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キルケーの恋

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キルケーの恋

              キルケーの恋
 人は恋をするものである。だがこれは人にだけ許されたものではない。神々も恋をするのである。
 これは多くの神話で見られることであるがとりわけギリシア神話においてはよく見られる話である。中には不倫もあれば同性愛もある。ギリシア世界においては同性愛は普通のことであったのでこれは驚くに値しないことである。
 だがここでは同性愛は置いておきたい。この話は男女の愛であるからだ。それではその恋について語りたいと思う。二人の神の恋の話である。
 グラウコスという神がいた。海の神ポセイドンと海のニンフの間に生まれた男であった。ポセイドンは天空の神ゼウス、そして冥界の神ハーデスの兄弟であり海を支配している。兄弟で世界を三分している強大な神であるが海の荒波を象徴してかその性格はいささか粗暴であった。そして兄弟の仲も決してよくはなかった。よく揉め事があった。兄弟ではあるがその治めている世界の勢力圏で常にいがみ合っていたのである。そしてそれぞれの優位性と自負もあった。これはどの神話でもよく見られる話である。北欧神話においてもオーディンとトールは仲がよくない。エジプト神話においてはオシリスとセトの話が有名である。
 そのポセイドンの息子として生まれた彼であるが両親の許を離れ人間の世界に入っていた。そして暫くの間漁師として生活を送っていた。だがそれが急に変わったのはある日のことからであった。
 その日彼はいつものように網にかかった魚を分けていた。そしてその中の一匹を草の上に置いた。その時であった。魚が勢いよく飛び上がり海に逃げていったのである。陸に上げられ息も絶え絶えになっていた魚がである。
「何だ、今のは」
 彼はそれを見て不思議に思った。そしてその魚を置いた草を見てみた。
 一見何の変哲もない草であった。だが妙に気になる。それに興味を持ち彼はその草を食べてみた。すると異変がその身体を襲った。
「むっ」
 忽ち全身を青い鱗が覆った。そして手に水かきが生えた。そのうえ髭が緑青の様に青くなった。彼は海に映るその姿を見て最初は大いに驚いた。だがそれは一瞬のことであった。
「我が子よ」
 その時海が割れそこから三叉を手にした青い髭の大男が姿を現わしたのだ。
「貴方は」
「余は海神ポセイドンという」
 男はそう名乗った。
「えっ」
 グラウコスはそれを見て震え上がった。
「海の神が私に何か御用でしょうか」
「そなたは今まで地上の人間に預けていたのだ」
 彼はそう語りはじめた。
「だがそれももう終わりだ。時が来た」
「時が」
「そうだ」
 ポセイドンは答えた。
「そなたを迎え入れる時が来たのだ。海の世界にな」
「しかし私は」
 だがグラウコスはそれを拒もうとする。しかしポセイドンはそれを許さなかった。
「これは運命なのだ」
 そう言った。
「運命」
「そうだ。そなたは余の子である。その子として海の世界に入る運命にあったのだ」
「ではこの姿になったのも」
「うむ。全ては海の世界に入る為。さあ」
 ここで海から一本の三叉が出て来た。
「それこそ海の神々の一員の証。さあ手に取るがいい」
「わかりました」
 ここまできては最早拒むことはできなかった。彼は父ポセイドンの言葉のままその三叉を手にとった。そして海に入ったのであった。
「これでよい」
 ポセイドンはそれを見て頷いた。こうして彼は海の神の一員となったのであった。
 ポセイドンは彼に予言の力を与えた。彼はそれにより漁師達に収穫等を教えたので彼等の広い支持を受けた。海の神の中ではかなり高い人気を得たのであった。そして彼の神殿には常に供え物があった。その人なつっこい性格もあり彼は常に人々から愛されていた。
