしゃいませんか」
「そちらの洋館ですね」
「はい。あそこから見える空と海はもっと美しいですよ」
「もっと」
 それを聞いて足を進めずにはいられなかった。
「失礼ですが」
「はい」
 彼女はここで僕が虜になったのを感じていた。
「お邪魔させて頂いて宜しいでしょうか」
「喜んで」
 彼女はそれを受け入れてくれた。いや、受け入れたのではなかった。僕はもう彼女の餌食になろうとしていたのであった。それを今ようやく気付いた。
 僕は彼女に案内され洋館に入った。遠くから見るとかなり古く見えたが側で見るとその印象は全く変わったものとなった。
「ほお」
 僕は洋館を見上げて思わず声をあげた。
「こちらも素晴らしい」 
 緑の蔦に飾られ、窓は太陽の光を反射していた。そして白い壁が輝いていた。まるで神殿の様に神々しい姿であった。
「そうでしょうか」
 彼女は謙遜してそう答えた。
「ただ古いだけの家ですが」
「いえ」
 だが僕は彼女のその言葉を否定せずにはいられなかった。
「こんな美しい家はそうそうありません」
 神戸にもこんな素晴らしい洋館はなかった。僕は日本の洋館が好きだ。だからよく見る。しかしその中でもこの洋館は一際美しいものであった。
「お気に入られましたか」
「はい」
 僕は答えた。
「是非とも中を拝見させて下さい」
 無意識のうちにそう申し出ていた。図々しい申し出であるがその時はそういわずにはいられなかったのだ。
「どうぞ」
 彼女はそれを快く認めてくれた。そしてその手で家の扉を開け僕を導き入れてくれた。
「どうぞ」
「はい」
 僕は中に入った。そこは中よりもさらに美しかった。まるで薔薇の園の様に色取り取りの薔薇達が飾られ、そして絹のカーテンと質素ながら豪華な装飾で彩られていた。バロック調であるが決して華美過ぎない。実に美しい家の中であった。
「・・・・・・・・・」
 僕は言葉を失った。そのあまりもの美しさに言葉を出すことができなかったのだ。
「どうでしょうか。汚い家ですが」
「いや」
 僕はそうだとはとても思えなかった。
「こんなものは今まで見たことがありません」
「そんな大袈裟な」
「嘘ではありませんよ。本当に」
 僕は夢を見るような気持ちでそう答えた。
「これ程だとは思いませんでした」
 心の底からそう思っていた。
「またそんな」
 少女は謙遜した笑みを浮かべた。
「大袈裟ですわ」
「いえ」
 だが僕はその言葉をまた否定した。
「本当です。そしてあそこに見える空と海」
 そこには崖の入口から見えるものとは比較にならない程美しい空と海があった。
「まるで絵のようではありませんか」
 確かにそう見えた。それはまさに一枚の絵であった。
「白浜の海は綺麗だとは知っていましたが」 
 僕は言葉を続けた。
「ここまで美しいのは今まで見たことがありません」
「そうなのですか」
「ええ」
 僕は答えた。
「それでしたら」
 今思えばここで断れなかったのであろうか。いや、無理であっただろう。もう僕はこの空と海、そして洋館に心を奪われてしまっていたのだ。
「暫くこちらに留まっては頂けませんか」
「ここにですか」
「はい」
 彼女は頷いた。
「貴方さえ宜しければ」
 それは僕が断る筈がないと知ったうえでの言葉であった。そう、僕はそれを断ることはもう出来はしなかったのだ。
「お願いします」 
 僕はそう答えた。
「是非あの空と海を見せて下さい」
「わかりました」
 彼女はそれを認めた。
「どうぞ好きなだけ留まって下さい」
「はい」
 僕は頷いた。そしてその日からこの洋館に滞在することとなった。夏休みであるのをこの時程有難く思ったことはなかった。神に感謝した。だが僕は後で本当に心から神に感謝することになる。この時はまだそんなことは思いも寄らないことであったのだが。
 夕食は洋食であった。やはり古風な感じがする食堂で僕は彼女とテーブルで向かい合って食事をとった。
「あの」
 彼女はその席で僕に問うてきた。
「はい」
 僕はそれに顔を向けた。すると彼女が微笑んでいた。やはり今思うと純粋そうで何かがある微笑みであった。
「今夜はここに泊まられるのですね」
