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Lirica(リリカ)

作者:とよね
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王の荒野の王国――木相におけるセルセト―― 
  ―5―


 5.

 珍しく、晴れ間が見える日だった。カチェンの執務室に入ると、大きな窓から入る陽光が、ニブレットの頬を染めた。部屋には連隊長カチェンと、三人の魔術師が集まっていた。
「私が来た、という事は」
 ニブレットは肩を竦めて言った。
「これで全員、という事か」
「五分の遅刻だ」
 老齢のコンショーロが、白髭に覆われた口を歪めて不愉快そうに言う。
「ベーゼがいないようですが」
 お調子者のビョーサーが口を開く。
「配置換えですかね?」
 カチェンは咳払いをし、眼前に並ぶ四人の魔術師の顔を見た後、暗い声でビョーサーを諌めた。
「将校の才がなくとも、魔術師の存在は貴重だ。今、我が国では魔術師が生まれにくくなっている」
 ビョーサーは冷たい笑いを浮かべた。カチェンは無視した。
「その件についてだ。芳しくない戦況はお前らの知っている通りだが、人材、特に魔術師の消耗の激しさについては看過できない状況だ。王国に魔術の能力を持つ者が少なくなっている事態に加え、才ある者らを発掘したとしても、その中で戦場に立てるほどの才を持つ者は稀。加えて将校としての教育を受けた後、実際によく兵を率いるほどの者は」
 魔術師たちは黙って先を待つ。
「君らは優秀だ。だが君らには後進がいない」
「して、我らへのご命令は」
 ニブレットに急かされ、煮え切らない態度のカチェンは諦めた表情で頷く。
「君らの中から魔術師を作れと、魔術総帥からの命令だ」
「作る?」
 隣のレプレカが眉を顰める。
「しかし、元となる人材がなくては……。魔術の才能は誰かに分け与えられるものではございません」
「渉相術の分野において高名な魔術師レンダイルを皆も知っているだろう」
「悪趣味なジジイだと聞くが」
「よせよ」
 ビョーサーがニブレットに囁く。
「あのジジイ、すげぇ地獄耳なんだぜ」
「そのレンダイルが、古の世に失われて久しい分魂術の復活に成功した」
 カチェンの言葉に、横目で見たビョーサーの顔から血の気が引く。
「忌まわしい事を! 何と忌まわしい事を!」
 コンショーロが頭を小刻みに震わせながら吐き捨てた。
「何ゆえ分魂術が廃れたか、何ゆえ分魂術が封印されたか、レンダイルが知らぬ筈がなかろうものを。魔術総帥は何故、分魂術の復活を認めた!」
「堪えろ、コンショーロ。セルセト国は手段を選んでおれんのだ」
「忌まわしい。呪わしい。この様な事態に立ち会うとは、どうやら私は長く生きすぎたようだ!」
「長生きついでだ。もう少し黙って聞け」
「その分魂術についてですが」
 今度はニブレットが口を挟んだ。
「無論、人間での成功例が既に十分にあるという認識で宜しいのでしょうかね」
「当然だ」
 次はビョーサー。
「実験に使われた……その……分魂術によって増えた人間は? できれば見せて頂きたいのですが」
「もういない」
 問いを聞いたカチェンの目が淀み、目の下に、隈に似た赤い縁取りが現れる。
「だが、君が見たいと望むなら、分魂術の成功の証はある。墓を教えてやる。暴くがいい。 恐ろしいものを見るぞ」
「や、結構です」
 自分たちに下される命令を、既に皆が充分に予測している。カチェンはそれをはっきりと言った。
「この中から代表で一人、分魂術を受けてもらう」
 四人は重い気分で沈黙する。連隊長は続けた。
「陰陽と調和の神レレナの御名において行われる術だ。男からは女の、女からは男の、魂を分け与えられた新しい肉体が生まれる。新しい魔術師だ」
「『この中』というのには、私も含まれるのか?」
 カチェンが目をくれる。同時にレプレカがニブレットを睨んだ。
「どうも、自分だけは特別だと思っている奴がいるようだな。お姫様とは気楽なものだ」
「そう思うなら、代わってやってもいいんだぞ?」
 ニブレットが挑発的な笑みを浮かべると、レプレカは舌打ちして顔を背けた。
「当たり前だ。この場にいる以上、王女ではなく我が連隊の魔術師として振る舞ってもらうぞ。それは私も同じだ。慰めにならんだろうがな」
 カチェンが机から、五枚の紙切れを出した。四枚が白で、一枚が赤。小箱に紙切れを入れ、激しく振った後、机に置いた。
「一人ずつ、紙を引きに来い。順番はお前たちで決めろ。私は余りもので構わん」
 四人の魔術師は互いの顔を見あった。一番若いビョーサーが、まず前に出た。細く開いた小箱の隙間に手を差し入れ、その手を固く握りしめて戻ってくる。
 次にレプレカが紙を引いた。彼女の顔は蒼白で、手は震えている。
 コンショーロとニブレットは顔を見合わせた。コンショーロは、顎で、先に籤を引くよう促した。そして、宣言通りカチェンが最後に紙を引く。
 全員で、一斉に手を開いた。
 赤い紙は、ニブレットの掌中にあった。

