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蒼き夢の果てに

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第6章 流されて異界
  第108話 蒼の意味

 
前書き
 第108話を更新します。

 次回更新は、
 2月4日。 『蒼き夢の果てに』第109話。
 タイトルは、『蓮の花』です。
 

 
 蒼き女神がその容貌に相応しい冷たき光輝で地上を照らす。晴れ渡った無窮の氷空より吹きつけて来る風は冷たく、伸びてやや収まりの悪くなった俺の前髪を撫でて行った。
 まるで冷たい大気によって蒼い月の光輝が更に強められているかのような……、そんな気さえして来る夜。
 時計の短針と長針が再び出会うまで後五分。夜の静寂(しじま)に沈む街並みは、真珠の如き輝きが疎らに散らばる世界へと相を移している。
 そう。もっと浅い時間帯ならば氷空に瞬く宝石よりも強い星々――生の輝きに彩られる地上も、流石にこの時間となっては、その数を半数程度にまで減らしていたのだった。

「こんな所に居たのですか」

 転落防止用の金網に寄り掛かるようにして、空と眼下に広がる街の情景を瞳に映して居た俺。そんな、妙にたそがれた雰囲気の背中に掛けられる女声。
 尚、当然のように、誰かが近付いて居た事には気付いて居た。しかし、この声の持ち主が、俺に対して積極的に接触を持とうとする意味は分からない。

「流石に、似合わなかったかいな」

 振り返りながら、そう答える俺。地上の明かりもここには届かず、そして、このマンションの屋上に、今現在灯りの類は灯されてはいない。
 屋上への入り口から漏れ出る明かりに四角く切り取られた中心に立つ少女。春色の淡いパステルカラーのワンピース。丈の短いスカートの下は流石に素足と言う訳には行かなかったのか、黒のレギンスにより彼女のすらりとした両脚が外気に晒されるのを防いでいた。胸に付けた紺のリボンがアクセントと成った、如何にも女の子っぽい――。しかし、季節的に言うと明らかにひとつ前()の季節か、もしくは数か月先()の季節用の、かなり薄着と言う服装。
 そんな彼女……朝倉涼子を見つめて少しの笑みを漏らす俺。但し、この笑みは彼女に向けて見せた笑みなどではなく、この世界で彼女の従姉として共に暮らしている戦友に対する微笑み。
 そう、今年女子大生と成った彼女。その彼女の休日をそのままコピーしたかのような朝倉さんの姿に、一瞬、郷愁にも似た感覚を覚えたと言う事。

「こんな時間に、たった一人で夜空を見上げるなんて、武神さんって、意外とロマンチストだったんですね」

 そう話し掛けて来ながら、彼女は俺の隣。振り返った事により背にする事と成った金網に正対するような形で、俺の右側に立った。
 俺が屋上の入り口から漏れ出す光を視界に納めるのなら、
 彼女は地上にばら撒かれた宝石箱の中身と、冷たい氷空に浮かぶ女神の(かんばせ)を見つめる形。

 刹那、この季節に相応しい風が吹き付け、彼女の長く青い髪の毛を靡かせ、膝丈のスカートの裾をはためかせる。
 短い、そして、小さな悲鳴と同時に、少女らしい仕草で髪の毛と、そしてスカートの裾を押さえる朝倉さん。その彼女から漂う石鹸と、そして有希の部屋で使うリンスの微かな香り。
 何となく、そんな仕草もとても新鮮に感じる俺。
 何故なら、有希にしても、そしてタバサにしても、そんな細かい事には頓着しません。それに、そもそも、彼女らはその気になればスカートをはためかせる程度の風など無効化する事が可能なんですから。

 ただ――

「いや、ロマンチストと言うよりは、妙に手持無沙汰でな」

 冬の星座で正確にその居場所が判るのはオリオン座。それに、かなり明るいシリウスぐらいの俺に対して、ロマンチストと言う言葉は似合わないよ。
 そう言いながら、彼女と同じ方向。金網越しに周囲を見渡せる方向へと向き直る俺。その時、少し身体を風上に立てるようにして、朝倉さんに直接、風が当たらないようにする。
 但し、これは朝倉さんに違和感を抱かせない為の小細工。本命は彼女の周囲の炎の精霊を活性化させ、季節感無視の薄着状態の彼女に寒い思いをさせない為の処置。

