| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
< 前ページ 目次
 

第一章


第一章

                    鏡
 国が滅びようとしている。そんな時だった。
 中国で長きに渡った戦乱の時代が終わろうとしていた。南北朝時代末期、南朝の陳は今北の隋の攻撃を受け滅びようとしていたのだ。
「陛下は何処だ!?」
「わからん」
 宦官達は皇帝を探していた。だが何処にも姿は見えなかった。
 廷臣である徐徳言も彼を探していた。しかし皇帝の姿は宮殿の何処にもないのだった。
 細面で色白の美しい顔立ちをしている。文化が花開いた南朝の貴公子らしい容姿だった。しかし今はその華やかな容姿を取り乱させて。皇帝を探しているのだった。
 広い宮殿の何処にもいない。途方にくれた彼は彼と同じく皇帝を探している宦官の一人とすれ違いその彼に対して尋ねるのだった。
「陛下は」
「わかりません」
 だがその彼もまた途方にくれた顔で首を横に振るだけだった。
「何処なのか」
「そうか」
「それよりも徐徳言殿」
 ここで宦官は彼自身に声をかけてきた。
「貴方もお逃げ下さい」
「私もか」
「そうです。隋軍は既に都に入っております」
「うむ」
 そういった状況なのだった。既に隋軍は長江を渡り都に入っていたのだ。都建康の陥落はもう疑いようのない事態だったのだ。だからこそ彼に対してこう言ったのである。
「ですから。もう」
「落ち延びよというのか」
「陳はもう終わりです」
 宦官はこうも彼に告げた。
「ですから。もう」
「・・・・・・そうか」
 徐徳言は彼の言葉を聞いてその場に立ち止まってしまった。そうして項垂れるだけしかできなくなってしまったのだった。滅亡が近いことは彼もわかっていたことだったからだ。
「そうだな。それでは」
「はい、そうかと存じます」
 宦官はまた彼に告げた。
「私は。せめて陛下をお探しして」
「そなたは逃げぬのか」
「私は宦官ですので」
 寂しい笑みと共の言葉だった。宦官は後宮において皇帝や宮廷にいる彼の妻妾の世話をすることが仕事である。確かにナを出すのもはばかれる奸物達も多くいたが皇帝に対する忠誠心の篤い者もいたのである。彼は後者であったのだ。
「ですから」
「そうか。それではな」
「お達者で」
「うむ、そなたもな」
 こう言葉を交えさせて別れる二人だった。徐徳言は宮廷と出ると自身の邸宅に戻った。そこにも今にも隋軍が迫ろうとしていた。既に家の者達は逃げ去ってしまっている。その間に家財は彼等がその時に持ち去ったのだろうかなくなってしまっているか散乱したりしていた。家の中は昨日までのみらびやかさと風流が嘘のように荒れ果て見る影もなかった。彼はその中である者を探していた。
「楽昌、楽昌」
 荒れ果てた屋敷の中を見回しつつ必死にその名を呼ぶ。
「いるか、いたら返事をしてくれ」
「その声は旦那様ですか?」
 ここで部屋のカーテンの裏から声がした。若い女の声だった。
「もしや」
「そうだ、そこにいたのか」
「はい」
 出て来たのは一人の淡い桃色の絹の服を着た儚げで触れれば折れてしまいそうな美しい女だった。顔立ちは切れ長の黒目がちの目を持ち白く細いもので非常に整っていた。長い黒髪を奇麗にまとめている。確かに美しいが何処か頼りなくそれが儚さを余計に表わしていた。
「まだこちらにおられたのですか」
「だがそれも終わりだ」
 徐徳言は苦々しい声で彼女に答えた。
「もう隋軍は」
「はい。それでは」
「この都を去ろう」
 そして妻に対してこう告げた。
「都を。今からな」
「わかりました。ですが」
「ですが。何だ?」
「この有様です」
 楽昌は今にも崩れ落ちてしまいそうな顔で夫に対して告げてきた。
「何かあって離れ離れになってしまえば。その時は」
「そうだったな。そうなってしまえば」
「はい。今生の別れになるかも知れません」
 彼女が恐れているのはそのことだった。徐徳言もそれを聞いてはたとそのことに気付いたのだった。
 
< 前ページ 目次
ページ上へ戻る
ツイートする
 

全て感想を見る:感想一覧