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リリカルってなんですか?

作者:SSA
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A's編
  第三十二話 裏 中 (フェイト)




 存在意義―――自分が此処にいる理由、此処にいてもいい理由。

 たとえば、それを社会的な地位に見出す人もいるだろう。

 たとえば、それを自らの才覚に見出す人もいるだろう。

 たとえば、それを趣味に見出す人もいるだろう。

 たとえば、それを他人に見出す人もいるだろう。

 たとえば、それを家族に見出す人もいるだろう。

 星の数ほどある各々の存在理由。それをとある少女―――フェイト・テスタロッサは、母親に求めた。

 母親が願うから、母親がかくあれと願うから、だからフェイト・テスタロッサは、それに従った。母親に褒められること、笑ってもらうこと、名前を呼んでもらうこと。それが彼女の存在理由だった。

 彼女の年齢が一桁であることを考慮すれば、それは全く自然なことである。子どもは、親からの愛情を受け取ることで、此処にいてもいいと実感することができるのだから。あるいは、彼女の寂しがり屋な性格も起因していたのかもしれない。

 しかし、彼女が求める存在理由を知ってか知らずか、彼女の母親―――プレシア・テスタロッサはフェイトの求めにまったく応じようとはしなかった。褒めることもなく、笑うこともなく、名前を呼んだとしても、それは常に暗い影を映したような陰鬱な声。当然、フェイトが聞きたいのは、そんな声ではない。

 その理由には、フェイトが知らない理由があるのだが、そんな理由を知る由もない彼女は、自分の頑張りが足りないからだ、自分に理由を見出してしまう。年齢が一桁の少女に親のことを疑えというのは酷な話だ。

 だから、彼女は頑張った。母親の願いをかなえてあげようとした。その先に彼女が望んだものがあることを信じて。

 だが、その信じたものは、あの日―――母親に真実と決定的な一言を告げられたあの日に木端微塵に砕け散ってしまった。ぱらぱら、と彼女の信じたものがガラスの欠片のようにきらきらと輝きながら砕けていく。彼女が信じた未来は、永遠にその小さな手の平に収まることはなく、砂のようにサラサラと指の間を抜け落ちていくようなものだった。

 その瞬間、彼女は彼女の存在理由を失った。彼女は、母親のために生きていた。うっすらと残る記憶の様に母親に笑ってほしくて、褒めてほしくて、名前を呼んでほしくて。だから、頑張れたのだ、だから、どんなにきついことを言われても頑張ろうと思えたのだ。

 なのに―――信じたものは、すべて、すべて贋物で、自分は失敗作で―――

「ゴミが。ここは、アリシアが眠る場所よ」

 ―――もう、どうでもいいかな。

 フェイトは目をつむる。自らの存在理由、立ち位置を失った彼女にとって、現世とはどうでもいいものであった。

 パリンという心に罅が入るような音を立て、すべてを手放し諦めようとしたフェイトだったが、本能的にとでも言おうか、彼女が、彼女を守るために防衛本能が働いた。精神的なものであるため、本能的な、と形容するのもおかしい話かもしれないが、自然とフェイトは自分が生きていくためにその身を防御した。

 つまり―――存在意義の再構築である。フェイトはすべてを否定された。己の意味を否定された。それは、フェイトの存在理由である母親が求めるフェイトではなかったからだ。ならば、ならば、話は実に簡単である。

 ―――母親が求める自分を作る。

 ああ、違う、違うのだ、と彼女は否定する。嫌われたのは本当の私ではないのだ、と。

 フェイトは、贋物と呼ばれた自分を退避させ、母親が求めた理想のフェイトを無意識のうちに構築する。

 普通ならば、望んだから、防衛本能が働いたからと言ってそう簡単にできることではないだろう。だが、フェイトには幸いにもと言うべきか、あるいは、不幸にもというべきか、その下地が十分にできていたのだ。