 だが彼は愛情というものを知らなかった。元々純朴な漁師でありそうしたことには縁がなかったのである。その彼が海を泳ぎメッシーナで一休みした時のことであった。
「おや」
 入江に入った時であった。ふと目の前に一つの影があるのを見た。
「あれは」
 それは一人の少女であった。小柄で長い波うつ金色の髪を持った可愛らしい外見の少女であった。彼はそれを見て一目で心を奪われた。
 少女は水浴びを終えると陸に上がって服を着た。そしてそのまま何処かへ姿を消したのであった。
「何て可愛い娘なんだろう」
 グラウコスはその娘を見て心を奪われたままであった。そして次の日もその入江に来た。そして彼女を見るのであった。
 やがて見るだけで飽き足らなくなってきた。声をかけて自分の想いを告白したいという望みを抑えることができなくなってきたのだ。そして彼はそれを抑えなかった。
「ねえ君」
 ある時彼は陸に上がろうとする彼女に声をかけた。
「誰?」
 少女はまず辺りを見回した。だがそこには誰もいなかった。
「ここだよ、ここ」
「ここ?」
 声のした方を見た。見れば海の方からである。
「そう、ここだよ」
 そこに彼がいた。見れば青い髭を生やした全身鱗だからけの男であった。
「ひっ」
 少女はその姿を見て思わず身を引いた。だがグラウコスはそんな彼女にさらに声をかけた。
「そんなに怖がらないで」
「けど」
 少女はまだ怯えたままであった。
「怖がる必要はないから。僕は君とお話がしたいんだ」
「お話を?」
「うん。僕はグラウコスっていうんだ。知っているかな」
「ええと」
 彼女はそれを受けて考え込んだ。
「確か海の神様ですよね」
「そうさ、ポセイドンの息子なんだ。こう見えてもれっきとした神様なんだよ」
「神様なんですか」
「うん。それで君は?名前は何ていうんだい?」
「私のですか?」
「勿論。よかったら教えて」
「はい」
 少女はそれを受けておずおずと話しはじめた。
「私はスキュラといいます」
「スキュラ」
「はい。ポルキュスとクラタイイスの娘です」
「ポルキュスとクラタイイスの」
 二人共神の一員であった。それを聞いたグラウコスは的を射たように喜んだ。
「じゃ丁度いい。神様同士だ」
「は、はい」
 いきなりそう言われスキュラは戸惑った。
「ねえスキュラ」
 グラウコスは海から身を乗り出しスキュラに話しかけてきた。
「よかったら付き合わないかい?」
「貴方とですか?」
「そうさ。僕は神様だし君もそうだ。丁度いいじゃないか」
「けれど私は」
 彼女はいきなり告白されて戸惑っていた。それを受け入れるにはあまりにも幼かったのだろうか。
「何かあるのかい?」
「いえ、ないですけれど」
「それじゃあいいじゃないか。さあ」
 彼は手を差し出した。
「僕と付き合おうよ」
「けど」
 スキュラはまだ少女であった。恋とはどうしたものか知らないのだ。
「私、何も知りませんから」
「知らないなら僕が教えてあげるよ」
 彼は年長者の余裕もあってかそれに構わず誘った。
「さあ、おいで。一緒に海を泳ごうよ」
「けど」
「迷うことはないよ。おいでよ」
 スキュラはグラウコスの差し出した手を握ろうとした。グラウコスはそれを見てにこりと笑った。しかしそれはほんの一瞬の
ことであった。
「御免なさい」
 スキュラはそう言った。そしてそのまま岸辺の向こうに姿を消したのだ。
「ああ・・・・・・」
 グラウコスはそれを見てひどく落胆した。翌日岸辺に行っても彼女はいなかった。次の日もまた次の日も。彼は塞ぎ込み次第に食べ物が喉を通らなくなっていった。だがそれでも恋の炎は燃え盛るばかりであった。