「宜しいのですか、本当に」
 僕はまた問うた。
「本当にいいのですね」
 繰り返さざるを得なかった。まさか泊めてもらえるなど。常識では考えられないことである。
「はい」
 やはり彼女は頷いた。
「是非ともお願いします」
「わかりました」
 僕はそれを受けて答えた。
「それでは御好意に甘えまして。宜しいですね」
「お願いします」
 こうして僕はこの洋館に本当に留まることになった。夕食を終えると風呂に案内された。風呂場は洋館の端の方にあった。この白浜は温泉でも知られている。だからここに来たのでもある。やはり温泉はいい。
 洋館であったがそこには見事な露天風呂があった。彼女は僕をそこまで案内すると姿を消した。そして風呂場には僕一人となった。
 僕はそこで心地良い風呂を楽しんだ。和風のよい露天風呂であった。檜の香りがする。だがそこには少し別の匂いが漂っていた。
「これは」
 僕はその匂いを良く知っていた。だからこそ気付いたのであるが。
 それは鉄の匂いであった。いや、正確に言うならばそれは血の匂いであった。僕はそれに気付いた時不思議な感触を抱かずにはおれなかった。
「これはどういうことだ」
 辺りを見回す。だが何もない。何もいない。誰も何もないのだ。
 では何故か。僕は考えた。しかしやはり血の匂いを感じさせるものは何処にもないのだ。これが一体何なのかこの時の僕には全くわからなかった。
 首を傾げた。だがやはりわからない。僕は風呂に戻り身体を洗って風呂を出た。その匂いは一瞬のことでありそれからはそんな匂いは消えていた。僕は着替えを終え風呂場を出た。そこには彼女が待っていた。
「あの」
 出るとそこにいたので戸惑わずにはいられなかった。何か言おうとしたが彼女はその前に僕に対して言った。
「こちらです」
 そしてまた案内する。ここで僕は一つ不思議なことに気がついた。
 この家にいるのは彼女以外にはいないようなのだ。この洋館の手入れも食事もとても一人でできるものではない。だがここには彼女しかいないのだ。これはどういうことなのであろうか。僕がたまたま他の人に会ってはいないだけなのか。それについて考えざるを得なかった。だがここでも彼女は僕のそんな考えを見越したかのように僕に声をかけてきたのである。
「広い家でして」
 前を行く彼女は僕に顔を向けることなくそう話し掛けてきた。
「何かと使用人達には迷惑をかけております」
「そうなのですか」
 僕はそれを聞いて安心した。どうやら僕がたまたま出会ってはいないだけだと納得した。この時は。だがそれはやはり違っていたのだと後で気付くことになるのだ。
 廊下の左右の燭台を見る。ゆらゆらとおぼろげな炎が漂っている。そこには何故か熱を感じはしなかった。触れても熱いものだとはとても思えなかったのだ。不思議な炎であった。見ればその蝋燭の蝋も不思議であった。何故かそれが人の手に見えるのである。
 彼女はやがてある部屋の前に来た。そしてその褐色の樫の扉を開けて僕をそこに案内した。
「こちらです」
「はあ」
 中を見て驚いた。豪奢な装飾が施されており、花で飾られていた。そしてベッドは天幕であった。
「よくお休み下さい」
「あの」
 僕は彼女に問わざるを得なかった。
「何でしょうか」
 彼女はそれを受け僕に顔を向けてきた。
「この部屋を使って宜しいのでしょうか」
 生まれ故だろうか。こうした豪奢な部屋には慣れてはいない。ましてや天幕付きのベッドにも慣れてはいない。いや、この目で見たのは今がはじめてであった。お世辞にも生まれはよくないのだ。
「構いませんよ」
 彼女は優美な笑みを浮かべてそう答えた。
「こちらはお客様用のお部屋なのですから」
「そうなのですか」
 僕はそれを聞いて頷いた。
「では使っても宜しいのですね」
「はい」
 彼女は答えた。
「是非ともお使い下さい」
「わかりました」
 僕はそれを聞いてようやく部屋に入った。
「では有り難く使わせて頂きます」
「どうぞ」
 彼女は静かな声で答えた。
「ではお休みなさい。どうぞごゆっくり」
 そう言って扉を閉めた。部屋は暗闇に包まれた。 
