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毒婦

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1部分:第一章


第一章

                     毒婦 
 信濃の国の話である。この時この国は戦国の中にあったがそれが大きく変わろうとしていた。
 甲斐の虎武田晴信。彼が信濃に進出し豪族達を次々と攻め滅ぼし、追放していった。今や信濃は彼の軍門に下ろうとしていたのであった。
 だがそれは決して悪いことではなかった。晴信は戦略家、戦術家としてだけでなく政治家としても傑出していた人物であったのだ。法を整備し民を治め、地を豊かにした。その為信濃の者達も晴信になつくようになっていた。こうして信濃は瞬く間に武田の領地になろうとしていたのであった。北にはまだ村上、小笠原といった強敵がいたがそれでも順調に領土を増やしていっていた。武田の勢力は大きく伸びようとしていた時であった。
 そんな時であった。甲斐と信濃の境にある村の一つで奇怪な事件が起きていたのじゃ。
「またか」
「ああ、またじゃ」
 村人達は墓を掘りながら互いに言い合う。彼等はやりきれないといった顔で墓を掘っていた。
「こうも続けて死んでいくとな」
「うむ」
 彼等は顔を見合わせて言う。
「やはりおかしいじゃろう」
「しかも若く美しい男ばかりが。どうしてじゃろうな」
 この奇怪な事件のことはすぐに晴信の耳にも伝わった。彼は甲斐の躑躅ヶ崎館においてその話を聞いた。
 武田は城よりも人材を重んじる傾向があったとされている。人が城であり人が石垣であるとは晴信自身の言葉である。その為この館も武田の拠点としては然程守りの堅いものではなかった。彼は城よりも人に重きを置いていたのである。
 彼はこの館において話を聞いた。重厚な顔立ちでどっしりとした雰囲気の男が館の中の主の座に控えていた。
「それはまことか」
 晴信はそれを聞くとまず報告した家臣の一人に問うた。その家臣の左右には武田の重臣達が控えている。中には晴信の弟達もいる。彼等こそが晴信にとっての城であった。
「はっ、民達はこのことに動揺を覚えているようにございます」
「そうであろうな」
 晴信はそれを聞いてまずは頷いた。
「その様な奇怪なことになっておればな」
「はい」
「その話、捨ておけぬ」
 彼は言った。
「すぐに事の詳細を明らかにし、民の不安を取り除くぞ」
「ですが御館様」
 そこに控える重臣達が彼に顔を向けてきた。
「一体どのようにして」
「どのように、か」
「左様です」
 どうやってそれを解決するか、それが肝心なのである。彼等の関心はそこであった。
 だが晴信も伊達に父を追い出して国を掌握し、若くして領主としても武将としても名を挙げているわけではない。もうそれは考えが及んでいた。彼はそれを述べた。
「人を遣わす」
「人をですか」
「そうじゃ、とっておきの者がおるではないか」
「それは一体」
 重臣達の中でも上座にいる晴信によく似た男が問うてきた。彼の名は武田信繁。晴信の実の弟であり彼の片腕として武田家を支えている男である。彼こそは武田の副将であるとまで言われていた。晴信にとっては彼の腹心中の腹心であり最も頼りにしている者である。
「春日じゃ」
「春日」
「あの者ですか」
 信繁を含めて重臣達はその名を耳にして様子を変えてきた。
「そうじゃ、あの者ならば問題ないと思うが」
「確かに」
「春日なら大任を果たしてくれましょう」
 武田でも名の知られた者達が一様に納得したように頷く。だがここで信繁はあえて兄に対して述べた。
「ですが御館様」
「まだ何かあるか」
「春日では少し目立ちませぬか」
「言われてみれば」
「確かに」
 重臣達もそれに応える。
「何しろあの者は」
「あれだけだと」
「何、それも考えてのことじゃ」
 晴信は重臣達の声を耳に大きく笑ってきた。
「確かにあの者は目立つな」
「はい」
「まことに」
「だからじゃ。それだけに話の解決には向かう」
「左様ですか」
「一先話が向けばな、後はあの者が自分でやる。それで終わりじゃ」
「そうでしたら」
「ここはあの者に任せましょう」
「吉報を待っておれ」
 晴信は大きく構えて言った。
「じきにこの話は事の仔細がはっきりしたうえで終わるからな」
「はい」
「それでは」
 重臣達は皆一様に頭を垂れた。晴信は最早父信虎以来の重臣達をも心服させていた。血縁の者も多いが若くして老臣達を従えさせるものが彼にはあった。だからこそ。皆彼の言葉を信じ吉報を待つのであった。
その頃中山道を甲斐から西に進む一人の若者がいた。道行く人や道の側の村人達は擦れ違うだけで思わず振り返らせてしまっていた。
「何と」
「あの様な者がいたとは」
 その格好は普通の旅装束であった。腰に刀を差し編笠を被っている。その格好を見るに武士であることがわかる。だが人々を振り返らせていたのはその顔にあった。
 見れば女と見間違うばかりの麗しい顔であった。切れ長の目は清らかに澄み肌は紙の様に白くきめ細かい。これだけの肌を持っているのは女でもそうはいない。唇と頬は赤くまるで紅をさしたようである。鼻立ちも唇も形がよくまるで人形のようである。彼こそが晴信が話の解決の為に送り出した者、春日源介であった。
 甲斐国の豪農である春日家に生まれ十六で晴信に召抱えられた。その美貌と才覚により晴信に愛され奥近習となっている。この時十八、晴信にとっては期待の家臣の一人であった。
 その美男子が今甲斐から信濃に向かっていた。行く先は一つ、騒動が起こっている村であった。
「あんれまあ」
 彼を見た農婦の一人がまず声をあげた。
「どうしたんだ、御前」
「あんた見なよ」
 隣で畑を耕していた夫に声をかける。
「あそこにとても奇麗なお侍様が」
「奇麗な!?」
 彼はそれを聞いて顔をあげた。すると彼も思わず声をあげてしまった。
「おお、これはまた」
「なあ、凄い奇麗な人だろ」
「女ではないわな」
「まさか」
「いや、あの顔は女のものじゃぞ」 
 こちらに歩いてくる源介を見て言う。
「そうでなかったら何じゃ」
「ああ、ちょっと」
 丁度すぐの場所まで来たところで源介は苦笑いを浮かべて道の端からその農夫に声をかけてきた。その声も麗しいものでやはり女のものにも聞こえる。そんな声だった。
 
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