 それは、皮肉にも彼女の母親が行った記憶の転写が原因だった。クローンニングされた身体に記憶を転写する。文字にすれば簡単だが、行ったことを考えれば、わずかでも実現できたことは魔法というファクターが存在したとしても奇跡に近い。天才的ともいえる頭脳と狂気ともいうべき執念がなした業だったのだろう。

 しかし、それはあくまでも記憶の転写だ。いわば、他人の人生を映画として見せられたに近い。そうだとしても、影響が全くないわけではない。そもそも、その記憶の転写は彼女の存在意義である母親が求めたフェイト―――アリシアの記憶なのだ。ならば、フェイトが彼女を再構築する際に、その記憶が使わない手はない。

 フェイトがフェイトの居場所を求めるために作られた存在―――それが、蔵元アリシアという人格だった。

 その彼女が受けいれられる様をフェイトは、じっと膝を抱えて生気のない目で見ていたそこは、小さな小さな部屋。フェイトがフェイトを守るために逃げ出したフェイトという存在の心の隅だ。そこからフェイトは小さなテレビを見るような感覚で、彼女が本能で作成したアリシアが蔵元家に受け入れられる様を見ていた。

 自分が理想としたものが、自分が追い求めていたものがそこにあった。偽りの名前とはいえ母から名前を呼んでもらい、笑いかけてもらい、抱きしめてもらえるというフェイトにとっては遠き理想がそこには存在していた。存在していたがゆえに思う。

 ――――ああ、自分はやっぱりいらなかったのか、と。

 贋物と呼ばれた自分が無意識のうちにとはいえ作り出した人格。彼女は、受け入れられた。そして、自分は捨てられた。違いは明白だ。そこには天と地ほどの格差がある。だが、それでもよかった。なぜなら、あれはフェイトが求めた理想で、フェイトではないが、もう一人のフェイトなのだ。

 ならば、名前が異なろうが、意識が異なろうともあそこで笑い、母親に名前を呼ばれ、微笑まれ、抱きしめられ、大好きな兄からは名前を呼ばれ、頭を撫ででくれるような自分はフェイトなのだ。

 ―――うん、これでいい。これでいいんだよ。

 捨てられるような、贋物と呼ばれるような自分は自分ではない、と自らを守るために作った人格が、皮肉にもフェイトの心を凍らせていく。受け入れられたのは、自分ではなく、蔵元アリシアなのだから、フェイトたる自分は心揺らす必要もない。ただ今はぬるま湯に浸かったような心地よさに身をゆだねながら、蔵元アリシアの生活を夢見心地で見つめる。

 これでいい、これでいい、と自分に言い聞かせながら。

 だが、不意に心の隅から浮かんでくる問いが時折フェイトの心にチクリとした痛みを与える。

 ―――ああ、自分は一体何のために生まれてきたのだろうか?

 その問いに答えはなかった。



  ◇  ◇  ◇



「フェイトちゃん、聞こえる? フェイトちゃん」

「…………だれ?」

 蔵元アリシアの彼女の理想ともいえる生活を夢見心地で膝を抱えたまま見ていたフェイトだったが、久しぶりに呼ばれる自分の名前を聞いて、少しだけ意識を覚醒させた。もっとも、それは微睡の中、わずかに瞼を上げた程度のもので、覚醒にはほど遠いものだった。それでも、過去に自分が望んだ名前を呼んでくれる存在がいるとなれば、―――しかも、彼が夢見心地ながら聞いていた彼女が大好きな兄の声であるならばなおの事だ。

 うっすらと開いた瞼の向こう側には、蔵元アリシアの目を通して見ていたそのままの柔らかい微笑みを浮かべた兄―――蔵元翔太が立っていた。

 一瞬だけ、その微笑みに夢の中の自分の様に喜びの感情が浮かび上がってきた。しかし、その感情はすぐに別の思考によって押しつぶされてしまう。

 ―――違う、違う、違う。この人は、私のお兄ちゃんじゃない。アリシアのお兄ちゃんだ。

 フェイトにとって、蔵元翔太とは、フェイトが作り出した蔵元アリシアの兄ではあっても、フェイトの兄ではなかった。半分、夢見心地で彼の優しさに触れていたとしても、一度、母親に手ひどく裏切られた記憶が翔太のことを信じようとする心を縛ってしまう。