 今、ラピスラズリの荒野には、一人の人間が蹲っている。
「勝ったのは私だ」
 薄い革の鎧にマント。風になびく赤い長い髪。
「私はニブレットだ」
 若い女は縫い目だらけの体で、荒い呼吸をしていた。死したる体は魔力の熱を湛えている。マントを脱ぎ、革鎧も外して、衣服をはだけた。そうしながら、取り戻した筈の過去をゆっくりと反芻した。サルディーヤが生まれる前の記憶があった。それゆえ、自分はニブレットであると、女の体に宿る自我は考えた。
 サルディーヤはニブレットの死後、将校としての任を引き継ぐために作られた。ニブレットが健在であっても、後進の魔術師として十分に役に立つ。
 ではサルディーヤは何故、ニブレットを殺したのだ?

「あんたか、ニブレットの分身って」
 サルディーヤは、レンダイルの二つの石塔を繋ぐ渡り廊下で呼び止められた。振り向くと、ヴェール越しの視界の先に若い男女が立っていた。
「ビョーサーだ」
 男が言う。隣の女も名乗った。
「レプレカよ」
 気配で、いずれも魔術師だとわかった。サルディーヤは静かに答えた。
「サルディーヤだ。その不愉快な呼び方はやめていただきたい」
「喋り方までニブレットの生き写しだな」
「どうやら性格もね」
 サルディーヤは二人の顔を交互に凝視した。二人の言に苛立ちを覚えたが、彼は冷静だった。感情というものが、自分の中にはさほど無いようだ。もっとも、それは生まれて間もないため自我が弱いからだとレンダイルは言う。感情はこれから育つだろうと。思考力は十分にあった。魔術の才も知識も、ニブレットから引き継いでいる。眼前の二人にも引けを取らない自信と余裕があった。
「それより、この塔は現在私とレンダイル以外の一切の立ち入りが禁じられている筈だが」
 二人は強力な保護の魔法を受けている様子だった。気まずそうに目配せしあう。
「ちょっと、あんたを見てみたかっただけさ」
「ならば用件は済んだだろう。早々に立ち去るがいい。万一余計な物を目にする事があれば、レンダイルも容赦はすまい」
 淡々と語る様子に不気味な物を感じたのか、二人は表情に動揺を滲ませた。
「あんたこそ、ニブレットには気をつけろよ」
 去り際、ビョーサーが言った。
「どういう意味だ」
「あの姫様が、死後に自分の地位と役職をやすやすとあんたに譲るとは思えないね。姫様の魂にとってあんたの肉体は最高の器だ。乗っ取られないよう、あいつが死ぬ前に、自我を鍛えておくことだな」
 渡り廊下にサルディーヤを残して、二人の魔術師は去って行く。

