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乱世の確率事象改変

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見える綻び、見えざる真実

 現在、白馬に居座る袁紹軍の士気は上昇傾向にあった。
 それというのも、曹操軍が白馬を放棄し、延津の陣すらも放棄した事に起因している。城拠点の制圧は兵達の心に安息を齎す。屋根がある場所、壁がある場所というのはそれほどこの大陸のモノにとってはありがたいモノだ。
 ただ、白馬制圧部隊の軍師であった郭図はもう一度の戦闘を予想していたのだが、被害が少なくて何より……との思考には落ち着かない。
 まさかたった一度の戦闘で引き返すなど思いもよらなかったのだ。より多くの敵を残してしまった、という結果が彼を不機嫌にさせる。

 白馬にて多くの兵に休息を取らせている中、曹操軍が戦線を下げた事で袁紹軍は一つに纏まり、これからの方策を練る為の軍議を開いていた。



「クカカっ! 無様だなぁ……張コウよぉ」

 下卑た笑い声が良く耳に響いた。侮蔑、嘲り、愉悦……郭図の表情には人のそういった感情がありありと浮かんでいる。
 見据える先には一人の少女。袁家の二枚看板を凌ぐ実力を有する張コウ――――明である。だらん、と片手を下げて痛々しく布を巻いた彼女は舌打ちを一つ。
 延津の戦闘は袁家側の優勢で終わったが、秋蘭との一騎打ちで明は肩と腕に矢傷を受けた。
 将の負傷は兵達の士気を下げる。それが袁家で一番の将ともなればより大きい。さらには、延津と白馬の中間地点に据えた集積所の船も燃やされたとあれば尚のこと容易に。延津の兵達は他の部隊にその士気低下を広げない為に、白馬と延津の中間地点に待機させてあった。
 白馬を取れた郭図は、敵を思うより減らせなかった事での機嫌も、嫌いな明が曹操軍にしてやられた事で上向いていた。

「夏侯淵なんぞに遅れを取りやがったのか。まーた手ぇ抜いてたんじゃねぇのかぁ?」

 心底バカにしたように、は……と息を吐いた。にやにやと歪んだ顔を見て、猪々子も、斗詩も……不快気に顔を顰めた。

「言い訳はしないよ。討ち取れなかったのはあたしのせいだし」

 目線は斜め上に、目を合わせようともしない明の一言。
 勝てる戦いだったと終わった今ならよく分かる。近接戦闘に持ち込み、体力の続く限り鎌を振るえば弓兵如き相手にはならない。
 それをしなかったのは、斗詩の救援とより多くの兵を殺す為に体力を温存しておきたかったからだ。
 やはり、自分は誰の実力も信用してはいないのだと、明は自嘲の意味を込めてくつくつと喉を鳴らす。
 郭図の瞳には冷たさが宿った。

「……お前、武人にでもなったつもりかよ」

 責める視線は苛立ちが強く滲み出る。
 猪々子は首を捻ったが……斗詩は顔を蒼褪めさせた。
 明の本業は人を殺す事。武人の真似事など、郭図は求めていないのだ。

「……何が言いたいのさ」
「だまし討ち……出来ただろ? 毒矢や毒槍も使えたはずだ。ただ殺すだけに何を手段なんざ選んでやがる」
「お前っ――――」
「単純バカは黙ってやがれっ」

 卑怯な手段を提案されて、猪々子が激発仕掛けるも、郭図の普段よりも真剣で必死な声に口を噤んだ。
 自分の命が掛かっている状況で、誰しも、本気で戦わない相手に怒るのは当然。それを醜いと思うのは、傍観者か、力ある者達の傲慢ではなかろうか。
 やっと目を合わせた明は、大きくため息を一つ。

「あー出来たね。のこのこ一騎打ちに乗ってきた所をあたしの兵で殺す事も、毒使って夏侯淵とか楽進、于禁を殺す事も」
「なんでやらねぇんだ? 勝つつもりねぇのか?」
「そんなんで殺したら新兵を昇華させるには足りないよー。毒使って楽に勝つ事覚えたら、せっかく擬似死兵を育ててるのに甘さが残るじゃん。弱い兵に守られて死にたいならいいけど」
「ちっ……ならいい」

 一応、理に適った反論であった為に、郭図は舌打ちと共に話を切った。
 兵士は精強であればある程にいい。袁紹軍は曹操軍に比べて練度が足りない。各々の受け持つ部隊は問題ないが、十万を超える兵の大半は力不足に過ぎる。
 今回ほとんどが逃げ出さずに残ったのも、明と夕が恐怖の鎖で縛り、生きたいという衝動を隅々まで引き出したからだ。
 人は堕落する生き物。楽な手段を覚えればそれに引き摺られる。油断、慢心と言ったモノは、戦場に於いて何よりの敵である。
 袁紹軍とは違い、曹操軍は兵の数こそ少ないが率いる有力な将の数が多い。一人ないし二人討ち取る事と多くの兵の成長を秤に掛けたなら、明と夕は後者を取る、ということ。
 郭図にしても、自分の命を守る兵士は強い方がいい。さらには、使い捨ての容易い擬似死兵として扱えるようになるのなら、彼のような軍師としては嬉しい限りである。

