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乱世の確率事象改変

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籠の鳥は羽ばたけず、鳳は羽ばたくも休まらず

 窓から斜陽が差し込み、食べきった皿がきらきらと白く輝く。
 食事の合間、一言も話す事無く、ただ黙々と、七乃と雛里の二人は料理を口に運んでいた。
 舌鼓を打つ程おいしいはずなのに、まるで紙を食べているかのように味気なく感じられ、勿体ないな、と思ったのは……どんな事に対しても無駄が嫌いな七乃。
 対して、雛里は表情を綻ばせて、細やかに出された幾多の料理一つ一つを噛みしめて食べていた。

――はんばぁぐも、おむらいすも、鮭のむにえるも……やっぱりおいしい。

 愛しい彼が伝えた料理である。この店で再び食べられる日を、どれほど心待ちにしていた事か。彼が居たという証明を思い出以外で感じられて、雛里はただ、幸せだった。
 しかし……最後に出てきた甘味を見て、一瞬だけ表情が曇る。うるうると潤ませた瞳は悲哀から。目を瞑って、どうにか零さないようにと堪えた。
 そしてその甘味を見た七乃も同様に、ニコニコ笑顔がわずかに崩れた。彼女の主が、その甘味を好きになったのは記憶に新しい。
 艶やかなメイプルシロップで彩られた小さなホットケーキ。思い出は二人共の中にあった。
 もふもふと食べる間も言葉は発されず、食べ終わった頃に、かちゃり、と食器を置いて果実水で口を潤す。

「ごちそうさまでした」
「御馳走様でした」

 きゅっと御手拭きで口を一拭い。ほう、と息を付いたのはどちらも同じく。
 後ろの兵士達は無言なれど……ビシリ、と張りつめた場の空気の変化を敏感に感じ取った。

「まず一つお聞きしてもいいですか?」
「……どうぞ」

 先に口を開いたのは七乃。緩い吐息を吐き出して、翡翠の双眸に視線を重ねる。

「どうやってこの街に忍び込みました?」

 実の所、七乃は曹操軍が北上してきている事は知っていた。対応に軍を動かしても良かったが、官渡との連携上、そして夕の指示があったから、まだしていなかっただけである。
 そんな中、雛里がこの街に来たという情報は入っていなかった。七乃が子飼いにしている草の監視の目を掻い潜って入り込むのは……容易では無いというのに。

「……何時、とは聞かないんですね」

 教えるつもりは無いらしく、雛里は話をずらして答えを言わない。
 なるほど、と七乃は一つ頷く。
 協力者無くしては監視を潜り抜ける事など出来ない。それを教えてそのモノがどうなるか等、誰でも予想出来る。殺すだけだ。民であれなんであれ、袁家の敵なのだから。
 後で調べよう、と思考を切り替えてまた少女を見つめる。

 通常ならば、敵軍からの使者というからには手順を踏んで堂々と面会するモノ。しかし雛里はそうしなかった。
 文を内密に送ってわざわざ七乃だけを……絶対に情報が漏れないこの店に呼び出した。その狙いは……たった一つ、袁家の耳を気にせずに七乃と話したい事があるからで間違いない。

「手紙、読んで頂けましたか?」

 極寒の冬を思わせる冷気を纏った瞳で、今度は雛里が問いかけた。
 その内容を思い出して、七乃の心にはじわりと憎しみが溢れ出すも表情は崩さず、せめてもの意趣返しとしてニコニコと見つめるだけに留める。
 送られた手紙にはこう書いてあった。

『鳥は片翼では飛べず、千切れた羽は日輪の業火に焼かれるであろう』

 時間と場所の指定はその言葉の後に付いていた。
 七乃は自分からは話してやらない。そちらが誘ったのだから何がしたいのか先に話せ、と笑みだけで促していた。

「……袁術さん、何処に居られるんでしょうか。行方不明との噂が立っているようですが」

 既にこの街でも美羽の行方不明は噂にはなっている。自分だけ逃げたのか、と悪意溢れるカタチで、この街の民がそこかしこで話込んでいる。
 白々しい……と感じながらも、七乃は悲壮に顔を歪ませてみせた。

「姫様の行方は未だ判明していません……私も全力で捜索していますが、何分この地は荒れてしまっていて……思う様に手が回らなくて」
「そうですか……それは“お気の毒に”」
「……」

 咄嗟に、激発しそうになった心を、七乃はどうにか抑え込んだ。

――焦ったら負け。どの程度知られてるかを見極めなければ、姫様の命を繋ぐ事は出来ないんですから。

 ばれている訳がない、何より……こちらは全て独断で行ったのだから、外部にいながらこんな異質な一手を読み取られるはずもない……七乃の心はそんなところ。
 じっと見つめてくる翡翠の瞳には、じわりと昏い輝きが宿っていた。

