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歪んだ愛

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第3章
  ―6―

「あそこ迄人間として卑劣な男を俺は知らん。」
仙道の口から語られる事実、和臣は黙って聞いた。
利発で口上手く、顔も利発さを漂わす狐顔の二枚目で、なのにちっとも気取った雰囲気が無い。要領が良く、悪く言えば狡賢い東条は、あっさり自分が如何進めば金と名声を手に出来るかを計算した。
其れが、暴力団だった。
幹部が犯した犯罪を構成員に、所謂“オツトメ”をさせる時でも刑期を短くさせる為弁護士は居る。五年の刑期を三年に、二年の刑期を執行猶予に、東条は大金と交換に実力を見せた。
「冬馬の父親…池上が東条の世話になったのは、冬馬が三歳の頃かな。」
夏樹の父親池上は其の頃、東条が専ら世話焼きする由岐城組の枝の構成員だった。
池上は、半グレに近い半端なチンピラでも、だからと云って本部のエリートでも無い中途半端な立場だった。
ヘマをすれば鉄砲玉、大義果たせば幹部が見える…そんな状態で池上は生活していた。
そして池上は夏樹が三歳の頃、籍を置く会の幹部の代わりに傷害で出頭した。軽く刺しただけだから執行猶予だけだ、其の言葉を信じて。
実際は、薬にも毒にもならない池上を組から追い出したいだけの芝居で、池上は此れで一年の刑務を言い渡されている。一年服役し、出所した後の池上の席は何処にもなかった。

――話が違うやないか。

出所した池上は先ずに東条の元に向かい、一年前の恨みを吐いた。

――そう、俺に云われてもなぁ。俺は先方さんの言う通りにしただけやし、え?何?御宅、若しかして執行猶予やとか云われた?敵わんなぁ、がっつり刺しといて、執行猶予は無いわ。刑期減らせて云われただけよ、俺。

そう東条は吐き捨て、池上を追い出した。
其の時二十三歳だった池上を、資本主義の闇に堕とすには充分だった。
荒れた、池上の素行は一層荒れた。粋がりたい十代の少年を連れては暴力で金を奪った。奪った金で博打をした。増えれば酒と女を買い、減れば妻に手を上げた。
何処迄行っても俺は中途半端やな。
遊戯の一つとして暴力と恐喝を繰り返す少年達を見て池上の心は荒んだ。だが、悲しいとは思わなかった。此れが自分には似合いなのだろうと、池上は自嘲するしかなかった。
「冬馬も、東条の被害者の一人なんだよ。俺は良いさ、俺には人生が出来上がってたから。けど冬馬は違う。彼奴は、人生を作る筈だったんだよ。池上も、あの事が無けりゃ、もう少しまともだったろうよ。少なくとも、組に居りゃ定期的に金は入ったんだから。」
「そうか?変わらんと思うが。」
「池上も池上なりに愛情はあったろうよ。彼奴、借金が凄いんだけど…冬馬に聞いたが、家に取り立てが来た記憶が無いって云うんだよ。あの時代だろう?ヤクザの取り立てがどんなものか…あんただって知ってるだろう。」
「まあ、な。」
今でこそ対策がなされているが、本の数年前迄の“闇金”の取り立ては凄まじかった。其の記憶が無いとは、家に取り立てが来ていない証拠である。
其の筈で、池上にはもう一つ家庭があった。
池上の本妻…夏樹の母親の職業はホステスだ。一方で愛人はソープ勤務をして居た。
夏樹の母親もまあ若いが、愛人は其れより五歳ばかし年下だった。だから闇金側は愛人の方を担保にした。三十近い女より、二十歳を一寸過ぎた女の方が需要がある、其れに、夏樹の母親が五年働いたとしたら三十過ぎるが、愛人の方は未だ未だ二十代半ばに近い。
「そう思ったら、少し愛情あるって、思わねぇか?」
「如何かな。」
「未だある。冬馬は池上から折檻受けてねぇけど、愛人の方のガキ、ヒデェもんだぜ。二人居るんだけどな、男の方はもう唯のサンドバッグ、娘の方は売りもんだよ。小学生のガキに何してんだって思うけどな、池上も、買う奴も。でもまあ愛人より遥かに金になるから。」
「詳しいな。」
「俺、此れでも弁護士だからな。素性調査は得意なんだよ。御宅等警察や探偵と同じでね。」
「部下の素性洗うのか、嫌な上司だな。」
煙草に火を点けていた仙道は、課長の言葉に狸顔の丸い目をぱちくりさせ、違う違う、と煙を払う様に手を振った。
「冬馬な、最初来た時、池上って名前だった。で、冬馬の最初の依頼人が母親。冬馬一人じゃ未だ出来ねぇだろうと思って一応俺も手伝ったんだわ。したら出るわ出るわ、見事な屑が。久し振りに見たわ、あんな屑。母親に敬服したわ、良く冬馬が育ったなって、然もあんな立派に。母親思いで、本当、優しい子に育ってるよ。」
仙道は鏡に向き、鏡一枚隔てた向こう側に居る夏樹に微笑み掛けた。
「で、不安的中したわ。」
「不安?」
項垂れた仙道は微かに口角を釣り上げ、視線を流した。
「晴香さんが死ぬ前日の昼間、俺の所に連絡が来たんだ。」
此れは夏樹も初耳で、鏡にへばり付いた。