「下らない話はもういい?」

 呆れたようにも、怒っているようにも聞こえる声を夕が発し、視線が一斉にそちらに集まる。
 彼女の顔は蒼い。大切な友が、戦闘に支障を来す程の怪我をしたのはこれが初めてである為に……取り乱す事は無くとも、心の負担が大きかった。

「……ああ、構わねぇよ」

 夕を責める事も出来るが、郭図はしなかった。
 些細な違和感を覚えた明であったが、白馬から送った兵を霞にやられた事が効いているのだろうと切って捨てた。
 目を瞑る。じっと感覚を研ぎ澄まし、天幕の周りに人が居ないかを確認。やはり自分達以外、此処には誰も居ない。明は夕と目を合わせて、その意を伝える為にコクリと頷いた。

「じゃあ始める。船の襲撃が一番の問題。長距離から火を仕掛けられる兵器が向こうにはある」
「火矢……ってわけじゃあねぇんだな?」
「ん、瓶の割れる音がしたって言うから、きっと固形物を撃ち出せる兵器」
「へー……敵もそんなもん作ったのか」

 すげぇな、と頷いた猪々子に呆れの視線を皆が向けた。童の感想ではあるまいし、というように。

「……な、なんだよ?」
「べっつにー? それよりあんた、ちょっと天幕の周り見ててくんない? 人に聞かれたくない話するからさ」
「兵に任せとけばいいだろ」
「あんたに行って欲しいの、軍議するには邪魔だし♪」
「じゃっ……邪魔っておいこら明――――」
「はいはーい、めんどくさいからバカは外ー♪」
「ちょ、バカバカってお前らいっつも――――」
「いったぁ……怪我してんのに、痛いじゃんバカ」
「あ、ごめ……」
「もう! 黙って外でいい子にしてなっ!」

 ぐいぐいと身体を押しやりながら、明はわざと怪我の件を使って猪々子を外に追い出した。
 寂しそうに中を見つめる猪々子の視線は斗詩に向けられるも、さっと目を逸らされる。がーん、と大仰にショックを受けた猪々子の表情を最後に天幕の入り口が閉められ、中に残ったのは四人。

「まあ、これからの戦に単純バカの意見はいらねぇわな」
「ん、真っ直ぐ勝てるなら最初から全兵力で押し切ってる。とりあえず続き」

 机上に広げられた地図を指で二回弾いた。並べられた駒は黄色が二つ、白馬には……無かった。

「長距離兵器があるなら官渡攻略には移動櫓が使えない。使うなら中に入って兵器を壊して来るのが大前提。敵将が皆集まってるから侵入は到底無理だけど」
「……櫓を壊す為に瓶よりもっと大きなモノを飛ばして来るって事?」
「さっすが斗詩♪ どっかのバカとは違うねー」
「明、茶化さない」

 緩く言い放った明をぴしゃりと咎め、夕は郭図に視線を向ける。

「城壁の上から飛ばして来るなら石だと思うけど、どう?」
「だろうな。船と違って固定されたもんなら、俺らの使おうとしてる新しい攻城兵器も狙い撃ちにされるだろ。元から城の周りに杭を打ちつけられてるから櫓もアレも近付けねぇが」
「飛ばせる範囲がどれだけなのか分からないのも怖いですね」
「通常の攻城戦をするしかないって事かー……めんどくさ」

 は、とため息をついた明。此処までなら、普通の感覚を持つモノが行き着く答え。夕と郭図はその先を見ていた。

「……わざわざ見せたって事は他にも兵器があると考えていい」
「え……?」

 斗詩は夕の発言にキョトンと目を丸めた。対して明は、なるほど、と一つ頷いた。

「バカが、たかが延津の戦を掻き乱す為だけにそんな使える兵器を引っ張り出すかよ。これは牽制と思考誘導だ。頭の悪ぃ奴等には普通の城攻めしか手が無いと思わせて攻めさせ、他の兵器か事前に仕掛けた罠や策で兵数を一気に下げさせる。俺らみたいな軍師に対しては攻めるのを躊躇わせて時間を使わせる。内部意見の食い違いを謀り、不和を齎す一手でもあるだろ」

 珍しく軍師らしい意見に、斗詩はあんぐりと口を開けた。それだけ、郭図に対しての評価は斗詩の中で低い。
 むっと顔を顰め、何か言いたい事でもあんのか、とチンピラのように食って掛かりそうになった郭図を、夕は手だけで制した。

「顔良。あまり郭図を舐めない方がいい。こんなクズでも袁家の一番上まで伸し上がった軍師」
「お前に言われると気持ち悪ぃからやめてくれ、吐き気がするぜ」
「褒めてない。クズが死ねばこの世界も綺麗になる。せいぜい“袁家”の役に立ってから醜く喚いて無様に死んで」
「誰も褒められたなんざ思ってねぇ。“袁家”の役に立ってからのたれ死ね、貧民出風情が」

 行われる口げんかはいつもの事。軽く言い合っている中にどれだけの憎しみが隠されているのか斗詩には分からない。
 ふいと横を見ると、明がにやけていた。瞳が冷たく濁っていた。ギシ、と小さく音がした事で、夕も郭図も、そちらを向く。