 いや、違った。大きな窓から月の光が差し込んでいた。その光が部屋を照らしていた。
「また大きな月だな」
 僕は窓の側に行きその大きな月を見て呟いた。満月であった。
 ここで僕はあることに気付くべきであった。今は満月が出る時期ではないのだ。だが僕はここでもそれに気付くことはなかった。その大きな黄金色の月に心を奪われてしまっていたのだ。
 窓の側のテーブルに腰掛けた。そこにはワインのグラスとボトルが一本置かれていた。事前に彼女が置いていてくれたものであろうか。見ればフランス産の赤であった。
「丁度いい」
 風呂からあがったばかりで喉が渇いていた。僕はボトルを空けガラスのグラスにワインを注ぎ込んだ。そしてそれを口に含んだ。美味かった。
 瞬く間に一本空けた。他には何もいらなかった。月を見ながら飲むだけで充分であった。月が僕に飲むように勧めているようであった。
 一本空けると眠気が身体を支配した。僕はその天幕のベッドに入った。そしてそのまま休んだ。目が醒めるともう朝になっていた。
 起きて服を着た後で部屋を出る。やはり誰もいる気配はしない。
 たまたまだろうな、そう思いながら食堂に向かう。そこにも誰もいなかった。
「お早うございます」
 後ろから彼女の声がした。そちらを振り向く。
 するとそこにいた。見ればやはり白い服を着ている。
「あ、どうも」
 僕もそれに応えた。
「お早うございます」
「はい」
 彼女はそれを受けて頷いた。それから彼女は僕に対して言った。
「今朝は外で食べませんか」
「外でですか」
「はい。もう用意してあります」
 そう言って食堂の外を指差す。そこには一組の白い木の椅子とテーブルがあった。そしてその上にはバスケットと飲み物が置かれていた。
「如何ですか。朝日の下での朝食というのもいいですよ」
「そうですね」
 僕は頷いた。
「それではご一緒させて下さい」
「わかりました」
 彼女は微笑んで僕をそこへ案内した。僕は彼女に従い食堂の外に出た。そしてそこに腰掛けた。それから朝食となった。
 バスケットの中にあるのはパンとサンドイッチであった。パンはやや固いフランスパンである。彼女はそれにマーガリンを塗って食べていた。
「如何ですか」
 彼女はそのマーガリンを僕に差し出してきた。
「有り難うございます」
 僕はそれを受け取った。そしてそれを彼女と同じくマーガリンに塗った。そしてそれを口に入れた。美味かった。こんなに美味しいパンはそうそうあるものではない。
「美味しいですか」
 彼女は僕に問うてきた。
「はい」
 僕はそれに素直に答えた。
「美味しいですね、このパン」
「そうですか」
 彼女は僕の言葉を聞くと顔を綻ばせた。
「そう言って頂けると嬉しいです。それにいつも食事は一人ですし」
「そうなのですか」
「はい」
 彼女は答えた。
「父も母もおりませんから。私はいつもここで一人で食事をとっておりますのよ」
「そうだったのですか」
「はい、使用人達は遠慮して。私はいつもこうしてここで一人で食事をとっていたのです」
「そうだったのですか」
 それは味気ないことだと思った。僕の家には騒がしいがいつも家族がいる。食卓も賑やかだ。だがこの広い家に一人で食事をするとなるとどうだろうか。その寂寥感は如何程のものであろうか。
 だが僕はそれについては何も思わない。他人への同情は好きではない。冷たいと思われるかも知れないが同情や憐れみなぞかえってその人にとって失礼だからだ。
 したがってそれは口にも顔にも出さなかった。だが彼女はそれに気付いたようであった。
「あの」
「はい」
 僕はその声に顔を上げた。
「私は平気ですから」
「そうですか」
 内心ギョッとした。まさか心が見透かされているのでは、と思った。
「一人は一人でいいものですよ」
「はあ」
「好きなことが出来ますから。そうだ」
 何かを思いついたようであった。
「朝食の後海に行きませんか」
「海ですか」
「ええ」
 生憎僕は泳げない。従って水着なぞは持ってはいない。断ろうかと思った。
「海はお好きですよね」
「ええ、まあ」
 それでも見るのは好きである。見るだけなら構わなかった。
