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真・恋姫†無双 劉ヨウ伝

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第140話 呂岱士官する

 海陵酒家を出た孫権と甘寧は大通りに向けて来た道を進んでいた。甘寧は周囲を伺い孫権に声をかける。

「蓮華様、先ほどの飯屋で変な男がいました」
「変な男?」

 孫権は歩きを休めることなく視線だけ甘寧に向ける。

「はい。店の奥から私達の様子を伺い、私が視線に気づき見ると驚いた表情で姿を消しました」

 孫権は悩ましい表情で頭痛そうに右掌を額に当てた。その様子を甘寧はしばし黙って見つめた後に口を開いた。

「蓮華様、先程の男を今夜にでも殺してきましょうか?」

 甘寧は真剣な表情で孫権に聞いてきた。

「必要ないわ。思春、くれぐれも余計なことをしないようにして頂戴」

 甘寧の言葉を聞いた孫権は慌てて甘寧に釘を刺した。

「わかりました」

 甘寧は孫権の命令に素直に従った。孫権は安堵の溜息をついた。

「思春の見た男は多分だけど孫家の人間の顔を知っているのかも。私も含めて母上姉上も長沙の街中を普段から歩きまわっているし、一度でも長沙に行ったことがあれば私のことを知っていてもおかしくないわ」
「今回の旅はお忍びでは? やはり」

 甘寧は怖い表情に変わり、今来た道の方角に視線を向けた。

「思春! お願いだからやめて頂戴!」

 甘寧の様子を見て孫権は慌てて大きな声で甘寧を制止した。

「蓮華様、差し出がましいことを考え申し訳ありませんでした」
「思春、あなたには説明しておいた方が良さそうね。孫家の評判は南陽郡ですこぶる悪いの。発端は劉荊州牧が荊州に来る前に遡るのだけど、当時の荊州刺史は王叡。この人物を母上が殺したの」

 甘寧は孫権の告白に驚いた表情に変わる。

「元荊州刺史は悪徳官吏だったのでしょうか?」
「そうであれば苦労ないわ。善政とまではいかないけど無難な治世を行っていたわ。母上は当時王叡と対立していた武陵太守曹寅の檄文に従い王叡に奇襲を加え誅殺したのよ」

 蓮華は深い溜息を吐くと頭を項垂れた。

「炎蓮様は命令に従っただけでは?」
「建前はそうでしょうけど。母上は王叡に小物扱いされていたことを日頃から恨みにいだいていたのは周知の事実。あの性格だから誰もが知っていたことなの。その上、大義もなく私戦で刺史を奇襲し誅殺。この一件で南陽郡での母上の評判は最悪」

 再びため息をつく蓮華を横目に甘寧は沈黙していた。益州で揉め事を起こし、彼の地では生きていけなくなった彼女としては孫堅の暴挙に対して何か言う資格はないと思っているのかもしれない。

「そういう訳だから、ここ南陽郡で極力問題は起こしたくないの。罪無き市井の者を殺めたなんて噂が立つだけで『これだから孫家は』と風評が一人歩きしかねない。だからお願い。思春、余計なことはしないで。これ以上、悪評が広まると文官の士官が絶望的になってしまうわ」
「事情を知らなかったとはいえ、蓮華様の御心を煩わしてしまいすみませんでした」

 甘寧は孫権に頭を下げた。

「思春が謝ることでないわ。分かってくれればいいの」

 孫権は笑みを浮かべ甘寧に優しく言った。

「でも、さっきのお店の料理は美味しかったわね」
「はい下町で評判だっただけのことはありました」
「ちょっと行きづらい場所にあるのは困りどころね」

 孫権は爽やかな笑みを浮かべ言った。

「では今晩も行かれますか?」
「大丈夫かしら?」

 甘寧の言葉に孫権は困ったような表情を浮かべた。

「私達に気づいたということは次行ったら嫌がられるんじゃないのかなと思って」

 孫権は本音を甘寧に吐露した。

「そのようなことはないでしょう。店を出る時も店員の女は気にしている表情をしていませんでした。それに店主らしき人物はかなりの武人と見定めました」

 甘寧は淡々と意見を孫権に述べた。孫権は甘寧の話を聞きながら段々と柔和な表情になった。

「あの店主らしき女性が武人ね。文官なら嬉しかったのに」

 孫権は進行方向を憂鬱そうな表情で眺めた。甘寧は孫権の言葉に反応せず、孫権の一歩後ろからついてきていた。

「文官は必要なのでしょうか?」
「思春、『文官が必要なのか』ではなく、私達は文官が圧倒的に少ないの。今は私一人で切り盛りしているのよ。私が南陽郡にいる間にも日々仕事が処理されることなく山積みになっていくわ。何が何でも文官の士官を成約させないと」