 悩みかねた彼はアイアイアという島に向かった。ここにはキルケーという女神がいるのだ。彼女は海の神の一人でグラウコスとは同僚であり友人であった。太陽神ヘリオスと海の神オケアノスの娘である。ティターン神族の血を引く由緒正しい血筋の女神であった。青く長い髪と透き通る様な白い肌を持つ彼女はとても美しく気品があった。彼女の真珠で作られた宮殿からは常に美しい歌声が聴こえていた。しかし彼女は魔女でもあり多くの者を動物に変えてきた。そして薬師でもありそれにより多くの者の命を救ってきた。邪な性質と心優しい性質の二つを併せ持つ複雑な女であったのだ。
 グラウコスも彼女のそんな性質はよく知っていた。だが恋に悩む彼はそれでも彼女のもとを訪れずにはいられなかったのだ。彼はそれ程悩んでいたのだ。
「なあキルケー」
 彼はキルケーの神殿に入り彼女に訴えた。
「僕は今悩んでいるんだ」
「あら、貴方が悩んでいるなんて珍しいわね」
 二人は真珠の椅子に座り向かい合って話をしていた。キルケーは彼の悩んだ様子を見てまずはくすりと笑った。
「笑い事じゃないよ」
 だがグラウコスの顔は真剣なものであった。
「僕は今とても悩んでいるんだ」
「どうしてかしら」
「実はね、好きな娘がいるんだ」
「好きな娘が」
 それを聞いたキルケーの整った眉がピクリと動いた。そして目の色が期待と不安に覆われた。しかしグラウコスはそれには気付かなかった。恋に悩んでいたのと彼女が友人であるということに安心していたのだ。
「それは一体誰かしら」
 キルケーはそれが誰なのか尋ねた。グラウコスはそれを受けて言った。
「うん、実はね」
 そして彼はスキュラのことを言った。それを聞いたキルケーの目の色が失望に変わっていった。
「どうしたらいいかな。君ならいい知恵があるだろう」
「ないわね」
 だが彼女は素っ気なくそう言い返した。
「彼女は貴方のことが好きではないのよ。諦めたら」
「何でそんなこと言うんだよ」
 グラウコスはそれを聞いて激昂した。
「君はそれでも僕の友達なのかい!?」
「友達だから言うのよ」
 キルケーはやはり素っ気なく返した。
「去る者は追わずよ。そう思わない?」
「思わないよ」
 彼は憮然としてそれに答えた。
「思える筈ないじゃないか」
「けれど言わせてもらうわ」
 キルケーの言葉は続く。
「貴方を他に想ってくれる人がいるのじゃないかしら」
「まさか」
「いえ、きっといるわ」
 そう言いながらキルケーは自分の胸が締め付けられるのを感じていた。
「グラウコス」
 そしてあらためて彼の名を呼んだ。
「スキュラのことは忘れなさい。そして新しい恋を見つけたらどう?」
「勝手なこと言ってくれるよ」
 グラウコスは首を横に振った。
「君は気楽でいいよ。他人事だと思って」
「他人事じゃないわ」
「えっ!?」
 グラウコスはそれに驚いて顔をあげた。
「それはどういう意味なんだい!?」
「えっ、あの、その」
 キルケーは自らの失言に思わず口を覆った。そして彼に気付かれていないのを確かめると誤魔化しにかかった。
「友達だから言うのよ。友達だから」
「あ、そうだったね」
 グラウコスはその言葉に我を取り戻した。
「君は何時でも僕の友達だったね。僕が神様になった時から」
「ええ」
「そのことには感謝しているよ。まだ何もわからなかった僕に色々と教えてくれて。それは本当に感謝しているよ」
「いいのよ」
 キルケーは優しく微笑んで彼を宥めた。
「ポセイドン様に言われたことだし。貴方に色々教えてやってくれって」
「いや、それでも。君には本当に感謝しているよ」
「グラウコス」
「だから御免ね、酷いことを言っちゃって」
「いいわ。気にしていないから」
「有り難う」
「それでね。もう一度聞きたいのだけれど」
 キルケーは言葉を続けた。
「本当にスキュラが好きなのね」
「うん」
 彼は頷いて答えた。
「僕はどうしても彼女が欲しいんだ」
「わかったわ」
 内心深い溜息をつきながらそれに応えた。
「じゃあ惚れ薬を作ってあげるわ。何日か待ってね」
「頼めるかい?」
「ええ」
 彼女はそれを了承した。
「暫く待っていてね。できたら呼ぶから」
「うん、頼んだよ」
「ええ」
