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小さな約束

作者:ネーマ
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小さな約束

 私の名はエミール・フォン・ゼッレ、今年で五十歳になる。
 皇帝陛下の侍医を務めさせて頂くようになり、もう三十年あまりが過ぎた。
 その間、本当に様々なことがあった。
 結婚して幸いに子宝に恵まれ、その子供が嫁に行き、この手に孫を抱くことが出来たのは大きな喜びだといえよう。
 だが私の人生での一番大きな出来事は、私が医学校を卒業して正式な医師になる前に起こった。そう、前皇帝陛下、いや、初代ローエングラム王朝皇帝と言った方がわかりやすいだろう。
 ラインハルト・フォン・ローエングラム陛下が崩御されたことだ。
 それは突然もたらされたものではなく、現代の医学ではどうしようもない予期された死であった。当時はまだ医学を志す者でしかない私はもちろん、銀河帝国中の医師、頭脳を集めても、陛下の病を治すことはできなかった。
 ご本人が望まれなかったとはいえ延命もほとんど叶わず、せめてもの救いは愛する家族に見守られ、あまり多くはない苦しみの中で最期を迎えられたことくらいだろう。
 私は陛下が病に倒られる前から、側にお仕えしてきた。いや、もしかするとあれが病の兆候であったのかも知れない。だが当時の主治医の誤診だと思っているわけではない。
 あれは誰にもどうしようもなかったのだ。
 そう思わなければ、皇太后がお気の毒でならない。新婚生活はとても短く、しかもそのほとんどが皇帝陛下はすでに病の床にあったのだから。
 こうして昔のことを思い出すことが多くなったのは、私が年を取ったからだろうか。
 しかし今でも瞼を閉じればはっきりと思い出すことができるのだ。
 初めて私が陛下にお声をかけていただいた時のことを───正しくは失礼にも私が無礼を承知で進言したことに、お優しい陛下が答えて下さった、のであるが。

 私が───いや、その頃対外的には私と言っていたが、心の中ではまだ僕だった───僕が初めてあの方にお目にかかったのは、ランテマリオ星域会戦の直前だった。
 初めて乗った戦艦があのブリュンヒルトであったことが僕の一生を左右することになるとは、その時は思ってもいなかった。
 ドックに無骨な戦艦が並ぶ中、白いブリュンヒルトは神々しいまでに美しく、本当に自分がこの艦に乗るんだろうかと信じられなくて、僕はこっそり頬を抓ったりもした。
 もちろんこの艦に乗っているのがラインハルト・フォン・ローエングラム公爵閣下であることも知っていたので、それが何よりもうれしかったのだ。
 戦争の天才と呼ばれるこの方を、僕はずっと前から知っていた。憧れてもいた。
 僕のような幼年学校の生徒で、閣下に憧れない者などいないと思う。
 身分は低い貴族だったそうで、幼年学校への編入こそはコネだったが、その後の成績はコネではなく紛れも無い実力だった。幼年学校の成績ならば金でどうにかなるかも知れないが、同盟軍との戦いではコネも金も通用しない。
 身分も地位もなくても、自分の才力で帝国元帥の地位にまで上り詰めた。
 帝国軍三長官を兼任なされたのは閣下が初めてで、同時に帝国軍最高司令官も務められ、現在は帝国宰相の地位にある。
 閣下は僕の為に勝とうと言って下さった。
 もちろんそれは、あの時勇気を振り絞って声をかけた僕に対する励ましか、自惚れてもいいとすれば礼のような気持ちだったろう。それでも十分過ぎるほどうれしかった。

 その日の晩は興奮で眠れず、翌日赤い目をしていて回りの人に心配をかけてしまうくらいに。
 閣下が熱を出され、僕が医者を目指していることを知っていたフロイライン・マリーンドルフがお世話することを命じて下さり、それには心から感謝した。
 まだ見るからに幼ない僕が艦に乗っていることに気づいたフロイラインは、何かというと目に掛けて、優しく声をかけて下さった。
 僕の父が軍医で、僕も軍医を目指していることを何かの折りに話した。そのことをきちんと覚えて下さっていることにも感激したのに、それを理由に閣下にお仕えさせていただけるとは、夢にも思っていなかった。父から少しは話を聞き、自分でも興味があったので本を読んだりはしていたが、僕はまだ医学生でも何でもなく、医者になりたいと憧れているだけの子供だったのに。


「エミール・フォン・ゼッレ」