 孫権は悲痛な表情を浮かべ空を仰ぐ。甘寧は孫権の様子を心配そうに眺めていた。

「文官とはどこにいるものなのでしょうか?」

 甘寧は思わず孫権に尋ねた。孫権は空を仰ぐのを止め、甘寧に視線を向けた。

「わからない。劉荊州牧なら文官が幾らでも士官してくるでしょうね」

 甘寧は孫権の言葉が理解できないようだった。彼女の主である孫堅は劉表に比べれば見劣りするものの、彼女はれっきとした一郡を任せられた太守である。甘寧は太守である孫堅に士官することを避ける文官がいるのだろうかと思っているのかもしれない。

「文官の多くは教養のある士大夫。偶に士大夫じゃない市井の者もいるにはいるけど、そんな人物と出会うなんて天の配剤だわ。士大夫は名声を重視するものなの。だから、風評の悪い人物にはできるだけ士官したくないの。それに母上は軍人気質だから何かにつけて荒っぽくて文官と相性が悪くて」
「炎蓮様も太守です。名声は十分かと」
「士大夫がそう思っていないから私が文官探しの旅に出ているの。この話はもう止めましょ。文官を探すのは無理な気がしてきた。せめて名士の伝手でもあれば、その人物に紹介ということでどうにかなるんだけど。無い物ねだりね」

 孫権は嘆息して甘寧との会話を終え歩き始めた。彼女の態度から南陽郡での文官人材の士官は芳しくないことが伺えた。



 孫権と甘寧が下町を抜けようとすると彼女達に向かって機嫌の悪そうな表情をした人物が二人こちらに向かってきた。二人は冥琳と泉であった。特に泉は今にも切れそうな表情であった。冥琳は普段通りの胸元が開いた服装だったが、泉は何時もつけている銀色の軍装を脱ぎ、一般的な士大夫が身につける漢服を着衣し獲物の銀槍を持っていた。孫権と甘寧は二人の雰囲気に気圧され道の端に移動し、彼女達が通り過ぎるのを傍観した。冥琳と泉は孫権と甘寧に一瞥するも直ぐに前を向き、孫権と甘寧が先程来た道に進んでいった。

「あの二人は何者でしょう?」
「わからないわ。服装を見る限り裕福そうだったわね。この先に住んでいるなんてないわね。もしかして、あの店に用事でもあるのかしら?」

 孫権は冥琳と泉の後ろ姿を眺めて半信半疑に言った。

「あの店主、実は大物なのではないでしょうか?」
「そうなのかしら。思春、あの店に戻ってみましょう。仲良くなれば、もしかしたら文官の知り合いを紹介してもらえるかもしれないわね」

 蓮華は藁をも縋る気持ちなのか思春の言葉に陽気な表情を浮かべた。

「わかりました。蓮華様、戻りましょ」
「思春、あの二人は機嫌が凄く悪そうだったからくれぐれも気をつけて頂戴ね」

 孫権は甘寧の表情を真剣な顔で伺った。甘寧も孫権の言葉に無言で頷いた。



 孫権と甘寧が海陵酒家に戻ると店の中から怒鳴り声が聞こえてきた。孫権は店に入る雰囲気でないと店の中を伺うために声の聞こえる壁に抜き足差し足で近づいて行った。そして、店内にいる人間から気づかれないように窓に顔を近づけ店内を覗いた。思春は孫権が覗く場所の左隣に移動して孫権と同じく中を伺った。

「貴様! 正宗様をこのような小汚い店でこき使うとは何事だ!」

 泉が呂岱に烈火の如く顔を紅くして怒鳴っていた。冥琳も同じく呂岱に罵声を浴びせていた。孫権と甘寧は二人が呂岱の何に対して激怒しているのかわからず戸惑っている様子だった。

「正礼が自ら働くと言ったんだから外野がとやかくいうことじゃないだろ」

 呂岱は冥琳と泉の言葉など意に介していないようだった。孫権と甘寧は両者の会話から揉め事の原因が「正宗」、「正礼」という人物にあるとわかった。そして、「正宗」と「正礼」は同一人物であるということも。

「正宗様」

 おろおろと不安気な表情で愛紗が正宗に声をかけた。正宗はどうしたものか困った表情を浮かべていた。孫権と甘寧は自分達を応対した愛紗が側にいる男のことを「正宗」と呼ぶのを聞いた。すると甘寧は正宗を見て驚いた表情に変わった。