ほんま有難う御座います。未だ使えない息子かも知れませんが、先生、息子の事、お願いします。男に、したって下さい。

母親が死ぬ前日、確かに定時より早く帰宅させられた。あの時は理由が判らなかったが、夏樹も夏樹で抱える仕事を家でゆっくり纏め様と、仙道の言葉に甘え帰宅した。
「気が気じゃなかった。冬馬が自宅に着いた頃であろう時間に、お母ちゃんが死んでるとか電話着たら如何しよう、やっぱ俺も付いてきゃ良かったかな、とか思うだろう?でも結局其の日は連絡無くてホッとした。けど…、翌日だよ、冬馬から連絡あったのは。」

所長、何でか知らん、お母ちゃん、真っ赤で寝てんねんけど、浴槽で。お母ちゃん、風邪引くで。なあ、お母ちゃんて。ていうか、シャワー冷た…、生臭…

「其の時俺の中の東条に対する憎悪が、燃え盛った。」
仙道の指に挟まる煙草は、フィルターに近い。其の時炎に触れた気分だった。
気付いた仙道は灰皿に捨てた。
「東条は、池上だけじゃなく、其れに関係する人間の人生を粉砕した。冬馬は池上を恨み、妻は人生の大半を地獄の中で過ごした。愛人達はもっと悲惨だ。娘は一桁の頃から男達の玩具で、薬漬けにされて、恋も知らず、男の優しさも知らず十八で死んでる。残った今十八歳の弟は池上以上の屑だ。愛人だって、性病に掛かり過ぎて抗生物質が一生手放せない身体だよ。両親揃って働けねぇから、接触禁止令出してる。絶対冬馬に集るだろうなって。実際晴香さんの葬儀で来てるじゃねぇか。」
「御前の憎悪の対象は東条だろう、娘達は関係無い。」
「関係無いと思うか?まさに東条のクソ野郎の血を引いてんだよ。云うなれば、あの娘達が一番の被害者だよ。あの支配的な男に育てられて、まともに育つと思うか?ゆりかは人一倍臆病で、まどかはレズじゃねぇか。」
「ゆりかの性格ははっきりと医学的に証明されてるが、まどかのゲイは病気じゃ無い。」
「…悪かったよ、言い方変える。」
一体此の短時間で何本吸う気なのか、来た時に封が開いていた煙草は、此れで最後だった。
「まどかは確かに生まれた時からゲイだろうけど、物理的原因もある。」
「物理的…」
「東条に恨み持った奴に中学時代強姦されてる。元から女が好きなのに、男から強姦されてみろよ。まどかが世界一嫌いなのは男だよ。」
最後の一本に火が点いた。
強姦という言葉に、和臣の身体にも火が点いた。
己の快楽の為では無く、東条への復讐の為に被害に遭ったと云うのか。
「そして、世界一、東条を恨んでる。当然だろう、父親の所為で強姦に遭ったんだから。」
東条家の中心は何時もゆりか。喘息の発作を恐れる母親に、まどかよりも女らしく一回り小さいゆりかを盲愛した父親。同じにリビングのソファで談笑して居ても、まどかは何時もテレビを見ている気分だった。
唯、ゆりかの発作が始まると、母親の態度は急変した。
何でこんなに手が掛かるの、ゆりかは…。
用事がある時に限って発作を起こす…結果母親は何時も友人との約束や、稽古事を取り止めるしかなかった。