 こうしてキルケーはグラウコスに惚れ薬を作ることを約束した。彼が上機嫌で宮殿を後にするのを彼女は腹立たしげに見送っていた。
「何よ、あんな小娘」
 キルケーはグラウコスの姿が見えなくなった途端にその整った眉間に皺を寄せてこう言った。
「私の気持ちも知らないで」
 言うまでもないことであった。彼女はグラウコスに想いを寄せていたのであった。そして今彼と会っていた時に胸の中にあった失望が嫉妬と憎悪に変わっていくのを感じていた。
「それなら私にも考えがあるわ」
 彼女はそう言うと宮殿の中に入った。そして薬の調合室へと向かった。そしてその棚にある魔法の草とその他の何やらあやしげな薬を手にとった。
「これで」
 彼女は巨大な窯の前に立ちそれ等の草や薬を中に入れた。そして煮立てはじめた。グツグツと無気味な色の液と煙が沸き起こってきた。
「グラウコス、貴方の気持ちを適えてあげるわ。そう」
 彼女は無気味な笑みを浮かべながら言った。
「彼女の姿がどうなっても愛せるというのならね」
 窯を覗き込む笑みがドス黒いものとなっていた。見下ろすその白い顔がまるでタントリスに潜む異形の者達の様になっていた。それは嫉妬と憎悪に狂う暗い怒りの顔であった。
 それから数日後グラウコスはキルケーの従者に呼ばれ彼女の宮殿にやって来た。彼女はにこやかな顔で彼を出迎えた。
「待たせたわね」
「いや、そういうわけじゃ」
 そう取り繕う彼の顔は数日前よりも痩せていた。まだ悩んでいるのは明らかであった。それがキルケーの怒りをさらに深く激しいものとした。
「けれど出来たから。安心してね」
「うん」
 彼は答えた。そして彼女に案内され宮殿の中を進んだ。そして彼女は自分の部屋に彼を入れた。
「ねえ」
 キルケーは部屋に入れるとグラウコスに声をかけてきた。
「少し休んだらどうかしら。随分疲れているみたいだけれど」
「いや、大丈夫さ」
 彼は明るい声でそれに答えた。
「そう」
 それを聞いてやはり哀しい顔になった。
(私のことは本当に気付かないのね)
「キルケー」
 ここでグラウコスが声をかけてきた。キルケーはそれを聞いてハッとした。
「な、何かしら」
「その薬のことだけれど」
「え、ええ」
 それで我に返った。そして棚から一つの水晶の瓶を取り出した。
「これよ」
「これなんだね」
「ええ」
 キルケーは笑みを作ってそれに応えた。
「これを使えばね。貴方は」
「僕は」
 ここで良心が咎めた。グラウコスには悪意はないのだ。あくまで彼女を友人として頼んでいるだけなのだ。
 自分の感情は一人よがりなものに過ぎないのはわかっている。だがそれを抑えることもできなかった。キルケーの顔も手も蒼白となり震えていた。グラウコスにもそれは見られていた。
「ねえ」
「何!?」
 キルケーはそれにまたハッとする。だが震えは止まらない。
「何処か悪いのかい?何か顔色も悪いし」
「そ、そうかしら」
 咄嗟に誤魔化そうとするがそれは通じなかった。グラウコスはキルケーを気遣う目をしていた。
「何かおかしいよ。やっぱり薬を作って疲れたのかい?」
「ちょ、ちょっとね」
 慌ててまた誤魔化す。
「昨日寝ていないから。けれど大丈夫よ」
 そう言ってグラウコスの不安を取り除いた。
「今日は早く寝るから。ね」
「そう」
 彼はそれを聞いて何とか納得したようであった。キルケーは内心胸を撫で下ろした。
「だったらいいけれど」
「うん。だから心配しなくていいから」
「じゃああらためて受け取らせてもらうね」
 そう言ってその水晶の瓶を受け取った。キルケーはその時彼から目を逸らしていた。しかしグラウコスはそれにはやはり気がつかなかった。
「それでこれはどうやって使うんだい」
「それはね」
 キルケーは薬の使い方を彼に教えた。
「彼女がいつも水浴びしている岸辺に入れるのよ。そうすれば」
「彼女は僕に夢中になるんだね」
「ええ」
 キルケーは目を伏せて頷いた。
「だから・・・・・・楽しみにしていてね、その時を」