「蓮華様、私達を見て驚いていたのはあの男です」

 甘寧は蓮華だけに聞こえるように小声で囁くように言った。

「本当!? あの二人の言葉尻から彼はあの二人の目上の存在のようだけど」

 孫権は正宗のことを困惑した表情で見つめていた。裕福そうな冥琳と泉が店員の男の名前に「様」付けで敬称を使っている。傍目から見て奇異に映ることだろう。

「もしや、あの男は隠棲している大物士大夫でしょうか?」
「何ともいえないけど」

 蓮華は甘寧の言葉を微妙な表情で受け流した。



「二人ともその位にしろ」

 正宗は冥琳と泉に言った。正宗の言葉に冥琳と泉も黙った。

「約束は守らねばならん。荊州へは旅行に来たようなものだ。これも良い経験になろう」

 正宗は冥琳と泉が黙るのを確認すると話を続けた。

「正宗様、恐れながら申し上げます。この店で働くことが良き経験になるとは到底思えません。この私、襄陽から帰還して正宗がここで働いていると聞いた時、胸が張り裂けんばかりに心痛みました。この女を八裂きにして魚の餌にしてやろうと何度思ったことでしょう」

 泉は正宗に訴えかけるように懇願したかと思うといきなり飢餓に苛まれた餓狼のような血走った目つきで呂岱を睨みつけていた。その表情は正に血に飢えた餓狼。呂岱も泉の危険な雰囲気に少し引いていた。

「おいっ! 貴様」

 泉は呂岱を睨んだ後に愛紗を睨みつけた。愛紗は泉に睨まれ肩を固くした。

「貴様、関雲長と申したな。ここまで正宗様の御恩寵を受け、どのように報いるつもりだ。凡夫の如き働きであれば、この私が絶対に許さんぞ。正宗様の命に逆らおうと貴様を殺す!」

 泉はヒステリック気味に鬼気迫る表情で愛紗を見た。泉の過剰な怒りに冥琳も若干引いたのか、彼女は少し落ち着いたようだった。

「泉、関雲長に対してはその位でいいだろう。諸悪の根源はこの女だ」

 冥琳は不機嫌な表情で呂岱を睨んだ。対して呂岱は胸の前で腕を組み悠然と構えていた。

「無位無官の分際で正宗様に舐めた真似をしてくれたな」
「権力にものを言わせる気かい」
「そのようなことはせん。ここで正宗様が約束のために働くことは最早何も言わん。だが覚えておけ」

 冥琳は氷のような視線を呂岱に送り無感情な表情に変わった。

「正宗様を辱めるような真似をしてみろ。正宗様が何と仰ろうがお前を殺す。それで正宗様が私に死を賜ると言うなら喜んでこの命を捧げる。私の正宗様への想いを侮るでない。安易に死ねると思うな。死を自ら望むような凄絶な苦しみを与えてやる」
「冥琳様、その時はこの泉も御助成いたします」

 泉は自慢げに銀槍を撫で呂岱のことを薄ら笑いを浮かべて見た。呂岱は冥琳と泉の態度に気圧されることなく黙って聞いていた。孫権と甘寧は呂岱の胆力に驚いていた。冥琳と泉の剣幕は常人なら震え上がるような雰囲気を漂わせていたからだ。
 呂岱は冥琳と泉の様子をしばらく見つめていた。

「悪乗りし過ぎたかね」

 呂岱は口を開くと言った。冥琳は訝しむ表情で呂岱のことを見た。

「私に正礼を辱めようなんて気は更々ないさ。愛紗の件で正礼の態度が気に入らなくてついね」
「今更、詫びを入れようというのか?」

 冥琳が険しい表情で呂岱を見た。呂岱は被りを振った。

「愛紗の件で間違っていたとは思っていないよ。正礼が屑野郎だったら愛紗が可哀想だからね」

 呂岱は落ち着いた表情で淡々と答えた。その表情は穏やかだった。呂岱はちらりと愛紗の方を見た。冥琳は呂岱の様子を見て険しい表情を少し緩めた。

「正礼のことを試すつもりで出した条件だったけど、正礼の人となりはこの二週間位で良くわかった。愛紗を安心して任せられると思っている」
「女将さん」

 愛紗が呂岱の言葉に感動しているようだった。泉は額に青筋を浮かべ苛ついている様子だったが沈黙していた。

「正礼の様な身分の人間がこんな店で働いていては立つ瀬ないことは私も馬鹿じゃないからわかるよ。だから、正礼のことを私は尊敬している。人は立身すればするほど狭量になるものさ。だから正礼は貴重な存在だと思う」
「我らが来て怖気付いたのか」