 信じたい、だけど、信じられない。もしも、信じた、信じようとした先にまた捨てられてしまったら、あの微笑みが嘘だったとしたら、今度こそ、フェイトの心はガラス細工のように粉々になってしまうだろう。無意識のうちにそれがわかっているフェイトは、自分の心を守るために信じたい心に蓋をする。

「嘘だ………わたしにお兄ちゃんなんていない………私には母さん………母さんだけ」

 そう、そう思わなければならない。今の彼女に次の一歩は踏み出せない。踏み出したその先にある一つの終焉を知ってしまったから。自分がいないほうが幸せになれることを知ってしまったから。

 自分はゴミであり、贋物である。だから、手は取れない。とっても意味がない。だから、フェイトは何も考えることはなかった。

「フェイトちゃん、こんなところに蹲っていても、何も変わらないよ。一緒に外の世界にいかないかい?」

 柔らかい、本当ならフェイトの母親に浮かべてほしかったようなすべてを受け入れるような笑みを浮かべて蔵元翔太が手を伸ばす。だが、その笑みも、言葉もフェイトには届かない。彼女は諦めているから。認めているから。何より、翔太の言葉は意味がない。

 『何も変わらない』―――そうだ、何も変わらない。そこが翔太の思い違いだ。フェイトは何かを変えることを求めていないのだから。フェイトが求めているのは昔から変わらずただ一つだけ―――母さんから認められることだ。

「………そと? どうして? 母さんはもういない。母さんから認められなくちゃ、生きている意味なんてない。ゴミの私には………贋物の私には」

 だから、フェイトから出てきた言葉は、拒絶だった。

「あ~あ、もったいないな」

 そんなフェイトをあざ笑うような声をわざとらしく上げるのは、フェイトと瓜二つの容姿を持った一人の少女―――アリシアだった。

 フェイトは、彼女がそんな声を出す意味がわからなかった。彼女は幸せなはずだ。自分の代わりに外に出て、翔子という母親に出会い、翔太という兄を持ち、フェイトが望んだような家族絵を描いていると言える。そんな彼女がフェイトに対して翔太を援護するような声を出すことがフェイトには信じられなかった。

「………どうして、あなたが? あなたが外に行って。母さんに認められてよ。私は、それを夢で見てるから」

 そう、それでいい。すべては夢幻。現状はフェイトの傷つき、ひび割れた心を慰撫する贋物だ。

 うらやましいとは思う。そんな風にプレシアとなれたらとは思う。だが、それはフェイトが望むものとは違うのだ。だから、『夢』。望む、望まないと限らず、夢なのだ。フェイトが望むのは、今も昔も一つだけなのだから。

「夢で?」

 そんなフェイトを見透かしたようにアリシアがくすり、と笑う。その笑みにフェイトは恐怖心を覚えた。

 なぜそんな風に笑える? 彼女は自分が作った幻想であるはずだ。なのに、まるで自分で気付いてほしくない部分を見透かしたような笑みを浮かべる。フェイトが覚えたのは、見られたくないものを見られたことに怯えるような恐怖心だった。

