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【短編集】現実だってファンタジー

作者:海戦型
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R.O.M -数字喰い虫- 2/4

 
 見慣れた雑多な建築物。世界を見ているようで、隣すら見ていないどこか空虚な人々。雑然とした世界であると同時に、変化のない不思議な世界がこの町を動かしている。
 流動的な物質と固定化される認識の世界。矛盾を孕んだままに膨れ上がったこの世界は、ひょっとしたらいつか弾けて泡沫(うたかた)の夢のように消えてしまうのかもしれない。

 私はメリーさん。
 私は林太と共に人間社会を歩んでいた。
 いつからここにいて、何故メリーなのか。そんなことは知らない。
 私が科学的にどういう存在で、これからどうなるのかも知らない。かつては何をすべきかも考える事は無かった。何故なら、私はメリーさんとしての"役割(ロール)"を与えられた集合無意識の分岐でしかなかったから。私は都市伝説として語り継がれるメリーさんのほんの一面だけを切り取り、それに相応しい行動をなぞる。

 行動を起こすのではない。結果的に、この世界にいるどこかの誰かが望んだ形を現象として出現させているだけ。だから集合無意識の望む興味しか私は抱かないし、抱いた興味は終わりを告げるまで連続した現象のように叶えられ続ける。
 そんな私が変化を起こし、「自己」と呼べるかどうかも曖昧な意思の下に行動しなければならなくなったのは、林太が原因だった。

 今になって思えば彼は、現象としてのメリーさんに殺され、運命を弄ばれる被害者への憐みや慈愛が作用した結果として私に逆転的な影響を与えたのかもしれない。都市伝説には助かる術を考え続ける人間がいる。集合無意識の発露で起きる、矛盾した事象の解決手段。それが、定型的なメリーから「私」を切り離し、なおもメリーを続行させること。

 言うならば、私はありとあらゆる定型的メリーに囚われる事がなくなった存在。
 それは、為すべき目的も追跡すべき相手も与えられない孤独に他ならなかった。
 だから私は――なんとなく、林太と行動を共にした。

 理由はない。
 ただ、林太は独りぼっちだ。私と同じく、繋がるべき存在から離れて彷徨っていた。
 ならば私も、彼と同じように彷徨っていていいのかもしれない。そう思った。
 その無意識は果たして林太が私に望んだ物なのだろうか。それとも、私が林太に望んだ物なのだろうか。境はとても不明瞭で、曖昧で、胡乱(うろん)で、でも私たちにとってはそれで良かった。

 私という都市伝説のストーリーに終わりはない。
 私の取る行動に明確性はない。ただ、彼と共に生活し、彼の隣でメリーさんとして振る舞うたび、私は私という意思のカタチを少しずつ感じるようになっていた。

 それがどのような結果をもたらすかは、興味がない。
 ただ、林太が買ってくれたクレープには興味が湧いた。
 あまり大きくはない口に少しずつ生地に包まれたクリームやフルーツを取り込んでいく。この味、この触感。柔らかい生地の内側に封入された、更に柔らかいクリームと甘酸っぱいベリーの歯ごたえ。きっとそれは集合無意識の誰かが望んだ感情の片鱗なのだろうが、それはとても興味深い食物だった。

 いまクレープを食べているのは、私がクレープ屋のクレープに興味を持ったからだ。
 林太はその意思を汲んでクレープを購入し、2人で食べていた。

「はむ。むぐむぐ……んくっ」

 クレープを完食すると、私は横の林太を見た。彼のクレープはまだ半分ほど残っている。
 無意識的に掌を突き出すと、林太は苦笑しながら食べかけのクレープをその手に置いた。

 私は何も言っていないが、こうなる因果を呼び寄せることをなんとなく知っていた。彼は文句の一つも言わずにそれに従ったが、なんとなく知っていたのだろうか。疑問の答えを導き出そうとは考えないが、少しずつ林太と私の『存在』が近づいている。漠然とそう感じたのだから、そうなのだろう。