「それならご一緒して下さい。そしてそこで海を一緒に眺めましょう」
 そういうことなら構わなかった。僕はそれに頷いた。
「はい」
「よかった」
 彼女はそれを受けて優しく微笑んだ。その目が垂れる。
「では食事の後行きましょう。楽しみにしていますから」
 こうして僕は彼女と共に海に行くことになった。やはり見送りはなく僕は彼女と共に屋敷を後にした。そして二人で海に向かった。
 二人並んでいると兄妹か、はたまた恋人同士か。そうも見られるかも知れない。しかし僕はそこにある種の違和感を覚えていた。
(妙だな)
 隣にいる彼女に生きた感触を感じなかったのだ。まるで人形が隣にいるようであった。僕は人形が嫌いだ。だからこそこうした感触には敏感なのだ。その人形に似た感触を彼女にも感じていた。
 見れば見る程美しい。白いワンピースがよく似合っている。夏の中の一つの風景としても通用する。そうした自然な色合いさえ漂っていた。
 だがそれでも生きた感触がなかったのである。彼女からは何か無機質なものを感じざるを得なかった。そしてそれを感じながら道を行くのはやはり不自然であった。
 僕は彼女に案内されて海に着いた。そこは誰もいない白い砂浜であった。
「誰もいないね」
 僕はその砂浜に着いてそう呟いた。
「ここは私の家の土地になっていますから」
 彼女はそれを聞いてそう答えた。
「ですから誰もいないんです。お気になさらずに」
「そうですか」
 それを聞いてようやく納得した。この季節観光客で溢れ返っているこの白浜でこの静かさは流石に異様に思えたからだ。
 暫く僕は海を眺めていた。置かれていた椅子とテーブルに座って海を眺めていた。
 ここで昼食をとるのかと思った。しかし僕達は何も持ってはいない。
「あの」
 急に彼女が立ち上がった。
「何か」
「お昼になったら屋敷に帰りましょう」
「え、ええ」
 またであった。何故か僕の考えを先に言う。やはり不自然であった。
「それまで」
 彼女は立ち上がったままで僕に言葉を続ける。
「泳いでも宜しいですか」
「いいですけれど」
 僕にそれを止める理由はなかった。
「けれどその服では」
「御心配なく」
 彼女はそう答えるとワンピースに手をかけた。そしてその前のボタンを外す。帯を解く。そして下から白いワンピースの水着を着た彼女が姿を現わした。
「もう着ていますから」
「そうだったのですか」
 スラリとした体型である。グラマーというものでは決してないが整ったプロポーションをしている。女性らしい体型であった。黒い清楚な髪によく似合っていた。肌も白く、それが尚更その体型を際立たせていた。
「では今から泳いで来ます」
「どうぞ」
 断る理由もないのだ。そう答えた。
「僕はここにいますから」
「わかりました」
 泳げなくとも何かあれば助けたかった。今は彼女を見守るだけであった。
 彼女は海に入った。そして泳いだりその中にはしゃいで楽しんでいた。その顔は少女の顔そのものであった。
(さっきのは気のせいか)
 僕はそれを見てそう思った。今見る彼女からは生気が感じられる。
 そして安心した。僕は彼女が泳ぎ終え、海からあがるのを待った。持っていたタオルで身体を拭くと彼女はワンピースを着た。そして僕達は洋館に帰った。
 洋館に帰ると昼食が食堂に並べられていた。やはり洋食であり、見たところオリーブを使っている。料理は全てテーブルの上に並べられている。今の洋食のマナーではないがこれはこれで趣があった。
「どうぞ」
 彼女は僕に食べるように薦めた。僕はそれに従い食べた。
 スープの後は野菜、そして魚である。魚はこの白浜でとれたものであろうか。新鮮な生の魚をオリーブや香辛料で味付けしている。白身で美味かった。
 それから肉料理である。鳥肉であった。一口食べると鳥より味が濃い。鴨であった。
「如何ですか、鴨は」
 彼女は鴨を口に入れた僕に尋ねてきた。
「私は好きなんですけれど」
「美味しいですね」
 鴨は何度か食べたことがある。鍋等でだ。嫌いではない。だがこの鴨は今まで食べた鴨の中で最も美味しいものであった。これ程鴨が美味しいとは思わなかった。