 そんなフェイトに気付いてか、気付かずか―――おそらくは前者だろう。アリシアはチェシャ猫のように唇の両端を釣り上げて嘲笑いながら言葉を続ける。

「フェイトが夢でみているわけないでしょう? だったら、この場所はこんな風にはなっていないでしょう?」

 アリシアの一言が次々にフェイトが隠したかった心を暴いていく。それは、闇の衣でくるめた目を背けたい真実を少しずつ暴いていくような感覚。

 やめろ、やめろ、やめろ、とフェイトは心の中で叫ぶが、声には出せない。アリシアの言葉がフェイトの心を抉っていくが、それを止めるすべてをフェイトは持っていなかった。

 そして、アリシアは嘲笑うような笑みを張り付けたまま、ついにフェイトに対して決定的な一言を口に出す。

「ねぇ、フェイト。あなた、本当は理解しているんでしょう?」

 それは確認だ。事実の突きつけだ。ぎゅっと瞑った瞼を無理やり開かせ、事実の目の前に頭を持ってきて、押し付けるような言葉だった。

「もう、母さんがフェイトを認めてくれることなんてなくて、あなたは完全に捨てられたんだって」

「………ち、違う………そ、そんなことない」

 見せつけられたくない、厳重に衣で覆っていた最後まで見たくないフェイトにとって恐怖すべき事実を突きつけられて、フェイトは恐怖で全身を震わせながら必死に否定した。

 当たり前だ。それを認めてしまっては本当にフェイトは生きる意味がなくなる。今までの短い10年という時間ではあるが、フェイトは母親のために生きてきたのだ。それが、本当に無駄になってしまって、今後も報われることがないのだと理解してしまえば、それは本当にフェイトの居場所が、望んでいた場所の―――存在意義の消滅を意味する。

 今もこうして、アリシアが表に出て、フェイトが奥底でひきこもっていられるのも、その事実を認めず、『いつか』『もしかしたら』という希望を持っているからに他ならない。それを完全に認めてしまったら、その希望さえも意味をなくてしまうではないか。

 だから、プレシアがフェイトを見ることは絶対にないとしても、それを受け入れるわけにはいかなかった。たとえ、わずかでも、『もしかしたら』と思っていたとしても、だ。

 だから、フェイトは必死に否定する。自分を守るために。自分の居場所となるべき場所はいまだに存在するのだと、自分を誤魔化すために。

 しかし、そんなフェイトの思考の逃げ道をアリシアは次々とふさいでいく。

「そんなことあるでしょう? だって、気付いていないなら、理解していないなら翔子母さんをプレシア母さんと間違ったりしないもの」

「それに。仮に私が認められたとしても、それはあなたが認められたわけじゃないよ。フェイトが作り出したアリシアが認められただけ」

 そして、決定的な一言。フェイトが一番突きつけられたくない一言を口にしてしまった。

「なら―――ねえ、フェイト。あなたはどこにいるの?」

 ――――私はどこにいる?

 それはフェイトが一番教えてほしかった。

 幼いころから母親に笑顔を見せてほしくて、魔法の勉強も必死にやった。母親からの一言が欲しくてフェイトはそれだけに注力してきたのだ。今までのフェイトは、短いながらも母親に人生をささげていたといっても過言ではない。ならば、こうして報われることがない、母親から受け入れてもらうこと、笑ってもらえることが絶対にない、と現実を突き付けられ、それ以外を知らないフェイトはどうしたらいいのだろうか。

 ――――ワタシハ、ドコニイルノ?

「そう、どこにもなかったんだよ。フェイトの居場所なんて。たった一つを除いてはね」

 アリシアが、ようやく気付いたのか、というような呆れのため息をはいた後に、クモの糸のような一言を付け加える。

「………そんな場所があるの?」

 フェイトには信じられなかった。

 アリシア・テスタロッサでもなく、蔵元アリシアでもなく、フェイト・テスタロッサが認められる場所。フェイト・テスタロッサが、フェイト・テスタロッサとしていてもいい場所。そんな都合のいい居場所があるのだろうか。フェイトには到底信じられず、だが、己の存在意義を失ってしまったフェイトからしてみれば、それは最後の希望だった。