 泉が侮蔑気味に言うと呂岱は被りを振った。

「生憎と恐怖には鈍くてね。あなた達の正礼への飾りのない熱い忠義心に感じ入っただけさ」

 呂岱は冥琳と泉に対して微妙に口調を変えていた。いつもなら「あんた達」と言いそうだが「あなた達」と言っていた。

「その物言いなら正宗様が今辞めても何も文句ないということだな」

 冥琳は目敏く呂岱に言った。呂岱は頷いた。彼女は調理場の奥に引っ込んだ。しばらくすると手に片手剣を持って戻ってきた。
 呂岱は正宗の前に進み出るなり片膝をつき屈むと右手に持った片手剣を自らの右側の地面に置き拱手した。冥琳、泉、愛紗はその様に戸惑い。外で様子を伺う孫権と甘寧はその様に見入っていた。
 呂岱の様子は普段の飄々としたものでなく武人然した堂々としたものだった。正宗も呂岱の態度の豹変振りに戸惑っている様子だ。

「劉将軍、十分にあなたの人となりを拝見させていただきました。呂定公の今までの数々の無礼許していただこうとは思いません」

 呂岱は正宗に言うと地面に置いた片手剣を抜き刃を自らに向けた状態で正宗に剣を差し出した。その様子に場に居合わせた皆が驚いていた。

「定公、どういうつもりだ」

 呂岱のどのような了見で剣を渡してきたか正宗は尋ねた。

「劉将軍の望まれるままに。これで私を斬るなり、殺すなり為されませ」

 呂岱は短く答え剣を差し出したまま正宗のことを真剣な眼差しで見つめた。

「そうか」

 正宗も短く答え呂岱が差し出す剣を受け取った。その光景に表情を変えたのは愛紗だった。彼女は急いで呂岱の右側で片膝をつき拱手をした。愛紗が右側に座した理由は正宗が剣を振るっても呂岱に刃を届かせないようにするためだろう。正宗の気質からして呂岱を斬ることはないだろうと思っても咄嗟の出来事で気が動転していたのもしれない。

「正宗様、女将さんをお斬りなるのはお止めください!」

 冥琳と泉は愛紗を一切擁護する様子がない。所詮、二人の中で愛紗は新参者でしかないのだろう。

「そこを退け愛紗。これは私と定公の問題だ」
「劉将軍の仰る通りだ。愛紗、下がっていな」
「いいえ、どくことできません! 元はと言えば私のことが原因です。ならば私をお斬りください」

 愛紗は悲痛な表情で正宗に訴えた。

「愛紗、それほど私が非情な男だと思っているのか? 私は過ちを諫言してくれる人間を決して斬らん」

 正宗は愛紗に諭すように言った。

「申し訳ございません!」

 愛紗は正宗に対して地面に手をつき平伏した。暫らくして彼女は立ち上がり呂岱と距離を取った。

「定公、お前のいきなりの態度の豹変振りには理解できないものがある。聞いていいか?」

 正宗は呂岱を凝視した。

「何なりと」

 呂岱は短く返事した。

「口調の変化は敢えて問うまい。だが」

 正宗は途中で言葉を切るなり辺りに強烈な殺気を放った。濃密な殺気は海陵酒家の外にいる孫権と甘寧に体感できた。外の二人はあまりの殺気に蛇に睨まれた蛙の様に体を硬直させ身動きが取れなかった。甘寧は額に冷や汗をかき焦っていた。対して蓮華は戦場の経験がないため、正宗の強烈な殺気に恐怖と戸惑いがない交ぜになった表情を浮かべていた。

「定公、私がお前を斬る訳がないとたかをくくり、この様な振る舞いをしているのではあるまいな」

 正宗は底冷えするような声音で定公に詰問した。定公は正宗の殺気に臆することなく、正宗の両瞳を真っ直ぐ直視した。

「児戯にて生き延びようとは思いません」

 呂岱は爽やかな微笑を浮かべ淀みなく答えた。正宗は呂岱の様子を凝視した。



 店内に張り詰めた空気が漂っていた。どのくらいの時間が過ぎたのであろうか。時間して数分位であろうが場に居合わせた者には永遠の刻に感じられたことだろう。

 突然、正宗は殺気を抑え込み声高らかに大笑いした。彼の大笑いに安堵の表情を浮かべたのは愛紗だった。泉は呂岱を見て舌を鳴らした。彼女は呂岱が斬られればいいと思っていたのかもしれない。