「よかった」
 彼女はそれを聞いて顔を綻ばせた。
「鴨は癖がありますから」
「はい」
「気に入って頂けるか不安だったんです。お出しするのが怖かったんですよ」
「そうだったのですか」
 ここで僕はあることに気付いた。彼女は出すのが怖かったと言った。料理は使用人が出している筈なのに。そして見たところ彼女は使用人に全てを任せているようだ。少なくとも僕はこの家にいるという使用人達と彼女が話をしているのを見たことはない。それどころか彼等の気配すら感じない。それで何故鴨を出すと知っていたのであろうか。そして何故今出すと言ったのだろうか。ふとそう考えた。
「お気に召されて何よりです」
 しかし彼女は僕のそんな疑念を吹き消すかのようにまた声をかけてきた。絶好のタイミングであった。
「それではデザートもお楽しみ下さい」
「はい」
 僕は何が出て来るかと思った。ふとここでこう思った。
(チョコレートとバニラの二つのアイスだったらいいな)
 単純に好みだけでそう思った。アイスクリームは好物である。
「デザートは場所を変えませんか」
 彼女はここでこう提案してきた。
「場所をですか」
「はい」
 彼女は答えた。
「実は用意してあるんです」
「ほお」
 僕はそれを聞いて声をあげた。
「何処ですか」
「あちらです」
 隣の部屋を指し示した。そこはリビングであった。
「二人でゆっくりと召し上がりませんか」
「いいですね」
 僕はそれに乗ることにした。
「それではご一緒させて下さい」
 図々しいがその申し出を受けることにした。そこで無意識のうちに確かめたいことが一つあった。この時僕は気付いてはいなかったがやはりこの屋敷に対して疑念を抱いていたのだ。
「はい」
 彼女は僕を案内した。そこには古風なテレビの前にソファーが置かれていた。その前の大きなテーブルに二つのガラスの皿が置かれていた。そしてそこには白と黒のアイスクリームがあった。
 これを見て僕は意外にも思わなかった。自然なことだと思った。だがやはり無意識のうちにそれがこの屋敷では自然のことなのだと確信した。そしてそれが異常なことだということも。
「どうぞ」
 彼女は僕に座るように薦めた。僕はそれに従った。そして席に着いた。
 それからアイスクリームを食べた。僕達は楽しく談笑しながら食べた。それからは昨日と変わらなかった。夕食と風呂、そして酒を楽しみ寝た。こうした日が二三日続いた。
 やがて僕はこうした生活に慣れようとしていた。望むものは何でも何時の間にか手に入る。美しい景色も見ることができる。しかも側には美しい少女がいる。満ち足りた生活であった。
 だが僕はその生活にふと思うことがあった。一週間が経とうとする頃にそれはさらに強くなった。
 やはりおかしいのだ。何もかもが満ち足りてしまっている。それはあまりにも満ち足りていてそれが自然にすら思える程であった。その自然さに疑問を覚えたのだ。
「この屋敷には何かがある」
 僕はそう確信していた。だがそれが何かまではわからなかった。
 屋敷で姿を見るのは少女だけである。それも僕が望む時に姿を現わす。いると思ったらそこにいるのだ。これについて不思議に思わない方がどうかしていた。
 ある夕食の席で僕は同席している彼女に問うた。
「あの」
「はい」
 彼女はフォークとナイフを止めて僕に答えてきた。僕は思い切って言うことにした。
「そろそろ帰らせて頂きたいのですが」
「どうしてですか?」
 それを聞いた彼女の顔が急に悲しげなものになった。
「何かこの屋敷にご不満でも」
「いえ」
 それはなかった。正直にそう答えた。
「そろそろ家に帰らなくては。家族も心配しているでしょうし」
「それなら御心配なく」
 彼女はそう答えた。
「ご家族も貴方様のことはご承知です」
「そうなのですか」
 何時の間に連絡していたのであろうか。いや、そもそも彼女に実家のことなぞ全く言っていないのだが。
「ですから何もお気遣いなく」
「しかし」
 それでも言わざるを得なかった。
「それでも家族が心配しておりますし」
「どうしてもですか?」
