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乱世の確率事象改変

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龍が最期に喰らうモノは

 
前書き
遅れて申し訳ありません。 

 
 腰まで届く金髪は黒のゴシックドレスに良く映える。燃えるような灼眼を爛々と輝かせ、幼い見た目で引き裂いた口は妖艶さを際立たせていた。
 劉表の足取りは軽い。隣に侍るペパーミントグリーンの髪を二つに括って、手に持った布で包まれた四角い包みを揺らすねねが、少しばかり速足を踏まなければならない程。
 二人の前を行くは曹操軍の軍師の一人である郭嘉……真名を稟。ツカツカと歩く彼女は挨拶を交わした後に、案内を致しますとだけ告げて終始無言であった。

「なぁ、郭嘉って言ったか? ねねが疲れちまうからさ、もうちょっとゆっくり行かねぇか? そんなに急がなくても曹操は逃げねぇだろ?」

 幾分か嘲りを含んだ声。少女のモノに聞こえるのに愛らしさの欠片も無い。
 劉表の提案は挑発かそうでないかギリギリの線。どちらとも取れるが、どう取るか稟に委ねている……否、委ねて“遊んで”いる。
 間違いなく格下に見られているのだ。強者の余裕、とも取れる。
 入っていた情報では病床に伏していて内政も侭ならなかったはずなのに何故これほどまでに……稟の思考の端に困惑が攻め寄せ始める。されども、稟は華琳の軍師である。冬枯れた池のように、脳髄は冷たく静かだった。
 軍師が安い挑発に、低次元な言葉で返すなどありえない。口から出た一言が外交に影響を与え、仕事を与えてくれた主をも自らが侮辱する事になる。
 内部の人間に対してならまだしも、外部勢力、それも広い土地を治めるモノに対して売り言葉に買い言葉で返すなど……曹操軍で最も鋭利な知性を持つであろう彼女がするはずも無い。
 親友である風はいつの間にかするりと吹き抜ける冷たい北風のような恐ろしさがある。しかし稟は……風の無い冬の朝に似た、全てを突き刺されるような冷たい空気の如き恐ろしさを持っている。
 相手を見極め、現状を見定め、己が最善を判断し、主の為に切り返す。一時の感情に左右される事は無く、頭と心は別個として機能を果たす。
 ピタリと脚を止めた稟は向き直り、大仰に掌を包んで礼の姿勢を取った。

「これは失礼を。名のある王同士の思いがけない(おもて)合わせと致しますれば、文官として弾む心抑え切れずに些か急いてしまいました」

 急な来訪を申し出てきたのはそちらなのだと言外に伝える。挑発など意にも介さず、急いでいたのは自分の不備だと、話も華琳からずらした。
 恋の部屋に毎日駆けていたねねは疲れるはずも無い。稟のやり方を自分なりに紐解いて劉表の目は厳しく細められた。

――だりぃ、挑発を流しやがった。曹操のガキに心酔してるバカばっかりなら遣り易いってのに……

 軍師連中には挑発など効かない、と頭の隅に放り込む。
 劉表側としては、作為的にせよ自分達が行った不備の謝罪に来ているのだから、ある程度出来る事が限られている。
 相手の部下が失態をしでかしてくれれば、交渉事も格段にし易くなるのは自明の理。
 ただ……稟の若干緊張した面持ちから、自分達がどういう狙いを以って此処を訪れたのか分からない……それが分かっただけでも、劉表としては上々だった。

「お気づかい無く。文官であれどねねは体力も鍛えているので、このくらいの速さは平気ですぞ。劉表様も、お心遣いありがとうございます」

 上出来だ。
 内心で呟き、劉表はねねの頭をわしわしと撫でた。小さく頷くねねの瞳には知性の輝きと、昏い色の炎が宿っている。
 病床に伏していたという情報はある程度の軍ならば入っているはずである。曹操軍ならば当然の事。
 こうして無事である姿を見せてしまえば、病状も、回復の見込みも……病気についてあらゆる秘匿の強化を行えて、相手側の思考と情報網に波紋を齎せる。ねねが敢えて触れない事によって、より強固にそれの枠を強めた。
 ねねはそれを見越して、自分と劉表を比べてみせた。情報分析に重きを置く軍師に対しての一手は鋭く、脳髄の片隅にしっかりと刻み込まれる。
 その証拠に、稟の眉が僅かに寄り、尚鋭く瞳が輝いた。誤魔化すように瞼を閉じ、眼鏡を上げた。

「……分かりました。では、参りましょう」

 そう言いながらも速度を緩める。
 同時に、二対一では分が悪い、と判断した稟は、自分から情報を漏らさない為に口を閉ざす。

――今はこれで十分だ。“ねねに”この軍師の性格の切片を読み取らせられただけでも大きい。それも……お前なら分かってる、よな?