「定公、私はお前に遺恨など一切ない。この店での日々はなかなか楽しかった」

 正宗は笑みを浮かべ呂岱に言った。彼はそう言い片手剣を勢いよく振り彼女の首直前で止めた。

「定公、私に仕えよ」

 正宗は真面目な表情で言った。

「ではお代をいだけませんでしょうか?」

 呂岱は笑みを浮かべ言った。

「幾らだ?」

 正宗は笑みを浮かべ言った。

「この店を三週間手伝っていただけませんでしょうか?」

 正宗は呂岱の答えを予想できていたのか笑みを浮かべたまま軽く頷いた。

「貴様、正宗様をどこまで愚弄すれば気が済む!」

 泉は呂岱に怒鳴るやいなや、銀槍を構え凄まじい勢いで呂岱との間合いを詰めた。
 銀槍は呂岱に届くことはなかった。正宗が片手剣で銀槍を下方向に叩き落とし足で踏みつけた。泉は勢い余って宙を浮くも正宗に受け止められた。お姫様だっこ状態だ。

「泉、お前の気持ちはよく分かっている。だがこの様なことは二度とするな。いいな」

 正宗は泉にお姫様だっこ状態したまま彼女に厳命した。泉は自分の置かれている状態に戸惑っていたが、周囲に視線を巡らし自分の状態に気づくと顔を赤くした。

「正宗様! 分かりました。分かりましたから降ろしてください」

 正宗に解放された泉はそそくさと冥琳の陰に隠れるよう立った。冥琳は苛ついて見えるのは気のせいだろうか。
 正宗に呂岱が視線に移すと呂岱は身動き一つしていなかった。

「定公、何故避けようとしなかった?」
「斬られる覚悟がないなら、あのようなことは言いません」

 呂岱はあっけらかんと言った。

「そんなことでは長生きできないぞ。現に私が止めなかったら刺されていただろう。先ほどの泉の槍の角度ならお前は間違いなく死んでいた」

 正宗は呆れたように言った。

「私は常日頃から自分が納得した主君に仕えたいと思っていました。その結果、死んだのあれば私の寿命はその程度の価値だったということです」

 呂岱は語尾を「ます」ではなく「ました」と変えていた。彼女の中で正宗が唯一の主君と主張していることを証明している。

「私が困る」

 正宗は片膝をついたままの呂岱の元に駆け寄り彼女の顔を見て笑みを浮かべ言った。

「劉将軍へ仕え初めたら気をつけます。ですが、仕えても劉将軍へ諫言すべきことは諫言させていただきます」
「私の家臣となるのは三週間後だがよろしく頼む」

 正宗は急に何か思い出したように相槌を打った。

「定公、お前の真名は教えてくれないか?」
「私の真名は『燕璃(えんり)』です」
「私の真名は『正宗』だ」
「正宗様、謹んで真名をお預かりさせていただきます」

 正宗は燕璃と真名の交換を終えると店の窓がある方向を見て視線を止めた。

「おい。そこにいる二人。隠れていないで出てこい」

 正宗はドスの利いた声で言った。正宗の言葉に最初に反応したのは泉だった。泉は銀槍を持って店の戸を乱暴に開け放ち出て行った。



「貴様、何奴だ! そういえば……先程通りがかった時にすれ違ったな」

 泉が聞き耳を立てた二人を発見したようだった。二人は当然だが孫権と甘寧だ。

「思春、武器を下げなさい!」

 孫権が甘寧を止める声が聞こえた。泉と甘寧がもめているのだろう。暫くすると孫権と甘寧を連れ泉が店に入ってきた。孫権はバツが悪そうな表情をしていた。対して甘寧は敵愾心むき出しの表情をしていた。
 正宗は孫権と甘寧を確認すると露骨に面倒そうな表情に変わった。その表情を冥琳は見逃さなかった。燕璃と愛紗は二人の素性を知っているため何ともいえない表情をしていた。



 正宗は連れてこられた孫権と甘寧を見て沈黙していた。他の者達も正宗が口を開くのを待っている。泉は二人が逃げ出さないように店の入り口に陣取り銀槍を持ち立っていた。

「盗み聞きをして申し訳ありませんでした」

 沈黙した空気を破ったのは孫権だった。孫権は謝罪し頭を下げてきた。彼女は盗み聞きしていたにも関わらず正宗のことを「劉将軍」と呼称しなかった。気が動転していたのか、意図的に呼称しないのかはわからない。

