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四重唱

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第十二章


第十二章

「少なくとも今は。マルシャリン以外の何者でもないよ」
「そうだったら私はこのシーズン、何があっても歌うわ」
 今それを心に誓うのだった。
「何があってもね」
「その意気だよ。そうしてね」
「ええ」
 また夫の言葉に頷いた。
「最高の舞台にするわ」
「最高の薔薇の騎士を頼むよ」
「わかったわ」
(そして)
 夫に応えると共に心の中でまた誓う。その誓いは彼女にとっては誓わなくてはならないものであった。哀しみと共にある誓いであった。
(全てを終わらせるわ)
 そう誓うのだった。自分自身に対して。彼女は今自分の全てをそこに捧げようともしていたのだった。

 ヒルデガントはマゾーラと共にいた。二人でマゾーラの部屋にいた。そこで二人きりで話をしていた。
 そこもまた白く落ち着いた部屋だった。テーブルの上に飾られているのは銀で造られた薔薇であった。薔薇の騎士の題名にもなっているこの薔薇は花婿が花嫁に捧げるものである。それを贈り届けるのが薔薇の騎士なのだ。この作品の中ではオクタヴィアンこそが薔薇の騎士なのである。
 二人は今その薔薇を見ていた。決して楽しい顔ではない。むしろ哀しい顔だ。その顔で二人で白銀の薔薇を見詰めているのであった。
「この薔薇は貴女が私に届けてくれるものね」
「そうよ」
 ヒルデガントはマゾーラの言葉に頷く。その間も表情は変わりはしない。
「劇の中でね」
「そして今も」
 マゾーラは言った。言いながらその薔薇にそっと触れる。薔薇は冷たく何処までも清らかな輝きをそこに見せているのだった。
「私にくれたのね」
「はい。この薔薇を貴女に」
 ヒルデガントは彼女を見て述べる。述べながらもその哀しい顔をそのままにしていた。
「捧げます」
「宜しいのですね」
 マゾーラは薔薇を触ったまままた言うのだった。
「私が頂いても」
「どうしてそのようなことを言われるのですか?」
「私が頂いていいようには思えないからです」
 見ればマゾーラは薔薇を手に取ろうとはしない。ただ振れているだけだ。触れているだけで手の中に収めようとはしないのであった。
「貴女に捧げるものなのに」
「あの方でなくて宜しいのですか?」
 ハンナはそう問うてきた。彼女もまたヒルデガントとハンナのことは知っている。知っているからこそあえて聞くのだ。聞かずにはいられなかった。
「あの方で」
「もう。終わる恋ですから」
 それがヒルデガントの返事であった。それを隠すことはしなかったしできもしなかった。
「ですから」
「だからなのですね」
「はい」
 はっきりと彼女に答える。
「そうです。だからこそ」
「だからこそ私にこの薔薇を下さったのですね」
「なりませんか」
 マゾーラに尋ねた。
「それは」
「いえ」
 マゾーラはそれを否定する。彼女もまたそれを隠すことができなかったのだ。
「喜んで受け取らせて頂きます」
「有り難うございます」
 あらためて礼を述べるヒルデガントであった。そのヒルデガントに対してマゾーラは慎み深い調子でまた述べるのであった。
「私が銀の薔薇を受け取るとは思いませんでした」
「それは何故」
 ヒルデガントは今の言葉に顔を向ける。どうしてなのかと顔でも問うていた。
「私は。貴女には相応しくないからです」
「私には」
「いえ」
 ここで今の言葉すら否定するのだった。その言葉には慎みよりも悲しみと寂しさが込められていた。そうした言葉で今彼女に告げるのであった。
「私は。誰にとっても相応しくない、そうした女なのです」
「またそれは」
 どうしてそこまで自分を否定するのか、ヒルデガントはそこに何かを感じた。問わずにはいられなかったが彼女からそれを言い出したのであった。
「私は。東ドイツに生まれました」
「それは知っていますが」
 これはあまりにも有名である。かつての東ドイツが生んだ再考のソプラノ歌手の一人とさえ言われている。今でこそ一つになったドイツだったが戦後長い間東西に分かれていた。その悲しみを覚えている者も少なくなってきている。これもまた歴史であった。
「父は。スパイだったのです」
「スパイ!?」
「はい、演奏家でしたが」
 実は彼女の父はバイオリン奏者だったのだ。母はフルートで両親から英才教育を受けた結果が今の彼女だとも言われている。
「スパイでもあったのです」
「それはよくあった話だと言われていますが」
 これは本当のことだ。とりわけこのウィーンは東西の勢力が集まり諜報活動が盛んであったと言われている。ハプスブルク家の都は二十世紀にあっても政治の中心であり続けたがそれはこうした意味においてもそうなのであった。音楽と政治はこの街から離れることはないのであろうか。
「それで何故そこまで」
「それも唯のスパイではありませんでした」
 彼女は沈痛な顔で言葉を続ける。
「同僚の行動を監視する。そうしてそれと共に西側の人間を買収して内通者を作っていく。そうした汚いスパイだったのです」
「所謂秘密警察ですか」
「そうです」
 実際に東側で言われていた言葉だがソ連の人間が東ドイツに留学する、それは何故かというとそこで共産主義や共産主義国家のあり方を学ぶ為だとジョークで言われていたのだ。かつての東ドイツは共産主義の優等生であり東側においてはソ連のまたとない盟友であったのだ。これはナチスが母体になったせいであるが東ドイツの高官には元ナチスの人物も多かったと言われている。ナチスとソ連の正体が全く同じ全体主義国家であったということは今では常識となっているがそれが嫌になる程巧みに活かされていたのが東ドイツなのであった。従って秘密警察の類もソ連に匹敵するものがあったのだ。
「しかも。嬉々として行っていました」
「仕事としてではなく」
「自らの富の為に」
 これも東側ではよくあった話だと言われている。自らの富や栄達の為にそうした仕事をしていたのだ。これで多大な富を得ていたというのがマゾーラの父であったのだ。
 
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