「では、話を変えて……本題に入りますね」

 急な話題転換が何を以ってかは七乃も分かっている。
 美羽の居所を思い起こさせて、事前に脅し掛けているのだ。自分たちは全く知らない振りをしながら。腹の探り合いは数多の駆け引きを混ぜ込まなければ意味がない。

「かの徐州大乱に於いて、あなた方は我が軍と孫策軍に敗北、逃走。そのまま幽州に駐屯し、袁術さんと共に内部の制圧に重点を置いていたと思います。
 ただ、袁家の手段は聞いてますよ……袁術さんを人質に取られそうになっているのではないですか? そしてそのカタチだけの人質がどういったモノかを、あなたも理解しているかと」

 つらつらと説明を並べ立てられ、七乃は自嘲の笑いを零しそうになった。

 自分も与して孫家に強いた人質の策は、今の七乃にも同じように上の命によって下された。
 ただ、美羽の場合は孫家の時とは話が違う。
 既に敗北した名家の跡取りに……なんの価値があろうか。
 麗羽が負けた場合、本来なら次の後継として最有力であったが、負けてしまえば次の相続者になどなれるわけも無く、他の血縁者に見下されながら日陰で生活するくらいしか未来が無い。名声の劣った血族が虐げられるは言うに及ばず、政略の駒としても扱い辛く、些か手に余る。
 妾以下の位置に置かれて予備の存在にでも召されれば上出来で、偏った趣味の豪族の慰み者になるなら悪い方の展開。しかし一番酷いのは……敗北した袁術軍の兵達や戦に向かった袁紹軍の兵に対して、士気を上げる為の八つ当たり先……言うなれば、官渡での戦中や戦後のあらゆる欲望や怨嗟のはけ口に置かれて使い捨てられる事だ。袁家が合併したのだから、美羽の存在価値はあらゆる意味で低い。
 美羽の見た目は美しい。少女であろうと、喰らう男は居る。否、性別が女であればそれでいい……なんて考えが命の掛かっている戦場前の極限状態ではありきたり。それほど戦場は悍ましいモノで、士気を上げるというのは大切な事だ。離反する兵が出ないように、敗北の責任を押し付ける理不尽な怒りのはけ口にでも出来たら儲けもの。人の中に潜むケダモノは、一度解き放たれれば抑えが効かない。
 敗北後ならば、責を取らされて首が飛ぶだけならまだ可愛らしい。名を奪われ、貞操を蹂躙され、散々どこの誰とも知らぬ者達に獣欲のはけ口として使い回された後で路地裏に放り出されるか、責を取らされて殺されるか、二束三文で娼館等に売り飛ばされるか……それらの可能性も無きにしも非ず。
 袁家は少しでも多くの利を求めるだけであるが、正道外道問わず道筋を吟味した上で判断出来るモノ達が、居る。
 七乃のように、一国を回す程の手腕があれば良かった。利潤を生みだし続ける才があれば良かった。しかし美羽には……それが無い。
 美しいだけのお飾り太守。わがままも多いが扱いやすいお人形。邪な部下にとっては、この上なく甘い蜜を吸いやすい存在。
 蝶よ花よと育ててきた七乃や限られた忠臣達だけが宝として今も扱っているだけであるのだから、美羽の未来は臣下達が名誉挽回しない限り暗くなる。その合間にどんな扱いを受けるかと考えれば……七乃が袁家に従わないのも当然であった。

 七乃はまだ答えを返さず、ニコニコと笑み続けていた。
 雛里の警戒が一つ高まる。この目の前の女には、決して気を許してはいけない、と。

「ふふっ♪ どちらにしろ姫様の居場所は無いですよねぇ?」

 続きを語る前に、七乃が差し込む。
 何処に、とは言わずとも理解出来た。

 離反、裏切りの類は確かに出来る。しかし曹操軍にも美羽の居場所は無い。
 徐州を攻めたのは自分達だから、頸を刎ねなければもう収まらないのだろう? そう、言い含めていた。
 駆け引きの一手は鋭く、探りを入れても居る。笑顔の裏側を覗き込めて、ぞわり、と雛里の背中に寒気が走った。

――やっぱりこの人は頭がいい。使い方が一人の為だけだから分かりにくいけど、袁術さんの代わりに揚州を纏めていただけはある。

 彼女は今の自分と何も変わらない。全てを敵に回しても、たった一人が幸せであればいいという異端者。
 どうすれば七乃が動くかを考えると、所在が分からないままでは話にならない……が、ここからが雛里にとっての本番であった。

