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乱世の確率事象改変

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願いの刃は殻を割く

 街の午後は暖かい。活気に溢れ、人の声は満たされている。
 そんな陽だまりの日常の中で、二人の少女は一つの家を訪れていた。
 コンコン、とノックを鳴らすも、それは城でしか通じない彼が与えた知識のカタチ。
 民にまで浸透しているはずが無かったと気付いて、あわわっ、と口を押えた雛里は、誤魔化す為か急いで帽子を下げた。クスクスと隣で桂花が笑った時……カチャリ、といきなり扉が開いて、桂花は驚いて飛び退いてしまい雛里に笑い返される。

「これはこれは鳳統様と荀彧様……なんで俺の家なんかに?」

 普段着として民の衣服を身に纏っている一人の男。彼は鳳統隊の第三部隊の長。名前は……いや、彼らの名は語るまい。
 部隊長とはいえ兵士の家に軍師二人が訪ねてくるは異常なこと。疑問を零すは尤もであった。

「こ、こんにちゅ、こにちはっ……あぅぅ……」
「ほら雛里、深呼吸しなさい、深呼吸」

 緊張と気恥ずかしさから噛んでしまった。桂花に促された雛里はすーはーと三回、腕を合わせて振りながら大きく息を付く。
 愛らしい雛里の仕草や、姉のように振る舞う桂花の掛け合いに笑いそうになる部隊長であったが、それではまた噛んでしまうのを知っている為にどうにか笑いを噛み殺して待った。

「……も、もしよろしければ、娘さんのお顔を拝見させて頂けない……でしょうか……?」

 茫然。
 一寸の静寂の後に、部隊長はフルフルと震え始める。ギョッと目を見開くも、二人は返答を待つ事しか出来ない。

「……まさか鳳統様や荀彧様みたいな才女が俺の娘の顔を見にきてくれるなんて……頭でも撫でて貰えば末は天才になるかもしれねぇ……やべぇ……想像したら泣きそう……」

 言いながらも、既に嬉し涙を零していた。
 汚い家ですが、とグシグシと袖で涙を拭き、扉を大きく開けて二人を中へといざなった部隊長。桂花はほんの少しだけ男の兵士の家に入ることに対して怯えるも、きゅっと拳を握って足を踏み入れた。

「おいっ! 聞いて驚け! 軍師様お二人が娘の顔を見に来て下さったぞ!」

 寝室の扉を開き、歓喜の声を上げて滑り込んだ彼は、寝台の上で身体を起こして服を繕っていた妻に寄ろうとして、

「静かにしな、バカ」

 ジロリ、と厳しい瞳で睨まれた。その隣では……乳飲み子がすやすやと眠っていた。
 慌てて両の掌で口を押え、起きなかった事にほっと一息。雛里と桂花は妻の冷たい声に固まり、部屋の中の赤ん坊を見て、同じように吐息を溶かす。

「いらっしゃいませ、軍師様方。尋ねて頂きありがとうございます。生んだばかりで体調が少し……ですので、伏したままの無礼、お許しください」

 頭を下げられた。妻が話しているというのに、返答で起こす事を心配しているのか、二人は口に手を当ててコクコくと頷くだけ。

「どうぞ、見てやってください」

 部隊長の言葉を受けて、静かに、なるたけ音を立てないように近付く。その子供っぽい行動に、部隊長も妻も苦笑を零した。

「くくっ、珠のような子とはこの事です。俺の子とは似てもにつかねぇと思うんですが、目尻とか口元とか似てるなってよく言われるんでさ。ほんっと最高に可愛くてもう将来は美人に――――」
「自慢したいのは分かるけど声が大きいっ」
「ぐへっ……いいじゃねぇかちょっとくらいよー……」

 静かに怒鳴る、と器用な事をする妻に頭を叩かれ、拗ねたようにいじける部隊長の姿は子供のよう。
 笑いを堪えてさらに抜き足差し足……寝台のすぐ側に着いた二人は……じーっと、赤ん坊の顔を覗き込む。徐々に、徐々に頬が緩んでいった。

「わぁ……」
「か、可愛い……」

 そう言う二人も可愛いです、とはさすがに部隊長夫婦は言えず、赤ん坊をうっとりと眺める彼女達を微笑ましげに見つめるだけであった。




 さんざ眺めた後、二人は部隊長と共に隣の部屋の机に付き、雛里と桂花が持ってきたお茶とお菓子を前にしていた。

「で? なんでまたウチの子が見たくなったんで? 軍師様方の休日にとやかく突っ込むつもりはありませんが……」

 当然の疑問。親バカ故にそのまま家に上げて娘の姿を披露したが、まず初めに聞いておくべきである。勢いに流されて説明をしなかった二人も二人だが。
 コトリ、と湯飲みを置いた雛里は、ほんの少し悲哀を瞳に浮かべる。