 すがるような目でフェイトはアリシアを見る。私の居場所はどこ? と迷子になった子供の様に泣きそうになりながら、それでも、すがるべき、よるべき居場所を求めて。

 かくして、答えはフェイトと瓜二つである少女からではなく、別のところから与えられた。アリシアとのアイコンタクトを交わした後に少年―――蔵元翔太は口を開く。

「そうだね、僕は君のお兄ちゃんだ。君が居場所を―――誰かから認められて、フェイトちゃんとしての居場所を望むのであれば、君が望み続ける限り、僕の妹は君―――フェイトちゃんだよ」

「わたし………が?」

 その言葉を、今すぐすべてを放り出してすがりつきたいその言葉だった。今までどれだけ頑張っても与えられなかった居場所、渇望しても与えられなかった居場所。それをポンと軽く与えられたとしても彼女が感じるのは戸惑いだけだった。

「そうだね。フェイト・テスタロッサさん。君だよ。君だけの場所だよ」

 そんな彼女に対して、確証を与えるように少年は重ねて少女の居場所を柔らかい、暖かい笑顔ともに告げる。

 ―――嗚呼、と少女は感嘆する。渇望し、与えられず、傷つけられ、絶望に沈んだ彼女にとって彼は、彼の隣という居場所は眩しすぎた。同時に彼女が望む居場所だった。

 信じられない、信じたい。そんな二律背反の想いがフェイトの中に充満する。信じるべきなのか、信じるべきではないのか。心の中の渇望は前者を支持し、傷つけられ絶望に染まった心は後者を支持する。果たしてどちらが正しいのか、フェイトにはわからない。だが、それでも、それでも、ふと脳裏に浮かんだこの場所で見続けてきた蔵元家という家族の肖像を想う。それが、わずかにだが、信じるという選択肢の天秤の針を傾けた。

 だからだろう、自分でも気づかないうちに己が望む本当の渇望を、想いを口にしていた。

「ほんとうに………アリシアではない私を、妹として認めてくれますか?」

 それが本当のフェイトの願い。ただ、ただ認めてほしいのだ。フェイト・テスタロッサという一人の少女を。アリシア・テスタロッサの贋物でもなく、蔵元アリシアの代わりでもなく、フェイト・テスタロッサを認め、いてもいいという居場所が欲しい。それが本当の願いだった。今までは、その居場所は母親の隣にしかないと思っていた。それ以外の場所には意味がないと思っていた。

 だが、だが、それ以外の場所もあった。フェイト・テスタロッサが望んだ自分だけの居場所。自分がいてもいい場所。自分が自分でもいい場所があるかもしれない。

 今までどれだけ望んでも手に入れられなかった居場所に手が届きそうだと思うとフェイトの心臓は高鳴る。そして、彼女が一縷の望みを託した少年は、一瞬だけ何を言われたのかわからないというような表情で、きょとんとした表所を浮かべた後に笑みを浮かべてフェイトが心の底から渇望した、ずっとずっと投げかけてほしかった言葉を紡いだ。

「もちろんだよ。君はアリシアちゃんじゃなくて、フェイトちゃんだ。それでも、やっぱり君は僕の妹だよ」

 まるで泣きじゃくる小さな子供に偶然入っていた飴玉を差し出すように当然の様にフェイトが臨んだ言葉を口にしながら蔵元翔太という少年は、座っているフェイトに対して腰をかがめながらその右手を差し出した。

「君が笑えることがあれば一緒に笑うし、悲しいことがあれば一緒に悲しむし、寂しいのであれば一緒にいるよ。そんなどこにでもいる兄妹だよ」

 はたしてそれはどこにでもいる兄妹だろうか。フェイトにはわからない。だが、それでもこの少年が彼の隣にフェイトを望んでいてくれていることは理解できた。アリシア・テスタロッサの代わりでもなく、偶像の蔵元アリシアでもなく、彼は目の前のフェイトを、今までの妹が虚像と言われたにもかかわらず、ありのままのフェイトを受け入れようとしていた。