「私はサルディーヤだ」
 ビョーサーやレプレカとの会話を、ニブレットは知らない。それゆえ自分はサルディーヤであると、女の体の中の自我は考える。
「勝ったのは私だ。私はサルディーヤだ!」
 死せる肉体は空を仰ぐ。月も星も飲み干して、雲が広がっていた。
 いつかニブレットを殺さなければならないと思った。サルディーヤは。その日から。この自我を守るために。得た体を守るために。その決意が自我を固め、また自我が決意を固めた。
 サルディーヤはニブレットの為に生まれさせられた。サルディーヤの肉体はニブレットの為にあった。
 しかし、逆転した。サルディーヤが戦場で彼女を殺し、蘇らせてから。
 ニブレットを蘇らせたのは、サルディーヤがサルディーヤの死後に利用する為だった。ニブレットの肉体はサルディーヤの魂の由来だ。覚えている。彼女が目論んだように、彼女を利用しようと。その為に、ばらばらになったニブレットの体をかき集めた。サルディーヤがニブレットの復活を目論んでいる事は、聖王の耳にも入った。聖王は、ブネがレレナから授かったという託宣を信じ込んでいた。
 逆転だと?
 意識の中で、女が冷たく囁く。
 そのような事が叶ったと、本当に信じているのか?

 ブネが白の間から出てきた。姉は妹の顔を見ると、血相を変えて硬直した。
「これは姉上、ご機嫌麗しゅう」
 ブネは顔を背けた。ニブレットは歩き出す。すれ違う時、ブネはやっと口を開く。
「分魂術によって栄えた国はありません」
 ニブレットは振り返り、姉の疲れた背中を見る。
「人の魂は神との契約のもと生まれ来るもの。人の手によって作られた契約なき生命は、大いなる災いをもたらすでしょう」
「その契約を、お前は、レレナとの間でどれほど果たしたと言うのだ? まともな託宣を受ける事もなく、王女としての公務も、巫女の務めを盾に放棄しているようなもの。そのくせ口先だけは立派ときたものだ」
 ブネの肩が震える。ニブレットは立ち去った。背後で、託宣を受ける白の間の扉が音を立てて閉じた。
 以来、ブネは白の間に閉じこもるようになった。

 覚えている。この出来事を、ニブレットとして記憶している。ブネとニブレット以外の何者も、その場にはいなかったのだから。
「何故、覚えているのだ?」
 生ける屍の冷たい腕が力なく落ち、ラピスラズリの大地に触れる。
「私は何者なのだ?」
 死者は頭を抱える。私はニブレットだ、そう思おうとした。ニブレットの肉体がある以上、そう考える方が賢明だとも思われた。あるいは、ニブレットでも、サルディーヤでも、どちらでも同じなのだと。サルディーヤの自我は、ニブレットの魂から分かたれたものなのだから。
 一方で、体の中に吹きすさぶ他者の息吹も感じずにいられなかった。それはサルディーヤのもう一人の作り主、レンダイルの息吹である。
「私は誰だ」
 私はレンダイルではない。少なくとも、レンダイルではない。死者の呼吸が早くなる。
 記憶が、過去が、まして未来が何を証すものか。
「私には今しかない」
 死者はふらつきながら立ち上がった。
「今しかないのだ」
 元通り、薄い革鎧とマントを身に纏った。いつ明けるとも知れぬ夜の下、死者は冷たい風が来る方へと、長い赤毛をなびかせて、彷徨い歩いてゆく。

 ※

 薄明、荒野を彷徨い歩く死者を、木巧魚が見つけた。木巧魚は死者を正しい方角へと導いた。
 死者は、自分自身を取り敢えずニブレットと呼ぶ事にした。自分がニブレットであると、またはサルディーヤであると、確信を持つ事は難しかった。肉体はニブレットの物だが、ところで名とは肉体に対してある物か、自我に対してある物かと歩きながら考えた。意味のない思考であった。
 ニブレットは途方に暮れて立ち尽くす馬を見つけた。サルディーヤが手綱を引いていた馬だ。荷を負っている為、他の二頭に後れを取ったのだろう。その手綱を取った。
 死者の旅は続いた。
 馬に跨り進む事二日目の暮れ、地中から突き出る太い棒に出くわした。棒はニブレットの背より少しばかり高く、一定の間隔で並んでいた。その棒もまた、夜空を閉じこめたラピスラズリへと変化している。
 眠りに落ちる際、ニブレットは棒の正体に思い当たった。古き世、セルセトの都は、現在では王の荒野と呼ばれる場所に存在した。先セルセトの最後の王は、慢心から地霊の王を食らおうとし、大いなる怒りを買った。地が割れ、都は幾万の無辜の民と共に地に沈んだ。ここがかの伝説の地であれば、棒は地中の腐敗した空気を抜く為の筒であろう。少しでも土を清らかに保つ努力を見せ、地霊の怒りを鎮めるいじましい行為。同時に、全ての筒は墓碑でもある。顔を寄せると、筒の表面には、古王国文字で無数の名が刻まれていた。
 死者は古き都の上を歩き、過ぎた。馬は寒さと恐怖のせいか、水も餌も口にしなくなり、痩せこけていった。ニブレットは馬を捨てた。