「どこから聞いていた?」

 正宗は徐に孫権に聞いた。彼女と甘寧が初めから聞いていたことは承知の上で敢えて聞いた。

「全部です」

 孫権は項垂れ語尾が尻窄みになった。正宗は正直に答えた孫権に感心した。甘寧は孫権の言動を心配したのか孫権に視線を向けた。

「全部か」

 正宗は右手に握った片手剣を胸あたりまでに上げ、その剣で左掌を何度も軽く触れるような動作を続けた。孫権は正宗の態度を不安そうな表情で見ていた。

「今日のことは全て忘れろ。いいな」

 正宗は徐に孫権に言った。だが、孫権は悩んだ表情をした後、意を決したように口を開く。

「私は孫仲謀と申します。あなたは高明な人物とお見受けいたします。お名前をお聞かせくださいませんでしょうか?」
「女。正宗様のお言葉が聞こえなかったのか?」

 冥琳が眉間に皺を寄せ孫権に強い口調で言った。それに甘寧が歯噛みして冥琳を睨むんでいた。冥琳は甘寧の視線に不快感を覚えているような様子だった。

「孫仲謀とな? 孫文台の次女か。私も士大夫の端くれ。名を尋ねられれば名乗らねばならぬな。だがやり方が不愉快極まりない。私が言ったことを覚えていないのか?」

 正宗は感情の篭らない声で孫権を睥睨した。孫権は正宗の迫力に肩を固まらせた。

「貴様! 黙って聞いていればいい気になるな」

 甘寧は獲物である曲刀・鈴音を構えた。正宗は薄い笑みを浮かべた。

「その意気や良し。だがお前の主人の存念はどうなのだ。命の取り合いとなれば私は手加減せんぞ。お前は私に勝てると本気で思っているのか? 私の殺気に気圧されて身動きできなかったお前に」

 正宗は甘寧を見透かしたように見つめ、視線を孫権に向けた。孫権と甘寧が動揺した表情になった。二人は分かったのだ。自分達が初めから正宗達の話に聞き耳を立てていたことに。
 正宗は人の発する気の流れで人や動物の存在を察知できる。人が恐怖を感じたり体を緊張させた場合、体に流れる気の流れが乱れるため正宗には手に取るように分かるのだ。だから、正宗は自分の放った殺気で甘寧と孫権が身動きが取れない状態にあったことを知り得た。白兵戦で敵の殺気に怖気て体を硬直させるとは死を意味する。

「思春、剣を収めなさい!」

 孫権は厳しい表情で甘寧に叱咤した。彼女は戦場を未だ知らないが、それでも正宗の圧倒的な殺気から正宗が甘寧を圧倒する武人でると察したのだろう。
 甘寧は孫権に叱咤され逡巡しながらも大人しく鈴音を収めた。しかし、彼女の瞳は正宗に対して怒りを覚えていることが傍目からも分かった。

「供の者が失礼をいたしました。お許しくださいませんか?」

 孫権は正宗に対して頭を下げた。

「謝罪は受けよう」

 正宗は孫権の謝罪を受け入れた。彼は一瞬落胆の色を見せていた。もしかしたら甘寧の暴走でこの場を濁すつもりだったのかもしれない。しかし、孫権は素直に謝罪してきた。ここまで来ると彼も名を名乗らざる終えない。
 正宗は「何故に私に縁を持とうとするのか」と思った。孫家を監視させていた彼には孫権の存念はだいたい検討がついていたが、彼は孫家と縁を持つつもりは無かった。孫権のことを暫し見つめた後、徐に口を開く。

「まあいい」

 正宗は言葉を区切り口を開く。

「我が名は『劉正礼』。前漢の高祖の孫である斉の孝王劉将閭の裔にて牟平共侯劉渫の直系末孫。先帝より車騎将軍、冀州牧の官職を賜り、爵位は清河王である。素性を明かしたのだ平伏せよ」