 後ろの二人はにやりと笑みを向け合わせて、それぞれで今からの交渉に対しての算段を組み立てて行った。




 †





 劉表が直接来る、というのは完全に華琳の予測の範囲外であった。

――死に淵でわざわざ……“こんなくだらない事”の為に乗り込んでくる方がおかしい。

 情報に誤りがあったのか、それとも不可測として病状が改善したのか……劉表の事は孫策に任せるつもりでいたが、こちらも調べておく必要が出てきたのは確かだ。
 前の戦では、華琳の軍はいらぬ被害を受けたと言えよう。黒麒麟と徐州獲得を念頭に置いていたが、袁家の戦略によって外部から攻められる可能性は……確かにあったのだ。その予防策を一つだけしかしていなかったのが悪かった。
 劉表軍の参戦。全体的な兵の被害としては、秋斗と雛里の策の上乗せ分で予定よりも抑えられているが、戦以外の面で面倒が一つ増えたカタチとなる。
 部下である黄祖の暴走とするだろうからと、頸を送って来られる準備はしていた。自身の怒りを見せる為に、使者を散々に言い負かせて尊厳を叩き潰し送り返すのも良し、黄祖の頸を孫呉に送りつけても良し……そう、考えていたのだ。
 だというのに、劉表自ら赴いて来た。それも一万の兵を連れて。警戒心も不満も緩まっていない状態の華琳の領に、敢えてそうしてきた。
 権力者の力を他勢力に示す通常の手段だが、少しばかり数が多すぎる。
 万が一の為に兵を準備しなければならないのは言うまでも無く、従えている豪族達も警戒を強め、軍師達の思考にもいらない負担を掛け、官渡の戦に対しての準備も些か滞る。
 ただ、華琳の心には感心と称賛が湧いていた。

――もはや先は無しとして軽く見ていた相手が、これほどまでに鋭い一手を差して来るとは……死にかけだとしても江東の虎を喰い殺した龍だという事か。否、死にかけだからこそ、私が脚を止めざるを得ない程の策を発してきた……そういう事か。

 連合に参加しなかった時点で、劉表勢力は加速度的に広がっていく乱世の流れに飲み込まれるしかない……などと考えていた。
 驕りを自覚する。読み切れなかった不可測は一つ一つと繋がり、連鎖反応を以って、人であれモノであれ何かしらを華琳から奪うだろう。

――どう来る……ある程度の予測は立っていても確証が無い。孫呉側に対する牽制の一手と、微々たるモノでもこちらの動きを縛り付ける為の動きではある。攻めて来たわけでは無いのだから、袁家の手助けをするでも無いのは明白。劉表側の利点は数あれど、狙いの全ては……直接対峙して読み切るしかない、か。

 秋斗達と真桜を送り出してから、劉表の娘と徐庶が劉備の元に向かったとの情報は、華琳の耳には既に入っている。
 劉備軍との繋ぎ役として。そして後継者を孫呉との戦から遠ざける為も狙いの一つであるのは予想に容易い。初めから孫呉に勝つ気が無いようにも見える動きは少しばかり不可解なささくれを華琳の思考に齎している。
 劉表と孫呉の戦は避けられない。憎しみの禍根は根強く、また、乱世を抜けて行く力を得る為には勢力圏の拡大は必須である為に。

 南方に対して西方はどうか。
 現在の劉備軍は劉璋の元に身を預け、南蛮との国境の郡に配置されているという。

――体の良い防衛役としての扱いではある……が、劉璋はこれで……官渡の戦中か後に表舞台から消える事になるだろう。劉備は……否、諸葛亮は南蛮を喰らう、そう確信している。私達に対抗する力を手に入れるには、希少な物資を手に入れられる南蛮は防衛し続けるよりも属国、いや、劉備軍ならば同盟として手に入れなければならないのだから。

 勧善懲悪は人の思考に甘く浸透する毒であり、願いである。南蛮を支配下に置けば“劉備軍らしいやり方”で、兵力の低下を抑えつつ益州を掌握出来る。

――他勢力の事は、今はいい。それよりも劉表に意識を向けなければ。

 自分ならどうするか、方々へと駆け巡る思考の全てを一つにずらした。これから行われる会談の為に。
 あの愛しい敵対者を叩き潰して以来の感覚が全身を支配した。関靖が交渉に訪れた時の状況に近いが……心持ちは黒麒麟と相対したあの時に近い。自身の全てを賭けて読み切ってみせようと、華琳の頭は冷たく冴えわたって行った。
 待つ事幾分、自軍の軍師の一角が視界に姿を現す。

「華琳様、劉表様をお連れ致しました」
「通しなさい」

 引き締まった表情で告げる稟は、若干の焦りを見せつけている。
 言葉の後にコクリと頷くと、彼女は礼を一つしてすぐに劉表を迎えに行った。
 居並ぶ将は春蘭に秋蘭、霞と凪。重厚な威圧を与えられるように。
 季衣と流琉、沙和の三人には兵の纏めを任せているためここには居ない。
 風がモノ言いたげな瞳でチラと伺ってきたが……事の重大さは華琳とて分かっている。

――官渡の戦は、絶対に外す事の出来ない私が描く乱世の中核。必ず袁家と曹操軍の戦として終わらせなければならない。

 小さな足音が二色、耳に響いた。劉表と会うのはこれが初めてだが……それほど大きな身体をしてはいないのか、と僅かな驚きがあった。

――連れてきたのは聞いている。この場に呼ぶことも許した。こちらの軍に於いては……霞の心にケリを付けさせるのも狙いの一つ。月がこちらに引き入れたいのは分かっていても、私の描く道筋にはあなたはまだいらない。

 金色の髪が揺れていた。薄緑の二房が跳ねていた。
 二人が現れた途端に、謁見の間に粘りつくような気持ち悪い空気が広がった。
 小さな体躯に惑わされるはずも無い。まさしく、黒い泥沼を勝ち抜いてきた勝者であろう。陳宮にしても、都の文官を経験して、且つ劉表の影響を短期間に受けた為か見た目の幼さに反して浅さも軽さも無かった。
 黒い炎が燃える灼眼は感情が読み取れず、一寸だけ合わされた二つの琥珀には冷たく鋭い知性の輝きが宿っていた。
 ぶるり、と身体が震えた。それは歓喜。彼女達が居並ぶ将や軍師にも気圧されなかったから……程度の事では無く、甘く瑞々しい果実を貪り合うような駆け引きが出来るだろう事を、瞬時に理解出来たから。
 抑えるのは口元。気を抜けば楽しさに綻んでしまいそうだった。だが、今向けるべきは敵意と殺意。
 罪人を処罰する時のように、華琳は二人を冷たく見下した。何も言わず、何も聞かず、挨拶すらしてやらない。今回、先に口を開くのは華琳では無いのだ。