 尚、現状、何故こんなトコロで俺が独りでたそがれて居たかと言うと……。
 有希と二人だけの時には味わう事の出来なかった賑やかな夕食の後、後片付けと平行して入浴と言う運びとなったのですが……。

「武神さんは、本当に最後で良かったのですか?」

 もっとも、俺自身はその後片付け役からは除外。そもそも、大人数で作業が出来るほど広いキッチンではないのでこれは当然の措置でしょう。それで、同時に平行して順番に入浴を済ませて行く事となったのですが……。

「俺は肌も弱いから、一番風呂のさら湯よりは、誰かが先に入った後の湯の方が馴染むんや。せやから、そんな細かな事を気にする必要はないで」

 澄んだ大気の元、悠久の彼方より囁きかけて来る星空から俺の方に顔を向け、少し眉を動かした朝倉さんにそう答えを返す俺。
 この時、彼女が発して居たのは――難しいけど、多分、納得。何に付いて納得したのかは判りませんが……。

 しかし、俺の顔を見つめて居たのも一瞬。そのまま金網に背を預け、蒼き月の支配する夜空へとその瞳を向けた。
 そうして、

「良く晴れた月夜ですね」

 そう話しを続ける彼女。
 確かに、この季節を支配するシベリアから張り出して来た冷たい高気圧は、冬に相応しい気温と、そして、晴れ渡った氷空を作り出していた。

 ただ……。

 ただ、答えに詰まる一瞬の隙間。確かに、彼女が言うように今宵は良く晴れた夜には違いない。氷空には冬の夜に浮かぶオリオンがその雄姿を現し、母熊は子熊を守るように彼の周囲を回る。そんな、何の変哲もない平和な冬の夜。
 しかし――
 しかし、今宵は『月夜』などではない。

「確かに、明るい月夜やな」

 同じように金網に背を預け、少し顔を上げて氷空を見つめる俺。その短い言葉の中に含まれる溜め息が、口元を僅かに白くけぶらせる。
 そして訪れる静寂。いや、これは――おそらく緊張。

 ゆっくりと回る時計の秒針。冬の夜に相応しい静寂の中、共に視線を交わらせる事もなく上空を見つめるのみの二人。

「否定しないのですか。昨日の五日は新月だったよ、と……」

 偽りの蒼き女神に照らされた世界。静寂に眠る街の中心で先に折れた彼女が、小さな苦笑と共にそう問い掛けて来た。ただ、その時の彼女の口元は白くけぶる事はない。
 そう、中天に輝く蒼い月は実際に其処に存在する月……地球の衛星たる月などではなく、ある一定以上の能力者にしか見つける事の出来ない偽りの月。あらゆる科学的な方法ではその姿を捉える事は出来ず、一般人にも見る事は出来ない幻。

 但し、

「確かにそう言って、科学的な根拠の元に否定する事は簡単やろうな」

 但し、そんな答えを今の俺の口から聞いたとして、朝倉さんはそれを百パーセント信用出来るのか?
 僅かな溜め息と共にそう問い返す。どうにも俺の周りに居る少女たちは、俺の事を試すような真似をするばかりで……。
 もっと、こう素直な……俺の事を簡単に信用してくれる相手と言うのはいないものかね。……などと、武神忍と言う存在そのものが()()()胡散臭い存在である事は棚に上げて、非常に勝手な事を考える俺。

 尚、今回の場合は……。

 今までの俺とハルヒの会話から、俺に少し奇妙な部分がある可能性に、朝倉さんが辿り着いて居たとしても不思議ではない。そして、夕食時の会話の内容……朝比奈さんのチアガールのコスプレの時の寒さ対策云々の会話から、俺の特殊な能力の有無を試してみる気になったとしてもおかしくはないと思います。
 例え、現実と言う幻想がその現象――例えば、周りの人間が誰一人見えていないふたつ目の月を()()()()が見えて居る事実や、魔法に近い不思議な能力が存在する事を否定して居たとしても、自分で確認するまでは簡単に信用しない人間が居たとしても不思議では有りません。