「“秋斗さん”が……気に掛けていましたから……」
「……ああ、なるほど。手製のおもちゃとか……俺があの人の真似しても意味ねぇしなぁ……」

 今まで出るはずの無かった真名が出た。ずっと、聞かなかった真名が耳に入った。彼からちゃんと祝って欲しかった。だから部隊長は泣きそうになった。
 部隊の誰かが嫁を娶れば、家族同然に喜び、部隊を巻き込んでサプライズになるような祝福をする。子供が生まれれば、隊の全員で少しずつ給金を看破して祝いの品や祝い金を贈ったりもする。
 そんな深い繋がりが、彼が居た時から出来上がっていた。想いの絆は縦に横に、生死を共にする皆の心が一つになれるように、彼は兵士達と心を繋いで来た。
 名前を覚える、平穏な暮らしでの幸せを祝う――そういった細やかな行動の積み上げも、彼らの心を大陸でも類を見ない程の狂信にまで堕とした理由の一つ。
 彼らにとって秋斗は主であり、家族であり、憧れであり、友。年齢の区別なく、身分にも生まれにも拘らず、只々、彼が皆の幸せを願ってくれるから、命を賭けて共に戦い、背中に憧れ、追い縋り、死ぬ時に想いを預ける。
 そして、自分達の幸せを願ってくれるせめてもの返しとして、彼が自分達の死で悲しまない為に、幸せだったと伝える為に、笑みを零して……死ぬ。
 秋斗には決して言わず、笑顔の意味は彼らの胸の内にのみあった。聡い秋斗が理解していようとも、直接伝えてしまえば、彼の重荷になると知っていたから。

「“御大将”の代わりに子の姿を見ておこう、そういう事ですか」

 雛里は久しくその呼び名を聞いた気がした。鳳統隊では今の今まで、一度たりとて口にされた事は無い。震えそうになる胸の内を、掌と共に閉じる。
 コクリ、と頷いた雛里をみて、部隊長は笑みを零した。

「鳳統様は本気で御大将の想いを……隅々まで繋ぐ気でいるってわけですかい」
「いいえ。私だけではありません。あなた方と私で、です。彼の想いは私達の胸の内に。今回の件も一つ一つの幸せを皆で祝福したい、と思いまして……」
「くくっ、さすがは我らが軍師様。ありがとうございます」
「改めて、おめでとうございます」

 感慨深げな表情で頭を下げる部隊長に、雛里は綺麗に微笑み返した。
 二人が話す中、桂花はじっと黙って耳を傾けるだけであった。そんな桂花に、部隊長は優しい瞳を向ける。

「どうしました?」
「あ……お、おめで、とう」
「荀彧様もありがとうございます」

 ふっと微笑みと言葉を返しての一礼。
 桂花は男相手に祝福の言葉を素直に零せた事に自分で驚愕し、照れたようでふいとそっぽを向いた。

「あと、お話して欲しい事があるんです」
「俺に?」

 一度だけ目を閉じた雛里からの唐突な話題変換。首を捻る部隊長の前で、桂花は身体を強張らせた。
 大きく深呼吸を二回。口を開いたのは、桂花であった。

「なんであんた達は徐晃に……ううん、黒麒麟にそこまで想いを向けれるの?」

 ずっと尋ねたかった疑問である。
 鳳統隊……否、徐晃隊に軍師として興味を惹かれたのもあったが、何よりその想いの根幹が知りたかった。決して徐晃隊を扱おうというわけでも無く、そんな部隊を作ろうと思ってもいない。雛里の心の負担を減らす為には、聞いておいたほうがいいと思っていたのだ。
 雛里が祝いの言葉を伝えに行くというからそれに乗っかり、共に戦うのだから徐晃隊の想いを知っておいたほうがいいと伝えていた。
 雛里は秋斗という人物がどういった行動をしてきたのか、それを教える事で彼女の思考を広げるのもアリか、とその提案を是とした。
 どう答えていいのか分からずに、悩む部隊長であったが、ポン、と一つ手を叩いてうんうんと頷く。

「じゃあ、ちょいと御大将と俺達の話をしましょう。鳳統様は……お辛くなったら妻の部屋に。機会があれば話をしたいと言ってましたから、もしよろしければ聞いて頂きたいのです」

 一寸だけ首を傾げた雛里は、気遣いに微笑みを返して小さく頷いて目を瞑り、“彼”に想いを馳せて行く。
 桂花は……憎らしい相手の情報収集であるが、雛里の為だと割り切って部隊長の話に耳を傾け始めた。

「徐晃隊が発足してからは入隊試験ってのが出来たんです。仮入隊した兵士に地獄のような訓練を十日間経験させて、最後まで残ると言ったモノだけが入隊ってぇ簡単なモノですが。倒れるまでやらされる突撃、倒れても誰も助けちゃくれませんし、休憩は半刻にも至らない。体力的にはメシが受け付けなくなるくらい追い詰められる。上司の命令には絶対服従。聞けなきゃ罰則で部隊長格と一騎打ち。日が暮れてもぼっこぼこになるまで叩き潰される。んで、最終日には俺達既存の兵と仮入隊の兵士での紅白戦。倒れるまで戦わせ、あざだらけになるまで叩き潰します。まあ、そんな事してたら逃げ出す兵なんざ七割を越えるのが当たり前になりますわな」