「荊州牧、劉表という。こちらは客分の陳宮。此度は謁見の申し出を受けて頂き、ありがたく……こちらの不手際により領内を騒がせた事、深くお詫び致す、曹操殿」

 堅苦しいモノ言いで直ぐに頭を下げた。荊州程の発展した場所を治め、賢龍とまで呼ばれる女が。
 わざわざ当主自らが出向いて頭を下げる。それがどれほどの事態か分からぬ劉表ではないだろう。華琳の器が量られている。自分の器を示した上で……。

「……詫び程度で許されるとお思いか? 失われた民の命と平穏はもう帰って来ない……よくおめおめと我が眼前に顔を出せたモノだな劉表殿」

 敬称を付けはしたが、鋭く尖らせた声音は大きな覇気に彩られ、謁見の間にこびり付きそうだった粘り気を取り払った。
 直ぐにでも切って捨ててやろうか……そう受け取れる程の威圧感に、陳宮が劉表の隣でゴクリと喉を鳴らした。されども、グッと身体に腹に力を込めて、押されないように口を開いた。

「く、口を挟む非礼をお許しください! 申し開きも無いのです曹操殿……ですが! 我が主は病床に臥せっていた身、漸く身体を動かせるようになったのも先日故、政事に関与出来なかった為に全ての責は劉琦にあるのです!」

 必死の懇願とも取れる声は華琳の耳を抜ける。続けろ、と命じるかのように小さく鼻を鳴らし、瞳を冷たく凍らせた。

「言うな、ねね。それなら教育出来なかったオレに責がある」
「違うのですぞ! ねねが再三注意したにも関わらず、裏切り者の言を優先し、あまつさえ劉の名を貶めるような行い――――袁家に与するなど……教育以前の問題なのです!
 彼の連合での昇進から味を占めて漢の平穏を乱す袁家とは違い、曹操殿は“悪辣なる逆臣董卓”から帝を御救いになり、同じく劉の血筋である劉玄徳殿をも助けたというのに!」

 茶番を……と華琳が思ったと同時に、何かを握りしめる音が聞こえた。視線を向けると霞の両の拳が震えていた。瞳に色濃く表れるのは怒り……では無く悲壮。
 仲の良かったはずの主を、陳宮は政治的立場上の理由で貶めた。華雄がそういった挑発に乗って死んだ事を知っているはずなのに、自らを嫌悪していた敵と同じに堕としてまで、今の主の利を優先していた。
 ああ……と霞は心で慟哭を上げる。聡い霞が分からぬはずも無い。
 陳宮の怨嗟はそれほどまでに深く、優しかったはずの彼女を変えてしまったのだと。自分をも傷つける諸刃の剣の如き鋭さを持たせるほど、歪めてしまったのだと。
 陳宮が来る、と華琳から聞いていた。どのような事態となっても、何が起こっても口を出しも動きもするなと堅く言いつけられていた。
 だから霞は……陳宮から発された言葉にも目を向けず、劉表のみを見据えて震えるだけに留めていた。
 先の交渉の責で愛紗に激発した彼女は、もう二度と失態を侵すまいと自身を律する術を高めていた為に。月と詠に出会い、ねねと恋の事に予測を立てられたのも、理由の一つ。

――霞……見事よ。

 霞への感情は一筋さえ表に出さず、華琳は心の内で褒めた。
 月が生きている事はバレてはいけない。此処で欠片でも気付かせてはならない。民の風評は董卓憎しで埋まり、連合側に有利なように誘導されているのだから。
 此処で董卓が存命していて、あまつさえ黒麒麟が関与していたと知られれば、大陸に蔓延した英雄たちの逸話は全て掻き混ぜられた上で、曹操軍に悪い方へと裏返る。
 そうなればどうなる……決まっている。
 黄巾の乱が可愛く思える程の民の暴動が相次ぎ、迅速に世を平定しようと動いている華琳にとっては非常に望ましくない事態に陥る……だけならまだしも、連合の再発足など可愛らしい、大陸の勢力全てを敵に回すどころか、内部からさえ刃が向けられるやもしれないのだ。
 信用も、信頼も……疑心暗鬼によって泥の中に沈むだろう。特に袁家との戦前のこの時機は最悪であった。

 匂わせる事すら危ういのが今の言で確かになった。
 嘗て平穏の為にと立った主を、必死に守ろうとしていた月の事を自ら貶めてまで劉表の手助けをしている陳宮が……些細な希望に縋ろうとするだろうか。

――陳宮には月の事で離間計を仕掛ける事は出来る。しかし……劉表にバレる可能性が捨てきれない。月と詠を徐晃と共に送ったのが裏目に出たわね。いや……二人が居たとしても徐晃と共にいる事により、もう嘗ての自分達が慕った主では無いのだと衝撃を受けて、逆に利用される可能性さえある、か。