「で? どうすんのさ」
「……なんに於いてもまずは陣構築に重きを置くべきだわな。外部戦略が田豊の思い通りになるんなら、だが」

 明の殺気に冷や汗を一つ垂らした郭図が言うと、夕がふっと笑みを零す。昏い暗い瞳を渦巻かせていた。

「七乃は裏切る。公路が可愛すぎて仕方ないから、あいつは袁家に従わないで何処かに隠してると思う。でも袁術軍の兵は幽州から動けない」
「対外的には裏切ってるそぶりを見せない為ってか?」
「ん、あいつは蝙蝠と一緒。勝つ方に着くだけ。長いモノに巻かれる部類。殺してもいいけど、裏切ってる間だけは信頼出来るから殺さないでもいい。七乃はこれからも使い道が多々ある」

 例え何処に袁術を隠していようと……までは夕も言わなかった。
 袁家と深く繋がっている郭図に教えてやる義理は無い。夕としては、自分達がこの戦の後にする事を思えば、勝ってから七乃が戻ってくる場所も残しておくべき、と。

――七乃の手腕は必須……上層部を皆殺しした後に。一人一人時間を掛けて、甘い顔で近づいて、利を与えると嘘を付いて、安心しきった所を絶望の底に叩き込む。明の食事場に私も行こう。お母さんに内緒で。

 昏い願望だった。憎い相手の苦痛は甘美な果実だ。悲鳴を前菜に、血と臓腑と苦痛と絶望をメインに、夕も明と共にその狂宴を楽しみたいと望む。
 母の命を救う手立ては見つかった。最大の敵を取り込めるとなれば、捜索と同時進行で内部改革も進められる。未だに華佗の身柄は抑えていないが、官渡の戦いさえ終われば、他の大地を燃やしてでも探し出すつもりであった。

「……そうかい、あの異常者に関してはお前の意見を採用してやる。じゃあ……烏巣の方はどうするよ」

 一寸の間。郭図の目が細められ、ため息を吐いた。
 何かがおかしい、今度は斗詩が気付く。明は徐州で郭図が七乃に怯えていたのを見ていたから、気付けなかった。

――どうして郭図さんがこんな簡単に……

 考えても、彼女にはこの違和感が何であるのか分からなかった。

「戦略は変わらない。予定通りの場所に陣を組む。麗羽を呼び寄せて陽武に本陣を構えて、烏巣にはまず文醜に向かって貰う。移動櫓はどっちにも振り分けて、受け手の様相で最高の時機を待つべき」
「やっぱり官渡は落とさないの?」
「一度だけ戦闘をする。敵の兵器の力を確かめる為にも。敵側の思考は勝ちに染まるから、染めて染めて染め上げて……最期に引っくり返せば問題ない。これが一番」

 その為の必要な犠牲。斗詩は出かけた甘い言葉を必死で飲み込んだ。また兵士を使い捨ての駒にするような方法だ。勝つ為には必須で、無駄な犠牲などとは、口が裂けても言えはしない。
 ただ、斗詩はまだ甘い。夕の才がこの程度で終わるなら、覇王が敵と認め、桂花が友とするわけが無い。

「顔良、あなたには官渡を攻める指揮をして貰う。重量武器を使うあなたにしか出来ない事がある」
「あー、それなら使えるな、確かに。クカカっ、いい威力偵察だ」
「そっか! なるほどねー♪」

 郭図と明の二人はすぐさま読み取ったが、斗詩はまだ読み取れず。焦りから、疑問をそのまま投げやった。

「で、でも櫓もアレも使えないんだよね?」
「いくら強い兵器でも、当たらなければどうという事は無い。アレを石から守るのが顔良の仕事。敵は城……だからアレの力を見せつけるいい機会。相手の兵器の案も上乗せして返してあげればいい」
「私が飛んでくる石を弾き飛ばすの!?」
「出来るはず……というか出来なければ死ぬだけ。文醜の方が向いてるけど、我慢出来なくて突撃するから却下」

 飛んでくる大きな石を壊せと言われて直ぐに頷けるはずもない。力は確かに強い。自分なら、人の大きさくらいの石程度壊せるだろう。動かないモノなら、だが。

「うぅ……ちょこちゃん――――」
「斗詩なら出来るってー。頑張ってー」

 明ならどれだけ難しいか分かるだろうと問いかけても、遠い目をして棒読みで投槍に語られ、救いの手など無い事が分かり泣きそうになった。

「大丈夫。顔良なら出来る」
「お前なら出来るさ」
「あんたなら出来る」

 三人は極悪人さながらの笑みを浮かべて斗詩を見た。やれ、と言っているのだ。
 カタカタと手が震えた。普通に励ましてくれたらいいのにとは言えない。この三人から言われても気休めにすらなりはしない。
 死にたくない。けど、勝たないと死ぬだけでもある。勝つためには、やるしかない。

「わかり……ました……」
「ん、決定。指揮負担は明がする。もし、長距離の矢が飛んできても明なら片手で対処出来る。最悪顔良だけでも明が抱えて逃げればいい」
「ありゃ? あたしも行くの?」
「官渡を見て来て。あなたの目と嗅覚があれば、おかしい所も見分けられるはず。追撃に対して明にしか出来ない事もある」
「……そういう事ね。りょーかい」