 武官では無い桂花にはどんなモノか明確には分からなかったが、血反吐を吐くまで馬上訓練をやらせる霞の練兵と似たような感じでは無いかと予想を立てた。

「“この程度に耐えられねぇなら他の奴等を巻き込んで死ぬだけだ、お前らが味方を殺すんだ、だから兵士になるのは諦めろ。御大将の部下と同じ軍の兵士は殺させねぇ。だが味方を殺して自分も死にたいならどっか他の軍にでも申し込めばいい。失せろ、守りたいもんも本気で守ろうと出来ねぇクズ共が”……なんて、逃げ出すモノに対する副長の言葉で戻ってくる奴もいますし、残った奴等は心を高められます。最後まで残った奴等に御大将が守りたいモノを問いかけて、一人一人が自分から入って戦いたいと言ってやっと徐晃隊に入れるんでさ。腰抜けは逃げ出し、我欲が強い奴は憤慨し、自尊心が高い奴はどっかいっちまう。ま、そんな奴等と戦うなんざ俺達もごめんです」

 一呼吸を置いた部隊長は、ここからが本番だと表情を引き締めた。

「入隊後の兵士に御大将が最初に命じる事、なんだか分かりますか? まあ、俺達も徐晃隊発足の時に命じられましたが」

 急な問いかけに対して、むむ、と眉を顰めた桂花。雛里は知っているようで、両手で愛らしく湯飲みを持ってお茶を飲んでいた。

「……軍規を順守する事、じゃないの? 徐晃隊は私達の軍を参考にしてたみたいだし」

 軍としては当然の命令である。軍規を乱す行為は例え一兵率であろうとも許されない。黄巾の時に秋斗が参考にしたのが曹操軍であるが故の答え。
 されども、部隊長はふるふると首を振って否定を示す。

「いんや……そんなもんは二の次です」
「そんなもんってあんたねぇ――――」
「くくっ、俺達徐晃隊に入る奴等にとっちゃあ、規律よりもっと大事な事なんですよ」

 呆れて言い返そうとした桂花であったが、苦笑と共に止められる。
 雛里はただ、ぼーっと宙を見つめて、いつでも優しい彼の事を思い出していた。

「じゃあ、何よ」
「『嫁とか子供がいる奴は実家帰るか相手の家を訪ねて、自分が死んだ時家族を頼みますと頭下げて来い。子供が働ける年齢の奴は自分の子供に対して死んだら妻をよろしくと頭下げて来い。独り身で親がいる奴は親に頭下げて、親がいない奴は友とか恋人に“死ぬかもしれねぇから”って話して来い。大切だと思える奴等にこれから殺し殺される戦場を仕事場にするってしっかり伝えて来い。大切な奴等に引き止められて迷った奴は帰ってくるな。徐晃隊の入隊試験に耐えたなら働き口くらいあるだろうよ。親なんかどうでもいいとか、自分が一番だとか、誰よりも強くなりたいって奴等は副長の全ての指示に従え』……って命令です」

 口を開け放った桂花の思考は止まっていた。
 死を覚悟するのは兵士になるなら当たり前……そんな風に思っていたから、わざわざそれを命令してまでやらせる意味が分からなかった。

「ああ、親も友達も恋人もいない奴は一緒に酒飲みに行こうっての忘れてまし――――」
「な、なんなのその命令……なんでわざわざ、個人の責任なのに命令するのよっ」

 疑問の言葉で止められ、部隊長はまた、苦笑を零した。やはり……御大将の元で戦えて良かったと、歓喜に心を染めながら。

「わざわざ命令してくれるから、自分が守る大切なモノ達が向ける想いと、兵士になるってのがどういう事かを無理矢理教えて貰えるんですよ。親に殴られる、嫁に殴られる、子供に殴られる、友達に殴られる、恋人に殴られる……さすがに言い過ぎですが、多かれ少なかれ怒られたり泣かれたりしてくる奴等ばっかりです。死んじまったら残した奴等に、度合いや種類の違いはあっても迷惑かけちまうんですから。副長に着いて行かされる一匹狼な奴等は、御大将には死に物狂いで強くなった副長でも勝てねぇって現実を知ったり、真っ直ぐの想いをぶつけられて再び心がぶち折られますが……これは置いときましょうか。
 俺だって、親がもういねぇから妻とあちらの親御さんに頭下げました。嫁と嫁のおやじさんに思いっ切り殴られましたぜ。ありゃあ痛かったなぁ……」

 すりすりと自分の頬を摩っての一言。隣の部屋を見つめる瞳は愛おしさと感謝を含んでいた。

「桂花さん」

 隣からの声は涼やかに耳を通る。鳳凰の冷たい声では無かった。雛里の優しい声であった。
 横を向くと、翡翠の瞳がゆらゆらと揺蕩っていた。

「その命令の効果は、親、伴侶、子供、友、恋人……大切な人達を悲しませると知っていながら、大切な人達から引き止められても、死ぬかもしれない戦場に向かえるか、自分が守りたい、為したいと思うモノはなんなのか……それを確かめさせて、生き残ろうとする衝動と死んでも貫きたい意思の力、矛盾した二つを両立させるんです」