 廊下を歩いていると急に名前を呼ばれ、僕は声の方を振り向いた。名前を呼ばれることそのものは珍しくはないが、それが女性の声であり、人目を憚るような小声だったのが意外だった。
 この艦に乗っていて、しかも僕を呼び止める人は一人しか知らない。
「はい、何でしょうか、フロイライン・マリーンドルフ」
 僕は年長の者に対する敬意と、女性に対する礼節を持って丁寧にお辞儀をする。
 手招きされるまま、僕はフロイラインの方へ歩み寄った。するとフロイラインはさらに僕を自分の私室へと促す。
「あ、あの……?」
 僕はこれまでフロイラインの私室に入ったことなどない。それ以前に女性の部屋に入ったことも。帝都に妹がいるが、もちろんそれは別だ。
 入り口で躊躇していると
「早く入って、人に見られないうちに」
 そうせかされ、僕は急いで室内に入った。
「どうも……失礼いたします」
 本当なら室内に入る前に挨拶すべきだったが、しないよりましだ。
 公爵閣下の秘書官として、待遇は中佐扱いとのことだが、女性だということもあるのだろう。他の人の部屋を全部見て回ったわけではないが、ブリュンヒルトの中では閣下の次か、その次くらいにいい部屋のように思えた。
 戦艦の中のせいか、それともフロイラインの性格なのか、特に女性の部屋らしい装飾もない。整理整頓の行き届いた清潔感に溢れた部屋だとも思った。尤も戦艦の中にピンクやレースのカーテンも似合わないだろうが。
「こちらに来て下さる?」
 フロイラインはソファに腰掛けて僕を呼んだ。
「はい、いったい何の御用でしょうか?」
 何やら道具箱のようなものがテーブルに出されている。
「これ、できるかしら?」
 そう言いながら、ソファに置いてあったシャツを僕に見せた。
「拝見します」
 何だろう、僕にできることならよいのだが、と内心どきどきしながらそのシャツを手に取る。
 仕立てのよいそれに僕は見覚えがあった。
 念のために全体を広げて確認する。
 間違いなく閣下のパジャマだ、これは。フロイラインが見せようとしていた箇所をよく見ると一番上のボタンが取れている。
「ボタンが取れていますね」
「ええ、そうなのよ」
 心底困った、というようにフロイラインは表情を暗くし視線を伏せた。
 さらによく見ると、そこには幾つも針跡が残っている。最初にボタンをつけていた跡とは別の新しそうなやつが。
「エミールはボタンをつけられる?」
「は? ボタン、ですか?」
 僕は一瞬自分の耳を疑った。
 耳は悪くはない。悪かったら幼年学校に入学する時の身体検査に引っ掛かるし、艦にも乗せてもらえないだろう。
「このパジャマのボタンですね」
 それらしいものがテーブルに置いてある。
「つけられますけれど……」
 手を伸ばしてボタンを拾い上げた。別に割れている様子もない。
 スナップが割れることはないが、ボタンはたまに割れてしまうことがあり、そうすると仕立て屋でもつけ直せないだろうが。
「つけてもらえるかしら」
「はい、お安い御用です」
 一礼してシャツを持って下がろうとする僕を、フロイラインは血相を変えて引き留めた。
「あ、あの、ここでつけてもらいたいの。道具はあるから」
 僕としては女性の部屋に長いことお邪魔していては申し訳ないと思い、針や糸ならば自分の部屋にあるから、そこで仕事をしようと思ったのだ。
「でも……」
 いいんですか? という視線を込めて僕は室内をぐるりと見回す。
「もちろん、かまわないわ。私がお願いしているのだし」
「では……」
 僕はもう一度お辞儀をしてからソファに腰を下ろした。
 テーブルの上をよく見ると、切れた糸が何本も散乱している。シャツの新しい針跡も気になったが、僕はとりあえず新しく糸を切り、針に通した。
「あの……フロイライン?」
 ふと気づくとフロイラインが僕の真横に座り、手元を覗き込んでいる。
「あ、ああ、邪魔になったかしら? 手元が暗い? だったら明かりを持ってくるわ」
 今日のフロイラインはどうも様子がおかしい。いつも背筋を伸ばし、誰に対しても物おじすることなく歯切れのよい口調の人なのに。
 フロイラインの痛いほどの視線を感じつつ、僕はボタンをつけ終えた。
 糸結びをして、一度表に出し、それからプツンと糸を切る。
「はい、これでできあがりです」
 軽くパンパンとボタンの上から叩くと、僕はシャツを差し出した。
「上手なのね、エミール」
 言葉以上の称賛の響きが混じっていると感じたのは気のせいではないようだった。
 散乱していた糸屑と針跡から推測される事柄を、僕は恐る恐る口に出してみた。