「この店……いい店ですよね」

 不意にすり替えられた全く関係の無い話題。七乃の様子は、何も変わらない。

「建業にも支店を建てるそうです。いずれは大陸の主要都市全てに展開する、と意気込んでいらっしゃるそうで」
「らしいですね。何処でもこの店の料理が食べられるのは私も嬉しい……でも、他の店に此処の料理が真似され始めているって聞いてますよぉ?」
「仕方ないことでしょう。それほどこの店の料理は珍しい。ただ、味までは真似出来ませんし、一番初めに売り出したという事実がありますから……娘娘自体が廃れる事はないかと」

 日常会話のようであるのに、ピリ……と少しだけ空気が張りつめた。
 話の筋をずらそうとした事が分かって、雛里は僅かに表情を緩める。

「短い人生でこんな料理が食べられるなんて、いい巡り合わせですよねぇ♪ そんな始まりに居合わせられた私達は――――」
「情報の秘匿性が抜群で、権力からの介入は入りにくく、他勢力の細作や間諜でさえ忍び込めない……本当に、凄い店です」

 言い終わらない内に雛里が被せ、七乃の口角が僅かに動いた。
 無理やりにも程がある話の戻し方ではあるが、逃げる事など出来るはずもない。

「……何が、言いたいんですか?」
「いえ、我が主さえ足繁く運ぶお店ですし、この店の良い所を話してるだけですよ?」

 ギュ、と音がした。慎ましく膝の上に於いた七乃の両の拳から。
 あからさまに空気が張りつめた。兵達の気が引き締まり、剣呑な雰囲気が場を満たし始める。

「袁家は……いえ、田豊さんは、次に誰を切り捨てるんでしょうね」

 そこでまた、雛里が話を変えた。優しく、されども冷たく微笑みながら。

――ああ、ダメだ……。私が夕ちゃんさえ信用してないのも、予想の内なんだ。

 心の中で七乃は呟く。もう、この目の前のモノには全てがバレているのだと、その一言で確信した。
 ニコニコと笑顔を浮かべていた七乃の表情が……ついに崩れた。冷たい冷たい、袁家の半分を動かしていた影のモノに。
 彼女の大切なモノはたった一つ。大事な宝物が生き残る為ならば、世界の全てを敵に回しても構わない。
 身の芯まで凍るような声音で、七乃が言葉を紡ぐ。

「……欲しいモノはなんですか?」

 昏い瞳に見据えられて、雛里は可愛らしく声を上げて小さく笑った。これで漸く、本格的な交渉が出来る、と。

「……袁術軍を影で支えてきた張勲の使えるモノ、その全てを下さい。あなたが“娘娘二号店に逃がした”袁公路の命を対価に」




 †




 活気溢れる店内にて、一人の少女がわたわたと動いていた。
 二つに結った金髪を跳ねさせて、給仕服に身を包んだ彼女が零さないように皿を運んでいく。必死に汗を流す彼女は、今日も今日とてお客の為に。
 客の皆は微笑ましく笑顔を向け、以前働いていた白髪に藍を混ぜた髪の少女を思い出す。幼い見た目の少女が働く姿は、やはり微笑ましいらしい。

「“みゅう”ちゃーん! 休憩だってー!」
「了解なのじゃ!」

 共に働く給仕から声を掛けられて、彼女はとてとてと休憩室に向かっていく。
 みゅう、と呼ばれた彼女は、体力が無いのか階段を上るのも必死な様子。やっと着いた休憩室で、今回一緒の休憩を取っている女性の前の椅子に腰を下ろした。

「どう? そろそろ七日くらいになるけど、此処の生活にも慣れた?」
「……」

 先程まで元気な声を上げてはいたが、それは客の前であればこそ。今の少女は、落ち込んだ顔で言葉を紡ぐ事すらしなかった。
 ふぅ、と息を一つ付いて、女性は魔法瓶からお茶を入れて行く。
 少女の目の前に湯飲みを置き、同時に“メイプルシロップ”で味付けを施してあるお菓子を出した。

「店長が受け入れたんだから何も聞かないけど、私は元気なみゅうちゃんが好きだなー」
「……」
「ほら、店長の料理は皆の笑顔を作る料理だし、食べて食べてっ」
「……」

 給仕が何を言っても糠に釘。返してくれる言葉は一つも無かった。
 ただ、お菓子だけは食べるようで、少女は黙々とそれを口に運んでいく。
 またため息を一つ。何か元気を出して貰ういい手は無いモノか、と給仕が考えた所で、休憩室の扉が二回、音を立てた。
 途端に、緊張した面持ちになったのは金髪の少女。

「はーい……って、店長? どうしたんですか?」

 入ってきたのは娘娘の二号店で厨房を司る給仕たちの憧れ、この店の店長そので人であった。
 カチコチと固まった少女は何も話さず、赤いバンダナを巻いた店長を見つめるだけ。