 馬鹿げている、と瞬間的に桂花は思った。
 されども、ゆっくりと思考を回せばその命令がどのような心理的枷を外させるか思い至る。
 近しい者達を説き伏せられたなら安心と使命感と責任を与える事が出来て心の強さを持てるは予想に容易く、無理矢理自分の意思を押し通して来たなら自身でやり通す為の心力と為せる。
 さらには、兵士の家族という民にさえ、戦に対する危機感を与えて身近なモノの喪失という絶望への予防線を張り、敵対勢力への反抗心を育て、より早い乱世の終結を望ませる事が出来る。仲のいい民同士の間でそういった意識も広まるだろう。
 兵士の死後に残された家族へのケアも行い易く、民心掌握に対しても先手を打てる。
 兵士達には同じ条件を乗り越えてきた同志達であると認識させ負い目を無くし、笑い話として自分がどうだったかを彼らが話せば絆も深まると言うモノ。
 そして副長という黒麒麟の狂信者の目に適うかどうか見させながらも、徐晃隊色では無いモノを事前に周りに教えて認識を強める。
 心理的な効果が計り知れない。兵士になるなら皆しているだろうと誰も触れないような命令が、目に見えない力を国に対しても、部隊に対しても、兵一人一人に対しても増幅させるのだ。
 ゾクリ、と肌が粟立った。その効果を理解して行ったわけでは無く、思いついたまま素でやっているというのだから、恐ろしいという他なかった。
 ただ、これが徐晃隊の兵全てを狂信させた理由のほんの第一歩目に過ぎない、と桂花は気付く。

「そ、そう。それは分かったわ。じゃあ話を続けて頂戴」

 促されて頷いた部隊長は、嬉しそうに彼の話の続きを紡いでいく。

「御大将はバカでしてね。帰ってきたら帰ってきたで新兵達に怒るんでさ。『大切なモノ達を自分で守らないバカ野郎共が、そんなに俺達のような人を殺してメシを食うクズになりたいかっ』って、兵士の脚が震えるくらい、本気で」
「はぁ!? 何よそれ!?」
「徐晃隊に入りたいって奴等は黄巾で鳳統様方や御大将の名前が売れてからわんさか湧いてきまして、連合直後なんかその時の三倍以上でした。だから中途半端な想いを持つ奴等の選別の為と……最終忠告です。迷った奴等は区画警備隊で満足して貰うってぇ算段です。大切な人を守りたいから徐晃隊脱退、もしくは徐晃隊になれなかった奴等が警備隊に入るってのは、結構多いんでさ。勿論、警備隊から徐晃隊に上がってくる奴等も多かったですが。
 で、御大将と副長、隊長格とか第一の奴等が見極めて、残った兵士達に『お前らは俺と一緒だ。俺達と一緒だ。一人でも多く殺して、一人でも多くを救い、守り続けろ。最後の最後に俺が想いを繋いでやる』って残して副長以下隊長達に規則遵守の説明やら何やらを任せるんです。そうなれば新兵達は疑問を持って誰かが聞いてくる。聞かれて答えるのが俺達部隊長と、隊員の仕事です。新兵達にとっちゃ御大将が自分達と同じだって言われた事の方が衝撃らしいですがね」

 理解は出来たが納得は出来ず。なんだそのおかしなやり方は、と桂花はもう頭を抱えたくなった。
 次に話される事にまたも驚愕するのは目に見えているというのに。

「それからは御大将自ら新兵優先で鍛えに行って、昼メシの時は練兵場に持ってきて隊の大勢で一緒にかっくらって笑い合う。一人でも多くの名前を覚える為に」
「……は?」
「名前をちゃんと呼ばれるのって結構嬉しいんですぜ? さすがの御大将でも前に袁術軍から引き抜いた奴等の名前は覚えきれてませんでしょうが、それまでの奴等のは全部覚えてるはずでさ」

 ただの兵相手にそこまでするのか、と桂花の既成概念はガラガラと崩れて行く。命を切り捨て続けるくせに、深く太く絆を繋ぎに行く。桂花にとって全く訳が分からない男であった。
 時間の無駄だ、頭も悪くないのだからもっとその頭脳を有意義に使えばいい、そう考えてしまう内は、徐晃隊の想いを理解する事は出来ない。
 部隊長の表情は、短い沈黙を経て翳っていく。

「イカレてるんです、御大将は。他の将達みたいに放っときゃいいのに。命じて指し示すだけにすりゃいいのに。上と下をしっかりと分けりゃあいいのに。苦しむなら、仲良くならなきゃいいのに。そこまで……しやがるんですよ。
 死んだ奴等を弔う時は涙堪えてるのがバレバレで、嫁が出来た子供が出来たと言えば親兄弟のように喜んで、自分の休日にも関わらず俺達みたいなむさい野郎共相手にわけわかんねぇけど楽しい悪戯とか仕掛けて来て、俺らみたいのにからかわれたらへたれながら怒って、普通の男がするように女の好みの話で、笑い合って……俺達に、本気で付き合って、向き合って……戦場までの楽しい時間を、一緒に過ごしてくれるんでさ」

 震える声を耳にして、桂花は思考に潜る為に逸らしていた視線を戻した。そこには必死で涙を堪えている部隊長が居た。
 雛里は立ち上がって、無言で隣の部屋に向かっていった。少し、肩が震えていた。知っているが故にこれ以上は聞いていられなかった。
 グイと袖で目を拭って、部隊長は続ける。