 俺の事をかなり申し訳なさそうに見つめる朝倉さん。しかし、

「私が帰る素振りを見せなければ、武神さんはきっと私に寒い思いをさせないと信じていましたから」

 言葉にしたのは謝罪の言葉などではなく、俺に対する妙な信頼。ただ、この信頼と言うのは、裏を返せば彼女に取って俺が扱い易い相手だと言う事。
 それで思いっきり鎌を掛けるような真似をした、……と言う事なのでしょう。
 それに――。

 少し風通しの良く成った右側に意識を向ける俺。其処には何時も存在して居るはずの紫の髪の毛を持つ少女は存在していなかった。

 ――それに、朝倉さんが俺に鎌を掛けるような真似をしたのは、有希がここに居なかったからなのでしょうから。

「それで、わざわざ鎌を掛けるような真似をしたんやから、何か聞きたい事があったんやろう?」

 お互い、ビジネスライクに話を進めましょうか。流石に、最後の部分は実際の言葉にする事もなく、表情のみで表現しながらそう答える俺。但し、お互い上空の蒼き月に視線を送ったままなので、朝倉さんが俺の表情に気が付いたとは思えないのですが。
 まして、俺の正体が妙な能力を持った異能者だと彼女が疑いを持って居たとしても、それが絶対の弱みとなる訳では有りません。そもそも、そんな事を不特定多数の前で暴露されても信用される訳は有りません。むしろ彼女の方の正気を疑われるだけ、ですから。

 それに、現在の日本政府に繋がる天中津宮(あまのなかつみや)がそんな怪しげな情報は、取るに足りない都市伝説のひとつとして、簡単に人々に忘れ去られるくだらない噂となるように工作するはずですから。

 しかし――

「私にも武神さんに関しての思い出があるんですよ」

 しかし、この場ではあまり意味のない内容の話を始める朝倉さん。
 背の高いマンションの屋上を吹き抜けて行く強い風。但し、俺の支配の及ぶ範囲内では彼女の髪の毛すらそよがせる事も出来はしない。ただ、蒼く冷たい光のみが彼女を照らし続ける。

「今、従姉と暮らしているマンションではない。でも、何故か私が一人暮らしをしていた記憶があるマンション。其処の近くにある公園で、あなたに出会った事がある……。
 私が覚えて居る限りに於いては、私は一人暮らしなんてした事がないはずなのに」

 高校に入学するまでは両親と暮らして居て、高校に入学と同時にお父さんが仕事の都合で海外に赴任。お母さんもそれに付いて行って、私は大学に通う事となった従姉と一緒に暮らすようになったはず……なのに。
 顔を見ずとも……それに、彼女が発して居る気を読まずとも判る。今、彼女が苦笑を浮かべて居る事は。

「大丈夫ですよ。私は一人暮らしの冷たく、寂しい部屋に帰りたいとは思いませんから」

 心を持たない人形のような生活に戻りたい、なんて考える訳はないでしょう。
 言葉はかなり明るい雰囲気。しかし、今の彼女が示すのは拒絶。確かに心が発生した存在に対して、元の心のない物と同じように扱っていたとするのなら、彼女が彼女の創造主に抱いていた感情は容易に想像が付くと言う物か。

 今の彼女の言動及び、発して居る雰囲気から推測すると、少なくとも、朝倉さんが以前の歴史……。自らを造り出した創造主の求めて居た世界の到来を望み、もう一度、歴史の改竄に及ぶ可能性はないと思えますね。
 有希に関しては確認済みの事実だったはずの内容なのですが、朝倉さんに関しては歴史が書き換えられた時に、それ以前の黙示録に向かう可能性の有った歴史の流れを記憶して居なかったはずなので、本人の意志の確認は為されていなかった内容が再び確認された事に安堵の溜め息を漏らす俺。

 確かに、今年の五月に起きた事件の後、本人の意志で彼女らの造物主たる高次元意識体の元から地球サイドの組織へと庇護を求めて来た際に、個人の意志の確認は行われたはずです。……ですが、それは歴史が変わる前の話。歴史が変わり、彼女……今回の場合は朝倉涼子にその際の記憶が一度失われ、蘇えった記憶が高次元意識体の手先として使われていた時のみの記憶だった場合は、再び地球に暮らす生命体の敵としての活動を開始する可能性だってあるのですから。
 異世界同位体の俺の願いは、生きてその場所で問題なく暮らしている存在を無暗に殺さない事だったはず。故に、歴史の改竄を行った異世界の未来人(朝比奈みくる)。そして、世界の破滅をもたらしかねない神々の母(涼宮ハルヒ)が産み出した高次元意識体(情報統合思念体)の造り出した対有機生命体接触用端末の長門有希や朝倉涼子などに、独自の(仙人作成の那托と言う)過去まで与えて、この世界で暮らして行けるようにしたはずなのですから。