まどかは良いわね、手が掛からなくて。ゆりかもまどかみたいだったら良かったのに。

母親の其の言葉は、疎外感を覚える幼稚園児のまどかでも強烈に印象が残った。

――本当?
――赤ちゃんの時からまどかは良い子よ、ちっとも泣かないし、ママを困らせないもの。

ゆりかには兎に角金が掛かった。喘息の治療費に加え、小学校に入ると歯科矯正が加わった。矯正器具に不愉快示し、周りからからかわれると泣いては母親を困らせた。其の点まどかは健康で、滅多に風邪も引かず、理想的な歯並びとさえ云われた。
一卵性の筈なのに、ゆりかとまどかの性格は真逆だった。
走り回るまどかを、本当に嬉しそうに見る母親の目を忘れられない。だから、活発になった。ゆりかが大人しい分、一層目立った。
此れに手を焼いたのが父親で、もっと落ち着け、と云ったが、二人揃って大人しかったら気味が悪い、と母親が云った。

――まどかは男の子だったら良かったわね。そしたら活発でもパパに文句云われなかったのに。
――そっか。ママは?ママは男の子の方が良いと思う?
――そうねぇ、男の子の方が元気あって良いと思うけど。男の子の怪我は勲章だって云うけど。
――じゃあ、今日から男の子になる!
――本当、ふふ。

二人の差は益々開いた。
誰が見てもはっきりと区別出来、中学生になると、小学校から仲の良い男子生徒等から、おいおいオメェは学ランだろうがよ、と愛情で茶化された。
此の中学時代、一人の男子生徒とまどかは仲良くなる。彼はまどか達の小学校グループの中に、入学して加わった生徒だった。色白で、成長期前なのも重なり、本物の女にしか見えない、美少年とは此の男の為に存在する言葉では無いのかとさえ思った。
彼はトランスジェンダーで、自分の性を女だと意識していた。
其処で、あの内科医が覚えていた“まどかの学ラン姿”に繋がる。
セーラー服着てみたい、とこっそり打ち明けた彼に、体格も変わらなかったので放課後、御前カマ臭いから僕と制服交換しろよ、と何時ものグループの馬鹿騒ぎの中云った。他の男子生徒も、まどかより女っぽいから絶対似合うぜ、と笑う。此れは前以て打ち合わせしていた事なので、彼は拒絶の演技をし乍らも制服を交換した。
交換した二人を見たメンバーは、違和感無し、そっちが本来だろう、と、薄々彼の事を知っていた風な言葉を云った。そして此のグループで一番体格良く冷静沈着な、幼稚園の頃からまどかと連む男子生徒が「職員室行こうぜ」と声変わりした声で云った。
まどか達のグループは全員で六人、此の幼馴染みだけが変声を完全に終えていた。
まどか達を見た担任は笑うだけ笑い、結果は?、と彼を見た。