「荀彧様、俺達の御大将は平穏な世界を確かに作ってくれてるんだ。いつだってあの人は、俺達の幸せを願ってくれてる。“世界を変えたいけど出来るだけ兵士になってくれるな”、“兵士になって近しいモノを悲しませるとしてもそいつらとそいつらから向けられる想いを大切にしてやれ”、“人を殺すなら罪を知りながらも他の奴等に幸せを与え、自分も探せ”……バカ野郎だろ? 本当に、矛盾だらけのわけわかんねぇ大バカ野郎なんだ」

 胸に込み上げる想いからか、部隊長は言葉遣いを投げ捨てた。

「義勇軍での最古参の始まりの日、御大将は俺達に憎めと言ったらしい。敵を殺せ、戦って死ねと命令する自分を最後には憎んで怨んでくれって、言いやがったんだってよ」

 ギリ、と歯を噛みしめて耐える。苦しげな吐息を零し、どうにか抑えようとするも……止まらなかった。

「……出来るわけねぇっ……出来るわけねぇよぉ……」

 耐えられず零れた涙は、ポタポタと机に沁みを与えて行く。くしゃくしゃと顔を歪め、泣き叫びそうになるのを堪えて言葉を紡いでいく。

「いつだって俺達が……一人でも多く生き残る為に心を砕いて、頭を悩ましてくれてんのにさぁ……あの人から……生きてくれって想いを受け取り続けてきたってのに……んなこと出来るわけ、ねぇんだよぉ」

 俯き、机の上で震える拳は哀しみと悔しさから。行き場の無い想いが、胸の内より溢れてしまった。
 桂花は言葉を失った。兵士達の想いを聞いた事など、今まで一度も無かったが故に。
 幾分か後、服の袖でグシグシと涙を拭いた部隊長は、大きく深呼吸をしてから……笑った。

「初めは憧れた。御大将みてぇに、綺麗で強い女達を守れる強さが欲しいと願った。
 次に欲した。もっと、もっと守りたいと欲が出た。一人でも多くを守りたいと願った。男なら誰かの為に……って副長に感化されて男の意地が燃え上がって、もっと、もっと救わせろって渇望した。
 そして御大将と絆を繋げば繋ぐ程に、俺達の心の在り方は、想いは、あの人と同じになっていった。心を砕き続けるあの人には……なってやれねぇけどよ。一緒に戦う友を、街で幸せに生きてる家族や人々を、先の世に生きる子供達を、そいつらを守ってくれる上の人達を……世界を変える為に守って、もう殺し合う敵が出ない世の中にする為に戦ってやるって、なっていったんだ。
 だから御大将は俺達の主で、家族で、友で、憧れで、守りたい人だ。だから俺達はあの人の為に戦いてぇんだ。あの人の願いを叶えてぇんだ。あの人と想いを繋いで守りてぇんだ。あの人を救って……幸せにしてやりてぇんだ。例え家族を悲しませても、俺達みたいな奴等がもう作られねぇように、理不尽な目に会っちまう民達がいなくなるように、そして御大将みたいな哀しい人が出て来ないように……平穏な世の為に、ちっぽけなこの命を使いてぇんだ」

 長い沈黙が場を覆った。桂花は話す事が出来なかった。
 バカだ、とは思わなかった。慰めも同情も共感も、何かを言うことすら出来はしなかった。

「偉そうにすいません。なんか、溢れちまって……」

 ぽつりと零され、ぶんぶんと首を横に振る。飾られないで聞けて、本心がしっかりと伝わった為に。
 礼の姿勢で、僅かに頭を下げていた部隊長は真剣な眼差しで桂花を見つめた。

「荀彧様、俺達が怖いですか? 俺達が恐ろしいですか? 命令一つで自分の命をゴミのように捨てる俺達を……狂ってると思いますか?」

 桂花が前の戦場で自分達をどんな目で見ていたか、部隊長は知っている。他の兵士がどんな目で自分達を見ているかも知っている。
 だから問うてみた。想いを聞いた彼女がどう思っているかを。

「……もう、思わない。怖くも無い。あんた達は狂ってなんかいない。でも……っ」
 
 グッと言葉に詰まった。その先を言ってもいいモノかと悩んだ。
 部隊長は何が言いたいのか分かったのか微笑み、小さく吐息を零した。

「そうです。ホントの意味で狂っちまってるのは御大将ただ一人。真っ直ぐブレずに、たった一人だけでイカレちまってます。切り捨てて、切り捨てて、敵に憎しみを持てねぇほどぶっ壊れて、それでも割れねぇ空っぽの器に他人の願いを詰め込む事しか出来やしねぇんです。
 そんなあの人にこれ以上ぶっ壊れて欲しくなくて、生き抜く為に戦いながらも、俺達は幸せだったから哀しまないでくれって伝える為に……最期は笑って死ねる。御大将が俺達のそういう想いを分かった上で、想いの華を繋いでくれる優しい人だってのも知ってるから……俺達は御大将に心から忠誠を誓ってんです。
 それが徐晃隊。俺達黒麒麟の身体。御大将が居なくても始まりは俺達とみぃんな“同じ”だから、新兵の末端に至るまで、黒に染まっちまって行くんでさ」

