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Lirica(リリカ)

作者:とよね
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―2―

 2.

 神殿の三点鐘が鳴り響き、無益な一日がまた始まる。蛍石が燐光を放つランプを手に、ヴェルーリヤは群晶の間を訪ねた。そして床に跪き、煙を包みこむ水晶に額をくっつけた。
「父よ、偉大なるルフマンよ」
 彼は幾度目かもわからぬ懇願を、唇に乗せた。
「かつてそうであった通りに、私を膝下(ひざもと)に帰してはくださりませぬか」
 ヴェルーリヤは額に意識を集中し、温かいものが、光るものが、威厳ある甘美なものが水晶の内に現れはせぬかと待ったが、その時は来なかった。彼はただ、哀切な声で懇願を重ねた。
「父よ、私を御国(みくに)にお入れくだされ」
 ヴェルーリヤは、群晶の間で人間の似姿を得るより前の事を覚えていないが、望んで生まれてきた事だけは確かだった。人々を苦痛から救いたいと、確かにそう願った。
 浅はかであったと思う。浅はかで間違っていた。叶うなら、この体を神に返し、もとの存在に戻りたい。今ヴェルーリヤが望む事はそれだけであった。
 額に招かれざる者の気配を感じ、ヴェルーリヤは水晶から顔を離した。果たして煙が割れ、あの老人の顔が大きく浮かび上がった。
「時が来る。誰も抗えはせぬ」
 ヴェルーリヤは顔を背け、吐き捨てた。
「去れ」
 老人はヴェルーリヤから目をそらさず、にやにやと笑っている。その様子が、目で見ずとも、額に受ける気配でわかる。
変化(へんげ)の時が来るのだ。お前は何も知らぬままその時を迎えるつもりか?」
「変化など認めぬ。我はこの神聖な領域を守るのみだ」
 老人は鼻で笑った。その後、何かに気付いたように、目を遠くにやって、呟いた。
「……ほう。いずれ木相は、役者達に向けて刺客を放つ事になるな。それも無駄な抵抗だが」
 ヴェルーリヤは老人の言葉の意味を理解できず、したいとも思わなかった。ただ、この老人は世界を階層単位で見下ろして物を語っていると感じた。相の上位単位は階層。階層よりさらに上位の単位として、界が存在する。この老人は、自分が思う以上に高位の存在かもしれない。だが、高位の者が高潔な者であるという証はない。
 ヴェルーリヤは月を見上げた。幾日とも知れぬ時を支配していた、大いなる刃で切り落としたような半月は、ふっくらと本来の丸みを取り戻しながら満ちつつある。その月より遠くから押し寄せる、黒い圧力を感じた。
 城壁で、死者の番兵たちがぞよめく。彼らもまた、同じ圧力を感じているのだろう。