 やがて緩やかな坂の上に、立ち並ぶ古き王たちの墳墓が見えてきた。折り重なる雲は黒さをいや増し、病める太陽の血が、呪いのごとく雲の合間に滲んでいた。冷たいラピスラズリの大地は、朝も昼もなく荒野を夜の静けさに閉ざした。点在する巨石群は、遠目には永劫に身を捩って悶絶する人々の彫像に見えた。その奥に意識を飛ばせば、荒野の更に彼方から、未知の淀んだ空気を感じた。石相との境界だろう。まだ遠い。
 巨石が並ぶ丘を越えると、荒野は起伏を見せる。小さな丘の斜面には、石化した扉が規則正しく埋めこまれている。先セルセトの王族たちの墓室だ。
 日没、ニブレットは瑠璃色の木にもたれかかって目を閉じた。目を開いても、閉じていても、見えるのは闇、それだけだった。
「私は誰だ?」
 意識が融けていく中、幾度目ともわからぬ問いを口にした。そのような事もわからぬ人間はこの世で自分一人であろうと思われた。無様で、惨めな気持ちだった。
 眠りの淵を滑り落ちていきながら、もはや熱も冷気もわからぬ死者の肉体は、不思議なぬくもりを感じた。併せて、孤独も、無様さも、惨めさも、身の内から吸い取られていくのがわかった。それは、王の荒野に踏み入って初めて理解した、瑠璃の界、その象徴たるラピスラズリの魔力だった。
 清らかな水の底にゆっくりと沈んでいくような、静かな快感。五臓六腑に瑠璃色の闇が沁み渡る。この素晴らしい闇とつつましやかな光は、もしこの肉体がまたも苦痛を感じる事があったとしても、それさえ取り除くだろう。生きてきた中で一度も経験した事のない優しさを持つ、献身的で、控えめな力。もしブネの言う男が、この石の力を象(かたち)にしたような男であったら、その者が清らかな月の光のみを食べて静かに眠っているのであれば、その者をみすみすブネに渡しはすまい。ニブレットの心で死者は思った。
「私は誰だ?」
 この石なら、答えを持っているかもしれぬ。そう思えた。
「私は誰だ」
「答えが欲しいか!」
 太い声が頭中で響いた。死者は覚醒する。瑠璃の魔力はたちまち遠のいた。威厳ある、ニブレットにとってこの上なく甘美な声であった。乾いた夜の底で、死者は体を起こした。そして、腕に抱く漆黒の剣を、手探りで鞘から抜いた。声の出所は疑いようもなかった。漆黒の剣から緋の色彩が滲み出る。死者は剣を地に置き、傅いた。
「我が神よ」
「汝に問う。汝は有能なる我が崇拝者ニブレットか」
 死者は返答に困った。ヘブを前にした今、それを崇める自分は確かにニブレットであると思われた。
 問いを肯定しようとした。すると、胸にヘブを拒否する声なき声と、ぞよめく紫紺の魔力を感じた。
「緋の界にまします我が神よ、敬虔なるニブレットは王の荒野にて損なわれました」
「わかっておる」
 ヘブは腹に響く声で笑った。死者はその笑いを悲しく感じた。和らげられた惨めさや無様さが、またも胸を満たして堪らない気持ちにさせた。
「私は何者でございましょうか。私はニブレットであり、サルディーヤであり、二人の人間の記憶を持ち、女であり、男であり、腐術と分魂術によって今ここに生かされております。この私を定義する名がこの世にございましょうか」
「魂の名は一つだ」
 緋の色彩の揺らぎにヘブの姿が見えぬかと死者は目を凝らすが、意味ある(かたち)は現れなかった。
「お前の魂は古い。世界が無数の相に分かたれる前の階層から来ておる。お前の魂の来歴には様々な名が記されておる。ニブレットであれ、サルディーヤであれ、今更そのような違いに何の差がある」