 明は唇を舐めた。言い含められたモノは彼の事が一つ。追撃を仕掛ける為に黒麒麟が出て来るなら……少しでも心に楔を打ち込むべき。
 もう一つ。秋蘭が明を捕えようとしていた為に、囮としての機能を果たせるだろうと考えて。
 他の将が出てくるなら逃げるか殺すかするだけだが、秋斗が出てきた場合だけ、明は動きを変えようと心に決める。

――秋兄かぁ……出てくるかな? あの時の事、伝えとかないと落ち着かない。聞きたい事も話したい事もいっぱいあるし、夕の為にも捕まえちゃいたいんだけど。接敵するなら阿片の予備……使っちゃうかー。夢うつつに取り込まれたら斗詩と二人で掛かれば捕まえられるでしょ。

 医術の知識を仕入れている明は、殺さずに捕える方法を使おうと心に決めた。
 この時代の医の技術は拙い。純粋精製した麻酔などまず無い為に阿片が用いられる事もしばしば。
 現代で麻薬として広く認識されている阿片の効果を、明は食事場での人体実験で知っている。使いすぎるとどうなるかも、知っている。
 捕まえたらどうやって言う事を聞かせよう……そんな考えが浮かび、嗜虐衝動が湧きあがり始めるも、夕が口を開いた事で遮られた。

「官渡はこれでいい。白馬に残す兵数は一万。烏巣の陣構築と糧食の輸送には馬を全て使う。本初の所に蓄えて置いたから、全部こっち側に持って来させてる」
「白馬に置いて振り分ける……なんざしねーよな?」
「当然。白馬は少し遠い。補給路が断絶されたらそれだけで詰む危うさが出てくる。延津に五千の兵と船をばらけさせて置いて、糧食と物資は随時、烏巣と陽武に振り分けるべき」
「……上手く行くんだろうな?」
「行く。曹操が官渡に到着次第、向こうは動くはず。官渡の第一戦闘で釣られてのこのこと出て来てくれる程度なら……私達の勝ちは濃くなる」

 その程度の頭脳しか持たない相手なら、此処までめんどくさい周り道はしなかった。甘い考えを打ち捨てて、最悪の状況まで読み切らなければ夕に未来は無い。

――でも、敵を打ち負かす最後の方法は……あなたにも話してない。ごめんね、明。

 信頼から、明は夕に策の全容を聞くことはない。夕の頭に浮かんでいる勝利の方程式には、明に教えるという選択肢が含まれていなかった。
 聞けば必ず、彼女はこの軍を見捨てるだろう。夕だけを連れて曹操軍に投降するだろう。母の身が大事な夕にとっては、今教えてはならない策であった。

――この戦、あなたが勝敗の全てを決める鍵。人を信じられないあなたには酷だけど、私を信じてくれてるから必ず勝てる。ただ……本当にダメな時は……

「そんな間抜けが相手なら楽だわな」

 郭図のめんどくさそうな一言で、悲哀に深く潜りかけた思考を夕は切り替えた。

「方針は決まり。じゃあ明日からは陣構築と準備。軍議終わり」

 郭図が出て行くのを見送り、残ったのは三人。
 斗詩の顔は、次の戦がどんなモノになるのか分からずに蒼く染まったままであった。
 この二人が信じられるようにと、自分も同じように命を簡単に投げ捨てる側に落としたいのではないか……と、恐怖が心を染め上げる。
 タガが外れかけている自覚はある。生きたいという衝動があろうと、この前の戦を思い出せば明の側に行く方が……心が楽だった。斗詩は生来持つ優しい気性から線を越えていないだけ。

「死にたくない……って考えてるでしょ」

 明の言葉に、ビクリ、と肩を引くつかせた斗詩は、恐る恐るその方を向く。
 のんびりと構えている明が居た。下手をすれば自分も死ぬかもしれないというのに、普段通りの飄々とした態度であった。

「安心しなよ。守ってあげる。絶対に守ってあげるからさ。生きたい生きたいって願って、縋り付いて、足掻いて、もがいて……あんたはそれでいいんだよ」
「ん、顔良が命を使う場所はまだ先。麗羽を守る為だけに、最後の最後でそうなるべき。一割、一分、一厘でも生きられる方法があるのなら、あなたは麗羽と猪々子と共にそれを選択するべき。たった一つの命を輝かせて、幸せを掴もうとするからこそ人は美しい」

 茫然と、斗詩は二人を見つめた。醜くも足掻く様を認めてくれるとは思わなくて。
 同時に気付いたのは一つ。
 彼女達は大切なモノの為なら命を捨てる程の状況に常に身を置いている。だからもう、引き返そうとしても自分と同じにはなれないのだと。

「戻りたい……って思わない? 生きたいって素直に思えた時の自分に」

 ふと、聞いてみたくなった。もし、例えば、彼女達が狂ってしまった原因を取り除けるのなら……そんな可能性を。
 それを聞けば、何かしら彼女達を救えるのではないかとも思った。

「そだねー……やり直せるなら、あたしはまた袁家で夕と一緒に戦うだろうねー」
「ふふっ、そう言うと思った」

 穏やかに笑う夕。信頼と感謝の籠る声と共に立ち上がり、明の膝の上に座った。

「え……昏い場所に身を置くよりも? 且授様が倒れる前に連れ出せるとしても?」

 聞かずにはいられない。もっと他の場所を変えようとするだろうと、斗詩は思っていたのだ。

「何言ってんの? あたしは夕が全てだもん。例え繰り返しても、夕の為にしか動かない。夕の幸せを壊す事なんてしない。元から人殺すの好きになってるしもう問題ない。大好きな夕が幸せを掴めるならそれでいい」