 林太は気付いているんだろうか。意識と無意識の境が、私と林太の間で融けはじめていることに。
 そう思いながら、受け取ったクレープを口いっぱいに頬張った。

「よく食べるなぁ、メリー。やっぱりお前集合無意識とか関係なしに食事が好きになってるんじゃないのか?」
「変化には興味はないわ。ただ、食べ物を美味しいと感じられればいい」
「どことなく刹那的だな。そして口元がクリームだらけになってるぞ?ほれ、顔出して」
「ん……」

 言われるがままに顔を晒すと、林太はハンカチでクリームに汚れた私の口元を拭った。他人から見れば、娘か妹の世話を焼いているように見えるだろう。
 クリームを付着させずに食べることも恐らくできた。だけど、誰かのイメージによってそれは行われなかったのかもしれない。そこに興味は湧かない。

 ただ、こうして林太と接していることを決して疎ましく思う事はないのは、少しだけ不思議だった。そして、不思議という意思があることが、また私の個としての存在を自覚させてゆく。

「……よし、綺麗になった。次からはもうちょっときれいに食べろよ?」
「集合無意識のご機嫌次第ね。貴方の意識が反映されてる今なら問題ないけど」
「そいつは重畳だ。あんまり子供のままでいられても困るし……」
「私の世話焼きは嫌いかしら、お兄ちゃん?」
「こんな時だけ甘えるなっちゅーの!」

 そう言いながらもまんざらではなさそうな気がするが、確認する必要を感じないのでくすりと笑う。この笑顔も、自発的なものか望まれた物かは分からない。分からなくてもいい。

 そして――私はこれといって意味はなく、クレープ屋で追い詰められたように震える制服の少女を見て、彼女に注目すべきだと思った。そこに論理的思考や明確なロジックは存在せず、ただ漠然とそうあれと感じた。

「気配を感じたか?」
「多分ね。あの子、恐らくは『持っている』わ」
「……迂闊に近づいて手がかりを消したくない。様子見だ、いいな」

 林太の顔色が、陰の差すものに変わった。微かな憎しみを含むそれに。
 今、彼と私が唯一持っている、目標。それの手がかりを私が無意識的に感じ取ったことを、林太もまた感じ取っていた。私はわかっている、と呟いて、まるで汚いものを摘まむように財布から1000円札を取り出す少女を見た。

「――わたしメリーさん。今、貴方を見ているの」

 だけど、それは助ける訳ではない。
 なぜなら、貴方がこれから迎える因果律の果てを、私は知らないのだから。



 = =



 ――その日の夜、また昨日と同じ夢を見た。
 数字を食いつぶす芋虫の世界に沈む、最悪の悪夢を。
 朝起きて、私はとうとう不快感に耐えられなくなってベッドの上で嘔吐した。

「わたしに、何が、起きてるの――」

 呆然と呟く美咲の部屋の机には、開いた筈のない算用数字の塊のページが、彼女を監視するように開いていた。

 次の日も不快な気分は消えず、同じ夢を見た。不快感は、むしろ増幅されている気がした。
 次の日も、次の日も、次の日も。
 いつか終わるなどという希望的観測は崩れ落ち、永劫の苦しみとも思える日々が待っていた。

 ――地獄とは、死後に救われる世界を信じた人間が、邪な人間まで救われる事実を否定するために作った世界だ。罪に罰を。悪に鉄槌を。あらゆる不義に報いを与えるために、人は地獄を想像した。
 だが、地獄が必ずしも罰を目的に構成されるわけではない。
 例えば自分ではどうしようもないほどに理不尽で過酷な世界だと自身の心が感じてしまった時、人はそこを地獄と呼ぶのではないだろうか。