「私が知りたいのは他の人には見えていない月に関して。私の知っている限り、あんな物は無かったはずなのに……」

 満ちる事も欠ける事もなく毎晩、満月の姿で上空に存在している。何時から其処に有るのか判らない。でも、何時の間にか其処にあるのが当たり前のような雰囲気で存在していて、それでも私以外の人の目には見えていない月について知りたい。

 一息の元にそう言い切る朝倉さん。そして、心を落ち着かせるかのように小さくため息をひとつ。

「もしかしてこの現象の中心にも彼女が……」

 高次元意識体に送り込まれた際の彼女らの表向きの活動理由は、確か涼宮ハルヒの観察。ただ、どうもそれ以外の理由が有ったらしいと言うのは水晶宮から渡された資料に記されていました。そして、朝倉さんにその当時の記憶がどの程度残っているのか判りませんが、その中でも一番重要な任務に関して残って居ないと考える方が不自然ですか。

 ただ……。

()()に関しては俺たちの方にも判って居る事は少ない」

 アレ。中天に輝く蒼き月を見上げながらそう言う俺。
 そう、蒼き月。ハルケギニアにあるふたつの月の片割れが、何故かこの世界にも存在していた。

「此の世が終わりに近づいた時に現われると言われている偽りの月ネメシス。もうひとつの月スサノオと呼ばれる物、……だと裏の世界で言われている蒼き月」

 其処に存在して居るように見えながらも、実際には存在していない月。もっとも、そもそも現実の地球の衛星としての『月』と同じサイズの衛星が突然現れて、元から有った月の内側で地球の周りを回るなど通常の……自然な現象としては考えられない。
 普通に考えるのなら、何か別の物が見えて居る、と考える方が妥当でしょう。
 尚、その偽りの月が現われたのが一九九九年七月八日の夜から。但し、この世界に関してはハルヒと名付けざられし者との接触が行われていないのに、あの蒼き月が現われている以上……。

「あの月と彼女(ハルヒ)に関わりがある可能性は低い」

 水晶宮から渡された資料の通りに答える俺。
 確かに、完全に関係して居ないとは言い切れないけど、状況証拠からだけならば、このふたつの月が存在する直接の原因はハルヒに関係はないでしょう。

 おそらく……。

「一応、俺たちの間では、あの月は何処かの平行世界の地球の姿を映して居るんじゃないか、と言う仮説が立てられているけど……。詳しい事はさっぱりやな」

 そもそも、ハルケギニア。それに、この世界もクトゥルフ。それも這い寄る混沌絡みの事件が起きて居たのですから、あのふたつの月に関して詳しい事……。何故、其処に異世界の地球の姿を浮かび上がらせなければならないのか、その意図を予想するのは不可能。伝承や狂った書物に記されているヤツの記述を信用するのなら、何かの気まぐれの可能性だってあるぐらいですから。
 単純に考えるのならば、月は魔法に関係しているので、何か大がかりな魔法の関係。それも、先に挙げたように終末に現われる不吉の月と言う、ふたつ目の月の伝承も利用している可能性も有るとは思うのですが……。

「まぁ、朝倉さんが気にする必要はない。……と言うか、俺でもどうしようもない事象やから……」

 そう話しを締め括る俺。それに、少なくともこの世界の危機に対処するのはこの世界の人間が相応しい。旅の勇者に厄介事を何もかもおっ被せて仕舞うような世界に、真面な未来など訪れはしない。
 おそらく水晶宮や天中津宮。バチカンなどは動いていると思いますから、遠からずこの異常な状態も解消される事となるでしょう。

 ひとつの会話が終わり、再び良く晴れた真冬の夜に相応しい静寂が取り戻された。澄み切った大気の層の向こう側から煌々と照らす月明かりは、世界が完全に闇に閉ざされる事を防いでくれているかのようであった。