 明は夕の望んだ幸せを求めた。答えは、その一つしかなかった。

「私は戻ったら、お母さんの為に袁家を変えようとする。明に腐敗を殺して貰うっていう手もあるけどしない。しても病気になるのを事前に対処するくらい。結局袁家からは逃げないで、お母さんと明と……もちろんあなた達と一緒に中から変える。それがきっと、一番いい」
「んー♪ いいね、それ。やっぱり夕はかぁいいなー♪」
「苦しい。手、痛くないの?」
「痛い! けど夕を抱きしめられるならいいの!」
「明も大概バカだと思う」
「ひひっ、戦バカってよく言うし、あたしは夕バカだねー♪」

 目の前でいつも通りにいちゃつき始める二人。
 ああ、と斗詩の口から吐息が零れた。

――この子達の為に出来る事は……やっぱり且授様を助けることしかないんだ。

 自分が動いて良かったと、心の底から思えた。
 同時進行で進めているモノは……実は現在、追加の情報が入っていた。

――西涼の馬騰の治療に専念してる華佗。その人を無理矢理でも連れてくれば……大丈夫。

 話して素直に来てくれるとは思っていない。有名な為政者の元に居るのなら、劉表の病状は知っていたはずである。なのに動いていなかったならばどういう事か、斗詩も理解している。
 頑固者か、信念を持つモノか、それとも拘束されているか、余所の情報が入らないように手を打たれているか……。

――そろそろ話してもいいかもしれない。

 グッと拳を握って、勇気を振り絞った。
 自分が嘘を付いていた事を正直に話し、彼女達の幸せがもうすぐそこだと教えよう、と。

「あのね――――」
「郭図が出てったって事は軍議終わったんだろ? メシ食いに行こうぜ!」

 言い掛けた言葉は、猪々子の大きな声にかき消された。

「あー、あたしはいいや。夕といちゃいちゃしたいし」
「私もいい」
「んだよ、つれないなぁ」
「ひひっ、猪々子も混ざる? 夕には触らせてあげないけど♪」
「あたいは腹減ったの! それに田豊に触っちゃダメならお前といちゃつくってことじゃなねーか! なんかヤダ!」
「んだよ、つれないなぁ」
「あたいの真似すんなバカ明っ!」
「突っ込むモノがないくせに突っ込みたがるなんて……哀しいやつー」
「お、ま、え~っ! いい度胸じゃねぇか――――」
「もう文ちゃん! そんな突っかからないの!」

 明と他愛ないやり取りをしていた猪々子を、斗詩は抱きしめて止めた。
 むぅっと口を尖らせてからべーっと舌を出した猪々子は、

「メシ食ってくる! ほら、行くぞ斗詩!」
「あははっ、あんたの負けー。いってらっしゃーい♪」

 斗詩の腕をグイと引っ張って天幕の外に歩き始めた。
 真剣な話を出来る雰囲気でもなく、それに……明の笑った顔が楽しそうだったから、今くらいはやめておこうと諦めた。
 その様子をじっと見つめる少女が一人。

「顔良、文醜。私の真名を預ける」

 ピタリ、と二人の脚が止まった。
 驚愕のままに振り返ると、無表情な夕が明の腕の中で、黒い瞳を渦巻かせて見つめていた。
 明は何も言わない。夕がする事に、口を挟む事はもう無い。

「夕って呼んでいい」

 猪々子は喜びから頬を緩ませ、へへっと笑った。
 斗詩は、歓喜から口に手を当てて、ふふっと笑った。

「あたいは猪々子だ」
「私は斗詩」
「ん、これからもよろしく。今回の戦が終われば全てのカタを付けられる。だから……」

 黒瞳が揺れ、唇が僅かに歪んだ。
 昏く見えるような笑みを、斗詩は一生忘れる事が無いだろう。
 真っ直ぐに射られた視線は、斗詩にだけであった。昏い暗い、冷たくて残酷な瞳は、斗詩の笑顔を凍りつかせた。

「余計な事は、しないで?」

 さっきまでと話す声音は同じ。場の空気も穏やかなまま。張りつめる事も無いはず。なのにその言葉が、斗詩の胸に突き刺さった。
 何処まで読み取られているのか分からない恐怖が押し寄せ、懺悔を思わず零してしまいそうになった。

「じゃあ頭使うのは夕に任せる。あたいは目一杯楽しんで戦うだけだ」

 猪々子は真名を許された嬉しさからか気付いていない。声が遠くに感じた。黒の上、黄金の瞳が斗詩の方を向く。聡い彼女が斗詩の所作に気付かぬはずもない。
 探るような視線を向けられて、どっちだ、と瞬時に思考を回す。
 此処で洗いざらい吐けばいいのか、それとも黙って何も言わずに言われた通りに動けばいいのか……黒い少女を見やると、指を口に当てて、直ぐに離した。

――何も……言うなってこと? 田ちゃんは、何処まで予測してて、何を考えてるの?