「わかったよ、キルケー」
 彼は笑顔で答えた。
「いつもこんなことばかり言って御免ね。頼りにして」
「それはいいのよ」
 彼女は小さい声でそう言った。
「友達だから。そうでしょ?」
「有難う」
「いいのよ、お礼なんて」
 良心の叫びと戦いながらそれに答える。
「だから・・・・・・ね。すぐに行った方がいいわよ」
「うん」
 グラウコスは頷いた。
「じゃあ行って来るよ。ねえキルケー」
「何?」
「こんなこと言うなんて夢でも見てるのかとか馬鹿だとか言われそうだけれど」
 彼はその青い顔を真っ赤にしてモジモジしながらキルケーに対して言った。
「式には出てよね。僕達の恋の橋渡しとしてね」
「いえ、それはできないわ」
 キルケーは首を横に振った。
「どうして?」
「それは」 
 グラウコスの問いに答えようとする。だがとても言うことはできなかった。
「私のことは秘密にしていて欲しいの。いいかしら」
「そういうことなら」
 グラウコスもそれには納得した。首を傾げてはいたが。
「けれど祝福はしてね。お願いだから」
「ええ」
「それじゃあ。今から行って来るから。本当に恩に着るよ」
 こうして彼はスキュラのいる岸辺へと向かった。キルケーはそれを一人見送っていた。立ち去るグラウコスはおおはしゃぎで飛び跳ねるようにして宮殿を後にしていく。
「私のことは何も疑っていないのね」
 キルケーはそれを一人見送っていた。胸を激しく締め付けるものがあった。
「もうすぐ貴方は・・・・・・」
 それ以上は言うことができなかった。考えることもできなかった。そこまでは流石にできなかった。
 いたたまれなくなって、いや自身の良心の咎めに逆らえず彼女は宮殿の奥に消えた。そしてそこから出て来なかった。
 グラウコスは上機嫌のままスキュラのいる岸辺に向かった。そしてキルケーからもらった惚れ薬の瓶の蓋を開けた。そしてそれを岸辺にたらした。
「これでよし」
 彼は薬が全て岸辺に流し込まれたのを確認して笑った。
「これで彼女は僕のものなんだ」
 そして岩の陰に隠れた。スキュラが来るのを待った。やがてスキュラが丘の方からやって来た。
「来たぞ」
 わくわくしながら彼女を見る。見ればスキュラはグラウコスにも薬にも何も気付いてはいなかった。服を脱ぎ裸になった。
 美しい裸身であった。まだ少女の幼さを残してはいるが成長が見られていた。大きくなりはじめている胸は上を向き脚はスラリと伸びていた。やはり神の血を引くだけはあった。
「もうすぐ彼女が僕のものになるんだ」
 グラウコスはスキュラの美しい身体を見てそう思った。
「そしてこれから僕と彼女は」
 そう思うだけで幸せであった。そして彼女が岸に入るのを見守った。
「そう、入れ」
 興奮しながらそれを見守る。
「入るんだ、そうすれば君は」
 僕のものになる、そう考えていた。そう、この時までは。
「え!?」
 海に入ったスキュラは異変に気付いた。海の中に何かがいるのだ。
「何かしら。何かいる」
 彼女はすぐに海の中を覗き込んだ。そして蒼ざめた顔ですぐに丘に出た。
「ひいっ!」
「何、どうしたんだ!?」
 グラウコスは飛び出そうとしたが咄嗟にそれを抑えた。そして彼女を見た。見れば彼女は半分は元の美しい少女のままであった。だが半分は違っていた。
 腰までは元の美しいスキュラのままであった。あどけないながらも整った顔と波がかった豊かな髪、そして大きくなろうとしている胸。白い肌。しかし腰から下はまるで違っていた。
 何とそこには六匹の禍々しい顔をした犬達がいた。口からは涎を垂らし牙を剥いている。そして十二本の脚で立っていた。まさに魔獣そのものであった。
「ど、どういうこと・・・・・・」
「何なんだ、あれは」
 スキュラもグラウコスも呆然としていた。二人共何が起こったのか全くわかってはいなかった。だがグラウコスはすぐにわかった。何が起こったのか悟った。
(キルケーだ!)