 人の心を全て読むことなど出来はしない。全てが思い通りに進むなどもっての他だ。自分がしてきた事が無駄になるのは、どのような方向に思考を向けるか分からない。
 秋斗が絶望の淵に記憶を失った事が、華琳にとってはその確たる証拠である。
 分の悪い賭けを打つのは此処では無い。
 董卓の嘗ての臣下が主を貶めるのか……とも此処では言う事が出来ない。真実を知るモノは少なく、この謁見の情報をわざと外部勢力に開示している華琳が触れる事では無いのだ。
 劉表との謁見に於いて、最も警戒するのは孫呉。次いで西涼と袁家。最後に劉備。どれしもに波紋を広げる選択をするのが得策である。

「……ならば娘の頸を持って来るがいい。正統な後継が一人しかいない、そんなモノは言い訳に過ぎない。娘に王の器が無いのは分かったのだろう? 後継には分家からでも変わりを立てて、幼くとも育てる、ということも出来るのだから。学問を奨励している劉表殿の血族ならば、一人くらいは原石がいてもおかしくは無い」

 厳しく突き刺さる声に陳宮は眉を寄せる。内政干渉に触れそうで触れない言い方に狡さを感じて。

「目覚めるより前に劉備の元に行った為に、謝罪に行けと文を送ったのですが返答は無し。故に我が主が身体の無理を押して尻拭いに来た次第なのです。これを……」

 そう言って、陳宮は包みを取り出した。
 巻かれた布が捲られ、露わになった木箱の蓋が開かれた。その蓋の上に……陳宮の白くて細い手によって、中身の頸が一つ乗せられる。

「暴走の主犯、黄祖の頸になるのです。一族郎党の頸も刎ねて参りましたが、お見苦しい為、塩漬けにして部隊の場所に保存してありますぞ」

 頭を下げたまま切り取られた頸を掲げ、陳宮はそれ以上何も言わなかった。

「夏侯淵」
「はっ」

 短く名を呼ぶ。先の戦で戦った秋蘭が前に出て、頸をまじまじと確かめた。

「……間違いありません。我が主の領内を乱した黄祖の頸です」
「ご苦労、下がりなさい。
 ……それで? これしきの事で許されるとお思いか? 私は責任者たる娘の頸を持って来いと言った。咎め無しというのは如何なモノか」

 秋蘭が下がるのを待ってから放たれた冷徹な一言は、先程よりも幾分か険を取って。頭を上げない二人をじっと見据えた。
 ただ、返された言葉は、華琳の予測の外側であった。

「軍に対する補填分として三万の兵を賄える糧食を贈ろう。それとな……ウチの内部分裂は確定だ。だから、これ以上を望むなら娘か……身柄を請け負っている劉備に直接請求して頂きたいのだがどうか……曹孟徳殿」

 華琳と陳宮以外の皆は、劉表の突然の変貌に着いて行けず。華琳は一寸驚くも、位的にはほぼ同等である為に無礼とも言わず、思考を回していく。

――荊州の内部事情は荒れているとは聞いていたが……親が子を切り捨てるか。なるほど、確かにこの女は劉備とは全く別物の旧き王だ。劉表としての責を果たしているのだから、私もこれ以上の要求は行えない。そして劉備を絡める事で意識の幅を広めて私に手数を増やさせた。糧食追加は、謀られて欲を掻いたにしろ、袁家に与したにしろ、“劉表自身”はこちら側だと示す為の見せ札の意味も込めて。いや、娘を守っているとも取れるから、まだ判断は早計に過ぎる。ふふ……中々、やる。

 上手い、と思った。
 自分が戦わずして他勢力を操るやり方は華琳とて心得ているが、政治屋としての経験値が自分より上なのだと素直に認められる。
 勿体ない。それが率直な華琳の感想。
 死というモノは生き物として逃れ得ぬ結末である。寿命によってこの龍とは政治的盤上で戦うのは此れが最後となるだろう……競争を良しとする華琳は、才気ある者の消失が、やはり惜しい。
 しかし今は敵。まさかこれで終わりなわけが無いだろうと、華琳は意識を切り替える。

「……いいでしょう。病床に伏していたあなたをこれ以上責めはしない。娘の誠意に期待する」

 言外に匂わせるのは、自分達は手を回さないからそちらが促し報告しろ、という事。
 劉表とは友好的ではあっても同盟では無い関係……華琳はそこに落ち着ける事にした。
 ほっと一息ついたのは陳宮であった。曹操軍の軍師達も、思考を回しながらも落としどころに行き着いた為に若干の安堵が表情に浮かぶ。
 霞は目を瞑り、わずかに唇を噛みしめて耐えていた。
 そんな中……劉表と華琳だけは、未だに見つめ合ったままで鋭い視線を絡めていた。

「ではこれにて。劉表殿は私の街に幾日か滞在していかれるか? 病の身ならば長旅の連続は負担であろう」

 言葉遣いを崩さず、小石程度の探りを投げた。こちらは歩み寄る気構えがあると暗に示して。
 だが……劉表は口元を引き裂いて、幼子の体躯には不釣り合いに過ぎる妖艶な笑みを浮かべた。

「キヒ……心遣い感謝する。申し訳ないが、一日後に行く所がある為、この街には長く留まっていられない」
「なっ! た……劉表様? そのお身体で何をするというのですか?」

 心配げな声を掛ける陳宮を訝しげに見つめる。華琳は其処に、本心からの心配を見て取った。
 そしてここからは、陳宮との打ち合わせすら行われていない劉表だけの策が来る……そう確信した。
 尚も、劉表は口を引き裂いて……笑った、否、嘲った。