 またもや沈黙。
 雛里の心を少しでも軽くしたくて聞いた話で、こんなにも心が乱されるとは、桂花も予想していなかった。
 戦場で生きる様は冷たく先を見据えた効率の道、平穏な日常で生きる様は暖かく絆繋ぐ道……主と似ているようで違う、黒麒麟の歩む道。
 外に乱世を、内に治世を……それが桂花の主、覇王曹孟徳の生きる道。先導はせども隔絶された王としての姿を示し、近くにある事は出来ない。
 道以外の共通項は……どちらも一人である事。
 絆繋ぎながらも、黒麒麟は覇王と同じく孤独だと感じた。

――乱世の為には華琳様と同じになって、治世の為には劉備と同じになる……みたいな感じ。でも……それも違う。やっぱり変、訳が分からないわ。黒き大徳、うん、矛盾だらけだからそういう事にしておきましょう。黒麒麟について考えるのなんか今は止め。少なくとも徐晃隊が向ける想いは分かったんだから。

 納得した表情になった桂花の前で、お茶を飲んで口を潤した部隊長。彼への想いを話して楽になったというように、表情は穏やかだった。

「話してくれてありがと」
「いいえ、俺も幾分すっきりしたんで。ありがとうございました」
「それと……わ、悪かったわね。前の戦では。雛里みたいに最後まで一緒に戦えなくて」
「俺達は俺達の意思で戦ってます。荀彧様のような軍師様方が気に病むことじゃありません。周りからどう見られても気にもなりやせん。でも、そうっすね……俺達は覇王様を信じています。御大将を信じたように、曹操様を信じています。だから何も心配せず、俺達を使ってくださいや。乱世に……あー、壊されない平穏な世を、作ってください」

 頭を下げて預けられたのは想いのカタチ。続くはずだった言葉はまだ表に出せない。
 華琳の言を忠実に守っている事に、桂花は少しの感嘆を覚えた。

「さ、もうちょいとだけ待ってやってください。出て来ないってぇ事は、鳳統様が妻の想いを聞いてくれてるんでしょう」
「何を話してるのかしら……」
「……大事な事、ですよ。鳳統様を少しでも癒せるような、きっとそんな感じです」
「そう……必要なら後で雛里が話してくれそうね。途中で立ち入るのもなんだし、雛里が出てくるまで待たせて貰ってもいい?」

 男嫌いな自分がそんな発言を出来た事に驚く桂花であったが、不思議と警戒心も猜疑心も、苦手意識も感じない。
 必死な想いを聞いた後で男だからと蔑む自分を想像すれば、下らない、と一笑出来そうであった。

「構いません。こんなむさい男と一緒に待たせて申し訳ないくらいです」
「……気にしなくていいわよ、別に。ただ待ってるのもなんだから、別の話も聞かせて貰える? 兵士から見た劉備軍の他の部隊の話、とか」

 もう少しこれからは視野を広げてみよう、と心に決めて、彼女はいつも通りに、主の為になる事を積み上げて行く。





 †




 震える心、溢れる想い……雛里は涙と共にそれらを抑え付けてその部屋に踏み入っていた。

「あのバカ……鳳統様を哀しませてどうすんだい」

 小声で毒づく部隊長の妻は、眉を寄せて雛里を見つめる。
 その視線を受けて、雛里は目を瞑り、数瞬の後にはいつも通りに戻っていた。

「その……お話をしたい、とお聞きしたのですが……」

 妻はさらにぎゅっと眉を寄せた。されども何も言わずに視線を外す。
 立ったままで居ては気遣いをさせてしまう、と寝台にとてとてと歩み寄った雛里は、横に据えてあった椅子に行儀よく座った。

「寝たままで申し訳ありません」
「いえ、お身体をお大事にしてください」

 微笑んで頷くと三角帽子が揺れた。忘れていた、とばかりに慌てて帽子を外して、揃えた両ひざの上に置く。
 小動物のような仕草に、妻は穏やかな表情で吐息を漏らした。

「ありがとうございます」

 礼を言った後、チラ、と自身の子に目を向けてから、彼女は強い光の宿る両の翡翠を見つめた。

「鳳統様は徐晃様の事をお慕いしている、とあのバカから聞いていますが、本心を話してもよろしいですか?」

 身分の差、というモノはこの時代どこでもついて回る。平民が軽々しく本心で零した一言が無礼な発言と取られるやもしれない時代である。
 例え少女の見た目でも雛里は軍師であり為政者。気軽に話せる相手では無い。その点で言えば、民の隙間に自然に入り込んで、周りと溶け込んで馴染ませられる桃香や、先だって気にしないでいいからと言ってしまう秋斗は異質な存在であろう。
 こうやって頼めるのは、桃香が治めていた地であり、秋斗が率いる徐晃隊の妻であるが故のこと。そして部隊長が雛里には本心を話しても大丈夫だと促していたのも理由であろう。
 徐晃隊の皆が自分の事を応援してくれていたのを知っている雛里は一つ頷いた。ほっと息を付いた妻は……視線を掛け布に落として言葉を紡いでいく。

「私は……徐晃様を憎んでいました」

 ああ、やっぱり……と雛里は納得がいった。
 事前に自分が向けていた感情について前置きした事で、そういった話であると予想は出来ていた。

「あの人が望んだと言っても、戦場に立たせて指揮し、死なせるかもしれないのは徐晃様です。泣き叫んで引き止めても、もう兵士なんてやめてと縋り付いても、あの人は聞いてくれません。徐晃隊に入っていなかったら戦場を仕事場とするのを辞めてくれたのではないかと、いつもいつも考えていました」