 ※

 昼の間は眠り、黄昏、月が輝きを放つ頃になると目覚め、ジェナヴァの町に向かう暮らしをヴェルーリヤは続けた。人々を癒やし歩く内、夜毎、傷つく人が増えていく事に気付いた。それは塵灰を吸って呼吸器を病んだり、ひどい怪我を負ったり、何かの罰で体の一部を切り落とされた下町の労働者たちであった。背中が真っ赤に剥けるほど鞭打たれた老人に、ヴェルーリヤはわけを尋ねた。セルセト本国から派遣されてくる新任総督の為に、その好みに合わせて総督府が華美な様式に造り変えられているのだと老人は答えた。何せ就任式までに日が足りぬから、労働者たちは昼も夜もなく働かされているのだと言う。
 また別の者からは、ナエーズ島との戦に備えてジェナヴァに軍港が造られると聞いた。彼らは長年の不作によって農耕を放棄せざるを得ず、生活苦に付けこんだ為政者によって惨たらしいほど()き使われているのだった。ヴェルーリヤは彼らを深く憐れみ、日が昇り動けなくなる時の(きわ)まで人々を癒やし歩き、ルフマンへの信仰を説いた。そうして、いつか自分の農地を取り戻せる日が来ると、彼らを励ました。
 件の新総督が就任し、幾日か経った晩であった。
 傷ついた労働者たちの宿舎に、身なりのよい、総督府からの使者達が押しかけて来た。使者達は床に寝そべる労働者たちを蹴散らすように宿舎の奥まで来て、ヴェルーリヤを取り囲んだ。
 総督府に来るよう、彼らは居丈高に命じた。その時ヴェルーリヤは、銀の着服を疑われ、湯責めの拷問にかけられた無実の男の痛みを取り除いている最中(さなか)であった。
「日を改めて参ると伝えて下さらぬか」
 ヴェルーリヤは、生命を危ぶまれるほどの火傷を負った労働者を胸にかき抱いたまま言った。
「今宵、この者達を残して宿舎を去る事は出来ぬ」
 使者達は不満の色を示し、内一人は馬を打つための鞭に手をかけた。
「行ってください」
 腕の中で、息も絶え絶えに男が言った。
「自分はもう充分でございます」
 それよりも、自分達がヴェルーリヤを引き止める事で新総督の怒りを買う方が怖いと、耳もとで囁いた。黙っている労働者達の眼も、同じ恐れに染まっていた。
 ヴェルーリヤは後ろ髪を引かれる思いで宿舎を後にした。前後左右を総督の使者に囲まれ、初めて富裕な区画に足を踏み入れた。この夜更けにも、実に多くの人が出歩き、街路に灯が煌々と点り、賑わっている事に驚いた。人々は首を伸ばして好奇の目でヴェルーリヤを嘗める様に見た。ヴェルーリヤは自分が珍奇な見世物にされている様な、不快な気分になった。
 使者たちは総督府敷地内の、限られた者だけが立ち入りを許される施療院にヴェルーリヤを連れこんだ。院内には香が焚かれていた。嗅いだ事のない香であった。高座によく肥えた男が腕組みをして座り、頬の肉に埋もれかけた細い目でヴェルーリヤを見下ろして、にやにやと笑っていた。この男が新総督であろうとヴェルーリヤは察した。総督の後ろには祭壇が設けられている様子だが、幕で隠されている。高座の下には施術師達が立ち並んでいた。
 そして、貧相な身なりの夫婦と少女が跪き、(こうべ)を垂れていた。
「ルフマンの名のもと施療を行うというのはお前か」
 総督が尋ねた。ヴェルーリヤは人間の礼に則り口調を改めた。
「私が行うのは施療ではございません。痛みの除去でございます」
「そうか」
 総督は肩を揺すって満足げに笑った。
「今から余の手の者が行う事を、しかと見るがよい」
 一人の施術師が、大仰に服の裾を払って前に歩み出た。施術師は少女の前まで来て、立ち上がるよう命じた。施術師は少女の両目に手をかざし、念をこめはじめた。その余波が、ヴェルーリヤの額に触れた。ヴェルーリヤは精霊としての本性によって、術の背後にある神が、享楽の神ギャヴァンであると看破した。施術師はセルセトの古い言語で祝詞を呟いていたが、やがて念が薄れて消え、かざしていた手を下した。
 少女が瞬きを繰り返し、その目に活力が(みなぎ)るのをヴェルーリヤは見た。
「娘よ、父母の顔が見えるか」
 娘は施術師の顔を凝視した後、こわごわ背後に控える両親を振り返った。
「見えます」
 と、か細い声で答えた。
「見えます、お母さん、見えるよ!」
 駆け寄る少女を母親がたまらず抱きしめた。その間に、施術師は父親に報酬額を告げた。その報酬の高額な事に、ヴェルーリヤは驚いた。更に、父親が懐から数十枚もの金貨を出して渡した事にも、驚きを重ねた。
「ヴェルーリヤと申したか」
 高座の総督に目を戻す。
「お前はここジェナヴァの町を夜な夜な出歩き、痛みを取り除く術を施しているそうだな」
「はっ」
「報酬は幾らだ?」
「そのような物は私には無用ゆえ、受け取っておりませぬ」
「ほう。つまり、無償でな」
 総督は繰り返す。
「無償でな」
 その呟きに侮蔑を感じ、ヴェルーリヤは戸惑った。施術師たちが追従するように忍び笑いを洩らしだす。
「それはまた、物好きなことよのう」
 狭い院内に、総督と施術師たちの高笑いが渦巻いた。ヴェルーリヤは侮辱に耐え、背後の親子を振り返った。嫌な笑いに取り巻かれ、一挙一動を観察されながら親子に近付き、尋ねた。
「失礼ではあるが、あなた方親子はさほど裕福であるようには見受けられぬ。あれほどの額の報酬を、どのように仕立てたのだ?」
 すると母親が、さも何でもないように、下の娘を女衒(ぜげん)に売ったと答えるのでまた驚いた。一方、父親はさすがに後ろめたいのか、言い訳がましく後を継いだ。
「こうするのが一番よかったのです。下の娘は器量はそこそこですが、頭が悪く、体も弱い。一方この子はわけあって目の光を失いはしたものの、頭の回転が速く、気立ても良い。下の娘も要領が悪いわけではありませんから、うまくやっていける事でしょう。一方この子は将来の見込みがあるから、私達の家で教育する方が良いのです。それが下の子も含め、皆の為です」
「時にヴェルーリヤよ、貴様の神ルフマンへの信仰は、敵対するナエーズ島において興った事は存じておるな?」
 ヴェルーリヤは総督に向き直り、咄嗟に反駁した。
「信仰に、人間がさだめた国の境など関わりのない事でございます」
「人が安定した世を築くには、そうも言っておれん。離れの小島にあるルフマンの神殿は、ジェナヴァの町がナエーズの支配下にあった過去の証。そのような証はセルセト国の泰平の為にならぬ。わかるか」
「セルセトの都の神官長は、ナエーズの大地は邪神に支配されし地であると正式に声明を出された」
 施術師が甲高い声で言い募る。
「そして、邪神の手先の悪しき魔物は、(おの)が欲望の為に神の名を騙るが世の常。総督閣下、夜の間にしか出歩けぬなど、如何にも魔の物の属性ではございませんか」
 ヴェルーリヤはあまりの言い草に返す言葉がない。呆然と立ち尽くし、首を横に振って、同じ言葉を繰り返すのが精いっぱいであった。
「国の境も、戦の世の習いも、神の御業とご威光の前には意味なきものにございます。根と伏流の神ルフマンは、民が心を開き信仰すれば、必ずやジェナヴァの土に豊かな恵みをお授けくださります」
「ジェナヴァの民がその信仰を受け入れると、まことに思うておるか?」
 総督は、にやりと笑い、帰れと命じた。


 
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