――こっちが、良いです。
――判った。話してみる。

彼の両親は前以て学校側に息子がMtF…Male to Femaleの略で、肉体は男だが心が女という性同一性障害である事を診断書と共に伝えていた。彼も周りも多感な時期で、彼自身も周りも其れによって性を混乱する可能性が高いと、モンスターペアレンツに見習って欲しいと思う程、息子と同じに周りの発育を気に掛ける模範的な両親だったので服装は男子だった。けれど、出来るだけ女生徒として扱って欲しい…其れだけは釘を刺した。
実は彼、此の障害の所為で小学校時代、残忍で卑劣な苛めを受けており、中学を機に転校をせざるを得なかった。
事情を知る担任は、ジェンダーフリーを意欲的に考える現代的な教諭で、だから担任を任されたのだが、故に良く良く考え、如何に彼が傷付かないで済むか考えていた。
然し、此のメンバーだ。
悪意でからかう相手が居れば、全員が彼を守ってくれるだろう、そう踏んだ。
だから水泳の授業に出なかったのかとまどかは納得した。何だか担がれた気がしたが、彼の笑顔に良しとした。

――で?

担任の目はまどかに向き、必死に笑いを堪えていた。

――其処の学ランのお姫様は、学ランじゃなくて良いのか?くふ…
――は?
――あっはっは、何でそんな似合うんだ!
――何で笑うんだよ!あんた担任だろう!?
――此処迄美形とは思わなかったんだよ。あー笑った笑った。制服だけじゃなく、身体も交換してやれ。

担任だけでは無く、職員室にいた教諭殆どがまどかを微笑ましいと笑った。

――腹立つから此れで帰るわ。
――え?
――明日休みじゃん、明日遊ぼう。
――良いけど。
――おいおいデートかよ。
――断固阻止!
――青春は許さん!
――じゃ御前等も来いよ。

其処に、ゆりかが日誌を持って職員室に来たので其の侭挨拶を済ました。
ゆりかの教室迄付いて行き、其のまどかの学ラン姿に女生徒は黄色い声を上げた。
双子というので有名で、性格も見た目も全く違うので、二人は良く生徒達からも比べられていた。
男子に圧倒的人気なのはゆりかで、女子に人気なのはまどかだった。唯ゆりかは奥手で、余り人と関わりを持とうとしないので友人は少なく、又そんなゆりかに話し掛ける女生徒も少なかった。男子からも、アイドル的目線で見られる事はあっても話し掛ける勇者はおらず、気さくで活発なまどかに話し掛けた。
其の時偶々残っていた、ゆりかと同じに学級委員をする学年一秀才な、ピアノの貴公子と呼ばれる男子生徒が、そっちも良いけど僕はセーラー服を着てる君の方が良い、と眼鏡で隠れる目元を手で隠し乍ら云ったもんだから、一層女生徒の歓声を高めた。

――ん?そうか?有難う。
――うん。
――ゆりか、帰ろう、病院行くんだろ。
――え…?嗚呼、うん…

決死の告白を流された彼は打ち震え、どんまい委員長、御前にはピアノがある、序でにボーイッシュな女も一杯居るぜ、と残った生徒から慰められた。
其れを翌日、グループ内で云ったら爆笑された。其の日は一日、トランスジェンダーの彼を“女子化”するべく夕方迄遊んだ。
娘と化した彼に両親は泣き乍ら、貴方達が友達で本当に良かった、と感謝を述べた。
其の帰りだった。
幼稚園から馴染みとの分かれ道。

――送ってくか?
――うにゃ良い、彼奴なら未だしも俺だぜ?誰も襲いやしねぇよ。
――確かに。彼奴なら襲うけど、御前は襲わんわな。
――云ってろ。

笑った、其の三十分後、まどかは絶望に突き落とされた。
赤かった夕日、気付いたら冬の気配を含む冷たい空気がしていた。
草の匂い…?違う。其れに良く似た臭い…。酸の強い、いがいがした臭いが鼻にこびり付いていた。其れと、強烈なアンモニア臭。

――まどか、おいまどか!