 兵士は良くても家族はどう思っているのか。例え説得したり、互いに話し合っていたと言っても、わだかまりが出る事は必至。待つ側にも想いはあるのだ。
 雛里はただ、じっと黙って妻の話を聞いていた。

「憎みましたよ。あの人を奪う徐晃様が憎い、と毎夜の如く。夫が自慢げに徐晃様の事を話す度に心が軋み、家でくらい仕事場の話をするなと怒鳴ってしまい喧嘩になってばかりでした。自分が戦う意味を分かってほしいと懇願してくる夫にさえ苛立ちを覚え、関係が危うくなったのも少なくありません。私に子供が出来たと分かったからこそ、互いに一歩引いて過ごせました」

 ふう、と妻はため息をついた。呆れているようにも、懐かしむようにも感じた。話す声は穏やかで、憎しみの欠片も感じない。

「前の戦に出た時、二か月ほど前ですか。行かないでと縋り付きました。子供の顔を見たくないのか、と……その時、初めて夫は迷いました。大きくなったお腹で泣き、行かないでと言う私を見て、いつもなら振り返りもしないのに脚が止まったんです」

 過去を思い出し、自分との違いを認識して雛里の瞳はぶれた。
 行かないでと言わず、無事に帰って来てくれると信じていつも待っていた。それは秋斗が兵士とは違う将であり、自分が軍師として献策する立場にあったからこそ出来た、そう思った。
 もし、決死の戦場に送り出すと決まっていたらどうなっていたのか。そう考えてしまうと……恐怖が心に湧き出てくる。自分も同じように止めていただろう、それでも秋斗は向かっただろう、と。

「あの人は振り返って……私を抱きしめました。帰ってくる、なんて口にせずに、謝りもせずに……滅多に言わないくせに“愛してるぜ、二人共”とだけ言って微笑んで、出て行きました」

 思い出した為か恥ずかしいようで、妻は少し頬を染めていた。
 彼ならどうするんだろう、と雛里は考えそうになるも、ほんの僅かだけ首を振って思考から追い遣る。

「帰ってきた時は泣いて喜びました。ええ、あのバカも泣いてましたよ。心配掛けてごめん、ただいま、そんな言葉が嬉しくて嬉しくて仕方なかった。でも……その戦が終わってから、夫は夜な夜な泣いていたんです」

 ぎゅう、と雛里の胸が締め付けられた。戦の結果を思い返して翡翠がゆらゆらと揺れる。

「第一と第二の最精鋭が全滅、徐晃様も重傷を負ったと聞きました。
 申し訳ありません……私はその時に、自分の夫の部隊じゃなくて良かったと、安堵しました」

 懺悔を存分に含んだ声。自分の愚かしさを語る、そんな昏い声であった。
 自分の夫が死ななかったのだからある意味当然。そう感じない人間が、この世にどれだけいるのだろうか。自分達の平穏こそ最優先だと、普通に生きる民の中にはそう思うものの方が多い。
 誰もが綺麗な心を持っているなどと、雛里は信じていない。むしろそういった人間味溢れている人が素直に本心を零してくれたのだから信用出来て、信頼にも足り得る。
 ただ、自分の想いを知っていながら口にされるとは思っていなかったが故に、胸がチクリと鋭く痛んだ。されども責める事はしない。

「い、いいえ。構いません。お気になさらずに先を続けてください」
「ありがとうございます」

 秋斗は怨嗟を受けていた。詠からの怨嗟も、華雄からの怨嗟も、一人で受け止めていた。
 その時の彼の気持ちを少しでも分かりたくて、雛里は声を震わせながらも先を促す。
 雛里と目を合わせてから礼を言い、子に視線を移した妻の瞳は潤んだ。

「……子供が出来た時に夫が言ったんです。『俺はこの子が幸せに暮らせる世の中にしたい。この子の友達、恋人、これから絆を繋いで行くはずの人達が奪われない世の中を作りたい。だから、よろしく頼む』と。子供が出来て警備隊に変わった人もいるんだからそうして欲しい、と返す事は、もう出来ませんでした」

 ぽつりと零して目を伏せる。そのまま、妻は震える声で紡いでいった。

「笑顔を見せて背中を送り出さないとダメなんだって、夫の心の負担を軽くしてあげないとダメなんだって、愛する人を支えるのは私なんだって、子供の無邪気な笑顔を見て漸く気付きました。
 徐晃様は私の夫を奪うんだと思ってました。でも、この子の明るい未来を作ってくれる人でした。夫に対して私の親に頼み込みに行けと命じたのも……全ては戦場以外で生きる私と子供達に、これ以上、乱世で哀しい想いをさせない為。私は親になって初めて、徐晃様とあの人の気持ちが分かったんです。
 曇りが取れた心で夫と話すと涙が出ました。どれだけ徐晃様があの人と仲が良かったのか、徐晃隊と絆を繋いで来たのか……心を痛めて、部下を戦わせてきたのか、と。
 必死で戦ってる徐晃様方を、心から支えたいって、やっと思ったんです」