 彼女の薬によるものだとすぐに理解した。彼は怒り狂ってキルケーの宮殿に向かった。そして怒鳴り込んだ。
「キルケー!」
 彼女を呼ぶ。だが反応はなかった。
「何処にいるんだ、出て来い!」
 その手には三叉がある。何に使うつもりなのかはもう言うまでもなかった。
「隠れても無駄だ!この三叉の力は知っているだろう!」
 海の神ポセイドンが自らの眷属に与えるものである。一振りで大津波を起こすことが出来る。それによりこの宮殿を海の中に沈めることも可能なのである。
「早く出て来い!さもないと御前を許さないぞ!」
「ここにいるわ」
 ここで声がした。声は今グラウコスがいる大広間の玉座からであった。いつもキルケー自身が座っている玉座だ。赤い珊瑚で作られている。
「そこにいたのか」
「ええ」
 玉座を睨みつけるグラウコスに答えが返ってきた。そしてキルケーの姿が浮かんできた。彼女は玉座の前に立っていた。
「貴方が来た理由はわかっているわ」
「そうか」
 彼はキルケーを睨みつけたまま答えた。
「じゃあ僕が今君をどうしたいと思っているのかもわかるね」
「勿論よ」
 彼女は答えた。
「それがわかっているからここに姿を現わしたのよ」
「いい度胸だ」
 彼は目に怒りの炎をたぎらせて言った。
「じゃあ今やってやる。彼女にあんなことをした報いを受けてもらう。けれどその前に聞きたい」
「何!?」
「何故彼女にあんなことをしたんだい!?よりによって化け物に変えてしまうなんて」
「それは」
 キルケーは口ごもった。
「言えないのかい!?まさかそんな筈はないだろう」
「ええ」
 しかしその目を伏せてしまった。
「けど」
「けど・・・・・・それじゃあ話はわからないよ」
 グラウコスはそう言って語気をさらに荒くした。
「君のせいで彼女はああなったんだ。それについて説明してもらいたいんだけれど」
「それは」
 だがキルケーはどうしてもそれを言うことができないでいた。グラウコスの怒りはさらに強まる。
「わかった。言えないのならいいよ」
 彼はそう言った。
「それならもういい。この宮殿も君も」
 そして三叉を振り上げる。そのまま宮殿を津波に入れようとしたその時であった。不意に二人の間に背中に翼を生やした一人の少年が姿を現わした。
「待って、グラウコス」
「君は」
 癖のある巻き毛の金髪に幼い顔付きをしている。愛の神エオスであった。アフロディーテの息子であり神や人間の心を射抜きその愛の炎を燃やさせる神である。その愛の炎を燃やさせる弓と矢は手に持っている。
「エオスじゃないか。どうしてここに」
「今の君を見て言いたいことがあってここに来たんだ」
 彼はそう言ってグラウコスの前に出て来た。
「まずはその三叉を下ろして。いいね」
「あ、ああ」
 彼はそれに従い三叉を下ろした。そしてエオスに顔を向けた。
「まず君の胸に矢を放ったのは僕なんだ」
「君が」
「そうさ。だから君はスキュラに恋をしたんだ」
「そうだったのか」
「最初はね、君に矢を放つのはもっと後にするつもりだったんだ。君はまだ神様になって日が浅かったし忙しいみたいだったから。けれど見るに見かねてね」
「僕をかい?」
「それが違うんだ」
 彼はここでこう言った。
「僕が気の毒に思ったのは」
 キルケーに目をやった。
「彼女なんだ」
「キルケーを」
「そうさ。君は全然気付いていなかったようだけれど」
「エオス」