「もしかしたら……ご自分でつけようとされていたんですか?」
「ええ、そうなの。でも巧くできなくて」
「これは、その……閣下のパジャマ、ですよね?」
 あら、というようにフロイラインの目が丸くなった。
「あなたならローエングラム公のパジャマ姿も見ているから覚えていても当然だわ。ええ、公爵閣下のパジャマなの」
 はにかんだような笑顔を見せるフロイラインを、失礼だと思いながら僕は可愛いと思ってしまった。
「今朝、ご用事があって部屋を訪ねた時、ちょうどあなたはいなくて……ローエングラム公がボタンをつけたいので針と糸はないか、と言われたのでそれなら秘書官の私が、と」
 たぶん僕が朝食を下げていた間のことだろう。最近閣下はあまり食欲がないようで、食事を残されることが多い。
 栄養士やコックとどうすればもっと召し上がっていただけるか、味付けや食感を工夫してみる必要があるだろうとあれこれ話し合っていたので。
 銀河の統一は何百年も前から挑まれ続け、でも誰にも成し得なかった事だ。それを成し遂げようとする閣下に掛かる重責を僕などがいくら想像しても、想像の域を出ないことはわかっている。僕がまだまだ子供だということを差し引いたとしても。
 最近は熱を出されることも多く、それは眠っているだけでも体力の消耗を伴う。消耗した体力を補うのには食べることが一番の早道なのだ。
 閣下の好物も僕なりにお聞きしてあるが、グリューネワルト伯爵夫人の作ったパンケーキを再現することは無理だった。
 単なるレシピの問題だけではない。パンケーキのレシピなど、プレーンのものならそう種類もなかった。僕は十分に美味しいと思ったそれを、閣下は一口二口召し上がると、もういい、とフォークを置いてしまった。
 グリューネワルト伯爵夫人だから手に入る秘密の材料があるのではなく、家族の為にという愛情の違いなのだ。そしてそれは他人にはどうしようもない。
 僕は僕にできる精一杯で閣下にお仕えしようと思い、そう心掛けているつもりだ。
「ボタンつけは秘書官の仕事ではない、と言われたけれど、帝国宰相の仕事でもありませんと無理やり取ってきたのよ」
 その時のやり取りを想像すると、つい僕はくすりと笑ってしまった。
 どちらの言葉もそれなりに真実であり、たぶんお二人とも至極真面目な顔付きで言い合ったのだろう。
「ひどいわ、笑うことはないでしょう?」
 僕の失笑に気づいたフロイラインはそう言い、軽く睨むような表情になったが、すぐにまた俯いてしまった。
「……でもよく考えてみたら、私、ボタンをつけたことがなかったの」
 それらしき形跡があちこちに残っていた。
 マリーンドルフ伯爵家の令嬢として育ったフロイラインならば不思議ではない。
 貴族の令嬢の趣味や嗜みとして、刺繍などをする方もおられるが、フロイラインは活発な性格で、室内に閉じこもっているのが苦手だと聞いている。外で身体を動かす方が好きだったそうで、だとすれば、針と糸など扱うのが初めてなのも納得できる。
「だったら……」
 言いかけて僕は口を噤んだ。
 生まれて此のかたやったことのないボタンつけを、命じられもせずにしようとする理由───たった一つしかないじゃないか。
「ローエングラム公ともあろうお方がボタンつけなんて……指でも刺したら、とつい心配になってしまったものだから」
 その言葉にはっとして僕は失礼だと思いつつも、まじまじとフロイラインの指を見た。そこには果たして幾つか針傷らしいものがあって。
「針の傷でも雑菌が入ることがありますから。消毒はされましたか?」
 フロイラインはやや頬を染め、肯定の意味で頷かれた。
「これはフロイラインがつけたことにして、閣下にお渡し下さい」
 僕がしたことは内緒にしておきますから、と付け加えることも忘れずに。
「そうしてもかまわないかしら?」
 フロイラインの瞳がうれしそうに輝いたことが、僕の確信を一層強くする。
「ええ、もちろん」
 立ち上がるとフロイラインがドアまで見送りにきてくれた。
「どうもお邪魔しました」
「いえ、ありがとう、エミール。今度はお茶でも飲みに来て下さいね。今日は何もおもてなしもできなくてごめんなさい」
 とんでもないです、と僕は手を振り部屋を後にした。廊下を歩きながら考える。
 きっとフロイラインは幼年学校がどんなところか知らないのだろう。
 よほど特別の配慮がされない限り、全員が寮に入ることになり、基本的に自分の身の回りのことは自分でする。