「いえ、私も休憩をと思いまして。あと、少しこの子を連れて行きますよ」
「……? 分かりました。あ、みゅうちゃん、お菓子持って行っていいからね」

 本人に確認もせず、少女に手招きを一つした店長は、給仕から言われずともお菓子の入れ物を机から持ち上げて扉に向かう。
 怯えたそぶりで後を追う少女の表情は……ただ暗かった。
 奥の奥、上客が来なければ使用しない部屋が五つ。その中から、店長は“麒麟の間”を選んで少女を中に誘った。
 少女が椅子に座るのを見てから、コトリ……と机にお菓子が置かれる。対面に座して、店長は大きく疲れた息を零した。

「そう怯えないでください。別に取って食おうってわけでは無いですから」
「……」

 びくっ、と肩を跳ねさせた少女を横目で確認しながら、店長は頭からバンダナをするりと外した。

「余り……というか心底好きでは無いですよ、こういうやり方は。まさかあなたの正体が……噂に聞く袁術だとは思いませんでした」

 細められた目は鋭く、普段の優しい店長のモノではない。
 少女――――美羽は顔を絶望に堕ち込ませ、冷や汗を流しながら首を思いっ切り左右に振り始めた。

「な、なな、何を言っておるのじゃ!? 妾は袁術などでは、決してない!」

 必死で否定する姿に、疲れたような表情を浮かべて、店長はまた大きなため息をついた。

「そう大きな声を出さないでください。他の子達にバレてしまいますよ?」

 言うと、少女はすぐさま口を両手で塞ぐ。
 肯定していると同じであろうに、と呆れ返るも、その仕草が誰かと被って見えて、店長は眉根を寄せた。心に湧き立つのは、昏い暗い怨嗟と怒り。

――直ぐに放り出してしまってもいいんですけどねぇ……

 店長は武人でも無ければ、憎しみを飲み下せる月のような王でも無い。ただの料理人であり、この店の主である。周りのモノには勘違いされがちだが、決して優しいだけでは無い。人を憎みもするし、恨みもする。例え少女の見た目であろうと、寛大な心を以って接するのは……秋斗や白蓮達に何があったかを思うと到底無理な話。
 何より、この店の存続が危うくなるのならば、何かしら切り捨てなければならない事もある。店長にとって娘娘という店は、白蓮にとっての幽州と同質であるのだから。
 店の為にだけは冷徹な王の如くなるとしても、友に対しては普通の人。それが店長であった。
 有名な店であるのだから名を大事にしなければならないのは言うまでも無く。その店に、敵対国の重要人物が匿われていたとなればどうなるのか。

 店長の一番嫌う策を七乃は仕掛けた。いや、美羽の身を危険に晒してしまわなければならない程の状況に追い詰められていた、と言い変えよう。
 どう足掻いても美羽の身柄は袁家の大本に送らざるを得なかったのだ。
 一度の敗北が全てを壊す。信用や信頼は作るのは難しいくせに、壊れるのは一瞬である。
 何よりも、劉表の動きが……袁家にとっては最悪過ぎた。
 帝に弓を引く大罪人の家柄。官渡の戦を押し通した側としては、勝てなければもう後が無い。
 ではあっても、家の存続だけを望むのならば抜け道は少なくも存在する。
 洛陽で雪蓮が帝に示したように、責の所在は当主とその臣下達にこそある、と全てをなすりつける事で、袁家自体は存続が可能なのだ。そういう常識が今の大陸では出来上がってしまっているというよりかは、袁家が幅広く抜け道を用意しているだけ。
 その為に郭図は事前準備を怠らず、上層部と深く繋がっているのだが……やはり麗羽の首だけでは足りない。
 よって、袁家側としては、イロイロと対策の為に美羽の身柄を手元に置きたいのは必然。どんな手を使おうとも、美羽と七乃を引きはがしたであろう。
 七乃はそれを読み切って、隠ぺいした上で何処かに逃がすしかなかったのだ。

 そうして選んだ場所が此処、娘娘の二号店。
 敵領地のど真ん中に送るという、あり得ない決断。七乃の美羽に対する溺愛振りを知っていれば知っている程、思考の中から外されるはずの策であった。
 もう一つ、情報を何よりも大切にする七乃ならではの策も盛り込まれている。
 今、この街には覇王が居ない。軍も居ない。区画警備隊ですら、軍が居ない間は仕事がさらに忙しい。
 栄えているという事は人が集まる。なら、そこに不審なモノが混じっていても……気付かれにくい。
 その事から、七乃は店長に対して暗にこう言っている。