 本当のことを言うのであれば、フェイトは今すぐにでも彼の言葉に飛びつきたかった。飛びついて彼の隣を自分の居場所としたかった。望んで、望んで、努力して、頑張って、その先が報われない未来で、手に入れることができなかった自分の居場所。それが、周り廻ってようやくフェイトの目の前に現れたのだ。それに飛びつきたくないわけがない。

 しかし、過去の記憶が、経験が、あの目の前で隣を望んだ人から投げつけられた無遠慮な言葉が、ナイフの様に心に差し込まれた言葉が、心が完膚なきまでに傷つけられた記憶がフェイトに二の足を踏ませる。

「わたしは………」

 もしも、彼女に幸せな記憶があれば、それが勇気になったのかもしれない。だが、彼女には確かなそれがない。あるのは、自分の代わりとなったアリシアが経験した幸せな記憶だけだ。

「ねえ、フェイト。ここから始めてみない?」

 喜びと不安のはざまで葛藤していたフェイトは、突然、間近でかけられらた言葉に驚いて顔を上げるそこにあったのは自分と瓜二つの容貌。ただ、その表情にはおそらくフェイトが浮かべているであろう表情とは異なる笑みが浮かんでいた。まるで、フェイトの心の内を知りながら、祝福するような笑みだ。

「今まで母さんの言うことを守ることしか考えていなかったフェイトが自分を始めるのは難しいかもしれないけど、でも、お兄ちゃんの隣ならきっと大丈夫だから」

 その笑みに、言葉に安心してしまう。先ほどまで欲しかった少しの勇気が少しずつ分けられているような気がした。彼女は、自分自身であるはずなのに、自分が産んだ虚像であるはずなのに、その笑みには不思議と力があった。

「ほかの誰が言っても信じられないかもしれないけど、それでも―――自分自身の言葉なら信じられるでしょう」

 違う、違うとフェイトは彼女の―――アリシアではない、彼女の言葉を否定していた。蔵元アリシアはフェイトが生み出した虚像だ。その彼女がこんなにも明確に意思を示せるはずがない。ならば、彼女は―――。

 フェイトが最後までその答えを導き出すことができなかった。なぜなら、フェイトがその先の答えにたどり着きそうになった直前に彼女は、自らの首に下がっていたあるものをフェイトに差し出したからだ。それは、フェイトの思考を止めるには十分なものだった。

「それに―――フェイトは一人じゃない。ずっと一緒だった人がいるでしょう?」

 彼女に告げられて、フェイトは初めて自覚した。

 そう、そうだった。彼女にはいたじゃないか、いつだって、彼女の隣に。何も言わず付き合ってくれた相棒ともいうべき存在が。母親しか、彼女の役に立つことしか考えていなかった自分に献身をささげてくれた存在が。

「あるふ……ばるでぃっしゅ……」

 思わずといった感じでフェイトの口からその存在の名前が出てくる。

 アルフ―――言わずと知れたフェイトの使い魔。彼女がどんな恩義を感じてくれているかフェイトにはわからない。だが、常に一緒にいて、彼女のそばに寄り添ってくれたのは彼女だ。忘れていたわけではない。フェイトに取ってアルフがそばにいることは当然だったからだ。今までも、そしてこれからも―――たとえ、フェイトが新しく見つけた居場所を追い出されようとも。

 バルディッシュ―――彼女のデバイス。寡黙なデバイスではあるが、フェイトが力を振るうときいつだって力を貸してくれた。何より、幼き頃からともにあり、ともに成長してきた相棒だ。

 嗚呼、どうして忘れていたのだろう、とフェイトは後悔する。確かにフェイトは報われなかったのかもしれない。救われてなかったのかもしれない。自分が望んだ居場所を得ることができず、そのための努力もすべて否定されたのだから。

 だが、だが、それでも彼女はどん底ではないことに気付くべきだったのだ。一人ではないことに気付くべきだったのだ。自分には母親しかいないと思っていた。だが、それは違ったのだ。それが当然過ぎて、母親にしか意識が向いてなくて、こうして見捨てられて、否定されて、指摘されて初めて気づいた。