 大貴族の子弟ならば側仕えがいたかも知れないが、閣下もまだミューゼル姓を名乗っておられた頃だ。衣類は支給されるが無限ではない。ボタンは取れたら自分でつけるのが当たり前で、閣下も幾度となくご自分でされたに違いない。
 最近はさすがに自分で直されたりはしないだろうが、フロイラインのそれとは違い、閣下には経験はあるのだ。たぶん忘れてしまってはないだろう。十年も経っているわけでなし。
 きっとフロイラインは男性であり、しかも公爵である閣下がボタンをつけられるだなんて想像もしなかったのだろうな。父上のマリーンドルフ伯爵にボタンがつけられるとも思えないし。
 幼年学校では回りは男子ばかりだし、今現在もそんな感じで、その手の話題をすることのない僕にでもわかる。
 もし帝国宰相にそんなことをさせては、と思ってのことなら、こっそり僕を呼び止めたりはしないだろう。堂々とその為の人間に仕事を申し付ければいい。
 閣下の回りには縁談の話を持ちかける人間が何人もいるそうだ。
 年齢としてはお若いが、地位から考えるとそれは決して不自然ではない。ローエングラム公爵家にぜひ、と申し出る貴族は山程いるだろう。
 ブリュンヒルトにまで写真を持ち込む輩はいないので、私は艦に乗っている時が一番安らぐのだよ、と冗談のように閣下が言われたことがあった。
 結婚など考えたことのないような口ぶりで、それよりも先にしたいこと、しなくてはならないことがある、という響きも過分に含まれていた、と僕は感じた。
 僕はこっそりと思う。
 閣下とフロイライン・マリーンドルフならばお似合いではないか、と。
 互いに聡明であられるし、尊敬されあってもおられる。
 閣下のお気持ちはわからないが、フロイラインが何らかの好意を持たれているのは間違いない。

「閣下、夕食はいかがでしたか?」
 食器を下げるように、と命ぜられて僕は閣下の部屋へと足を踏み入れた。
 ベッドサイドのテーブルにおかれているトレイを見て、僕が落胆したのを見て取ったのだろう。
「十分に美味しかったが、動かないでいるとたくさんは食べられないのだ」
 そう閣下がおっしゃってくれたのを聞くと、ますます申し訳ない気がした。逆じゃないか、僕が閣下に気を使わせてしまってどうする。
「果物か何か、召し上がりますか? 僕が熱を出した時には、よく母がリンゴを擦りおろしてくれました」
「リンゴか……それならば私も子供の頃に食べたな。お前が作ってくれるか?」
「はい、もちろんです、閣下」
 僕は背筋を伸ばして敬礼をして答えた。
 恐れ多くて僕の下手くそな料理などはお出しできないが、リンゴを擦るくらいなら大丈夫なはず。
 皮を剥くのは少し怪しかったものの、とりあえず僕は一人で仕事をやり終え、透明なカットグラスに盛り付けた。時間の経過を現すかのように少し茶色くなっているのが気にはなったが。
「お待たせしました。どうぞ、召し上がって下さい」
 熱がある時は冷たいものの方が喉に心地よいのだろうか。僕が見ている前でグラスは空になった。
 食べ残しては悪い、とお考えになる閣下の為に量は少なくしておいたけれど、それでも僕はうれしかった。
「美味かった」
 銀のスプーンを優雅な動作でおくところを、僕はにこにこして見つめていた。
「閣下のお口に合って何よりでした。僕の手際が悪くて、リンゴが茶色くなってしまったのが気になったのですが」
「リンゴの色か? あれは茶色が当たり前だと思っていたが。私が子供の頃に食べた時も茶色だった。そういえば───」
 そこで言葉を区切り、ふと逡巡されるように軽く目を閉じられる。
「最近食べたものは白いままだった。あれはどうしてなのだ?」
「リンゴは酸化するものですから、普通は茶色くなります。白いままというのは、何かそれを防止するものを入れてあったのだと思いますが」
 母親から聞いたうろ覚えの知識だ。いや、知識というほどのことでもない。
「なるほど、そのせいで味が違ったのだろう。お前の作ってくれたのは食べられたのだからな」
 閣下の言葉で思い当たることがあった。
 グリューネワルト伯爵夫人の作る料理の秘密の一つが解けた気がする。
 宮廷料理はどうしても見た目を重視する。閣下の料理番は帝国宰相と公爵という立場上、軍部のそれではない。
 以前は軍艦に大貴族が乗り込むことも多く、名ばかりの司令官の為に宮廷料理も一緒に持ち込まれた。僕達が普段食べているのは、名よりも実を重視したもので、素早く食べられ、消化吸収もよく、栄養化も高いもの───空腹を満たす、というのはその後にきた。
 きっとグリューネワルト伯爵夫人は見た目よりも味や閣下の健康を考え、その為に心を砕いた料理を作っていたのだろう。