 さて、それならばそろそろ部屋に帰るか。
 隣に居るのが有希ならば、このまましばらくの間、夜と彼女の創り出す世界に身を置くのも悪くはない。そう考えるトコロなのですが、朝倉さんが相手では間を持たせる事が出来ない。確かに、人間的に言うとそう苦手なタイプと言う訳でもないのですが、そもそも俺自身が女の子の扱いに長けている訳でもないので……。

 そう考え、右足を一歩前に踏み出そうとした瞬間、再び感じる誰かの気配。
 当然、足音が聞こえる訳ではない。ただ感じる……人が接近して来る気配。普通の人と比べると少しゆっくりとした足取り。纏っている雰囲気はやや希薄。
 この感覚は……。

 ギィっと言う擬音と共に開く鉄製の扉。普段……少なくとも俺がこのマンションに住むようになってから、こんな深い時間帯に屋上になど訪れる酔狂な住人など居なかっただけに、今宵この場所の人口密度の高さは異様なのですが。

 再び、闇の中で蛍光灯が切り取る空間の中心に現われる人影。背中から照らされるその微妙な陰影からも分かる、その造り物めいた容貌。いや、逆光で僅かに翳の差した表情の方が何故か彼女……神代万結には相応しい。
 白のセーター。チェックのミニスカートに黒のストッキング。何と言うかすごくシンプルな衣装。彼女は確か玄辰水星と一緒に暮らして居たと思いますから、このチョイスは玄辰水星のチョイスだと思いますが……。

 ただ、彼女に白が似合うのは事実。おそらく明るい蒼の髪の毛と白すぎる肌がそう感じさせるのでしょうが。

 真っ直ぐに。――まるで目標物しか見えていないかのような雰囲気で、真っ直ぐ俺の目前まで歩み来る万結。確かにセーターは着込んで居る。……が、しかし、真冬の夜中にマンションの屋上に出て来るような服装ではない。
 そして、俺の目前。大体、一メートルほどの距離を開け立ち止まった。

 そうして、静かに俺を見つめる万結。そんな細かな仕草も、有希とまるで双子の如き相似形。

「お風呂が空いたから直ぐに入るように、……と言う団長からの指令よ」

 そして、お風呂の掃除をしてから上がりなさい。
 夜気に淡く広がる万結の言葉。その言葉は彼女の色素の薄いくちびるを僅かに白くけぶらせ、そして直ぐに消えた。

 ……って、口元が白くけぶるって、こいつ!

「そうか。それなら、さっさと帰らんとアカンな」

 グズグズして居るとハルヒのヤツが、「掃除が出来て居ないわよ」と言って怒り出す可能性が有るからな。
 そう、軽口を口にしながら万結に対して一歩分進む。もっとも、その目的は彼女を冬の寒さから護る為。本当に、どいつもこいつも、今日が冬。それもこの冬一番の寒い夜となる、と天気予報で予報されている夜だと言う事を無視する連中ばかりで……。

 ただ、冗談抜きで俺を呼びに出て来た万結が戻らなければ、次はそのハルヒ自身が探しにやって来ないとも限ませんか。アイツがやって来るとまた余計な事に時間を割かれて、貴重な睡眠時間を削られる結果と成りかねませんから……。

「そうしたら、俺は部屋に戻るけど、朝倉さんはどうする?」

 一応、振り返りながら、そう問い掛ける俺。尚、彼女に纏わせた炎の精霊たちは、最低でも後一時間程度は朝倉さんを守り続けるでしょうから、このまましばらくこの場に留まったとしても問題はないはずです。
 もっとも、そんな事をわざわざ説明する心算も有りませんが。

 僅かに微笑む朝倉さん。俺の周りに集まって来る女の子の中では非常に珍しい表情。何故か、俺の周りに集まって来る少女たちが笑顔と言う表情を浮かべてくれる事は稀。何時も怒っているかのような表情のハルヒやさつき(崇拝される者ブリギッド)。無と言う表情が凝り固まったままの有希(湖の乙女)や万結。そしてタバサ。それに、少し翳が差す弓月桜(妖精女王ティターニア)
 どの娘もかなりレベルの高い美少女なのに……。