 ―――自分は一人ではなかったのだと。

 それに気づいたとき、彼女の瞳からは自然と涙が流れていた。

 気付かなかった自分の愚かさを嘆いて。自分が一人ではなかった、ずっと見守ってくれている人がいたことに歓喜して。

「わたしの………私たちのすべてはまだ始まってもなかったのかな? バルディッシュ………」

 彼女が一人ではないことに気付けていなかった理由。それは、フェイトの意識がすべて母親―――プレシアに向かっていたからだ。周りに意識が向かないほどに。なぜ? それは、すべての真相を知ってしまった以上、フェイトだって気づいていた。そういう風にプレシアが仕組んだからだ。都合のいい手ごまにできるように。そこには、フェイトの意志は存在していなかった。いや、あったかもしれないが、気付いていなかったという点では存在していなかったといってもいいだろう。

 だからこそのフェイトの言葉。彼女は彼女の意志で始めてすらいなかった。

 ―――Get set.

 そんな彼女を慰めるように金色の寡黙なデバイスは端的に答える。大丈夫だ、と幼年のころからともにあった相棒ともいうべき存在がそっと小さく背中を押してくれた。

「私は………ここから始めていいのかな?」

 許しを請うように、認めてくれるようにフェイトはアリシアへ視線を向ける。

「違うよ、フェイト。始めていいんじゃない。始めるべきなんだよ。ずっと一緒にいてくれた人がいて、隣に支えてくれる人がいて………一人で始めるのは怖いかもしれない。でも、今なら、フェイトを支えてくれる、見守ってくれる人がいる。今、始めなくて、いつ、始めるの?」

 答えは最初から決まっていた。これだけお膳立てさせられて、これだけの好条件がそろっているのに躊躇する理由がどこにあるというのだろうか。そんなものはどこにもない。

 だから、彼女はそっとずっと手を伸ばしてくれている兄の手をそっと取った。

 触れた掌から感じられる彼の手から感じられる体温が温かい。それが人と触れ合うということ、自分の居場所なのだとフェイトはようやく自覚できた。

「――――ありがとう。あなたがいたから私は、自分を始めようと思うことができた」

「あはは、気にしないで。自分のことだもん。私が私に力を貸すことは当然だよ」

 その言葉にフェイトは首を横振った。分かっているからだ。すでに彼女は確証を得ていた。彼女は自分の虚像として生んだアリシアではないのだと。

「違う。そうでしょう?」

 もはや彼女は観念していたのだろうか。フェイトの言葉を否定することはなかった。ただ、照れくさいのを誤魔化すように照れ笑いを浮かべていた。

「あはは、わかっちゃった? うまく隠せたと思ったんだけどな」

「わかるよ。こんな形で出会うとは思わなかったけど」

「私もだよ。いや、こんな形じゃないと私たちは出会えなかっただろうね」

 そう思っていなかった。こんな形で出会うことができるなんて。本当は姉と呼ぶべき存在と出会えるなんて。だが、アリシアが言うことも事実なのだ。アリシアが生きていれば、フェイトは生まれることはなかった。両者が並び立つことなど、こんなことがなければありえない現実なのだ。

 ただ、少しだけの偶然が重なっただけ。それがどれだけ低い確率だったとしても今が、今だけが現実だ

「だからこそ、この出会いに感謝しようよ。そして、私のことを想ってくれるなら………行って! フェイト!」

 そう感謝するべきなのだろう。もしも、神という存在がいたとするならば、この出会いに。元来出会うことがなかった姉という存在に引き合わせてくれた存在に。彼女の居場所である兄という存在を与えてくれた存在に。

 彼女ともう出会うことはない。だからこそ、フェイトは彼女を安心させるためにしっかりと微笑みを浮かべた。もう大丈夫なのだと。もう一人じゃないことに気付いた。自分が存在してもいい場所があることに気付いた。もう、この暗闇すら必要なのだと。

「はい、行ってきます」

 そう言いながら、もう必要ないこの空間から脱出するために久しぶりの相棒に声をかける。

「バルディッシュ、行ける?」

 返ってきたのは、何を言っているんだ、と憤るような、あるいは久しぶりの起動で歓喜するデバイスの弾んだ返事だった。

 ―――Yes、Sir!