「されど、我が神よ、自我には名が必要です」
 人間とは悲しいものだ。自我とは。死者は思う。
「私は己が何者かを知る事を望みます。答えをお与えください。あるいはその機会を」
「たとえ前階層まで遡り、今生のお前の現在まで辿り直すとしても、望む答えを得られるとは限らん」
「構いません。答えがなくとも、何らかの示唆があるならば」
「よかろう」
 ヘブは渋い声で応じた。
「ただし、この(のち)起きる事によって、お前の混迷が更に深まる事にならん保証もまた無いぞ」
 漆黒の剣から立ち上る色彩が炎の象をとり、その揺らめきに意識が引きこまれるのを感じた。魂が自我に引きずられて肉体から外れた。炎を中心に世界が歪み、渦巻く歪曲の奥底へと、魂は一つ一つの名と記憶と洗われながら、落ちていった。
 不意に鋭い光を認識した。
 同時に、形容しがたい甲高い騒音が、耳から脳を刺した。
 耐えがたいほどの人の声と雑念と蒸し暑さが肉体を包みこむ。
「危ない!」
 後ろから肩を引かれた。巨大な物体が、眼前を通り過ぎていった。
 目と耳と肌を刺激する全ての物が理解できず、肉体は恐慌に陥る。目を(みは)った。口を開く。悲鳴を上げた。されど声が出ない。大きく開けた口で、肉体は何度も汚れた空気を吐き、吸いこみ、吐いた。それが悲鳴の代わりだった。
 恐慌は唐突に去った。肉体は口を閉じる。そして、目に映るもの、耳に聞こえるもの、自分の身に起きた事の、全てを理解した。
 交差点で大型トラックに轢かれかけたのだ。
 いつだって雑居ビルの影と高速道路の影に染められている暗い交差点。今は夜に染められている。
 先ほどの騒音は、トラックのクラクションに違いない。
 悪臭は排気ガスだ。
 光の洪水は、電光看板にオフィスビルの窓の明かりに信号機に自動販売機。
 何故、全て当たり前のこのような事がわからなかったのだろう?
「佐々木さんじゃないですか」
 胸の鼓動が早くなる。脇の下に汗が浮いた。誰かの手が肩から離れ、振り向こうとした肉体は貧血を起こし、その場に蹲る。車道を絶え間なく、自動車が通り過ぎてゆく。
 こんなに騒々しい世界があるなど信じられない。
 では、何なら信じられるのか?
 何を信じていたのか?
 わからない。
 もう何も思い出せない。
「誰?」
 肉体はか細い女の声を発した。
「誰って。ああ、酔ってる」
 男が溜め息をついた。信号が変わって、人々が動き出した。肉体は目をこする。視界が定まらない。男が誰だかわからない。それでも肉体は動き、その男の名を口にした。
「倉富くん」
 それが男の名である事は明らかに思われた。
「送りますよ、佐々木さん。立てますか? 大丈夫?」
 肉体は呻いた。熱帯夜はかつてない息苦しさで体を苛んだ。男がタクシーを止める。車内に連れこまれ、運転手に住所を教えるよう男が言った。
 肉体は記憶に依らず、掠れた声で住所をマンション名まで述べた。
 タクシーが動き出した。目を閉ざす。瞼の闇に緋の色彩が滲み出る。ひどい吐き気がした。カーナビが喋っている。その音声が不意に、低く甘美な声で未知の名前を呼んだ気がした。
「儚き人の自我よ。確たる自己、確たる現実、そのようなものがあると思うなら、見つけ出してみるがよい」
 肉体は意味を理解する間もなく、意識を失った。


 
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