「うん、大丈夫」

 短い返答しか出て来なかった。明の雰囲気が僅かに変わるが、夕が甘えた視線を上に向けた事で落ち着いた。

「じゃあ、またな!」
「ん、また。斗詩、猪々子」
「いってらっしゃい」

 斗詩だけは微笑みを返しただけで、天幕の外に出て行った。
 しん、と静まり返った幕内で、夕と明は視線を合わせた。
 誰かを切り捨てる時に浮かぶ冷たい金色の輝きと、誰かを思いやる時に浮かぶ甘い黒の色彩。

「やっぱりなんか隠してるね、あいつ」
「気にしないでいい。裏切る事はない。大体の予想はついてる……だから信じてあげたらいい」
「……夕がそう言うなら」

 ふっと息をついて、夕は膝の上でくるりと器用に身体を回転させ、明を抱きしめた。
 温もりが伝わる。愛しい愛しい温もりが。共依存の二人には、切っては放せぬ大切な体温。

「ゆっくりでいい。私以外の人を信じる事も覚えて。あなたに呪いを掛けてあげる」

 合わされた黒に、明の目線がブレた。思いやりと、慈愛と、優しい色。大事な大事な宝物が一番愛しいと感じる時の色。

「私が真名を預けた人達は、私の望む世界を作るのに必要な人達。だから、殺しちゃダメ、ね?」

 疑わしきは殺せばいい。それが明の考え方である。夕が望むなら、殺すことは出来ない。
 間違いなく呪いであり、彼女の願い。それを壊す事だけは、明はしない。

「分かった。夕が殺せって言わない限り殺さないよ」

 いい子、と言って口付けを落とした。甘い、甘い口付けだった。
 人を信じられない狂った少女をどうか助けられるように。そんな願いを込めて、自分の心を分け与えるような……そんな口付けだった。

 一人の少女は、彼女の存在を確かめながら……ぽつりと、斗詩の問いかけに対する本当の答えを呟いていた。

――戻りたいなんて思わない。例え自分が幸せになれるとしても、大切なモノと過ごしたこの時間は、嘘にしてしまいたくない。





 †





 高い金属音が鳴り響く。天にまで届こうかというその音は、聞く者の耳を突き刺した。

「……もう一度だ」

 黒髪の麗人は肩に大剣を構え、空いた片手で地に伏せる美女に挑発を一つ。
 細い剣を地に突き立て、美女は笑う。両の眼に宿る光は獣の如く、轟々と燃える炎が幻視されるほど。
 ググッと立ち上がり、秋蘭は片手で剣を構えた。だらり、と垂れ下がったもう一方の手は、武器を握れるはずもない。

「はぁぁぁっ!」

 裂帛の気合。剣を扱う武人より劣り、兵士よりは速く強い一閃……のはずが、兵士にすら劣る一撃になっていた。
 誰が見ても、春蘭に向けるには足りえない剣戟。振るのが遅れても、春蘭は動じない。遅れたまま、秋蘭の剣戟よりも速く強い一閃を斜めに叩きおろし、彼女の手から武器を弾き落とした。
 そうして、よろけた所を横合いから蹴り、転がす。また秋蘭は泥に塗れた。

「ふん……もう一度だ」

 凪か、沙和か、真桜か……優しい彼女達の内の誰かが口を開こうとした。いや、同時だったのかもしれない。
 されども……

「こういう時は黙って見とり。春蘭の為にも、秋蘭の為にもならへんで」

 霞の一言、厳しい声に圧されて何も言えなくなった。
 もう打ち倒された数は三十を越える。それでも秋蘭は立ち上がり、怪我をしているにも関わらず姉に挑まされ続けていた。
 弓は持てない、弩も使わせて貰えない、剣など持てるはずもない。そんな状態で、もう一度、もう一度、と。

「ぐっ!」

 また、秋蘭が引き倒された。立とうにも力が入らず、地に伏してもがく。足掻いても足掻いても、春蘭は見るだけでなんら手助けなどしない。

「どうした? 華琳様の為に戦っているのだろう? なら、もう一度だ。私を倒すまで、何度でも、何度でも、な」

 冷たい声には一切の感情が含まれておらず、其処には、華琳の敵を打ち砕く武の大剣がいた。
 立ち上がろうとして、膝が折れた。剣を杖として立とうとしても、片手では出来なかった。

「立て」

 つかつかと歩み寄る春蘭の言葉は鋭い。
 もがいても、足掻いても、秋蘭は立ち上がれない。

「立てっ」

 苛立ちからか、眉間に皺が寄っていた。
 上から降ってくる怒声に、笑みを深めても立ち上がれない。

「立てっ! 夏候妙才っ!」

 グイ、と胸倉を掴みあげられ、無理やり身体を上げられた。
 震える脚で、震える膝で、どうにか秋蘭は立った。

「姉者……」

 秋蘭は笑っていた……泣きながら笑っていた。
 何も語らず、言わずの二人。そのまま彼女達は互いに目を合わせるだけであった。

 幾分、離れた所で見やっていた霞に疑問が向けられる。

「どうして……春蘭様はあのような事を?」

 凪が苦々しげに問いかけ、一つ吐息を吐いた霞は歯を見せて笑う。

「ははっ、分からんか。重さとやり方の違いや」
「重さとやり方?」
「せや。秋蘭があのクソ女と一騎打ちしたんやろ? なら下手し死んどったで。たまたま目的が違ったから殺されへんだだけや。
 華琳の為にー、て言うけど……今回はそれで秋蘭が死んでたら意味あらへん。それにな、負け戦で生き様を証明するもんでも、主に命じられたわけでもあらへんのに、秋蘭は欲を優先しよった。それのどこが華琳の為になるんや……って春蘭は怒っとるわけやな」