 だがキルケーは彼を止めようとした。しかし彼はそれでも言った。
「いや、言わせてもらうよ。君の為だから」
「エオス、何かあるんだね」
「そうさ。実は僕はね、彼女を幸せにしたかったんだ」
「キルケーを」
「うん。彼女には好きな人がいたんだ」
「あの、エオス」
「いいから。君は何も言わなくていいよ」
「そういうわけにはいかないわ」
「いいんだよ。君が言うべきことじゃない。いいかい、グラウコス」
 そしてまたグラウコスに顔を戻した。
「彼女はね、君のことが好きなんだ」
「えっ!?」
 それを聞いて驚きの声をあげた。
「嘘だろう!?」
「嘘じゃない、本当のことなんだ」
 エオスは驚くグラウコスに対してそう言った。
「君が神様になった時に彼女が世話係になっただろう。その時だったんだ」
「そんな、そうなら」
「言えないことだってあるのさ。恋ってのはそういうものだ」
 エオスは彼に対してそう言った。
「君みたいに積極的に何でも言える人もいれば言えない人もいるんだ」
「そういうものなんだ」
「うん。それでね、僕は君に矢を放ったんだけれど」
 彼は少し言葉を濁した。
「間違えてしまってね。キルケーに向く筈がスキュラに向かってしまったんだ」
「だから僕は彼女を好きになってしまったのか」
「そういうことなんだ。御免、キルケー」
 彼はキルケーに謝罪した。
「僕のせいでこうなってしまったよ」
「いえ、それは違うわ」
 キルケーは彼の謝罪に首を横に振った。
「全ては私の嫉妬のせい。私が嫉妬に狂わなければこんなことにはならなかったのだから」
 彼女は目を伏せていた。そしてその目から涙を零した。それは床に落ちはじけた。
「グラウコス、御免なさい」
 その涙に濡れた目で彼を見た。
「あの娘が憎くて、それで・・・・・・」
 そこまで言うと両目を右手で覆った。そしてその場に泣き崩れてしまった。
「キルケー」
 グラウコスはそんな彼女に声をかけた。
「薬はあるの?」
「薬?」
 キルケーは顔を上げた。その目はまだ濡れている。
「うん、彼女を治す薬だよ。元に戻すこともできるだろう」
「え、ええ」
「ならその薬を欲しいんだ。それで治るならね」
「それで・・・・・・いいの?」
「うん」
 グラウコスは答えた。
「それを僕にくれたらいいよ。それだけでいい」
「そう」
 彼女は頷いた。そして宮殿の奥に姿を消した。暫くして陶器の瓶を持って来た。
「これよ」
「これなんだね」
「ええ。これを身体にかければ」
「元に戻るんだね」
「ええ」
「よし、わかった」
 グラウコスはそれを手に取った。そして言った。
「これで彼女が元に戻るならそれでいいよ」
 そして宮殿を後にし岸辺に向かった。エオスが一緒だった。
「エオス」
 グラウコスは岸辺に着くとその場に泣き崩れているスキュラを指差した。
「これを彼女にかけてあげて。僕はここにいるから」
「君自身が行かなくていいんだね」
「うん」
 彼は答えた。
「僕はね。ここで見守らせてもらうよ」
「わかった」
 エオスは空を飛びスキュラの上に来た。そして彼女の身体に薬をかけた。すると腰の犬達が消え彼女は元に戻った。
「えっ」
 スキュラはまず自らの腰を見て声をあげた。
「まさか・・・・・・これは夢!?」
 彼女は自分の身体が元に戻ったことがまだ信じられずにいた。腰の辺りを触る。
「夢じゃない、ちゃんと元に戻ってる」