聞こえたのは幼馴染みの声で、まどかは声のする方を見上げた。

――此処、何処…?

“東条まどか”が発見された緑地帯の障害者用トイレでまどかは呟いた。
足首が痛い、全身が痛い、なのに血がこびりつく下半身は痛覚が完全に失せていた。
幼馴染みがまどかを見付けたのは偶然だった。まどかに貸す予定だった漫画本が鞄に入っていたのを見た彼はまどかに電話をした。繋がった時は、めんどくせぇ、等と会話していたが、音は突然途切れた。
いきなり不通になった事を彼は訝しみ、何度か掛けたが虚しく呼び出し音が響くだけ。メンドクセェのはこっちだよ、と家に出向いた。
聞こえた着信音。微かにする。
緑地帯入口に設置されるトイレから其の音はしていた。
違う。
何故か鞄だけ、トイレの外に“置いて”あった。

――まどかー?

外から女子トイレに向かって叫び、然し反応は無い。誰も居ない事を前後左右確認した彼はトイレに足を踏み込んだ。
瞬間、障害者用のスライドドアーが開く音がし、肩を強張らせた。
俺、体格良いけどノミの心臓なんだってば!
バクバクする心臓で女子トイレから出、障害者用トイレを覗いた。
左頬を紫に変色させたまどかが、片足裸足で、下着を膝迄ずり下げた侭便器に座っていた。
鍵閉めて用足せよ!とドアーを閉めたが、なら俺が聞いた最初の音はなんだったんだ、とゆっくり開いた。
地獄の門を、開いた気分だった。
幼馴染みのジャケットは、まどかの身体には余った。彼に手を引かれ帰宅し、騒然とする母親とゆりかに彼は玄関先にへばり付いた。
何してんだ、此奴。
そう、土下座する幼馴染みを見てまどかは思った。

――済みません、済みません、俺が居ながら…俺が…

俺があの時送っていれば……。

瞬間和臣の胃は熱く脈打ち、瞬く間に其の熱さは食道迄上昇した。喉が火を飲み込んだ程熱くなるのを感じ、仙道の言葉を遮った和臣は、取調室の隅にあるゴミ箱を鷲掴むと顔を突っ込んだ。
ゴミ箱を抱える和臣の背中を唖然と見詰める仙道、課長の大きな手が薄い和臣の背中を摩った。
胃液しか出ないのに、何度も吐いた。
無くなる筈が無い憎しみが胃から込み上げた。
「刑事さん、大丈夫か?」
まどかの抱える傷、似ていた。和臣が一生忘れる事の無い記憶と傷に似ていた。
何と無く感情移入したのは此れだったのか。
和臣は最後に唾を吐き捨て、珈琲で口を濯ぐと煙草を咥えた。机に投げられた煙草に仙道は和臣を窺い、充血する目が逸らされたので一本抜いた。
「其れで?其の後如何なった?」
和臣の問いに仙道は続ける。
まどかの被害を知った父親は勿論激高したが、警察には届けなかった。強姦被害に遭った者への仕打ちを父親は良く知っていた。辛いだろうが我慢してくれ、そう吐き捨てた。
然し実際は違った、父親の元に、絶対に許さない、御前に報復出来ないのなら御前の周りにする迄だ、と脅迫状が届いていた。

――そんな貴方…、暢気な…
――まどかを好色の目に晒したいのか…
――…行貞!貴方其れでも父親なの!?
――黙れ!俺が、俺が傷付いて無いとでも思てんのか!?
――肉体的にも精神的にも一番傷付いたのはまどかよ…?貴方が傷付いてる?…笑わせんといて…!行貞は保身しか考えてないやないの!ほんまにまどかんコト愛してんなら、警察に届けるでしょうが!誰の、誰の所為でこうなった!?云いなさいよ、言えるもんなら言うて御覧なさいよ!言えんでしょうが!貴方が、貴方がまどかをレイプしたんも………っ……!