 朝倉さんの笑顔を見て、まったく違う少女たちの事を思い浮かべると言う、ある意味非常に失礼な状態の俺。ただ、そんな事を朝倉さんが気付く訳もなく、

「私はもうしばらくの間、氷空を見てから戻ります」

 武神さんの御蔭で寒く有りませんから。
 ほぼ間違いなく、俺に不思議な能力がある事に気付いて居る朝倉さんの台詞。確かに知られると双方の生命に関わる秘密と言う訳では有りませんし、朝倉さんに関しては元々、こちら側の人間。遠からず彼女自身の正体と、自らの周囲に居る人間の能力を知る事となる相手ですから問題がない、と言えば、問題はないのですが……。

「そうか。それなら明日は早いらしいから、遅くならないウチに戻って来いよ」

 それでも多少は気遣った方が良いか。どんな人間であったとしても、その人間がこちら側に来ても良い事はあまり有りませんから。
 一度でも関わって仕舞った人間は元に戻る事はかなり難しい……そう言う場所ですから。
 三年前から俺が生きているこの場所は――

 心の中でそう考え、右手を後ろに向けてヒラヒラさせながら光差す空間へと歩み始める俺。
 その俺の右横を少し遅れて付いて来る万結。何となく笑って仕舞うほど似ている……三人。
 有希と、万結と、そして、タバサと。

 しかし――

「そうだ。後ひとつ聞いても良いかな?」

 しかし、歩み始めた俺を呼び止める彼女の声。

「武神さん、今は何処で暮らしているんですか?」

 振り返った俺に対して……いや、言葉自体は俺が振り返る最中に既に発せられていた。彼女の表情と言葉の雰囲気は疑問の形。但し、目は笑って居る。
 それに……。

「最初は神代さんの所に居るのかと思って居たんですよね」

 だって、どう考えても貴方に対する時の神代さんは、普段の彼女じゃなかったから。
 俺に答える暇など与えないかのように言葉を続ける朝倉さん。確かに万結の俺に対する態度と、その他の人間に対する態度は違い過ぎる。その上に、彼女は従姉妹だと言う設定ですから、同じ家に住んでいると思ったとしても不思議ではない。

 しかし、朝倉さんはその考えをあっさり否定した。

「武神さん。貴方は今、長門さんと暮らしているでしょう?」

 完全に振り返った俺が朝倉さんの顔を見つめる。薄闇……。しかし、一般人には感じる事も、見る事も出来ない蒼き偽りの女神から放たれる光輝が支配する夜の世界は、俺の知っている新月の夜とは違った趣を示す。
 そうして……。

「言葉にしての答えは返してくれないのですね」

 僅かに眉を顰めて答えに代える俺に対して、微かな溜め息と共に、そう呟く朝倉さん。
 但し、彼女ならばこの答えに辿り着いたとしても不思議じゃない。何故ならば、

「朝倉さんの中に異世界の記憶がどのレベルで蘇えって居るのか判らない以上、俺は常に最悪の状況を想定して置くからな」

 朝倉さんの記憶が自らの事だけなどではなく、彼女と共に地球に送り込まれた有希に関しても覚えている……思い出している可能性が有り、そして、その有希に関しても、俺に対する態度とその他の人間に対する態度とではかなり違う事が判るはずですから。
 ただ、何故、ここまで的確に俺と有希が同居している事に気付いたのか、については正直に言うと判らないのですが……。

 確か有希は、情報操作は得意だと言ったはずなのですが……。

「もう少し、狼狽えてくれたら面白かったんだけど」

 これでも名探偵並みの推理を働かせた心算なんだから。
 少し不満げな表情を俺に魅せる朝倉さん。但し、ハルヒが俺に見せる不満げな表情と比べるとかなり柔らかな表情。もっとも、アイツは妙にくちびるを尖らせるから可愛げがあると言うよりは、餌を横取りされた空腹のアヒルのように俺が感じているから、なのかも知れませんが。

「本当に隠したいのなら、夫婦茶碗や夫婦箸は使わない方が良いわよ」

 ……ん? 夫婦茶碗?
 朝倉さんが続けた名推理のネタバレの台詞。しかし、いくらマヌケな俺でも、そんな初歩的なミスはしない。最初に万結に用意するように指示をしたのは来客用の全員お揃いの茶碗。それに、普通に百円均一で揃えたかのようなお箸。
 ……だったはずなのですが。