『この少女に何かあったなら、店にとっても街にとっても、最悪の事態を起こせるが、如何に』

 商売人はバカでは出来ない。名店に育て上げるには並の軍師以上に利害を計算しなければならない。
 店長の頭の良さと曹操軍との関わりを理解した上で、七乃は脅しを掛けているのだ。
 たった一人が生き残る為に全てを巻き込む彼女は、他の命がどれだけ死のうが、悪辣や外道と言われようが気にしない。
 店長は揚州での政治の噂は耳に挟んでいる。何より、洛陽大火の本当の原因も親しいモノ達から聞いて知っている。だから、七乃達袁家がこの街を燃やすのも考えているのではないかと訝しんでいた。
 疑念は一つ与えるだけで策となる。ましてや、この街全ての利害を自分の行動如何で左右するのは……高級料理店の店主如きの手には負えない。

 店長と美羽の再会はついこの間。
 建業の街の視察の時に関わった豪著な服に身を包んでいたどこぞの豪族の娘と思われる少女が、みすぼらしい姿で老年の男に連れられて来た。
 厄介事だとは思ったが、戦乱の世ならば没落など日常茶飯事。客引きをしてくれたという個人的な恩もあるし、雇う事にした。此処が難民の受け入れにもある程度寛容であると伝えれば、老年の男は残してきた家族を連れてくると出て行って……それっきり。
 前に会った時に一緒に居た付き人の存在を聞いてみるが泣くばかり。漸く零す言葉は、行く所も帰る所も無い、とだけ。
 しかしその言葉が、店長の胸に突き刺さるは当然であろう。大切な友達は……家を失ってしまったのだから。
 だからこそ、せめて働けるようにと基礎教育をしながらの給仕生活に出し始めて数日。店長は店に来た軍の伝令より、美羽の本当の名を知る事となった。
 雇った手前、もはや手遅れ。
 華琳に対しても不義を取るカタチに持って行かれてしまった。
 こういった政治政略に店を巻き込まれるという事に……心底、店長はうんざりしていたというのに。
 思考放棄してしまいたい所をどうにか繋ぎ止めて、美羽と直接話す事を決めたのだ。

 見れば、ボロボロと涙を零して、ずっと口を手で押えている。心は痛むが、同時にこの少女と後ろで糸を引く女に殺意も湧いていた。
 ただ……店長には軍の伝令から、否、雛里と桂花から一つの策を授かっていた。

「……あなたの後ろに居るのは、張勲、でしたか。その人は何を望んでいますか?」

 穏やかに聞こえるが怒りの見え隠れする声音に、美羽は言葉を紡げない。
 怖くて仕方なかった。此処には誰も知り合いがいない。ずっと一緒に居た七乃すらいない。美羽は初めて、孤独に晒されているのだ。
 美羽の頭はそれほど良くないが、それでも名家の跡取りとしての常識は知っている。
 小蓮が人質として送られた事も当然と受け入れ、その上で仲良くなろうと思う程だ。自分が人質になるのも、説明されれば納得出来るし予想出来た。
 だから、七乃が此処に逃がしたのは自分の為だと分かっている。分かっているのだが……やはり怖い。
 こうするしかないんです……と、涙ながらに見送った腹心の顔を思い出すと心が痛む。泣き喚いてもどうしようもなかった馬車の中で、忠義を以って此処に送ってくれた老臣を思い出せばまた泣きそうになる。
 建業で共に過ごしていた友達を一寸だけ思い出した。
 本当の意味で籠の中の鳥だったのは、小蓮ではなく自分。名家の跡取りとして外の世界を知らずに生きていたのだから、空の飛び方など知るはずも無い。故に、彼女は皆に願われた事だけを、口から出した。

「わ、妾が……生きる、ことじゃ」

 嗚呼、と店長は息を吐いて額に手を当て、顔を顰めた。
 臣下は何よりも主が生きる事を望んでいる。それがどれだけ……あの地に住まう者達と同じであるのか理解してもいる。
 だが、手が震えて仕方ない。机に叩きつけてやりたくなった。理不尽に怒鳴り散らしてやりたかった。

――あなた方袁家のせいで、どれだけあの優しい方々が傷ついた事か……。

 もうあの時間は戻ってこない。
 夜半過ぎまでふらふらになりながら会合をする甘くて優しい王。酒と悪戯が大好きで、主であろうと友達のように接する武将。いつもいつもそばに侍って、怒られても笑顔で付いて回っていた腹心。
 一人が死んだから、もう二度と手に入らない。あの地を取り戻しても、二度と戻っては来ない。
 そして黒は……壊れてしまった。戻るかどうかも分からない。

――徐晃様の中から……あの楽しい大切な時間が消えてしまった。それがどれだけ、残されたあの二人を傷つけると思っている。

 ギシ、と拳が強く握られた。幾分、血が滴り、ひっ……と美羽から小さな悲鳴が上がる。逃げ出そうと椅子から立ち上がるも、腰が抜けてそのまま床に落ちた。
 見下す視線はまな板の上の鯉を調理するが如く。店長の心には怨嗟が燃えている。それでも、彼はやはり店長であった。