まどかの気配に母親は言葉を飲み込み、父親は目を逸らした。
続きの言葉を聞く気にもなれなかった。
愉快犯だったら良かったのに。
そう思ったがまどかは何も云わなかった、そう、父親への憎しみを飲み込んだ。
妊婦しなかったのは運が良かった。被害に遭った時まどかは生理期間中で、加えて犯人も膣外に射精していた。翌月来た時は嬉しさで泣いた。母親も安堵から放心した。
事件からまどかは明るく振舞った、一層。そうする事で忘れ様と。
幼馴染みは当然、そんなまどかを痛々しく思ったが、心配すれば内輪に其れが露見する、家は正反対だったが、幸い彼は部活動をしていなかったので毎日一緒に登下校した。
そんな状態が半年続くと流石に内輪でも、御前等付き合ってんの?という疑問を持たれた。違う、とは云ったもの、中学二年にもなると男女の体格差は如実に判り、幼馴染みは云った、もう付き合ってる事にしよう、と。
幾らまどかが男勝りだろうが女には変わりない、体格差は無い時は何とも思わなくとも、身体が成長すれば心も成長する、何時まどかを女と意識した生徒から言い寄られるか。此れがとんでもない醜女だったら心配なかったが、生憎まどかは見目良い。なんせゆりかと一卵性なのだから。背が高い分全体的に細っそりとし、幼馴染みから見ても、まどかが女である事がはっきり判り始めていた。其れに、妙に色気も出て来た。

――良いけど、御前、持てなくなるぞ。
――俺は良いんだよ、別に。興味ねぇし。つーか持てませんけど。
――御前が良いなら、良いよ。
――じゃ決まりな。

中学二年の初夏、事件から七ヶ月後の話だった。ゆりかの喘息が安定した時期でもあった。
彼のナイトっぷりは学年からも面白がられ、三年になると、一番憧れるカップル、と下級生達から羨望された。終いには体格や見た目から“番犬”と呼ばれ、まどかが、三回回ってワン!と云うと彼は指示通りに動いた。
二人の関係は卒業迄続き、まどかは女子校に、彼は男子校に進んだ。
彼が居なければ、まどかは本当に社会復帰が出来なかっただろう。
社会には男が居る、其の中で嫌悪や恐怖を持った侭生活するのは並大抵では無い。本当に救われた。
卒業式の日、ボタン全てを下級生に強奪された幼馴染みはこう云った。
俺が居なくても泣くんじゃねぇぞ、と。
施錠された屋上に繋がる踊り場。太陽の光も届かず、春の冷たい空気が溜まっていた。
生徒の声も風の音も聞こえなかった。

――有難う。
――何が。

判っているのに幼馴染みは卒業証書で遊んだ。

――俺、あんたが居たから救われた。
――ばーか。

冷たいリノリウムの床で隣合わす互いの手はふた周りも違った。
骨と筋が張る彼の手に小指で触れた。

――止めろよ。

空気に似た冷たく、硬い低い声だった。

――俺はそんなんで御前を守ってた訳じゃねぇよ。
――うん…

肩パッドの入った学ランの肩に頭を乗せた。

――ねえ。
――うん?
――大好きだよ。
――馬鹿じゃねぇの…
――アレが無くても、あんた、俺の事守ってくれた…?
――……嗚呼。
――云って良い?
――駄目…
――俺さ。
――云うなって…
――あんたを最後の男にしたい…
――駄目だって…

桜が萌えるのは、こんな感じなのだろうか。
互いを写し合う瞳が近付き、骨張った指先が唇に触れ、其の侭頬を引っ張る様に流れた。生暖かい彼の唇の温度に口が開き、湿った舌が自身の舌と合わさった。