 彼女の黒い琥珀の様な目に涙が浮かんできた。
「帰られるのですか?」
「それは・・・・・・」
 泣かれるとは思っていなかった。僕は怯んだ。
「あと少しだけでも」
 ここでこう言われた。
「ここに留まって頂きたいのですが」
「いいのですか?」
 かえって僕の方が謙遜してしまった。
「はい」
 彼女は答えた。
「貴方様がお好きなだけ。是非留まって下さい」
「わかりました」
 これで話はふりだしに戻った。こうして僕はまた数日この屋敷に留まることになった。それは数日どころかまた一週間経った。それでもまだ続いていた。
 本当に慣れてきた。もうここでのことに何の不満もなかった。しかし疑念は別であった。
 やはりこの洋館は何かがおかしいのだ。邪な空気はない。むしろ落ち着く。だが、そこに僕は一種の異様さを感じずにはいられなかったのだ。
 彼女以外にいない家の者、そして無機質な中。時として見えるものが幻想ではないかと感じる程であった。
 僕は屋敷の中を歩くことは少なかった。ただ彼女に案内されるか、決まった道を進むだけであった。外に出るにしてもやはり彼女と一緒である。殆どいつも彼女が側にいるのだ。
 完全に心を許していた。信頼もしていた。だがそれでも彼女から感じられるものは生気ではなかった。何処か無機質な、人形のようなものであった。
 ある日街から帰った時であった。僕は彼女と二人で洋館に続く道を歩いていた。前には赤い大きな夕陽があった。そして海はその夕陽に照らされ赤く輝いていた。
「あの」
 僕はそれを見ながら彼女に声をかけた。
「はい」
「今日の夕食は何でしょうか」
「何が宜しいですか?」
 そう聞かれるといつもこう答えるのだ。
「そうですね」
 僕は考え込んだ。
「野菜をメインにお願いします」
「わかりました」
 彼女は頷いた。そして屋敷に帰り一時間程すると呼ぶ声がした。食堂に行くともう食事が並んでいるのである。これもいつも通りであった。
 夕食を食べて風呂に入る。血の匂いはもうしなかった。あれは一体何であったのだろうか。ふとそう考えていた時であった。
「ん!?」
 僕は風呂場の木の柱に傷を見つけた。見ればかなり長い。
 そしてその傷は赤くなっていた。それは何と血であった。
「血」
 僕は咄嗟に自分の身体を見た。だが何処にも傷などなかった。僕の傷ではないようだ。
 それから木の傷口を見た。見れば血はこの木から滲んでいるのだ。
 赤い樹液を出す木もあるという。だがそれにしてはこの木は古い。それは有り得なかった。
「使用人か」
 ふとそう考えたがすぐに違うと思った。僕は彼等の影すら見てはいないのだ。
 とりあえず前に感じた血の匂いの正体はこれだと思った。だが何故ここにそんなものが付いているのかが謎であった。
 風呂からあがると僕は部屋に帰るまで屋敷の中を細かく見た。短い道であるがそれなりに見てみた。すると燭台の火には熱はなく、そして壁も冷たくはなかった。むしろ温かかった。
 益々もっと無気味であった。僕はこの屋敷に不自然さを感じずにはいられなかった。そして遂に我慢できず次の日の朝彼女に問うことにした。まずは風呂場の血であった。
「少し気になったことがあるのですが」
 僕はやんわりとそう切り出した。
「はい」
 彼女は僕が何を言わんとしているかわかっているような物腰であった。
「風呂場に血が付いておりました」
「血が」
「ええ。あれは使用人の何方かのものでしょうか」
「あれは」
 彼女はここで自身の右手を見せた。
「これです」
 そしてそこには一つ長い傷があった。
「それは」
「あれは私の傷なのです」
 落ち着いた声でそう答えた。
「貴女の」
「はい」
 彼女はまた答えた。
「貴方の仰りたいことはわかっているつもりです」
「そうなのですか」
 僕はそれを聞いて彼女が何者なのかうっすらとわかった。
「今まで隠していたことですが」
 彼女は語りはじめた。
「この家は貴方の予想通りです」
 僕はそれを聞いてやはり、と思った。
「私以外には誰もおりません」
「では誰が家事等をしているのですか?」
 僕は問うた。
「私自身が」
 彼女は答えた。