 正宗は孫権と甘寧を睥睨して威厳のある態度で言った。孫権と甘寧は正宗の名乗りを受け表情が固まっていた。

「清河王の御前である。控えぬか!」

 冥琳は孫権と甘寧に対して言葉を荒げて言った。冥琳の言葉に二人は「ハッ」として慌てて平伏した。

「孫仲謀、今一度言う。三度言わんぞ。今日のことは全て忘れろ。いいな」

 正宗は感情の篭らない声で孫権に言った。正宗の言葉に反応して孫権は体を固くするのが分かった。

「清河王、恐れながら発言してもよろしいでしょうか?」

 孫権が平伏したまま正宗に言った。

「直答許す。何だ?」
「私は路銀が心許く、ご迷惑でなければこの店で給仕として働かせいただけませんでしょうか?」
「蓮華様!?」

 孫権の突然の申し出に甘寧は平伏したまま驚いた。

「路銀が心許ないだと?」

 正宗は胡散臭い者を見るような目つきで平伏する孫権のことを見た。

「荊州の中心地は南陽郡と長沙郡。その長沙郡の太守である孫文台は南陽郡への旅にかかる路銀すらまともに捻出できないのか? 孫文台の太守としての資質を疑ぐってしまう。これは朝廷へ上奏せねばならんかもしれんな」

 正宗は孫権の母・孫堅を小馬鹿にした。甘寧は体を震わせて黙って平伏していた。だが、地面につく指が地面に食い込んでいることから彼女の怒りが伺い知れた。正宗は甘寧を暫し凝視していたが興味が失せたように孫権に視線を戻した。正宗は甘寧を孫権のアキレス腱と見ているのだろう。甘寧を暴発させて話を煙に巻きたい正宗の心中を孫権は感じ取っていた。

「南陽郡への旅は私事でございます。母とは関係無きこと。清河王、どうか母への謂れ無き誹りは撤回していただけないでしょうか?」
「下郎! 口を慎め」

 泉は孫権に対して罵声を浴びせるが正宗が手で制した。

「それは済まなかった。悪気は無かったのだ許せ」

 正宗は淡々と孫権に謝罪した。甘寧は正宗の謝罪の仕方が不満なのか先ほどにも増して体を震わせていた。

「生憎、この店は燕璃のもので私のものではない。燕璃どうなのだ?」

 正宗は燕璃に視線を送ると目で訴えるように「断れ!」と合図を送った。燕璃は正宗の視線に困った表情を浮かべた。燕璃も孫権が路銀に困っているというのは嘘だろうと思っていた。燕璃は嘘であろうと困っている人間を見捨ているのは矜持が許さない性格だった。だが、主君である正宗の意向を前に自らの矜持との板挟みになった。彼女は沈黙して正宗に平伏する孫権を凝視していたが口を開く。

「孫家の嬢ちゃん、南陽郡への旅の理由を聞かせてもらえるかい。今回の旅は長沙郡太守の公事ではないんだよね?」

 燕璃は真面目な表情で「長沙郡太守の公事」を強調して尋ねた。孫権が一瞬固まるのを正宗・冥琳・燕璃は見逃さなかった。南陽郡へは私事で来たわけではないことは間違いない。

「はい違います」

 孫権は燕璃の質問に短く答えた。

「じゃあ理由は何なんだい? 路銀が心許ないのなら長沙に帰ればいいだろ。南陽から長沙まで大した距離じゃない」

 燕璃は孫権に無難な方法の提案をした。彼女の提案は正宗の意向と自らの矜持を守れるものなのだろう。燕璃の言葉に孫権は沈黙してしまった。燕璃の提案は至極最もだからだろう。だが、今更「長沙郡太守の公事」という訳にもいかない。そのようなことを言えば「南陽郡太守に話を通しているのか?」という話に発展して孫権にとって困った事態に成りかねない。

「どうなのだ?」

 正宗は孫権に返事を催促するように言った。正宗はさっさと孫権を追い返したいのだろう。

「実は」

 孫権は言いかけて途中で言い淀んだ。

「『実は』何なのだ?」

 正宗は薄い笑みを浮かべ孫権に先を言うように急かした。

「実は家出しました」
「家出のう」

 正宗は間延びした声で言った。明らかに孫権の言葉を信じていない声音だった。燕璃も正宗と同じく信じていない表情だった。

「家出であれば、私はお前の母にお前の居場所を知らせるのが役目と心得るが。どうだ?」

 正宗は孫権に尋ねた。

「それだけは。それだけはお許しください!」

 孫権は平伏したまま正宗に必死に懇願してきた。彼女は公事で南陽郡に出向いたのに家出として彼女の母に連絡されては困るのだろう。彼女の母・孫堅に孫権の意を汲んで阿吽の呼吸の対応することを望むのは酷な話というものだ。直情径行の孫堅であれば「家出? 人材募集で南陽郡に行ったんだけど」とか平然と言いそうだ。