 愚かでしょう、というように、彼女は懺悔の視線を雛里に向ける。
 雛里の胸がズキリと痛む。徐晃隊の妻と言えど、民の想いを直接聞かされたのは、初めてだったから。
 彼が子供を見る為に訪れて、直接聞いていたなら、少しでも心が安らげただろうに、とも感じて。
 ただ、後に続く言葉は、雛里の予想だにしないモノであった。

「だから……“子供は私が守りますので、夫をよろしくお願いします”と次に会った時、徐晃様に伝えて頂けませんか? 私も平穏な世を作る一人に加えて欲しいのです。徐晃様を慕うあなたに、徐晃隊部隊長の夫を持つ私の想いを伝えて欲しい」

 優しく微笑まれて、雛里は泣きそうになった。

 嬉しかった。
 彼を憎んでいた、という人がそう言ってくれて。
 哀しかった。
 彼にはもう、その想いを届けられないから。

――嗚呼、あの人は確かに世界を変えていた。繋いで繋いで、平穏な世を目指す意思が広がっていく。哀しい乱世を切り拓く強さを、誰かに与えて行く。いつでも彼は変わらない。

 部隊長の妻のように、憎しみを昇華できるモノは少ないだろう。部隊長が死ねば裏返ってしまうかもしれない。
 それでも雛里は、彼の心が彼女の世界を変えたと思いたかった。普通の部隊で兵士をしていたら、もっと早く死んでいたかもしれない。突然訪れた別れに絶望し、他の者を憎んで怨んでいたかもしれない、と。
 何よりも、少なくとも徐晃隊の者達は、彼らの大切なモノ達が憎しみに染まる可能性を僅かでも減らしているのだと、そう思えた。
 近しいモノの喪失という絶望への危機を事前に知らせ、予防線を張って生きる力を残させる。自分を憎めばそれが生きる糧にもなる。彼は人を奪いながらも、先の世に一人でも多く生きて欲しくて動いていた。

「男ばかりにさせてあげるもんですかっていう女の意地です。徐晃様と夫は乱世に咲く想いの華を平穏な世に繋ぐのですから、私達は想われて芽生えた新芽を平穏な世に繋ぎ咲かせる、なんてどうでしょうか」

 子供を愛おしげに見つめて嬉しそうに語られると……雛里の心の殻から想いが溢れそうになった。

――私も……彼と……

 ぎゅう、と膝の上に置いた帽子を握りしめた。
 今すぐにでも此処を飛び出して、彼の元へと駆けて行きたい衝動が胸を埋め尽くしていく。
 どれだけ顔を見ていないだろう。どれだけ声を聞いていないだろう。どれだけ……思い出の中の彼だけで満足してきただろう。
 言ってしまえばたったの二月強。雛里にとっては、遥か昔に感じる程であった。

――私を知らない“秋斗さん”なのに?――

 頭に響いた自問の声が、彼女の心を冷やして行った。
 思い出す。自分が決めた事を。もう何も、秋斗に背負わせたくなかった。

――そうだ、私は……嘘つきでいい。

「分かりました。私から彼に伝えておきます。“戻った時”に、必ず……」

 一つ、二つと嘘を重ねる。自分にも、周りにも。まるで彼のように。

「ありがとうございます。そして……ごめんなさい。鳳統様にこんなお話をしてしまって。今の徐晃隊は鳳統隊として、次の戦で何かする為に準備しているんですよね。軍の事や戦の事は分かりませんが、どうか……夫をよろしくお願いします。私は徐晃様と鳳統様が作る世を信じています。そしてどうか……どうかあなた方お二人も、幸せになってください」

 されども、向けられた想いは雛里の心を引き裂いていく。
 あの時を……絶望の戦場に辿り着く前に、漸く彼と想いが繋がったあの幸せな時間を……思い出させる。
 副長達の声が頭に響いた。自分達二人を祝福してくれて、幸あれ、と願ってくれた声。自分達二人にも幸せな時間が確かにあったのだと証明してくれる彼らは、もう居ない。
 瞬刻の平穏な時間はまるで夢か幻のよう。彼女の心の内にしか、その事実は刻まれていない。
 嗚呼、と雛里は心の内で冷たい哀しみを零した。
 もう、彼女は求める事を我慢できなかった。夢の中だけで何度も言った言葉を、自分の意思で、心の内に落としてしまう。

――会いたい、です……秋斗さん。会いたい……です……

 壊れそうになりながらも涙を零さずに、雛里は笑った。きっと嘘つきな彼ならそうするから、と。

「あの人は鈍感さんですから、振り向かせるのが大変です」

 目の端に乗っていた雫を取り払った意味を、頭を下げていた部隊長の妻は知り得なかった。

 部隊長は秋斗が戻ると思っているから、よかれと思って妻と話させた。
 桂花が自分を気に掛けている事を知っている雛里には、もう泣きじゃくって頼る事も出来なかった。

 彼に戻ってほしくとも戻したくない雛里にとって、その日に受けた幸福を願う優しい刃は……残酷に過ぎた。


 
 

 
後書き
読んで頂きありがとうございます。

徐晃隊が思っている事のお話。

次は麗羽さん達の話とかです。


ではまた 
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