「董卓討伐に参加出来なかったからさ、燃やされても早い段階で復興されたと聞く洛陽に赴いて、劉協様への謁見と洛陽離脱の時に亡くなられたらしい劉弁様への悼辞をな。せっかく此処まで来たんだ、動ける内に、死ぬ前に謝罪しておかないと気が済まない。オレが“曹操殿と同じ漢の臣”だって事を示さないとダメだろ? 大丈夫、お前の事も弁解してやるから」

――やられた……帝との謁見が本当の狙いかっ

 顔を歪めそうになるのをどうにか堪えた。
 復興した洛陽に於いて、政事に関しては華琳の選んだ文官や華琳寄りの者達で埋めている現状である為に問題は無いのだが……拠点を洛陽に移していない事が此処で裏目に出た。
 華琳は帝とは深い接点を持っていない。
 劉協自体は聡明ではあるが、直接的に関わらず、体のいいお飾りの帝としての扱いしかしていないのだ。
 帝の威光を使う……それを華琳は出来ない。否、したくない。だからこそ、本拠地となる街を移さずに洛陽よりも栄えさせる事を選んだ。
 先程の発言は、劉表が躊躇いなく帝を政治利用すると決めている、という事だ。
 思い起こされる利は数ある。

 孫策に対する嫌がらせが主であろう。
 もし、漢の臣である劉表が帝に対して、孫呉に攻められるやもしれない事で頭を悩ませていると匂わせれば、孫策含め軍の重鎮は動かざるを得ない。いや……劉表が帝の元に赴く時点で美周嬢が動かないはずが無い。
 孫呉側が嫌がる事は大きく三つ。華琳が嫌がる事は一つ。
 まず一つ、何を吹き込まれるか分からず、確認の為にもわざわざ洛陽くんだりまで駆けつけて、袁術に反旗を翻して揚州を平定した事を報告しなければならないのは確定。
 もう一つ、他を攻めて力を補強したいのが孫呉側。しかし未だ華琳と戦うわけには行かず、劉表と和平の約定を組まされるやもしれない。
 そして一番最後に、曹操軍と袁紹軍だけで行われるはずの官渡の戦に、孫呉側も加えられるという事態も考えられる。

 つまり、袁家を漢の敵として三つの勢力で攻める……そういった展開が思い浮かぶ。
 袁家滅亡後はなし崩し的に漢の再興に漕ぎつけられるだろう。反董卓連合などという軍閥のクーデターに過ぎないモノでは無く、帝の名の元に“正式な連合”が組まれるのだから当然。
 それは『華琳にとって一番なって欲しくない展開』である。覇王はただ、崩壊と新生を目指している為に。

――この女……帝と私に不和を与えるつもりか。よしんばそうならなくとも、次の戦の後に出回る風評効果が大きすぎる。

 心の内を見透かすかのように、劉表は口を引き裂き、目を細めて華琳を見ていた。
 劉表、孫策、曹操の三つで行われる袁家との戦が終われば、形式上、残りは漢の忠臣しかいない事になる。そうなれば劉表の死後に荊州は領地戦争の泥沼と化す。劉表という為政者一人の死が乱世に多大な影響を与え、掻き乱されるは必至であろう。
 誰が初めに平穏を壊すか、そんな牽制の応酬をするのは曹魏と孫呉。華琳が荊州を後回しにするならば、益州に居座っている劉の二人が孫呉との膠着状態を以ってひりつくような睨み合いとなる。軍事的では無く政治的要素も大きく加わるのだ。
 反董卓連合という袁家によって起こされた群雄割拠の様相を、袁家の滅亡によって一時的に終わらせるも、一つの土地の為に長い長い乱世に変わる。
 さらに言えば、帝の心に甘い毒を放り込まれると厄介なことこの上ない。劉備という民の希望と結びつけば、覇王への求心に尽力してきた努力を嘲笑うかのように、華琳の領内にまで“漢”という大国への期待が及んでしまう。
 そうなれば誰が得をするのか……予想に容易い。
 これから先に一番得をするのは劉玄徳になるだろう。声高らかに謳っている理想が、民の心に高祖劉邦を思い出させる為に。
 侵略を行う覚悟などとうに呑んでいる華琳ではあるが、漢の再興などは目指していない。劉表の動きを止めるか、なんらかの対抗策を打たなければ、彼女は帝を傀儡にして覇を進めるモノとして、大陸に広く認識される。

――だが……私はお前の策を崩す二つの手札を持っている。

 獰猛な笑みを浮かべた華琳のアイスブルーは、劉表の燃えるような灼眼を冷たく射抜いた。

 帝を懐柔し、尚且つ傀儡と思わせない為の手札の存在は大きい。
 一つは、劉備とは異なる民にとっての希望の星、華琳がわざわざ大きな犠牲を払ってまで得た黒き大徳、黒麒麟徐公明。
 一つは、たった一人だけ帝を想い、泥沼の魔窟に駆けつけた優しい少女、月。
 二人がいなければ、劉表の策は華琳の領内に多大な影響を与えていたのは予想に難くない。大局を動かす重要な時期が来た時に帝からの鶴の一声が上がれば、如何に華琳が見事に街を治めていようとも不安と疑念、そして不測の事態を招きかねない。
 帝は天そのもの……そういった認識がこの時代の人々に根付いている。現実的観点から見れば、そう信仰させる事で学識の低い民達を纏め上げていると言い換えてもいい。
 言うなれば帝は、“人よりも上位”な存在。誰かが貶める事も、誰かが無礼を働く事も、許してはいけない。帝の言は絶対であり、嘘であってはならない。頭を下げる事も、頼る事も無く……自分よりも“下”として人々を見なければならない。例え帝本人が十に満たない子供であろうと。
 だからこそ智者たちにとっては妄信と狂信を齎す帝の威光が恐ろしく、誰もが扱いに困りつつも、帝を手に入れようとするのだ。
 その意味では、秋斗が月を連れていたのは僥倖。心の底からの懐柔が出来るのは何より大きい。

