メイクアップアーチスト
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第一章
第一章
メイクアップアーチスト
彼の妻は平凡な顔をしている。
はっきり言えば美人ではない。しかし不細工でもない。本当に平凡な顔だ。
それで彼、中森一郎もこれといって思うことはない。家事は万全にするし料理も人並みよりは少しばかり上である。とりわけ魚料理が得意だ。
パートでお金も稼ぐししかも浮気もしない。だが実はそのパートが何なのかを知らなかったりする。
「なあ奈緒ちゃんさ」
妻の名前を呼んで尋ねる。家ではこう呼んでいるのだ。仲もいいのだ。
「一体何のパートしてるの?」
「秘密って言ったら怒る?」
「怒るっていうか怪しいからね」
こうその平凡な顔の妻に返す。長い髪を後ろで束ねているその顔は本当に平凡なものだ。こう言ってしまえば何だが何処にでもあるような顔である。
「探偵雇うかもね」
「マイク=ハマーでも雇うの?」
「あんな物騒な探偵日本にいるものか」
こうその眼鏡をかけて七三分けにしている顔で返す。彼にしてもその容姿は極めて平凡なものである。そういう意味では似合いの二人ではある。
「しょっちゅう銃をぶっ放すしさ」
「それじゃあカート=キャノン?」
「随分個性的だね」
酔いどれのホームレスの探偵だ。かなり異色ではある。
「その名前は」
「まあそうだけれどね」
「とにかくそこまで考えてないから」
「そうなの」
「そのパートの仕事が何かを聞きたいんだけれどさ」
またそれを問うのだった。
「それで何かな、それって」
「じゃあ言うわ」
返答は素っ気無いものだった。
「私のパートはね」
「うん、何?スーパーのレジ?本屋さん?」
「メイクアップアーチストよ」
いきなり横文字だった。
「それよ」
「メイクアップアーチスト?」
「舌噛まない?」
「噛みそうだよ」
実際そうだと返す一郎だった。
「何、それ」
「何、それじゃないけれど」
妻の告白を聞いてだ。唖然となっていた。
「あのさ、だから何それ」
「いや、私もちょっと友達の紹介ではじめたんだけれどね」
「お友達の?」
「そうなの。これが実際にやってみるとね」
奈緒は明るい顔でにこにこと話すのだった。
「物凄くいいのよ」
「楽しいとか?」
「もう顔が全然変わるのよ」
「それは聞いたことあるけれど」
「見たい?」
その笑顔で夫に対して言ってみせてきた。
「それでそのメイクアップ。実際にその目で」
「実際にって今できるの」
「そうよ、もう道具は揃ってるし」
言いながらであった。夫を洗面所、鏡のあるその場所に案内してそのうえで何故か後ろからバイオリンケースを出して来た。奈緒の身体より少し小さい位の巨大なケースである。
「ここにね」
「バイオリンケースに入ってるとか?」
「そうよ、化粧品も道具も全部ね」
「何時の間にそんなのが家に」
「だから。パートをはじめてからよ」
「それでこんなものを」
「そう。それでね」
奈緒の言葉は続く。完全に彼女のペースになっている。
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