 そんな事の為にあそこまで……と言い掛けて、三人共が口を噤んだ。
 自分達には分からないナニカがある。そう読み取って。

「って、ウチは思うとるんやけど、秋斗はどう思う?」

 じっと何も話さず、ただ春蘭と秋蘭のやり取りを見ていた秋斗に、霞が楽しげに問いかけた。

「……同意かな。許緒が怒ったらしいけど、元譲が元譲のやり方で妙才に突き付けないとダメだと思ったんだろ。二人には二人の絆があるだろうし好きにやらせればいいさ。
 重さってのは命の重さ、名の重さ、向けられる想いの重さ……いろんなもんがあるんだろうけど、曹操殿の為を想うなら、妙才が死ぬ方が問題だった。やり方は……多分あれじゃないか? 霞と元譲の一騎打ち、それが燻ってたんだろ」
「せやな。双子言うても力も武器もちゃう。やり方もちゃう。それでも姉と並び立つには、一騎打ちで自分も華琳の為になる人材を捕えたかった。意地張って譲れへんかった。くくっ、秋蘭も春蘭やらウチと同じで、根っこの方はバカや、バカ」

 楽しげに語る霞に、秋斗は眉根を寄せた。

「元譲と妙才だからこそ起こった事だと思うんだが……他の誰かじゃ起こらんだろ」
「んー、でもウチは秋蘭と似たようなもん経験済みやなぁ」

 感慨深く、霞はほうと息を付いた。思い浮かべるのは一人の友。自分があの時張った意地は、結局自分の為でしかなかった、と。
 凪達はその話に聞き入っていた。霞の眼差しが遠く、誰かを失った想いを映し出していたから。
 殺した存在であるモノが聞いていいものか迷ったが、秋斗はふと、霞に尋ねてみたくなった。

「……どんな気持ちだったよ?」
「押し付けっちゅうか自分勝手ちゅうかそんなんやな。振り返ってみやな気付けへん事やけど。あの時は頭ん中が月の誇りを守る事と華雄の雪辱を晴らす事でいっぱいやったし。でもな、ウチは春蘭のおかげで真っ白になるまで戦えた。そんでもってその後に、部隊のバカもん共のおかげで華雄と一緒に戦ってたウチを思い出せた。あん時気付けたウチは、恵まれてたんちゃうかな」

 そう言って霞は目を瞑る。頬が少し緩んでいた。胸に手を当てると、あの時の高揚感が思い出せた。
 肉を打つ音が響いた。春蘭が秋蘭の頬を打ったのだろう、と霞は思った。
 次に泣き叫ぶ声が聴こえた。すまない、ありがとう……と零すモノは、少し、羨ましく感じた。

――華雄も、あんな風にウチを怒ってくれたんやろか? いや、どてっぱらに一発、きついのくれるか。そんで……酒やな、にししっ。

 猫のような笑みを浮かべて、豪快な彼女を思い出す。
 死んだ人間の事は分からない。自分の中にある人でしか分からない。でも……思い出を共有するモノが幾人も居たのなら、曖昧なカタチが少しだけはっきりとする気がした。
 月と詠に再び出会えたから、霞はもう誰も憎んでいない。大嫌いだが、明の事も割り切れていた。

「自分勝手、か。じゃあ……」

 小さく声が漏れるも、先に続く言葉は零されなかった。
 目を開いた霞が訝しげに見つめるも、横目で見た秋斗はいつものように苦笑するだけ。

「どしたん?」
「ん、いや、なんでもない。それにしても……あいつらは羨ましいな」

 クイと顎で示された先には、楽しそうに笑う春蘭と秋蘭が居た。
 微笑んでいるはずなのに、秋斗の表情は寂しげに見えた。何を考えているのか、とは霞もこれ以上問わず、

「ま、なんやわからんけど辛ぅなったら言いや。
 しゅーんらーん! 次はウチとしようやぁ!」

 にしし、とまた猫っぽく笑ってから駆けだした。凪達も秋蘭への心配が溢れたのか、その背を追う。
 微笑みを浮かべたまま、彼は目を瞑った。

――俺は自分勝手で構わない。それでも笑ってほしい人が居る。

 憎んでくれていい、怨んでくれていい、それでも生きて欲しい人達が居る……月に生きてくれと懇願したのは、そんな想いから。
 こんなマガイモノの命で平穏な世を作れるのなら、世界を捻じ曲げる大嘘つきになってやろう……記憶が消えてしまったのは、そんな弱さを貫いたから。