――初めてキスした…
――俺だって初めてだよ…、なんせ番犬だったもので…
――三回回って。
――バウ!…うるせぇよ…

幼稚園時代から知ってる相手と、こうなるのは不思議ではあった。
相手は何時しか男となり、まどかは女と変態していた。
冷たいリノリウムの上に敷いた学ランの上に身体を横たえると、彼の変化した匂いが鼻腔を付いた。愛撫も侭ならない…そんな手順だったが、殴られ、口を塞がれ、訳の判らぬ侭公衆トイレで貫かれた時よりマシだった。

――用意周到。
――ちげぇよ…

避妊具の封を口で切る彼に云った。
キスもくれる、侭ならないが胸や秘部への愛撫もしてくれる。
時間にするととても短かった。然し二人には、適度な時間だった。

――まどか…
――うん…?

俺が居なくても泣くなよ。
又同じ言葉。其れでもまどかには嬉しかった。
大丈夫、もう、大丈夫。何があっても、もう泣かない。
私は此の体温をずっと覚えてるから…。
彼の汗ばむ首筋に鼻を寄せ、男への愛情をまどかは断ち切った。
元から友達だったが、此れで本当に友達の関係に戻った。
まどかの中学三年間は自由奔放だったが、ゆりかは違った。下から数えた方が早いまどかに対し、常に学年上位に入っており、一層姿は洗練された。学期全てに於いてゆりかは学級委員をし、二年時から生徒会役員となり、三年時には副会長になった。
教諭からの信頼、生徒からの羨望は、才色兼備のゆりかには容易く掴めた。高校も推薦で共学の進学校に進み、高校大学と私立のまどかに対し、公立国公立とゆりかは何方も推薦で入学した。
何故か。
父親が自分と同じ道を望んだから。
まどかは完全に、頭の悪さから見限られており、ゆりかの一日は勉強で終わった。
父親の期待を一身に背負い、遊び回るまどかを羨望したが、如何せ自分には放課後休日と遊ぶ相手も居ないので関係無い話だと、ゆりかの意識は机に向いた。
まどかは如何せ私立しか行けんのだから、ゆりかだけは見合った学歴を付けろ、と父親の口癖だった。
進学校の勉強内容は並大抵では無かった。一年時に三年の内容をするのは当たり前で、確かに頭は良かったが推薦で入ったゆりかにはきつい事だった。けれど、此処で挫折すれば、母親だけでは無く父親からも失望される。
母親が愛しているのはまどか、其れは幼少時代からはっきり判っていた。
喘息の発作が出る度母親の溜息を聞き、予定を取り止める電話の声を聞いていた。
まどかが、ゆりかの拠り所だった。
嫌な顔一つせずゆりかの世話をする、其の姿は救いだった。
マザーテレサみたい。
ゆりかは何時もそう思っていた。
母親の愛情がまどかに向く程、ゆりかは父親の言葉を求めた、自分を見てくれるまどかを求めた。
中学時代の髪型も、実はまどかが決めた。
僕が短髪だからゆりかは伸ばして二つ結びにしなよ、絶対似合うから。
だから、髪を伸ばし、耳の上で二つに束ねた。
病弱で、発作を恐れるゆりかに、自分で何かを決める、と云う意識は無かった。幼少時代遊びたくても、発作が出たら如何しようと云う気持ちが先走り、幼少時代遊びに行くにも母親の許可が要った。あそこのお母さんはゆりかが喘息持ちなの知ってるから大丈夫よ、と云う言葉で友達を選んだ。
男女無差別に友達を作れたまどか、一方でゆりかは母親の選んだ相手と友達になった。
条件は、家が綺麗で大人しく室内遊びをする“女の子”。
本当はまどかと一緒に走り回りたいが、発作を恐れ、厳選された好きでもない友達と好きでもない人形遊びや塗り絵をした。