「逃がしませんよ、絶対に……絶対、逃がしてなんかやりません。しかし私はこの店の店長……料理人は、人を幸せにするモノです」

 “料理は人を幸せにする一番の方法なんだ”

 その言葉に、どれだけ救われた事か。人を自分の意思で不幸にするなら、彼はもはや彼に救われた料理人ではなくなってしまう。
 店長は、グイ、と美羽の顎を指で摘まんで顔を上げさせ、無理矢理目を合わさせた。
 細められた目は鋭く、冷たい。

「袁術には“死んで”貰います」

 美羽は目を見開き、どうにか小さく首を振って否を示す。
 一瞬だけ目を逸らした店長は、再び彼女の双眸を射抜いた。

「今より後……あなたは嘗ての知り合いに声を掛けられても、返事をしてはなりません。それが出来なかった時……この手で行う最後の料理をあなたと袁家の残党全てに致しましょう」

 雛里達から与えられた策はそういったモノであった。店長が人を殺す事以外は、であるが。
 一人殺せば覇王に処されるだろう。分かっていても、店長は決めていた。

 少なくとも袁家を怨んで死んでしまった者達にだけ、こいつらを料理として捧げてやろう、と。

 覇王や友達に残せる範囲でのせめてもの譲歩が、店と個人を切り離して責を負う事だった。
 駒として切り捨てられるだけ、とは思っていない。自分の心にも、抑えがたい怨嗟が燃えているが故に。

「あなたはこの店の給仕、名を“みゅう”。袁家は覇王にどうにかして貰いますが、店の給仕を守るのは私の責任。だからあなたには生きて貰います」

 美羽は震えて何も言えない。涙を流すだけでなく、粗相を行い床を汚してしまっていた。
 店長は気付いている。誰かを守る為なら自分が死んでもいいと言い出しただろう、と。短い期間ではあっても雇っている間、美羽は一人ぼっちでも言いつけられていた事を守っていたのだ。店長が人を見抜く目で判断した限りは、大事な何かの為なら折れない気質があるのだと分かった。
 鎖を付けるなら、今。それを間違えてはならない。

「約を違えれば張勲が死にます。あなたが自分で死んでも同じ事。一ついい情報を教えてあげましょう」

 淡々と無表情で語られて、美羽の息が荒くなった。恐怖と絶望の楔が身の内に、徐々に沈められていく。

「幽州には“徐晃隊”が向かいました。一声掛ければ、怒りに燃える鳳凰はあなたの大切なモノを焼き尽くすでしょうね」

 人づてに聞いている袁術軍の絶望の始まりの部隊。数が四倍の軍を一日で壊滅させ、十倍近い伏兵に大打撃を与えた上で将と軍師を生かしきり、袁紹軍筆頭軍師をたった五百の兵数で城から逃げ出させた化け物部隊。
 そんなモノが、袁家を怨むあの幽州の地に向かっている……軍の采配を七乃に任せていた美羽にとっては、何一つ救いが感じられなかった。
 心に沸くのは……もう近しいモノを失いたくないという些細な願い。

「な、七乃は……七乃だけは、助けてたも……なんでも、なんでも言う事を聞く、聞くから……お願い、なのじゃ……」

 声を震わしながら、涙を流しながら、美羽は店長に弱々しい声を発した。
 それを決めるのは店長では無いのだが、店長は言うつもりもなかった。
 張勲を殺すか否かは覇王の頭脳達の判断一つ。無論、戦で負けるなど、店長は欠片も思ってはいない。
 助命嘆願もしない。こちらはこの少女の命を助ける貸しがあるのだから。
 もう十分だ。これ以上は言わずとも態度で示して貰おう。そういうように、美羽の顎から指を外して、店長はバンダナを額に巻き始めた。

「生き抜いて人を幸せにしなさい。私と共に、一生涯掛けて人を救い続けて貰います。血に濡れた喉で歌い続けるあの姉妹達のように、ね。あなたとは呪い呪われの関係になりますから、私の真名を預けておきましょう」

 溜飲は下がるはずも無い。自分の大切なモノが全て傷つけられ、何もかもが壊されそうなのだから。それでも、この少女を生かすしかない。
 同情はせず、しかし彼の想いが少し分かった気がした。
 だからこそ、真名を耳元でぽつりと呟いて、無理矢理に笑顔を浮かべた。人を幸せにする事こそが、店長の幸せのはずなのだから。

「幸せになれ、とは言いませんし言えません。人としての幸せは生きている限り自分で探して見つけるモノです。私の料理で生きている幸せを感じてくれるなら……いいですが。
 さあ、返答や如何に。是ならば……“すまいる”を」