 もちろん、今閣下の回りにいる人間がそれを考えていないはずはないが、リンゴの酸化を防止したようなことを他にもしているに違いない。
「お下げいたします」
 盆を受け取る為に、よりベッドの側に近づくと、見るともなしにパジャマが目に入った。僕がつけたもので、自分の仕事だからわかる。
 視線に気づいたのか、閣下が微笑まれた。
「このボタン、つけてくれたのはお前だろう?」
「は? 何を言われます。それはフロイライン・マリーンドルフが……あっ」
 盆を取り落とさなかったのは奇跡に近い。
 語るに落ちる、とはこのことだ。
「やはりお前か」
「はい、僕です……」
 しょぼんと僕は項垂れた。
 僕ではない、と言い張るだけでよかったのだ。フロイラインの名前を出してしまうなんて。
 閣下のパジャマのボタンをつけたなどと、あのフロイラインから言い回るばすがない。
「あ、あの、どうして僕だとわかったのですか?」
 もしフロイラインが嘘をつくのがイヤだと思い直し、正直に述べたとすれば、お前だろう、と尋ねるような言い方はされないだろう。
「自分で気づいてないのか」
 近くに寄って見ろ、というように閣下はパジャマの襟元を引っ張った。
 一番上のボタンが僕のつけたものだ。何時間か前のことだから覚えている。その一つ下のボタンを見て、僕はあっと小さな声をあげた。
「フロイラインには礼を言っておいた。私は自分でできるから、とも言ったのだがな」
「はい、僕も閣下がお出来になるのは知っておりました」
 僕の言葉を聞いた閣下がにやりとした笑みを見せる。初めて見る子供のような顔だった。
「私がお前の仕業だと気づいたようにな」
 そう言ってから人差し指を立て、唇に押し当てた。
「フロイライン・マリーンドルフには秘密にしておこう。男の約束だ」
「はい、もちろん約束は守ります」
 同じように僕も片手に盆を持ったまま、人差し指を唇に当てる。
「これで閣下との約束が二つになりました」
「二つ? まだ何かあったか?」
「はい、軍医の資格を取り、閣下の主治医になることです」
 その時の僕の声は弾み、頬は喜びに紅潮していただろう。
「ああ、そうだったな。私がお前に頼んだことだ。楽しみに待っている」
 僕は盆を小脇に抱えたまま敬礼をした。それはきっと奇妙な格好だったに違いない。
 閣下は苦笑しながらもそれに応えた下さった。


 あの時の約束を私は一つは守り、一つは守れなかった。私の生涯でただ一つ悔いが残るとすれば、そのことだろう。
 私が医者になるまで、陛下は待っていては下さらなかった。あまりにも早く、きらめく光のごとく駆け抜けるようにこの世を去ってしまわれた。
 お二人が結婚され、その後も私は変わらずおそばにお仕えし続けた。
 ボタンの秘密をもちろん私は誰にも漏らすことはなかったし、皇太后自身に告げることもしなかった。
 私は今でもシャツのボタンが取れた時には自分でつけ直す。つけながらあの時のことを思い出す。忘れない為にそうしているのかも知れない。
 初めて入った女性の部屋───自分でも意識したことはなかったが、憧れの女性の部屋だったのだ、あそこは。だからあんなにもドキドキしたのだろう。
 陛下がすぐに私の仕業だと見破ってしまったのには理由があった。
 幼年学校に入学するまで、自分でボタン付けができる生徒など滅多にいない。皆、入学してから覚えるのだ。
 そしてその時に先輩から後輩へと伝えられるのは、見栄えよりも強度を重視した方法で、四つ穴ボタンの場合、その差は歴然と見た目に現れる。
 他のボタンはこれまで取れたことはなかったのだろう。仕立て屋がつけたそれと、幼年学校で伝授された私がつけたそれは、明らかに異なっており、見る者が見ればつまりはある意味での署名がされているのと同じだ。
 これは、幼年学校を出た者がした仕事である、と。
 今でも私のつけたボタンは家族にすぐにそれとバレ、苦笑される。シャツならば人目にふれることも少ないが、上着はその付け方ではダメだ、とも。
 誰に何と言われようと、私は長年の習慣を変えるつもりはない。
 これは私にとって誓約を意味するからだ。
 閣下とのもう一つの約束を、私は生涯忘れない。
 これだけは守り抜くつもりだと───    
 

 
後書き
以前にネット公開していましたが、サイトが閉鎖されました。
新外伝1に掲載済みです。 
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