「今月の有効求人倍率は『|葦cウナQ@埻-ge*』で、先月より――」

 這いまわる。

「あら見てこのチラシ!白菜が『"%婺bp?{』円ですって!助かるわね~!!」

 視界を。

「昨日のテレビ見た!あの『ゴm=簸』人組の芸人!名前なんだっけ?えっと――」

 芋虫が。

「ここで『{呉$』に『ヘガ慲wb』を代入して省略すると『咱giOンブ#b』になり、それに『w廼、mg{ホェヴ』をさらに――」

 這いまわる。

 視覚を、聴覚を、虫食いのように蝕まれていく。
 吐き気が止まらない。世界の全てが異常で、恐怖に満ちている。
 数を見せないで。数を聞かせないで。世界から数をなくして。

 数字が芋虫になったというより、芋虫が数字を喰っているかのようだった。
 嫌悪感と得体の知れない恐怖に常に晒され続ける生活が、長く続くはずもなかった
 ぼろぼろと掌から零れるように、私の知っていた世界が崩れ落ちていく。
 崩れた場所から顔を覗かせるのは、あの時夢で見たように蠢きひしめく芋虫の大群。

 なんで私が、こんな目にあわなければいけないの。
 なんで私が、胃酸の苦味と酸味を何度も味わわなければいけないの。
 なんで私が、他の人と違ってこんな世界を見続けなければいけないのか。

 それは、私にとっては紛れもなく地獄だったのだ。

 部屋の隅に、開かれたノートが放置されている。
 あそこにある算用数字の塊を見たら、今の私はどうなってしまうのだろう。
 あの夥しいほどの数字の全てが芋虫として溢れだしたら――そう思うと、私はそれを閉じて捨てようとすることも出来ない。



 = =



「ねえねえ、『数字喰い虫』って知ってる?」
「何それ?新しいスマホのゲームか何か?」
「違う違う!ホラ、隣のクラスの美咲ちゃんって居たの覚えてる?」
「ああ、知ってる知ってる!なんかぁ、何か月か前からノイローゼになって休学したとかいう話じゃん?」
「うん。それでさ……最近噂で聞いたんだけど、そのノイローゼの原因が『数字喰い虫』らしいんだよね!」
「……それで、何なの?『数字喰い虫』ってさ?」
「それがさぁ……数字を見てると、その数字が芋虫に見えてくる精神病なんだって!」
「うわ、キショっ!!ちょっとぉ、想像しちゃったじゃん!!あー午後から数学の授業なのにぃ……でも、確かにそりゃノイローゼにもなるわよねぇ」
「でしょでしょ!で、これは知り合いから聞いた話なんだけど………」



「出たらしいぜ、『数字喰い虫』が!」
「ひょっとして最近休んでるアイツが?」
「おう。聞いた話じゃ、噂通り数字を虫だと思い込んで部屋に籠ってるって話だ」
「マジかよ……ガセ情報じゃないのか?あれって唯の都市伝説だろ?ネットで一時期話題になったけど、実際おかしいだろ。あいつは元々虐められてたし、原因はそっちじゃね?」
「でもよ、数学苦手って条件は揃ってんだよ?なっててもおかしくないって!」
「おいおい……本気で信じてるのかよ?本当にそうだったらニュースとかになってるだろ。騙されてんだよ、その噂にさ」



「………そして、数学嫌いだったその科学者は、全ての数学に答えを導き出せる究極の公式を開発したんだ。それが『数字の繭』さ!ところが完成直前に科学者は死んじまった。だからその怨念が、未完成の公式を見た人間の視覚に異常を齎して、結果的に『数字喰い虫』を生み落しちまったのさ!」
「えー?俺が聞いたのは違うんだけどなぁ」
「はぁ?何だよ違うって」
「だからさ、俺が聞いた話では、数字を開発しようとした学者が悪魔と契約して、うねってる芋虫を『アラビア数字』として発表したから、数字は元々虫由来だってことになってんだよ。だから、実は『数字喰い虫』を見てる人は世界の真実が見えてるんだ、って話」
「何だよそれ、全然違うじゃねえか!かぁー……これだから都市伝説って奴は嫌だな!」