 恐怖と絶望でぐちゃぐちゃになった心を覗き込み、くしゃくしゃと顔を歪めて、美羽はどうにか教えられた通りに微笑んだ。
 娘娘の給仕たるモノ、何時如何なる時も笑顔を……と。

「美羽……じゃ。心の内に、妾の真名をおさめて、くりゃれ」

 コクリと頷いた店長に手を引かれて、震える膝に叱咤して立ち上がり……

「わ、我らが、主人は食事を楽しむ、全てのお方……」

 所々しゃくり上げながら口上を述べる。
 この身全てを、誰かに捧げる為に。もう自分は、嘗ての自分であってはならないのだから、と。

「料理は……あ、愛情。み、皆に、笑顔を」

 袁家の宿命から救い出されても、自由に羽ばたくこと叶わず。
 勝てば助けに来てくれる……そんな事すら、美羽にはもう思えなかった。逃げたいとも、思えなかった。
 袁家が勝てば自分は死ぬ。殺される。それだけは絶対なのだと、店長がぎこちない微笑みの隙間から流した涙を見て理解出来た。
 優しいはずのこの男から大切なモノを奪ったのは自分の血族で、それはもう、戻ってこない。
 笑顔溢れる店を壊しそうなのが自分自身と腹心なら、恨まれるのは当然。
 自分の為に命を賭けてくれたモノ達の想いも、人を幸せにする為に生きる人達の想いも、美羽は無駄にする事など出来なかった。

 こうして、蜂蜜が大好きな女の子は辛く苦しい乱世の舞台から、彼女に生きて欲しいと願う女の思惑通りに、降りる事が出来た。
 自由は与えられず、己が一生を他人に捧げるというカタチで。




 †




 お茶を嚥下する音が終わりの合図。
 誰か一人の為を想い続ける二人には、もう話す事は何も無かった。
 官渡に対する外部戦略は、七乃からすれば二の次。一番大切なモノは守り切れる……目の前の少女が約を守るならば、だが。

「最後に一つ……いいですか?」
「なんなりと」

 交渉事の最中、何一つ感情を表すことなく雛里は微笑んでいた。
 自分と同じに歪んでしまった少女に、七乃は同情などしない。ただ、純粋な興味が湧いていた。

「大切ですか? 黒き大徳、徐公明が」

 瞬間、雛里が片手を横に上げた。
 後ろの兵士の二人が、あらんばかりの殺気を浮かべて七乃に飛びかかろうとした……が、雛里の制止にどうにか立ち止まった。
 袁術軍の兵士は反応したが、その怨嗟溢れる瞳に腰が引けて情けない構えになってしまっていた。

「抑えて……抑えてください。“命令”です」

 噛みしめる歯の隙間から吐息を漏らして、睨みつける目から涙を零して……それでも黒麒麟の身体は雛里の命に従い、元の立ち位置に戻った。
 殺意があった。怨嗟があった。絶望があった。
 欠片も情報を与えてやらないと雛里達は考えていたのに、七乃の問いかけ一つで彼の情報を小さいながらも奪い取られた。

――なるほど……黒麒麟にナニカあったんですね。徐晃隊の兵士がこれほど怒り狂うようなナニカが……

 それまで無表情であった七乃は、にっこりとほほ笑んで雛里を見据える。
 意趣返しが少しでも出来て、澱みが僅かに晴れた気がしたから。

「軍が出払っている華琳様の街に何か仕掛けを施しているのは分かっています。あなたが何も手を打たずに敵の真っただ中に大切なモノを送るわけが無いですから。交渉は此処で終わりとします」

 冷静に、冷徹に、雛里は微笑みを崩さずに七乃に語りかけた。
 七乃はぞっとする。その冷たい眼差しは、全てを高みから見透かすかのよう。
 自分は美羽にも七乃にも危害を加えるつもりはないが、そちらの思惑は分かっている。あくまで互いの利を考えての交渉をしていたのだから、他の事を話すならもう終わり……そう言い切った。

「あの人が大切ですか……とあなたは問いかけましたね。その答えを言いましょう」

 感情が読み取れない声を紡ぎ、雛里は微笑んだままで七乃を見つめた。

――聞くまでもないですね。でも、どうしてこの子は憎しみに染まらないんでしょうか……

 七乃の問いかけに対しても、雛里は全く揺らがなかった。軍師としてでは無く、少女を傷つける一言であるはずなのに。
 七乃には、それが不思議でならなかった。
 徐々に、徐々に、雛里の瞳の色が、誰かを思い出して昏く落ち込んで行く。