「私が願えば全ては出て来ますから」
「それでは貴女は」
「はい」
 彼女は答えた。
「この屋敷は私そのものです。私とこの屋敷は同じなのです」
「そうだったのですか」
 僕はそれを当然のことだと受け止めていた。驚きはしなかった。
「それでは」
 僕はまた問うた。
「この洋館は一体何なのでしょうか」
「はい」
 彼女はそれに答えた。
「この洋館は明治の初期に建てられたものです」
 古い洋館だ。その予想は当たっていた。
「そして私はこの洋館の心なのです」
「古いものに魂が宿った、ということですね」
「ええ」
 そう答えて頷いた。
「つまり洋館は私の身体、私は洋館の心なのです」
「貴女ご自身が洋館なのですからそうでしょう」
 僕はそれを聞いてそう答えた。
「これで今までのことがわかりました」
 彼女は答えなかった。
「何故今まで僕の思う通りになっていたのか」
「それは私が貴方の心を読んでいたからです」
「そう」
 僕はそれを受けて頷いた。
「そのうえで貴女は動かれていた」
「はい」
「全ては貴女の手の中にあったのだ」
「それは違います」
 しかし彼女はそれを否定した。
「私はただ貴方の望まれるようにしただけです」
「確かに」
 それはよくわかっていた。
「だがそれには貴女の別の心があった」
「否定はしません」
 彼女はそれを認めた。
「貴方にずっとここにいて欲しかったのですから」
「それは何故ですか」
 僕は問うた。
「何故僕にここに留まっていて欲しかったのですか?」
「それは」
 彼女は口篭もった。
「さあ、どうぞ」
 だが僕はそんな彼女に答えてくれるよう促した。
「お答え下さい」
 やはり人ならぬ者である。警戒はしていた。僕は顔を引き締めて問うた。
「寂しかったからです」
 彼女は答えた。
「寂しかった」
「はい。私は長い間ここに一人でした」
「どれだけですか」
「生まれてすぐです」
 そう言った。
「私は百年以上も前にここに建てられました」
「明治の頃でしょうか」
「ええ。さる華族の方がこちらの別荘にと。しかし」
「何らかの事情でいなくなってしまったのですね」
「そうです。それが何なのかはよく知りませんが」
 悲しい声でそう言った。
「それから私はずっと一人でした」
「今までですか」
「ごくごく稀に人が来られましたけれど」
 そのうちの一人が僕であるらしい。
「どなたもすぐに去られました」
 また悲しい声になった。
「それが何故なのかわかりませんでした。私の何処がいけなかったのでしょうか」
 悩む声になった。
「その方の望まれることをしてきたというのに」
「望まれることですか」
「はい」
 彼女は答えた。
「どの方の御心もお読みして。それから尽くしたのですが」
「それはわかっています」
 僕はそう言った。
「貴女は今まで僕に本当によくしてくれています。それは深く感謝しています」
「しかしそれでもここを去られるのですね」
「はい」
 否定するつもりもなかった。
「やはり」
「帰らなければなりませんから」
「貴方も」
「ええ」
 僕は答えた。
「そしてこれからどうされるおつもりですか」
 そう問うてみた。
「僕を殺したりするおつもりですか」
「どうしてですか?」
「帰られるのならいっそ、と」
「そんなことは致しません」
 首を振ってそう答えた。
「そのようなことは」
「では今まで貴女のところに来た人は」
「はい」
 頷いた。
「皆帰られました」
「そうでしたか」
「私は家ですから」
 悲しい微笑みであった。
「家がどうして人を害することができましょうか」
「そうですね」 
 その優しさがかえって彼女を苦しめていることはわかっていた。
「そして貴方も去られるのですね」
「そうですね」
「何故でしょうか」
「何故」
「こちらに留まれない理由でも」
「ありますよ」
 そう答えを返した。
「人は確かに満ち足りた生活を望みます」
「ええ」
 それは彼女が最もよくわかっていることであった。
「ですが」
「ですが!?」
「人はそれだけでは満ち足りないのです」
「それはどういうことでしょうか」
「御存知ありませんか」
「何をでしょうか」