「で?で?その『数字喰い虫』って寄生虫で、頭を乗っ取っちゃうんでしょ?最後はどうなっちゃうのよその人!」
「勿論、独りで部屋に閉じこもってノイローゼになり、気が狂って死んでしまう、って奴さ」
「イヤぁぁぁぁ!!怖いよぉ~~!!ねえねえ、『数字喰い虫』にされても寄生されても助かる方法ってないの!?」
「んん?どうだろう、俺が聞いた話はそこで終わっちゃうからな。また聞いてくるから、それまで『数字の繭』が書かれた呪いのノートなんて見るんじゃねぇぞ?」
「うんっ!!私、絶対に本読まないよ!」
「……それは違うと思うんだが」



 ――それは、誰がどこから広めたのかも分からない、何の根拠もない都市伝説。
 既に短期間で亜種や勝手なストーリーの追加で変容が始まっているそれは、本当に被害者がいるかどうかも定かではない。だが、人は根拠もない存在を信じることを止めない。
 運勢、厄、縁起。人はいつだって目に見えず、立証も出来ない存在を『在るもの』として語る。

 それは、無意識的潜在的に人が立証できない『神秘』のような存在を待ち望んでいるから、とは考えられないだろうか。
 あるいは、その無意識こそが現実を歪めて神秘たりうる存在を神秘としてこの世に幻出させているのかもしれない。

 だが、全ての物事には必ず始まりがある。
 
 無秩序に広がり続けているように見えるその無数の線は、人の望みの顕現として線の集合点を発生させる。だが、その点の反対へと糸ををひたすらに手繰り続ければ、全ての始まりである点がある。必ず原点、起点、分岐点が存在する。
 噂の源でありイコン。信仰の対象。特異存在。
 全てと繋がり、点が生み出す可能性を無尽蔵に内包しつつも、可能性そのものへとなりきることは出来ないもの。

 それは都市伝説そのものではなく、それを消しても都市伝説が消滅することはない。
 だが、探す者がそのイコンに全く別の意味を求めているのならば――



「――入らないでっ!!」

 ばたん、と力いっぱいの拒絶と共に扉が閉じられる。

『……ごめん。でも、怖いの。もう虫なんて2度と見たくない。虫を見ないで済むならテレビもパソコンもいらない。時間なんていらない。情報なんていらない。もう胃液を吐きたくもない』

 ぶつぶつと言い訳のような声が聞こえ、それっきり部屋の向こうは沈黙した。

「美咲、ずっとああなんです」

 現実に打ちひしがれたように項垂れた春歌が、震える声で後ろにいる二人の人間に呟く。

「これ、見てください。時計です。数字が書いてあるからって部屋の外に投げ出されました。あんなにお気に入りだったのに………こっちは本です。バーコードの下にある数字と、本の中にあるページ数と文章の数字を恐れて全て破り捨ててしまいました。こっちは服……内側についてるタグに書いてある数字を怖がって捨てたものです」

 指さす先には、綺麗に整頓された元美咲の私物が並べられている。普段はこの上に布をかけて外からは見えないようにしているらしい。その中にはフィギュア、カレンダー、財布、お菓子、化粧品、電子機器類、文房具、CD……etc……etc……アイテムの何所か一部分にでも数字が入る、ありとあらゆるものが放置されていた。
 人の文明とはここまで数に溢れているのか、と感心するほどにあらゆる物がある。
 同時に、ここまで物を捨てた人間がいったいどのような生活を送っているのか、想像もつかなかった。

「美咲のご両親は、いつかあの子が元に戻るのを祈って、手の届く範囲に置いてあるみたいです。数を口に出されるのも苦痛みたいで……もう決して外に出ようとしないまま半年が経ちました。学校も退学しました。そのうちにどこからか話が漏れて、みんなは面白半分に『数字喰い虫に憑りつかれた』なんて言い出して………おかしいですよね?美咲は本当に苦しんでいるんですよ?なのに、暇つぶしみたいに皆……!」