 劉表の目が僅かに細まった。口は引き裂かれたままであったが、苛立ちを感じたのは華琳から見てもよく分かった。
 無言での腹の探り合いで勝者は明らかにならない。しかし、わざわざ自身の有利を口に出す華琳でも無い。読み取り、読み解き、読み切り、最後に笑えればいいだけ。

「病に侵されながらも漢の忠臣たるを示す心に称賛を。臣たるモノのなんたるかを見せて頂き感謝致す、劉表殿。私も徐州の戦の報告を上げに行くとしよう」

 広い部屋の空気に困惑が渦巻く。
 稟と風の二人は、華琳の急な決定に焦りを浮かべ、それでも思考を紡いでいた。

「キヒヒ、そりゃいい。一人じゃあ心細かったんだ。その戦での孫策達の動きも話してくれたら嬉しいんだけどなぁ。オレんとこに攻め入ってきやがった落とし前も付けさせなきゃならねぇし」

 楽しげな声音で、もはや取り繕おうとはせずに劉表は砕けた口調に変わる。友好を認めたのか、それとも認めていないのか、強引に確かめに来たのだ。彼女の強かさに華琳は思わず舌を巻いた。

「ま、待ってくだされ! ねねは……ねねは劉表様と共に行きますぞ! 待つだけなど真っ平御免なのです! ……っ……絶対に側にいるのですよ!」

 劉表は一人と言った。それ即ち、陳宮を荊州に戻すという事に他ならない。無理を推して洛陽に行くと明言した以上、王の決定に口出しする事は無い。されどもせめて着いて行くくらい、と悲痛な面持ちで必死に懇願する様は、一人の武人の心を揺るがしていた。
 ふいと、華琳が視線を向けると、霞は唇を必死に噛みしめていた。彼女の口元に赤い筋が一筋伝う。今すぐにでも自分達の元に来て欲しいという想いを抑え付けて。

「そちらの話は二人で決着を着けて頂戴。わざわざ謁見の間でする話では無いでしょう?」

 さらりと流れる涼やかな声が、劉表と陳宮の耳に届き意識を引きつけた。
 気遣いを込めた話題変換に、霞は感謝を心の内で零し、急いで口元をグイと拭った。

「キヒ、だそうだぜ、ねね。お前が喚こうがオレの決定は覆らねぇけどな」

 グッと少しばかり跳ねた陳宮は、数瞬の後にコクリと頷いた。

「では劉表殿、そなたの誠意は受け取った。だが、二度目は無い事……努々忘れることなかれ」
「曹操殿の慈悲に感謝を。オレに二度目は無い事、心にしっかりと刻んでおく。それじゃあ……洛陽出立の準備があるからこれで。見送りは不要だ」

 短く呆気ない終わり方だった。
 黒の衣服に金髪を棚引かせる龍は、一寸だけ勝利の笑みを浮かべて華琳を一瞥し、謁見の間を後にした。たたっ、と着いて行く陳宮は……一度たりとも霞の方を見ずに去って行った。

「……此処より我らは本格的に動く。気持ちを切り替える為に、夜までに城を“掃除”させておきなさい」

 御意……と皆の返答は鋼のように冷たく重い。
 静まり返る謁見の間の空気は異質。粘りつく嫌な気配は、華琳の声を以ってしても払拭されなかった。







 †







 行軍の準備を言いつけ、ねねと劉表の二人はとある店に脚を運んでいた。
 大陸でも三本の指に入るのではないかとまで噂される名店、娘娘。彼女達が料理を楽しんでいる個室の名は『竜の間』と言った。
 彼の二つ名に因んで名付けられた四霊の幻獣を冠した四つの部屋があるのだが、それらは『夜天の間』の一ランク下の部屋である。
 武力の高い給仕と店長が居る事と、店長自身が政治の黒い部分を嫌っている為に情報の漏洩はどの個室でも有り得ない。
 現在、劉表達二人の為に、武器無しの近衛兵を二人、入り口に立たせる事も許す程。店長自らが、官位の高い上客が来た時は情報の秘匿に関しては説明に当たってもいる。
 余談ではあるが、料理を楽しむ時間を蔑ろにする輩が忍び込んだ際、店長と給仕たちによって捕まえられ、街の支配者に突き出す事になっている。そして驚くべき事に、未だ捕縛率十割を下げた事は無い。

「……だりぃ……なんだよコレ。なんっだよコレはぁ!」

 所狭しと机の上に並べられているのは大半が甘味であった。一つ一つと口にして、劉表は人生の幸せを謳歌していた。

「れ、恋殿にも……食べさせてっ……あげたかったのです……うぅっ……」

 対して、ねねは涙を零しながら、この世のモノとは思えない程に美味しい料理を食べていた。
 満足げな表情でそれを見た店長は、紳士的に一礼をしてから口を開いた。

「劉表様、陳宮様、ご注文の品はお揃いですか?」
「おうよ! 後な、あんたの料理、最っ高にうめぇ!」
「なのです! 美味しくて……本当に美味しいのですよっ! 持ち帰りしてもいいとは本当なのですか!?」
「構いません。持ち帰れるのは日持ちのするモノのみ、材料と他の注文の関係で数を限定させて頂きますが」
「キヒ、なら持てるだけ頼む。会計の時に伝えるぜ。それでいいか? ねね」
「恩に着るのです、龍飛!」