 彼女は全くわかっていなかった。それが今までの悲劇の理由であるのだが。
「貴女はそれがわかっておられないのですね」
「何をでしょうか」
 またその言葉を繰り返してきた。
「人は自らの望むものばかり手に入っているとかえって満ち足りないのです」
「それはどういうことでしょうか」
「人間とはそうしたものです」
 僕はここでこう答えた。
「満ち足りてばかりだとかえって不安を覚えます」
「不安を」
「ええ。人の世はそうではありませんから。我々は人の世にいるのです」
「私の中ではなくて」
「はい」
 僕は頷いてそう答えた。
「我々は常にその世界にいるのです。だからこそ望むものは何でも手に入ると不安を覚えるのです」
「だからだったのですね」
 どうやら思い当たるふしがあったらしい。
「皆不安な顔で帰っていったのは」
「そういうことです」
「私は不安を取り除きたかったのに」
「逆効果でした」
 そう言わざるを得なかった。
「多少不足がある程度でなければ駄目だったのです」
 僕は言葉を続けた。
「この洋館、いえ貴女には何でもあります」
「はい」
「景色も食べ物も住居も。これ以上のものはそうはないでしょう」
 だがそれが仇となったのだ。
「そのせいです。それが駄目だったのです」
「それが・・・・・・」
 流石にショックを受けているようであった。
「私の中が満ち足りていたせいで」
「そういうことになります」
 僕は答えた。
「貴女はあまりにも満ち足り過ぎています。ですがそれは人にとってはかえって不安を招くもの。そしてその不安は普通の不安よりも遥かに大きなものなのです」
「・・・・・・・・・」
 彼女はまた沈黙した。
「どうすればよかったのでしょう」
「貴女の思いやりの心が強過ぎなければよかったのですが」
「人を思うのがいけなかったのでしょうか」
「少し違います」
 僕は言った。
「人は優しさを有り難がるものです。ですが人はそれ自体で一つの家なのです」
「家」
「そう、貴方と同じです」
「私と」
「貴女はどうか知りません」
 僕はまた言った。
「ですがそれは不完全な家なのです」
「不完全な」
「だからこそ完全なものを求める。しかし人間という家は決して完全なものにはなれないのです」
「そうなのでしょうか」
「貴女御自身もそうでしょう」
「私も」
「そうです。貴女もまた満たされていません」
「それは認めます」
 彼女は答えた。
「そういうことです。無理をして完全なものになろうとする必要はない。そして」
「私は人にそれを押し付けていただけだったのですね」
「厳しいことを言うようですが」
「・・・・・・・・・」
 また沈黙してしまった。だが僕は言った。
「思いやりも時として仇になります。そして人は過度の干渉を嫌うのです」
「私はそれに気付かなかった」
「そうなりますね」
「ずっと今まで」
「ええ」
「・・・・・・・・・」
 その目に光るものが宿った。ようやくわかったのだろうか。
「ですがまたここに来ます」
「えっ」
 その言葉に驚いたようであった。思わず顔を上げた。
「来られるのですか!?」
「はい」
 僕はそれに答えた。
「そんな貴女の思いやりですが僕は快かったです。また来て宜しいでしょうか」
「え、ええ」
 戸惑いながらも答えた。
「喜んで」
「ならばお願いしますね」
 僕はまた言った。
「多くは言えませんが貴女は優しい方だ。そしてそれはよくわかります」
 彼女は答えられなかった。
「その優しさにまた触れたいと思います」
「こちらこそ」
 彼女は立ち上がった。そして僕の方に歩み寄って来た。
「是非ともお願いしますね」
「はい」
 握手した。その手は小さいが温かい手であった。
 次の日僕は洋館を後にした。彼女は駅まで見送ってくれた。
「また御会いしましょう」
「お願いします」
 僕は白浜を後にした。だがすぐに戻って来るだろう。あの過保護な少女の下へ。

ある少女の話   完


                2005・1・24 
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