――私が憎いのはこの人達じゃない。彼の進んできた道を全て否定した私の敵は……一人だけ。

 だから、雛里は七乃に対する憎しみなど、欠片も持っていなかった。彼と相似でありながら矛盾を貫き通せなかった王だけが、雛里の憎む相手。

「大切ですよ? 世の平穏の為に自分を生贄として捧げようとするあの人が。自分の幸せよりも他者の幸せを願い続けるあの人が。自分が憎まれても、乱世の果てに生きて行く人々その全てを想い、人々を愛するあの人が」

 想いは華琳や月、桃香と同じであれど、彼の在り方は三人とは全く違う。
 外道非道の限りを尽くす悪の指標になれば世界が救われるというのなら、彼は喜んで悪に染まるだろう。自分の命を捧げるだけで世界が救われるのなら、彼は喜んで命を差し出すだろう。
 雛里の知っている彼はそんな人。彼は生きている人が好きだった。そして死んでいった人達を想っていた。賊であろうと、敵であろうと、本当は殺したくなんかない甘くて弱い人間。
 生きてくれ、幸せになってくれ……と、理不尽を翳しても懇願した彼は、自分にその想いが向けられても、なんら変わりなく命を使い捨てる。
 狂っているのは彼一人。何時如何なる時も他者の為にしか生きていなかったのだから。

 満足したのか、七乃は立ち上がり出口へと向かっていく。

「なら、あなたを殺せば世が平穏になるとしたら、黒麒麟はどうするんでしょうねぇ?」

 ぽつりと、背を向けながら放たれた言葉。普通の声音で異常な事を、七乃はさらりと口にした。
 殺気が溢れかえるが、黒麒麟の身体にとって雛里の命令は絶対。故に、兵士達は荒く息を吐いて耐えていた。
 引き戸を開き、閉める寸前で……七乃は雛里の微笑みを見て、沸き立つ恐怖から固まった。

「それが乱世の果てなら、私の命を捧げてでも貫き通しますよ」

――そして……誰かに想いを預けてから、自分も死んでしまう。彼は皆が思ってるより強くない……

 続きは言わずに、雛里は違う言葉を七乃に返した。

「今後の話は戦の後にでも……娘娘の二号店で行いましょうか。では、交渉ありがとうございました、張勲さん」

 立ち上がってお辞儀を一つ。
 意趣返しをされて苦々しく顔を顰めた七乃が戸を閉め、夜天の間には耳の痛くなるような静寂が訪れる。
 ストン、と椅子に腰を下ろして小さく息を吐き、雛里はぼんやりと宙を見つめた。

「鳳統様……」
「私は大丈夫です。この街の滞在中にする事はあと一つ。少し疲れたので……明日、向かいましょうか」

 ハキハキとした声で示されても、後ろの二人が向ける心配は晴れなかった。
 ただ何も言わず、何も聞かず、彼らは頷きあってから部屋からゆっくりと出て行く。

――相変わらず優しい人達。あの人みたい。

 広い部屋に一人の子された雛里の顔が曇っていく。
 抱きしめてくれる人はいない。孤独によってか、冷たい風が心に吹き抜けた。
 じっと周りを見渡せば、昔と何も変わらない部屋が此処にある。

 からかうのはやめろよっ……と、甘くて優しい王の声が聴こえた気がした。
 おやおや、恥ずかしがらなくともよいのでは……と、意地っ張りな昇り龍の声が聴こえた気がした。
 そして、彼のからからと笑う声が……

「……っ」

 耳を塞いだ。苦しくて、辛くて、痛くて、哀しくて。
 自分の思い出にあるだけの幻聴なのに、まるですぐそこにあるかのようで、これ以上は耐えられなかった。
 耳を塞いでも何も変わらない。彼が楽しく過ごしていた思い出がある限り。
 じわりじわりと、心の底から悲哀が……否、寂寥が溢れてくる。
 住み慣れた街を離れる時に感じたモノに似ていた。
 何度か味わったことのある感情なのに、過去のどれよりも大きな寂しさであった。
 震える身体。震える吐息。震える瞳。
 揺らいだのは視界の全て。水の中のようにぼやけてしまい、何も見えなくなった。

「……帰りたい……っ……あの時に」

 後悔しても、もう戻る事はない。どれだけ望んでも、進んだ時は戻らない。
 前に進むしかないのは分かっていても、この大切な場所に来てしまうと、振り返らずにはいられなかった。

 鳳凰は日輪の方角へと羽ばたこうとも、羽を休める場所が何処にも無い事を知り……独り……泣く。




 
 

 
後書き
読んで頂きありがとうございます。

都合により中編になってしまいました。申し訳ありません。

雛里ちゃんVS七乃さんは早期決着。細かい内容は後々に。
美羽ちゃんは娘娘という店でご奉仕する事になりました。

幽州の動きは次で終わりです。
白蓮さんの街で雛里ちゃんがする事はあと一つなので。

ではまた 
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