 かしこまりました、と一言残して店長は微笑み、静かに引き戸を引いて部屋を後にした。

「……こんな美味いもんが世にあったなんてなぁ」

 感慨深く言葉を零した劉表は、銀のスプーンで苺ジャム掛けミルクアイスの最後の欠片を掬い、幸せそうに口に入れた。

「店主の腕あってこそのおいしさではあるとは思うのですが、情報では黒麒麟が教えた大陸の外からの料理らしいですぞ」

 ビーフシチューを一口食べてからのねねの一言に、また黒麒麟か……と劉表は眉を寄せた。
 その表情から、気遣ってくれていると勘違いしてねねは続きを紡いだ。

「おいしい料理に罪は無いのです。例え殺したい相手が関わっていても。だって……恋殿は……食べる事が大好きだったのですよ」

 だから今はねねが代わりに食を楽しむ……心を失ってしまった恋に、せめて自分がおいしいと感じたモノを伝える為に。
 しゅんと肩を落とし、フルフルとスプーンを震わせて、ねねはぽつぽつと涙を零した。
 彼女の内心を読み取って、劉表は小さく鼻を鳴らす。しかし何も言う事は無い。カチャカチャと食器を鳴らし、目の前に広がる料理を平らげていくだけ。
 グイと涙を拭って、ねねは無言のままで注文した料理に手を付けて行った。

 食事も一段落した頃合いに、鎮痛薬を水で流し込んだ劉表に向けて、ねねは力強い知性の光を携え口を開いた。

「龍飛、ねねに何をしろというのですか?」

 大体予想はしてあるが、直接命じてくれなければ着いて行く……そう彼女の瞳はモノ語っていた。

「あー……まず先に褒めておく。よくやった。お前の合わせ方は中々だったぜ? 張遼への対応もあれでいい。曹操が慰撫するだろうけど、神速の心に楔を打ち込めたから上出来だ。キヒヒ、菜桜の方も文句の付けようがない程の演技だった」

 ひらりと躱して、先程の謁見での行いを認め、劉表はねねの頭を撫でた。
 くしゃくしゃと頭を撫でられると、ねねの心に暖かさが湧く。出てきた嘗ての友の名に、少しだけ心が痛んだ。

「……それにしても、“悪辣なる逆臣董卓”なんて、よく言えたもんだな」

 次いでグサリと、容赦なく心のキズを抉り抜いた。悲痛な瞳を向けたねねの目尻に涙の雫が乗る。

「落ち込むな、礼を言いたいくらいなんだ。お前のその言葉のおかげで状況が読めた。曹操も董卓の真実を知ってるのは確定。張遼が耐えてたのは事前に言ってあったからだろ。
 その上で劉協様には深く関わっていない。なら……どういう事だと思う?」

 また零れそうになる涙を袖でごしごしと拭いたねねは、大きく息を付いた。
 巡る思考は雷光の如く、悲哀の感情になど流されず、ただ速く。

「……帝に反骨心を持たれる事が……曹操の一番嫌がる事なのです。ゆ……董卓は帝と少しばかりの関わりがあり、昏い政略戦争から一時的に助けたという恩があるのです。それを穢した連合側は通常ならば不快感を持たれて当然のモノ。長い時間を掛けないと澄み渡らない澱みのようなモノになっているはずなのですよ。
 ねねは練兵と恋殿のお世話ばかりしていて会った事はありませんが、帝がどんな人柄かは聞いていたのです。温厚にして聡明、徳に溢れ、成長すれば確実に良き皇帝として大陸を治める、と。だから、曹操は劉備と帝が繋がる事が嫌なのです」
「正解。あいつは漢を殺すつもりだ。それもめんどくさくて、誰もやらないような回りくどい手で、自分の名を傷つけずに、な。力だけで制圧するなら、劉協様の反抗なんざ気にも留めないはずだ」
「最後に行き着くのは……新たな皇帝?」
「それも一つだろ。多分もう一つあるけど……そいつについてはゆっくり考えたらいい。思考を回さねぇと人は成長しねぇ。答えを教えて貰う楽な生き方なんざすれば、後で大損する事になるぞ」

 諭されて首を傾げるねねは、とりあえず疑問は置いておく事にした。

「オレは霊帝が身罷られた時に追悼を込めて一度だけ劉協様に会いに行った。その時分かったが、劉協様は聡い。帝のなんたるかを理解していても、人の昏い部分を一番近くで見続けてきたとしても、全てを諦観はしていない。自分も何かしたい……なんて思わせられたらこっちの勝ちだ。連合での劉備についてを擁護し、心象を上げておけば曹操に対しての毒に出来る。
 問題は黒麒麟だ。劉備の元から離れた大徳の将に、劉協様はきっと興味を持っている。洛陽の民に迅速な救援を行ったのはあの男らしいから、元々話してみたいとも思ってただろう。そいつが曹操の元に居るってのは、本当にだりぃこった」

 めんどくさい、というように劉表は舌打ちを一つ落とした。

「帝に会いに行く……というのは劉備についてと孫策への嫌がらせが狙いの全てでは無いですな? 董卓の真実を知っているねねを帝と会わせないのはその狙いの為」

 突然の指摘。
 ねねの思考はまだ回る。利を計算した上では、それだけでは命を賭けるに値しないと判断した。
 劉表の口元は徐々に吊り上る。ペロリ、と舌で唇を一舐めした。