「……黒麒麟はやっぱり俺と同じだよ。お前さんらが羨ましくて、皆が生き残って欲しくて仕方ない」

 押し付けだろう。傲慢で愚かしい。
 空を見上げると、蒼天が広がっていた。

「だってさ……一回死んじまってんだ」

 宙に溶けた呟きを聞いたモノは居ない。泣きそうな声で、哀しい声だった。

――……一度きりの人生を謳歌してる人達の為に願いを映してたのが黒麒麟なら、皆の心を映す空のようなモノだったらいいなぁ……

 心の中だけで呟いて、彼は楽しげに笑う彼女達から目を切り、一人背を向けて歩き出した。
 嘗ての自分と同じ願いを胸に宿して。

















 回顧録 ~オワラヌサイエンノハテハ~



 一度目は戦で死んだ。

 二度目も戦で死んだ。

 三度目は暗殺された。

 四度目は行方不明になった。

 五度目も戦で死んだ。

 六度目も戦で死んだ。


 どんな手立てを打とうとも

 どれだけ頑強に構えようとも

 彼女だけが助からない。

 まるで死の運命からは逃れられぬと、世界が嘲笑うかのよう。

 心が折れかけた。それでも、彼女の幸せが欲しかった。

 七度目、初めて他の子が死んだ。彼女は生き残った。ただ、最後の戦でやはり死んでしまった。

 他の子が死んだのだ。その事実が、彼女を失う時の哀しみよりも薄く感じた。

 もう自分は、きっと壊れているのだろう。

 大切な友のはずなのに、心を占める容量が足りなくなっていた。

 涙は出た。哀しくもあった。なのに彼女を助けられなかった時の方が死にそうになった。


 ホカノタイセツナダレカヲギセイニシテモ


 しかし、この線を越えてはならない……そう心に誓った。


 カノジョガスクワレレバソレデイイ


 ダメだ。ダメだ。ダメだ。ダメだ。ダメだ。ダメだ。ダメだ。ダメだ。

 脳髄を甘く麻痺させる欲求が

 快感を伴って全身を駆け巡る。

 気付いてしまった事実

 次の世界でやってみようなんて……そんなバカな事をしていいはずがない。

 出来る限り一人でも多くを助けて

 一人でも多くと、彼女との幸せを掴むのだ。

 そうでなければ……自分は何の為に戦っている?


 八度目、無意識の発露か、また他の子が死んだ。やはり彼女は生き残った。でも最後の戦でまた死んでしまった。

 もう少し

 もう少しだった。

 なのに何故、あんな所で……

 二回とも紅い髪をした鬼に殺された。

 誰も敵う事のない武を持つ彼女に殺された。

 仲間になった時もあったのに、優しい子なのに、敵になるとあんなに恐ろしい。


 九度目、やはり誰かを犠牲にしないと彼女はあの戦から後、生き残れない。

 それが分かると、自分の心は壊れてしまった。

 彼女の遺体の前で、涙さえ零れなかった。

 虚無感と絶望感とが綯い交ぜになり、昏い願望が次々と湧き出してくる。

 耐えられなかった。

 耐えられるわけなかった。

 憎しみなど無かった。

 敵も知っている。

 味方も知っている。

 誰も彼も知っている。

 知り合いとばかり殺し合う。

 同じ顔、同じ声、同じ性格

 どうしてそんな優しい人達と殺し合わなければならないのか。

 曖昧に溶けて消えてしまいそうな自己認識を繋ぎ止めるのは

 たった一つ、彼女の笑顔だけ。自分にはもう、それしかなかった。

 強欲の果てに、彼女が救われる事だけを望んでいた。


 ホラ、カノジョヲスクウホウホウヲ、ジブンダケハシッテイタ


 忘れていたのではない。

 ずっと思考から外していたのだ。

 見ない振りをしていたのだ。

 仲間が大切になってしまったから

 友が大切になってしまったから

 彼女達を切り捨てる事を頭の中から放棄していたのだ。

 気付いてしまえば簡単な事だった。

 そう……こんな場所、捨ててしまえばいい。

 後で仲間に出来るのなら、捨ててしまえばいいのだ。

 もしかしたらそうかもしれない、いや、そうに違いない

 この終わらぬ再演を抜け出すには

 あの忌まわしい戦で、この場所を捨ててしまえば彼女は救われるのかもしれない。

 だから……今度こそは……



 十度目、彼女は死ななかった。



 忌まわしい、最悪の、抗い切れない運命。

 予定調和の道筋を捻じ曲げ続けたのに

 予定調和に従えば救われるとはなんたる皮肉か

 無駄な事をしていたのかもしれない。自分だけは、初めから彼女がどうなるか知っていたのだから。



 忌まわしい“官渡の戦い”を越えて……彼女と自分は生き残った。

 乱世の果てに、確かに生き残れた。






 大事だったはずの袁家を、生贄に捧げて

 大切だったはずの友達三人を殺し尽くして

 こんなモノが、望んだ幸せだったのか。

 愚かしい自分は、彼女が生きているだけで幸せだった。






 それでもやはりこの世界は

 残酷でしかなかったらしい。

 
 

 
後書き
読んで頂きありがとうございます。

話末ストーリーの名を決めかねていたのですが、回顧録とする事に致しました。
回顧録は誰の話でしょうか。


今回は官渡前軍議と曹操軍のちょっとした出来事。
次は官渡の戦い第一幕です。袁家は攻城兵器を準備中。袁家なら考えつく範囲のモノです。

ではまた 
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