「家出の理由を聞かせて貰えるかい?」

 燕璃は面倒臭そうに尋ねた。孫権も周囲の人間の話す声音から自分の言葉が信用されていないことを理解しているのか、幾分肩を落としているのが傍目から見えた。

「ええと」

 孫権は口籠ってしまった。痺れを切らして冥琳が口を開く。

「孫仲謀、家出など虚言であろう」

 冥琳は確信部分を迷わず抉るように言った。

「嘘ではありません!」

 孫権は声高に否定した。

「では理由を言ったらどうだ。言えない理由なのか?」

 冥琳は胸を強調するように腕組みしながら孫権を観察するような視線を送った。

「実は母が無理矢理に許嫁を決めてしまい。納得できずに家出してまいりました」
「目出度い話ではないか」

 冥琳は薄い笑みを浮かべ喜色の篭った声音で孫権に言った。彼女の表情からは言葉と裏腹に孫権の拙い嘘を面白がっているように見えた。

「許嫁は私と歳が五十も離れた老人です。余りに酷い話です」

 孫権は三流女優のように棒読みだった。話す内容が内容だけに感情が籠りそうなものだが、それが一切感じられない。当然のことながら場に居合わせる者達は白い目を向けた。

「わかったよ。私は三週間後に正宗様に士官する。それまででいいなら店で雇ってあげるよ」

 燕璃は痛々しい孫権を見かねて声を掛けた。彼女の言葉に面食らった表情を返すのは正宗だった。正宗は「お前は何を言っているのだ!?」と抗議の視線を燕璃に送っていた。燕璃は正宗の視線に申し訳なさそうに軽く会釈した。正宗は苦虫を噛み潰したような表情で孫権を凝視した。

「店主、ありがとうございます! このご恩一生忘れません!」

 孫権は頭を上げ立ち上がると店主の方を向くと頭を軽く下げ礼を言った。

「あんたの共の者も店で働くんだよね」

 燕璃は孫権から平伏したままの甘寧に視線を向けた。

「はい! 思春も一緒にお願いします」
「その子の名前は何て言うんだい」

 燕璃は甘寧の名を知りながらも敢えて聞いた。

「彼女は甘興覇といいます。思春」

 孫権は甘寧の名前を燕璃に告げ、甘寧に声を掛けた。甘寧は顔を上げ立ち上がると気が乗らない表情ながらも燕璃に小さい声で「よろしく頼みます」と言った。

「二人のことは何て呼べばいいんだい」
「仲謀、興覇で構いません」
「そうかい。仲謀、興覇。短い期間だけどよろしく頼むよ」

「燕璃、ちょっと待て。どういうつもりだ」

 黙って成り行きを見ていた正宗は燕璃に言った。

「どうも何も二人を雇います」
「何故、二人も雇うのだ。甘興覇がどういう人物か知っているのか?」
「正宗様、雇うことを一任されたではありませんか。甘興覇のことは何も知りませんが何か問題でも」
「問題は十分ある。甘興覇、お前は劉益州牧に命を狙われるているであろう。この荊州は益州の隣州であるため生きた心地はせんのではないか? 我が家臣となる燕璃が劉益州牧より勘気を被るかもしれんのを見過ごすことはできない」

 燕璃に真面目な表情で答えた正宗は甘寧を険しい表情で見た。甘寧は正宗の言葉に気まずい表情を浮かべた。その様子を黙ってみていた見ていた燕璃は口を開く。

「正宗様は益州牧を恐れておられるのですか?」
「燕璃、私を挑発しても無駄だぞ。何故に私が甘興覇のために火中の栗を拾わねばならない。この者の問題は主人である孫文台が解決すべき問題だ」
「正宗様、何故孫家に縁のある者を毛嫌いするかは承知しません。たかだか三週間働かせるだけです。その程度目くじらを立てる程のことではないと思われませんか?」

 正宗は燕璃の言葉に黙った。



「勝手にしろ。冥琳、泉、そういうことだ。もうしばらくここで働くことになった」

 正宗は燕璃に憮然とした表情で向けた後、冥琳に言った。

「はぁ、もうとやかく申しません。ですが、身分はしっかりとお隠しくださいね」

 冥琳は溜息をつきながら言った。

「呂定公と申したな?」

 冥琳は正宗と話した後、燕璃に視線を向け言った。冥琳は機嫌の悪そうな表情だった。

「はい」

 呂定公は返事しした。

「正宗様のことは任せたぞ。何かあれば死を持って償ってもらうぞ」

 冥琳は厳しい表情で威厳に満ちた口調で言った。

「承知しています」

 燕璃は冥琳に真面目に答えた。何時もの飄々とした態度はない。
 正宗と愛紗に続き、孫権と甘寧が海陵酒家で働くことになった。 
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