将来は弁護士、と幼少時代から父親に教育され、然しまどかはものの五分で勉強放り出し、ゆりかは黙って知性教育を受けた。
やっぱりな、小さい頃からきちんと勉強してたゆりかは利発だろう。
小学校時代、夜中二人のテスト成績を見る両親の会話を偶々聞いたゆりかは、パパの言う事を聞いていれば正しいんだ、と認識し始めた。
父親の助言を聞けば聞く程、ゆりかの人生はまどかと大きく変わり、父親から盲愛された。
休日も、まどかと母親は人の多い場所に買い物に出掛けたが、ゆりかは机に向いた。此れゆりかに似合いそうだから、と趣味でも無い服やアクセサリーをゆりかは受け取った。其れを着てまどかと遊びに出掛けた。
まどかの趣味はころころ変わった。ファンシーな趣味だと思ったらパンクになってみたり、かと思ったら男装してみたりと、ゆりかも見ていて飽きなかった、が、まどかがゆりかに勧める服はお嬢さんお嬢さんした物だった。雑誌の類を一切読まないゆりかは、一体自分に何が似合うのか、何が好きなのかも判らず、まどかが似合うと云えば受け入れた。まどかが言うなら似合うのだろう、と。
学生時代も同じだった。
学級委員等したくなかったが、周りが勧めるからした。本当は、押し付けられていたのに。然し其れで教諭の信頼を得たのだから、此処でもゆりかは他人の意見が正しいんだと認識が強くなった。
高校時代、其れは確立された。
一年の時、三年生の男子生徒に告白された。
初めてだった。
ゆりかは有頂天になったが、周りが、あの先輩だけは止めな、良い噂聞かないよ、父親からも未だ早いと諭された。
其れでもゆりかは好意を受け入れた。
其れが間違いだった。級友が言う通り其の先輩は女遊びが激しく、面食いで、自身も所謂イケメンだった。
自意識過剰で、俺程の良い男は良い女を食って当然、と云うスタンスで、ゆりかの他にも女は沢山居た。終いにはまどかやあの幼馴染みからも、チャラいな、止めとけよ、と迄云われた。
結果ゆりかは二ヶ月で捨てられ、おまけに処女迄奪われた。やっぱり周りの云う事聞いとけば良かった、と後悔した。
其れからゆりかは、何をするにも周りからの助言を頼りにし、全てを周りに決めて貰った。
娘さんは此の大学が良いでしょう、学力内申共に推薦を出せます、と三年時の進路面談の時担任に云われ、国公立だったので父親が頷いた。
そうしてゆりかは国公立の法学部に推薦で入学し、まどかは私立の女学院大学の経済学部に合格した。
まどかは相変わらず自由奔放に自分の恋愛を楽しむ、ゆりかは何も無く過ごしていた。
そして三回生の時、アルバイト先の法律事務所で夏樹に出会った。
優しそうな顔だが、何処か影があり、切羽詰まると、あかんあかん、そんなんちゃうねん、なあ頼むしそんないけずせんと、御宅エグいねん、僕負けますよぉ?と関西弁を喚き散らした。

――夏樹先生、ギャップが凄いですよね。
――そうかな…、え?何処等辺が?
――関西弁喚き散らすトコ。私の両親も、感情高ぶると関西弁出るんです。何時も関西弁ならそう思いませんが、なんか、親近感湧きます。

二十歳そこそこの、恋もまともに知らないゆりかが夏樹に惹かれるのは磁力並だった。砂場に磁石を近付けるみたく、S極とN極を合わせた様に、ゆりかの心は夏樹にくっ付いた。
然し、高校時代のトラウマがあった。
あの時、自分の考えを押し切った結果、傷付いた。
そんな事、耐えられなかった。
其処で、“混合事件”に発展した。 
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