「キヒヒ♪ 当たり前だ。答えが出たなら言ってみろ。お前の成長をオレに見せてくれ」

 顎に指を当て、ぎゅうと眉根を寄せたねね。
 劉表は待っている間、鎮痛薬で舌が麻痺しない内にと残りの甘味を口に運んで行った。
 幾分の後、ハッとしたねねの顔は青ざめた。恐ろしい、というように、劉表の顔をまじまじと見つめて。

「……そ、曹操を……孫策と龍飛の仲介役にさせて、半月、いえ、出来るなら一月以上の期間洛陽に縛り付け、袁家との戦への参加を遅らせる。そして……孫策と周瑜が留守の内に……ねねと恋殿で……兵力が減り、王と筆頭軍師の居ない揚州を攻めるのです」

 沈黙は肯定を示してか。
 劉表はただにやにやと口を歪め、片目を細めてねねを見つめていた。
 続きが紡がれない様子を見て、左の肘を机に置き頬杖を付いた。は……と短く息を吐きだす。称賛と、嘲りを込めて。

「それだけじゃ足りねぇ。例え天下無双の呂布が武将達を圧倒しても、ねねがいくつもの部隊を指揮しようとも、軍としては人材豊富な孫策軍に勝てないからな。まあ、孫策と周瑜を外交に引き摺り込む時点で孫呉の崩壊は無いわけだけど。だから……オレの兵をたくさん戦に駆り立てて消費し、虎の兵力を同等以上の数だけ割いて……負けたら絶好の時機が来るまで二人だけで身を隠せ。それがお前に与える最後の命令だ、ねね」

 三日月型に吊り上った口から零れ出る命令に、ねねはもう、耐えられずに震えだした。
 荊州の城での言の通りに、彼女は自分の命を対価にたった一つの糸を引いて、全ての糸を操りに行く。
 賢き悪龍は、知略と言葉と計算を刃と化してぶつけ合う国同士の外交の場を、最後の戦場と決めていた。
 他の事は全て……ねねに託して。

「龍飛、には……何が見えているのですか」

 緩く息を吐きだした劉表の瞳は、御馳走を目の前にした子供のように輝いている。
 自身の腕で身体を抱きしめ、ねねは煌く灼眼を恐ろしげに俯きながらも見上げた。

「キヒ、キヒヒヒっ! 最後に笑えばそれで勝ち、だ。平穏なんざ、泥沼の中で探さねぇと見つからねぇ。争い、競い、奪い、奪われ、いがみ合い、そうやって人は強くなって行く。世は須らく蠱毒の如し。そうして残った奴等にだけ、乱世の後に平穏を与えればいい。だからオレは……他者を信じる心を喰らって乱世をかき乱してやるのさ。オレの命を使って、な」

 抽象的な表現に隠された意図に気付かないねねでは無く、ぎゅっと目を瞑って心を落ち着けていく。
 自分がやる事は何か、彼女の本当の望みが何か、そして何より……愛しい主を、逸早く平穏な世で戻す為に。

「分かってると思うが時機はねねが選べよ? さすがにそこまではオレでも読み切れねぇ。オレが最後に残す乱世の不可測、ねねと呂布の二人を完全に抑えられる奴がいたのなら、オレの全てはそいつに負けた事になる。そうなったなら、オレみたいに世をかき乱すなり、大人しく平穏に尽力するなり、お前の好きにしろ」

 愛しい我が子を愛でるように、そっと、ねねの頬を撫でた。
 死人のように白く冷たい手に自分の手を重ね、目を瞑ってから、ねねはいつものように不敵に笑う。寂しくて、悲しみに落ち込む心を隠せるように。

「……了解なのです。では、これが龍飛との最後の晩餐、というわけですな」
「キヒ、こんだけ美味いもんがねねとの最後の夕飯なら満足だ。ほら、甘いもん大好きなオレが一つだけ残してやったぜ? 喜べ」

 食事がほぼ全て片付いた皿の中に、小さな赤い果実が一つ、味付けされたシロップのおかげかてらてらと輝いていた。
 ひょいとヘタを指で抓まんで、劉表は机に片方の肘を突いたまま、ねねの前にソレを差し出した。
 幼い体躯に何故か似合う妖艶な笑みに、ねねは劉表がいつもしているように、口を開けて舌を出した。

「お前にはオレの力を与えた。頭を回せ、口を動かせ、全てを操る軍師であれ。そうして飛将軍と共に乱世と治世を切り拓き、自身の望む世界を手に入れろ」

――オレの、もう一人の愛娘。

 赤い舌に乗せられ、滑り込ませた小さな果実は甘い。また頭を撫でられたねねの表情が綻ぶ。
 ただ……口を開いている間に頬を伝って流れ込んだ一つの雫が、甘い幸せの中に、別れの哀しみを含ませていた。


 
 

 
後書き
読んで頂きありがとうございます。
週一を破ってしまい申し訳ないです。仕事が忙しくて……。

華琳様が官渡に向かえず、代わりに一人で外交の戦場に。
ベリーハードモードを選択しました。

劉表さんの策は帝を使った政治戦略と孫呉への強襲、でした。
華琳様は袁家を退場させるだけで、やろうと思えば漢の再興をできますからね。覇王にだけ効果のある嫌がらせです。
劉表さんはまだ言い含めている部分が多々ありまして、後々明かして行きますが予測して楽しんで頂けたら幸いです。

政治的動きはおっかなびっくり書いておりますが、官渡の戦いでは戦以外の外部の動きも描きます。

霞さんの心情等は後々。


ではまた 
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