 瞬間、彼女の身体はバリアジャケットに包まれる。マントを翻し、水着のような黒い服に包まれる。久しぶりの感覚だが、違和感はない。むしろ、充実している。なぜなら、彼女はすでに手に入れているからだ。

 自分が自分でいい場所を。自分がそこにいてもいいと許される場所を。彼の隣に。

「一緒に行ってくれるんだよね?」

 怖がるように、改めて確認するように小さく問いかけるフェイト。もしも、拒絶されたらどうしよう? という小さな恐怖や不安もある。だが、そんな彼女の心の内を知ってか、その恐怖や不安を払拭するような笑みを浮かべて蔵元翔太は口を開く。

「もちろん、僕は君のお兄ちゃんだからね」

 ああ、大丈夫だとフェイトは思った。彼の隣なら自分は自分でいられると、フェイト・テスタロッサは、フェイト・テスタロッサ足りえると確信することができた。だから、フェイトはフェイト・テスタロッサを始まるために、そのための最初の障害となるこの場所から脱出するために魔力を高める。

「行きますっ!」

 彼女は飛翔する。ここから、自らを閉じ込めていた檻から抜け出すために。その向こうに広がる光が広がる世界に飛び立つために。

 自らが持つ魔法で、フェイトがアリシアだと認められなかった最大の原因をもって、アリシアである呪縛から抜け出すようにフェイトはそれを使って、黒い檻から飛び出す。いつの間にか空いていた小さな罅はフェイトの魔法で大きく広がっていた。あそこから脱出すれば、おそらくはこの空間から抜け出せるだろう。

 そして、それは同時に彼女―――アリシアとの別れを意味していた。悲しいと言えば、悲しい。だが、本来はありえなかった邂逅だ。この空間の寿命が短いことも理解している。だが、だが、それでもありえなかった邂逅を少しでも長くするために脱出する直前に今もあの空間にとどまっている自分と瓜二つの存在をその視界に収めた。

 彼女は自分に気付くと小さく手を振って笑っていた。まるでそこには別れがないように。気にするな、と言わんばかりに。そして、お互いに目があった直後に、フェイトに念話の様に声が響いた。

「ああ、フェイト、忘れないように持って行ってね」

 念話を通して、それはフェイトとアリシアしかわからない絆ともいうべきライン。それを通して、フェイトへ何かが流れてくる。それは決して不快なものではなく、温かく心安らかなものだ。

「わたしでもなく、フェイトでもない蔵元アリシアが短い間に感じていた大好きという感情だよ。例え、あなたの虚像であってもあなたであることには変わりないんだから、持っていきなさいよ」

「―――ありがとう」

 ああ、確かにそれは捨てられない。フェイトでなくても、フェイトだったのだ。虚像と言えども感じていたのは自分なのだ。ならば、翔太の妹になろうというのであれば、そこを自分の居場所なのだと、自分の存在意義はそれだというのならば、きっと兄が大好きだという先輩の感情は邪魔にはならないから。だから、フェイトは礼を言う。

 それにアリシアが満足そうにうなずいたのを見て、フェイトは今度こそ、アリシアから視線を外して前を見る。目の前には、暗闇の隙間からあふれる光があった。フェイトが生きていく世界。自分の居場所がある世界。自分が許される世界なのだ。

 ―――さあ、フェイト・テスタロッサを始めよう。彼の隣で。


つづく






















 
 

 
後書き
 イメージ『fly me to the moon』. 
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