 何と言うか……。ハルケギニアでもタバサが同じような事をしたような。……湖の乙女が現われてから。それに、弓月さんやさつきを妖魔から助けた際に俺と一緒に自分が居た、と有希自身が言った時にも似たような違和感を覚えたのですが。
 確かに夫婦茶碗や夫婦箸と言うのは一度使い始めると、その天寿を全うするまで使い続ける必要がある物なのですが、それでも、絶対に毎食、使用し続けなければならない、と言うほど厳しい戒律がある物でも有りません。

 これはおそらく高校に通うようになってから、万結が有希の立ち位置に近付いて来たが故に起きた事態でしょう。

 そう簡単に結論付ける俺。その俺の視界の左から中心……。朝倉さんと俺の間に割り込むように立つ人影。
 セーターの白よりも風に揺れる蒼の髪の方が印象の強い彼女。
 僅かな視線の交錯。後ろ姿からでは万結の表情は判らない。朝倉さんの表情は疑問。ただ、彼女の瞳に籠められた力はやや強い。
 良く分からないけど、もしかすると朝倉さんに取って神代万結と言う存在は正体不明……なのかも知れない。少なくとも、あまり友好的とは言えない雰囲気。

 そうして、

「貴女からは何も感じない」

 マンションに吹き付けて来る風の音の方が強いぐらいの万結の声。その小さな、更に意味不明の内容の言葉が風に散じる前に、彼女の抑揚のない硬質な声が続く。

「貴女は私たちにはあまり関わらない方が良い」

 紡がれる言葉の内容は俺の考えと一致する物。本人の意志次第とは言っても、その方向性を決める為の情報は多いほど良い。その情報の中で、俺たちに関わらない未来を選んだ方が良い、と言う情報を彼女に伝えて置く事は禁止されている訳ではない。

 しかし――

「私たちは楔」

 しかし、万結が次に発した言葉は俺の予想を超えた物。
 彼女の言う楔と言うのは……。

「蒼……。そして紫も闇の始まりを示す色。蒼穹、そして海もその向こう側には無窮の闇を孕む」

 私たちは彼がその闇に沈まない為の楔。
 一切の感情をそぎ落とし、抑揚を消滅させた口調が闇に朧に浮かぶこのマンションの屋上に流れて……消えて行く。
 彼女ら独特のペシミズムと、その作り物めいた容貌。そして、単語ごとに区切るような人間味の薄い喋り方が、希薄な……無機質さを助長しているかのようで有った。

 そうして、その彼女の言葉の内容はあのハルケギニアでの最後の戦いの際に、ゲルマニアの皇太子ヴィルヘルムが語った内容。俺の周りは、俺と前世で絆を結んだ人間のみで構成され、それ以外の人間が入り込むのを防いでいる……と言う内容の補足になる情報。
 ならば、この神代万結と名乗る少女型人工生命体(那托)に宿った魂と言うのは、ヴィルヘルムが言う業を重ねつつある魂と言う事なのか?

 いや。それ以前にタバサ。湖の乙女。長門有希。そして、神代万結。この四人は――

「そんな誰が決めたのか判らないようなルールに従って、未来を決めて仕舞うような生き方を肯定しているのか、万結?」

 思わず口から出して仕舞った疑問。但し、この疑問の答えは初めから判って居る。
 しかし、頭では理解し納得していたとしても、心の何処かでは反発している答え。

 ゆっくりと。殊更もったいぶってそう言う動きをしている訳ではなく、彼女らの所作がそう言う風に感じさせると言うだけで、本来はさして時間を掛けている訳ではない普通の動きで振り返り、やや上目使いの視線で俺を見つめる万結。
 そして一呼吸分、その紅玉の瞳に俺を映した後、

「その生き方を決めたのは私」

 何の気負いも(てら)いもない淡々とした彼女の口調。それに、この世界の転生に関するルールならば、自らの転生先は自らの希望により決まるもの。彼女……彼女らが俺の傍らにある事を望んで今の転生を行ったと考えた方が妥当。

「貴方と出会ったあの夜以来、それが私の――」


 
 

 
後書き
 それでは次回タイトルは『蓮の花』です。
 
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