 ぎりり、と掌が握りしめられた。そこから感じるのは強い悔恨と忍耐。
 親友を面白半分にからかい、治る様子がないと見たらあっさりと離れて行った級友たちを、彼女は恨んでいるのかもしれない。――そしてそれは、同時にそれほどの状況でも美咲という少女を頑なに親友として想い続ける『異常とも言える』友情を感じさせた。

「病院の先生にも匙を投げられました。カウンセリングも続いてますけど、効果は全然ありません………もう、いつ自殺するかもわからない。そんな美咲が……昨日、私にこれを渡したんです。数字も書いてあるのに……自力で掴んで、渡したんです。この人を呼んで、って」

 それはくしゃくしゃになった名刺だった。
 都内のある会社の特殊な部署にいる、「稜尋(いつひろ)林太(りんた)」という社員の名刺だった。それが何を意味するのかは、春歌にはわからなかった。ただ、その人に会いたいと美咲が言ったのだ。何かあるに違いないと思った。

 話を聞いた男性は、横にいる金髪の子供に言い聞かせるように何かを呟き、改めて春歌の方を見た。

「分かった。彼女と会わせてもらうよ。ただし、実際に彼女が呼んだのはメリーだけど」

 それだけ言うと、男性は閉め切られた部屋を見やった。



 = =



 今日も終わらぬ悪夢の日々が続いているのか、と色のない天井を見上げた。
 全身は消える事のない倦怠感と警戒から来る緊張に包まれ、何をする気力も湧かなかった。先ほどの出来事を思い出して、激しい自己嫌悪に見舞われる。
 ――最悪だ。また美咲に当たってしまった。私のことを心配して毎日のようにやってきてくれるのに、こんな態度でしか返事を出せない。

 この部屋に籠ってどれほどの時間が経っただろう。
 数字を見るのが怖い。また、芋虫が湧き出てくるから。
 扉を開けるのが怖い。また、芋虫が這い寄ってくる気がするから。
 言葉を交わすのが怖い。あの虫の音が鼓膜にこびり付くのが嫌だから。

 そうして外部と接するのを断って、人としての生活まで断つように部屋に籠って毎日を送る。
 気が狂いそうなまでの芋虫への恐怖から、部屋の外を見る勇気もない。暑い日も、寒い日も、ずっとずっとここにいる。食事も水も全て親に渡してもらい、私が風呂に入れるように、部屋から風呂までの間に数のあるものは全てが排除されている。
 鏡を見る度にキューティクルを喪っていく髪。頬はこけ、隈はひどく、くぼんだ目元に光る眼球は充血していた。これが自分だと認めがたいほどに、みすぼらしい女だった。自分の存在が酷く惨めに映った。
 そしてやせ細っていく自分の身体を見てもなお、私はこの生活を止められない。

 夢を見るのだ。あの、芋虫に溺れる夢を。全身が芋虫に包まれ、餌のように弄ばれ、明確な終わりも存在せずにただ地獄を見続けるだけの夢を。夢を見るのが怖くて、最近はちゃんと眠ることすら出来ていない。それだけ追い詰められて尚、まだ夢を見る。

 次の夜を迎える恐怖を紛らわすように、がりがりと爪を噛む。
噛み過ぎて血が出て鋭い痛みが襲う事もあるが、それによって眠りが遠のくのならそれでいいとさえ思った。両手の爪はボロボロになって、肌もがさがさで荒れ放題になっている。

 この悪夢はいつまで続くのだろう。
 夢の中の芋虫は、段々と大きく、その存在感を増して迫ってくるような錯覚を覚える。

 いや、本当に錯覚なのだろうか?
 虫は、数字を喰らってぶくぶくと肥大化しているのではないか?大きく大きく成長して、私を食べられるまで成長し続ける気ではないのか?無限に増える芋虫が、いずれあの夢のように周囲の物質全てを芋虫に変えて、私は溺れて死ぬのではないか――?