 そして嬉しさのあまりその場で踊りはじめた。裸であったが気にはしていなかった。
「これでいいんだね」
「うん」
 グラウコスは横に来たエオスに対して頷いた。
「これでいいんだ、僕は本来彼女を好きになる筈じゃなかったからね」
 笑ってそう言う。
「それよりもさ」
 エオスに顔を向けた。
「何だい」
「キルケーのところに帰らないか」
「グラウコス、やっぱり君は」
「いいから」
 そんな彼を急かした。そしてキルケーの宮殿に戻った。
「さて」
 グラウコスはキルケーを前にした。そして言った。
「キルケー、僕が戻って来た理由がわかるかい」
「ええ」
 キルケーはそれに答えた。
「わかってるわ、だから」
「だから」
「一思いにして。覚悟はできているから」
「わかったよ」
 グラウコスは頷いた。そしてエオスに顔を向けた。
「僕を射るんだ」
「え!?」
 それを聞いてエオスもキルケーも思わず声をあげた。
「それはどういうことだい!?」
「いいから」
 グラウコスは強い声でエオスに対して言った。
「射るんだ。いいね」
「しかし僕の弓は」
「わかってるさ」
 彼は言った。
「いや、いい」
 だがすぐにそれを断った。そしてキルケーに顔を戻した。
「キルケー」
「は、はい」
 キルケーは強い言葉で呼ばれて一瞬ビクッとした。
「これが僕の今の君に対する気持ちだ」
 そう言うと前に出た。そして。
 何と彼女を抱き締めた。両手で強く抱き締めたのだ。
「えっ・・・・・・」
 抱き締められたキルケーは思わず呆然となった。抱き締められたまま呆気にとられた顔をした。
「グラウコス、これは・・・・・・」
「一体どういうことなの」
「キルケー」
 彼はまた彼女の名を呼んだ。
「確かに君はスキュラに酷いことをしたよ。けれど彼女は元に戻った」
 彼はキルケーを抱き締めたまま言った。
「その罪は許せないよ。けれどね」
 言葉を続ける。
「君がどれだけ僕を想っていたのかわかったよ。そして僕は」
「僕は・・・・・・?」
「その気持ちに応えたい。今まで僕達は友達だったね」
「ええ」
「けれどこれからは違う。これからは」
「これからは・・・・・・どうなるの?」
「わかっている筈だよ」
 グラウコスはにこりと笑って言った。
「僕達は恋人同士だ。君が思っていたように」
「本当なの!?」
「ああ、そうさ」
 不安気なキルケーの気持ちを和らげるような声であった。
「それでいいだろう。僕も今まで君に気付かなかった」
 彼はまた言った。
「けれどこれからは違う。これからはずっと一緒だ」
「本当なの!?その言葉」
「僕は嘘はつかないよ、絶対に」
「そうだったわね」
 それはキルケーもよく知っていることであった。だからよくわかったのだ。
「だから・・・・・・信じていてね、絶対に」
「ええ」
 二人はそのまま抱き合ったままであった。エオスはそれを離れた場所で見ていた。
「やれやれ、妬けるなあ」
 彼はそう言って苦笑するしかなかった。恋の橋渡し役も思わず妬ける場面であった。
「これなら僕の出番はもうないな。さて」
 彼は姿を消した。だが彼がいなくなってもそこには恋が残っていた。


キルケーの恋      完


                              
                2005・2・27
 
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