 腹の底に氷塊が落ちたような恐怖が全身を揺るがし、金縛りのように体を縛り付ける。
 嫌だ、解放されたい、逃れられたい。そう必死に願うが、現実は何も変わらなかった。
 いいや、悪化した。体はさらに痩せ衰えていくし、もう両親さえ信用できない。
 いつかきっと捨てられて、何も出来なくなり、そして私はベッドの上で誰にも知られることなく――そうやって想像もしたくないのに目を逸らせない未来に打ちひしがれていた。そしてそのなかで、私は一つの思い出を掘り返した。

『耐えられなくなったら、お財布のなかのメモを見るといいよ』

 あの時、メリーという女の子は確かにそう言った。
 耐えられなくなったら――彼女は、この未来を予見していたのだろうか。
 あれが唯の悪戯だったならば、それで話は終わる。でも、もしも、あの女の子の言葉こそがこの状況を打破する事が出来るものなら。私を芋虫に追われ、極彩色に塗れる運命を変えてくれると言うのなら。
 その一縷の望みを託して、私はあれからずっと開いてすらいなかった財布から、あの芋虫袋の中に手を突っ込んで、漸く『財布のなかのメモ』を発見した。あの時――メリーは財布を閉める瞬間に、それを滑り込ませたのだろう。余りの気持ち悪さにトイレで何度も嘔吐を繰り返しながらの発見だった。

 今日、あの名刺らしいものに書かれた人は来るのだろうか。
 ただそればかりを、私は唯一の希望として待ち続ける。
 そして、その日――

「わたしメリーさん。貴方と久しぶりに会いに来たの」

 その女の子は――天使のように神秘的なメリーは、私の部屋に現れた。



 = =



「メリーの方はもう始まったみたいだな。だったら、俺も仕事をしますかね」
「え……?」

その言葉に、何の事だろうと首を傾げた春歌に――林太はあるものを突きつけた。

「このノート、見覚えあるかな?」

 何の変哲もないA4のノート。中には数学の授業をメモしたと思しき情報が書き込まれ、恐らく学生の物であろうことが理解できる。そしてそのノートには、丸っこい文字で春歌という名前が刻まれていた。小さく息をのむ音が聞こえた。

「そ、それは……美咲に貸した、ノート……です」

 何故それがそこに――と驚く春歌の表情の奥に、動揺だけでなくなにか後ろ暗さがあることを、林太は見逃さなかった。やはり、と内心で呟く。

「このノートの最後のページに、不思議な図形のようなものがあるんだ。君、知ってる?」
「………知り、ません」

 言いよどみ目を逸らす態度から、それが嘘だと直感した。彼女はこれの最後にある『数学の繭』などと呼称されるものがノートに書いてあることをあらかじめ知っていたと見て良いだろう。

 『数学の繭』は少しずつ、社会に拡散されている。ある日に突然道端で拾ったノートに書かれた『数学の繭』を見ると、『数字喰い虫』の幻影に囚われるという都市伝説に。それは刺激に飢えた人々が『数字喰い虫』という物語を受け入れ、そのうえで「本当かもしれない」と潜在的に信じることで、存在として世界に出現している。

 林太は、ある理由からこの世界にある「科学で説明できない物」を追跡している。当然、都市伝説もよく調べていた。それ以外にも様々なことを調べているが、今日は追跡のために捲いた名刺という名の網にかかった存在がいたからこうして出向いている。

 相方であり都市伝説そのものでもあるメリーが『怪異の因果律』を無意識的に察知して、事前にその人に名刺をばらまいておく。普通の人間ならば知らぬ男の名刺の存在など捨てるか忘れるが、メリーが渡せばその因果は特異的になり、容易には消滅しなくなる。
 そうして捲いた名刺を通じて怪異の被害や情報が林太たちの下へと舞い込んでくる。
 電話越しに聞いた話。メリーの勘や解析。データ調査や他の怪異との時系列の調査。
 そうしたデータを積み重ね、実際に物品を「予め回収」し、実際に出会って確かめることで、真実は浮かび上がる。

 時系列的に確認できたもっとも古い『数字喰い虫』の怪異の発生は、美咲という少女だった。
 メリーによる怪異の始まりの追跡で、美咲という少女の部屋にあったノートが原点だと判明した。
 ノートの最後のページにある数字を「羅生門」の協力の下で解析して、驚くべき事実が判明した。
 そして、このノートの本来の持ち主が春歌であると判明した時点でターゲットはほぼ絞られていた。

「不思議な図形だね。俺はオカルトにそこまで造詣が深いわけじゃないんだけど、この数字をその筋の専門家に調べてもらったんだ」
「……それは、誰かが悪戯で書きこんだものだと思います」

言い逃れるように自分との関連性を否定する春歌だが、敢えて無視する。

「本当に興味深い。この数字は実に様々な心理現象を複合同時的に引き起こすものだそうだよ。刷込(サブリミナル)効果、単純接触(ザイオンス)効果、禁制追求(カリギュラ)効果、主観的選択(バーナム)効果、未完追求欲(ツァイガルニック)効果、偽薬(プラシーボ)効果……数を上げればきりがなく、一見して特徴的効果が無いように思える」
「……単なる落書きなんじゃないですか?」
「だが、さらに調べた結果、先ほども言った通りこれは複合同時的に心理効果を引き起こす。つまり、複合同時的に認識することによって一定の効果を引き出す物だったんだ。化学反応的に……いや、いっそ魔法的といってもいい。ある意味、これは悪魔の数式と呼んで過言ではないね」

 林太は話を聞いているのではない。ただ、淡々と事実を確認している。
 それを聞いて、春歌はありもしない追求を受けていると勝手に思い込んでいるだけだ。
 メリーの言葉で言うならば、「俺がこれを喋ったことに特に意味はない。ただ、結果的に彼女を追い詰めるだろうと思っていた」、といった所か。

「これを書いた人物はいったい何者だったんだろうね。見るだけで劇的な心理構造変化を及ぼすような危険な数式だ。書いている人物その人も無事とは思えない。それともその人は対策や耐性のようなものを持っていたんだろうか?」
「あの、私の話を聞いてますか?それともからかっているん――」
「例えばだけど、そのノートを用意することで休養が必要になったりする場合、用意した翌日はやはり学校を休んだりするものだろうか。それとも単純に日にちを置いてから様子を見ようとしただけか。そして、そのノートが美咲ちゃんの手に渡ったのは果たして偶然なのか、それとも故意なのか。動機は?目的は?何より何故そんなものを知識として所有しているのか?」
「――な、何なんですか……なんで、あなたがそんなことを知ってるんですか!監視でもしていたんですか!?け、警察に通報しますよ!!」
「俺は疑問を提起しているだけだよ。俺はね、春歌ちゃん。君が何をしたかも、その結果としてどうなったのかもさしたる興味はない。重要なのは一つだけだ」

 そこに至って、漸く春歌は気付いたらしい。
 林太が、最初からすべて理解したうえで、美咲ではなく自分に話をしに来たことに。

「――俺は君が『ヨクジン』と繋がっているんじゃないかと疑っているんだよ。――この意味、分かるかな?」

 春歌は血の気の退いた顔でよろけて、廊下の壁に背中をぶつける。
 確定だ。彼女はヨクジンを知っている。あるいは、彼女がヨクジン。俺の人生に楔を打ち込んだ遠因。伝説的追跡者であるメリーの追跡でさえはっきりと捉えきれなかった存在の手がかりが、とうとう目の前に現れた。

「さあ、時間はある。俺は君に手をあげる気もないし、ただ事実確認がしたいだけだよ。君は何故彼女の精神を麻のように乱れさせたくせに、親友面して会いに来たりしているのかな?どうして自分で壊した存在を自分で愛でているのかな?そして何より、何故こんなことが実現できたのか……俺には分からない。分からないから――教えてくれよ」

 淡々と、表情を出さず、能面を張り付けた様に。
 林太は峻酷(しゅんこく)に問いただすような眼光で、春歌を見下ろした。
  
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